『大人になるには早すぎて、子どもでいるには遅すぎた』
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 8分

午後四時の光は、静岡の町をやさしくするふりが上手だった。駅前の白いタイルも、国一沿いの乾いた歩道も、茶町へ向かう路地の影も、みんな同じ温度で「いつも通り」を装う。けれど、影だけは正直で、先に伸びて、先に急がせて、先に終わりを準備する。
幹夫はその影に押されるように歩いていた。肩に食い込む鞄の紐が、今日は少しだけ硬く感じる。制服の袖口が手首の骨に当たるたび、布が「もう短い」と小さく告げてくる。背が伸びたのか、世界が低くなったのか、どちらでもいいはずなのに、最近はその差が胸の奥でずっと擦れていた。
鞄の一番奥には、封筒が一通。白い、薄い、角のきっちりしたやつ。表には黒い字で「保護者」と書かれている。保護者、という二文字は、紙の上では軽いのに、鞄の底に入れると重い。重いものは、歩くたびに存在を主張する。
担任はさっき、笑顔で言った。「おうちに渡してね。期限、明日までだから」
明日まで、という言い方は、今を狭くする。狭くなった今の中で、幹夫は息を整えるふりをしながら、もうひとつの段取りを思い浮かべていた。
――母に会って、判をもらう。――父に渡して、出す。段取りは簡単だ。簡単なのに、段取りの間に立つのはいつも幹夫だった。
しずてつの踏切は、鳴る前がいちばんうるさい。遮断機が下りる直前の一拍に、幹夫は立ち止まった。止まれる時間があると、心の中の余計なものが勝手に並び始める。言い方、声の大きさ、表情、間の置き方。並べたところで、うまくいく保証なんてないのに。
電車が通り過ぎた。窓の中に買い物袋、制服の肘、スマホの光。生活はいつも通り流れていく。いつも通りの流れは、誰かが「間にいる」ことを気にしない。気にしないから、間にいるほうだけが自分を強く意識してしまう。
遮断機が上がり、幹夫は歩き出した。今日は家へ真っ直ぐ帰らず、堀のほうへ向かった。水の匂いが街の匂いに混ざる場所。歩いているだけで、少しだけ呼吸の速さが変わる。
堀の水面は、空の白を落として揺れていた。揺れる白は眩しすぎない。眩しすぎないと、見ていられる。ベンチに座ると、木の板が太ももの熱を吸っていく。吸っていくのに、完全には冷めない。冷めきらない熱は、あとから効いてくる。
しばらくして、母が来た。手提げ袋を両手で抱え直す癖は相変わらずで、その抱え直しだけが「ここに来た」を確かにする。母の足音は小さいのに、空気のほうが先に変わった。風向きじゃない。人が来たことで、見えない段差が動くみたいな変化。
「……幹夫」
小さい声。小さいのに沈まない声。幹夫は一拍遅れて返した。
「うん」
その一往復だけで、胸の奥が少しだけほどける。ほどけるのは、答えが出たからじゃない。声が往復したからだ。
幹夫は鞄から封筒を出し、膝の上に置いた。置くと、紙がほんの少しだけ風に揺れた。揺れる紙は、決まっていないことを増やす。母は封筒の文字を見て、目の端を少しだけ細めた。
「……また、学校の?」
母は責める声じゃない。でも、その“また”が、幹夫の胸の奥のどこかを押した。押されると、痛いのに、声は出ない。出ない声は、代わりに指先に来る。幹夫は封筒の角を押さえた。角の硬さが指の腹に残る。硬いものは、現実を確かにする。
「……保護者って書いてあるとこ、二つ」
幹夫が言うと、母は「ああ」と小さく頷いて、ペンと小さな判子ケースを出した。朱肉の蓋が開くと、あの匂いが立った。甘くないのに強い匂い。赤い色の匂い。その匂いが立つだけで、幹夫の中でいくつもの記憶が勝手に重なった。面談の紙、同意書、父の「そうか」、缶のお茶、受話器の熱。重なると、今が薄くなる。薄くなった今は、危ない。
