『原爆の亡霊を背にした覇権論』――トランプ氏の「イラン攻撃=原爆投下」発言を断罪する
- 山崎行政書士事務所
- 2025年6月25日
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一、歴史の神聖性を冒涜する者よ
この発言を聞いたとき、私は愕然とした。
あたかもアメリカの帝国的自己正当化が、再び血の証明を以って合法化される瞬間を目撃したようであった。
広島・長崎。そこは単なる軍事的爆撃地点ではない。日本人の“終戦”は、あの地に横たわる無数の焼け焦げた子供の肉体と、墨のように蒸発した母の面影によって刻印されたのである。あれは軍事的決断ではない――それは“精神的断罪”だった。
それを、イランに対する一撃と並列に語るとは、あまりに軽薄で、あまりに“歴史神聖”を侮辱する所業ではないか。
二、覇権国家の倫理なき正義
アメリカが己の軍事行為を「平和のため」と称してきたことに、日本人は既に慣れきってしまった。
しかし、それは堕落である。
国家が戦争をするとは、血によってしか回帰できない“古代の倫理”を体現するものだ。それを“人道”という装飾で包み、原爆を正当化する姿は、美学を喪った国家の醜態に他ならぬ。
彼らの言う「平和」とは、自らの覇権を維持するための装置であり、真の「和」ではない。
日本の敗戦とは、物理的敗北ではなく、“国家意志”が崩れた精神的敗北だった。
そこにイランを重ねるなど、日本の敗北を「物語の道具」として再利用する行為であり、まさにアメリカ中心主義の象徴である。
三、靖国の英霊を踏みにじる比喩
「今も戦いは続いていた」――それが原爆の正当化だというのなら、靖国に祀られし英霊たちはどう語るか。
あの戦争は“武の美学”であり、死すらも“行為の完成”であった。
それを止めた原爆は“美の破壊者”であり、その破壊行為を現代の中東に応用するとは、もはや武士道の対極にある“無粋の極み”と言えよう。
英霊たちは天上より憤怒の声をあげるであろう。
「我々の死は、お前たちの戦争マネジメントの材料ではない」と。
四、日本が抱くべき怒りの感情
このような発言に対し、日本国政府が沈黙することこそ、日本の戦後民主主義の病理そのものである。
本来ならば、外交辞令を超え、「我々の被爆は二度と利用されるべきではない」と正面から言い放つべきである。
トランプ氏が「広島や長崎の例を出したくないが」と言いながら出していることは、被爆国に対する最大の侮辱である。
これは侮辱である。
これは冒涜である。
これは再び我らが“主権の不在”を突きつける鏡である。
結びに代えて:国家とは何か
三島由紀夫はかつてこう言った。
「国家とは、死に値する美しい何かでなければならぬ」
果たしてこのような言説の先に、「死に値する国家」は存在するだろうか。
否。我々が見るのは、便利な物語として“死”を語り、“原爆”を語る冷笑的な世界である。
日本よ、怒れ。
日本よ、語れ。
「平和」とは、“従属なき存在”の中にのみ宿ることを。
トランプ氏、イラン核施設攻撃は戦争を断念させるため「広島・長崎と本質は同じ」と主張 https://www.sankei.com/article/20250625-2V2WZNSNIRLG5AVLRNTIOD52II/ @Sankei_newsより




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