母が署名をして、判を押す。「ぽん」と小さく鳴る。その音は小さいのに、幹夫の胸の奥で大きかった。紙の上の赤は、同じ赤でも、人が違うと温度が違う。温度が違っても、並んでしまえば同じ“印”になる。
母は封筒を閉じて幹夫に返しながら言った。
「……ありがとう。こういうの、あなたに任せちゃって、ごめんね」
ごめんね、という言葉が、軽いのに重い。軽いのは語尾の柔らかさで、重いのは中身の大きさだ。その重さを、幹夫はまだ受け取る器を持っていない気がした。器がないのに受け取ると、こぼれる。こぼれたものは、拾うときに余計な形になる。
幹夫は「いいよ」とも「平気」とも言えなかった。どちらも嘘になる気がした。嘘は簡単に言えるのに、簡単に言えない日はある。
代わりに、幹夫は封筒を両手で持ち直し、短く言った。
「……うん」
その「うん」は、同意でも許しでもなく、ただの受領みたいだった。受領の返事は、壊れにくい。壊れにくいから、今の自分にはそれしか置けなかった。
母は立ち上がる前に、堀の水面を見た。水面の白が揺れている。揺れ方が、説明不足のまま続く揺れ方だった。母はその揺れを見ながら、ぽつりと言った。
「……あなた、最近、背が伸びたね」
伸びた、という言葉は本当のはずなのに、幹夫の胸の奥には少し刺さった。伸びたぶんだけ、届くものが増える。届くものが増えるぶんだけ、背負うものも増える。背が伸びるって、そういうことなのだと、誰かが勝手に決めてしまう。
幹夫は「うん」とだけ言った。それ以上言えば、背が伸びたことの意味まで説明しなければならない気がした。説明は苦手だった。説明すると、どれかが嘘になる。嘘になると、壊れやすいところが先に割れる。
母は「じゃあね」と言って歩き出した。歩き出す足音はすぐ街の音に紛れる。紛れるのに、消えない。消えないのは、幹夫の中でそれを聞いているからだ。
幹夫は家へ向かわず、安倍川のほうへ歩いた。川へ向かう道は、町の匂いが少しずつ薄くなる。コンビニの揚げ物、排気、洗濯物の柔軟剤。その代わりに、草の乾いた匂いが前に出てくる。草の匂いは、外側に貼りつく潮の膜とも、内側へ沈む茶の匂いとも違う。途中の匂いだ。どちらにも偏らない匂い。
堤防に上がると、風が少し強い。風は涼しくないのに、皮膚の上の膜を剥がすように通る。通ると、息が深くなる。白い石が光っていた。昼の白は嘘がない。嘘がないぶん、影が来るのが早い。
河原では、小さな子どもが水際で石を投げていた。水の上を跳ねて、最後に沈む。沈むところまで見てから、子どもはまた石を拾う。拾って、投げて、跳ねて、沈む。その繰り返しが、妙にうらやましかった。沈むことを怖がらない手つき。沈んだあとも続けられる体温。
幹夫は、石を拾わなかった。拾って投げたら、誰かが「子どもみたい」と言う気がした。言われてもいいはずなのに、今日はそれが怖い。子どもみたい、は一番簡単な刃だからだ。
ふと、後ろから声がした。
「幹夫?」
振り向くと、小学校の頃の同級生が立っていた。短パン、サンダル、手にはアイス。その格好が、もう自分には似合わない気がして、幹夫は視線を一瞬だけ逸らした。逸らした先に、制服の袖口がある。袖口は手首の骨に当たって、現実を確かにする。
「久しぶりじゃん。川、入んないの?」
誘いは軽い。軽い誘いは、断ると重くなる。重くなるのが嫌で、幹夫は笑いそうになった。笑えば、子どもに戻れる気がする。でも笑うと、今度は封筒の重さを忘れるふりをしなければならない。忘れるふりは、あとで必ず利息みたいに返ってくる。
「……今日は、やめとく」
そう言った声が、自分でも少し大人の声に聞こえた。大人の声に聞こえた瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなる。狭くなるのに、固まらない。固まらない狭さは、もう戻れない狭さだった。
同級生は「あっそ」と言って、あっさり去った。あっさりしていることが助かった。でも助かったぶんだけ、置いていかれた感じも残った。残るのは、言葉が短いからだ。
幹夫は堤防の斜面に座った。草がちくちく背中に当たる。小さい痛みは、いまここを逃がさない。ポケットから封筒を出し、角を指で押さえた。硬い角が、指先に現実を残す。
“保護者”の欄に押された母の判。これから父に渡して、父の判をもらう。そして先生に出す。段取りは簡単だ。簡単なのに、その間にいる自分は、どこにも属していない気がする。
大人になるには早すぎて、子どもでいるには遅すぎた。
その言葉が、頭の中で勝手に音を持った。音を持つと、言葉は喉の手前に来る。喉の手前に来た言葉は、飲み込むと重い。でも吐き出す相手がいないとき、飲み込むしかない。
幹夫は、息を吸って、吐いた。吐く息の上に、ほんの小さく言葉を置く。
「……なんで、僕なんだろ」
声は、川に吸われた。反響はない。体育館みたいに戻ってこない。戻ってこないのに、言ったことで胸の奥が少しだけほどけた。ほどけたのは答えが出たからじゃない。言葉が外へ出たからだ。外へ出た言葉は沈むこともある。沈んでもいい、とこの夏で少しだけ知った。
家へ帰る道、午後四時の影がいっそう長くなっていた。影が伸びると、世界は少し傾く。傾いた世界は、説明不足のまま「今日」を終わらせようとする。
玄関を開けると、祖母のやかんが鳴いた。湯気が立ち、茶の匂いが内側へ沈む。沈む匂いは、外側に貼りついていたものをゆっくり剥がしていく。
「おかえり」
祖母の声。幹夫は「ただいま」と返し、手を洗った。指先の硬さが少しだけほどける。居間では父がテレビをつけたまま、音量を一段下げた。その動きが返事の代わりなのも、もう知っている。
幹夫は封筒を父の前に置いた。置き方が、湯飲みの底みたいに静かだった。静かに置くと、逃げない。逃げないぶん、現実になる。
父は封筒を見て、短く言った。
「……判、押したか」
幹夫は頷く。
「……母さん、押した」
父の手が止まり、引き出しを開け、朱肉を出した。蓋が開く匂いが立つ。甘くないのに強い匂い。赤い色の匂い。父は判を押し、「ぽん」と小さく鳴らした。赤い印が並ぶ。並んだ赤は、家の中でだけ成立する約束みたいだった。
父は封筒を閉じて、幹夫に返した。
「……出せ」
それだけ。段取りの言葉。でもその段取りが、今日は少しだけ違って聞こえた。避ける段取りではなく、進める段取りの匂いがした。
幹夫は受け取って、短く言った。
「……うん」
その「うん」は沈まなかった。沈まない「うん」があることを、幹夫は少しずつ覚えていく。
台所から祖母の声が飛ぶ。
「茶ぁ飲め。冷めんうちに」
幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、さっき川で言った「なんで僕なんだろ」の残り方に似ていた。言った瞬間には何も変わらないのに、家の湯気の中で、あとからじわっと効いてくる。
幹夫少年は、まだ大人ではなかった。でも、もう子どもだけでもいられなかった。その間の場所は狭くて、息がしづらくて、誰にも見えないぶんだけ怖い。それでも――午後四時の影の中で倒れずに立っていられた日は、ちゃんと自分の中に残る。紙の折り目みたいに、戻らない形で。




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