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のぞみ0号は、死者の時刻表を走る

※列車名・時刻・運行描写は物語上の架空設定です。

 東海道新幹線は、日本の背骨だ。

 東京から新大阪へ。 朝の光を切り裂き、ビルの谷間を抜け、海をかすめ、山を越え、街と街を定刻で縫い合わせる。

 その背骨に、ある朝、死体が乗った。

 午前七時三十二分。名古屋駅に到着した架空の「のぞみ613号」十一号車、窓側E席。

 そこに座っていた男は、眠っているように見えた。紺のスーツ。膝の上には駅弁。左手には開きかけの文庫本。だが車内清掃員の女性が声をかけた瞬間、男の首が糸の切れた人形のように傾いた。

 死んでいた。

 胸元には、折り畳まれた時刻表のコピーが差し込まれていた。

 赤いペンで、ひとつの時刻だけが丸で囲まれていた。

 七時三十二分。

 その下に、細い文字でこう書かれていた。

 ――死は定刻。警察は遅延。

     *

 警視庁捜査一課の鷲尾烈は、その文字を見た瞬間、拳を握り込んだ。

 烈という名前にふさわしく、彼はいつも燃えていた。怒りや正義感だけではない。被害者の家族が泣いていると、誰より先に肩を貸す。寒い夜の聞き込みでは、若い部下に自分のコートを着せる。犯人に対しては獣のように吠えるが、遺族の前では声を落とす。

 だからこそ、死を遊びに変える人間が許せなかった。

「ふざけやがって」

 烈は時刻表のコピーを見下ろした。

 被害者は仁科久之。医療機器会社の元役員。昨夜東京で会食を終え、今朝の新幹線で名古屋へ向かっていた。防犯映像では、仁科は東京駅で確かに生きていた。改札を通り、ホームでコーヒーを買い、列車に乗り込んでいる。

 死亡推定時刻は、七時二十分から三十分の間。

 だがその時間、最重要参考人として浮上した男は、東京駅八重洲口の巨大ビジョンに映っていた。

 黒沢蒼。

 数理工学の天才。かつて「人間の行動はダイヤグラムで支配できる」と豪語し、犯罪心理の研究から追放された男。メディアは彼を面白半分に「IQ測定不能の怪物」と呼んだ。

 黒沢は七時二十五分、駅前のカフェでライブ配信を始めていた。

 配信の中で、彼は笑っていた。

『鷲尾刑事、見ていますか。あなたは熱い。熱すぎる。熱で時計は狂いますよ』

 その直後に仁科の死亡が確認された。

 黒沢には完璧なアリバイがあった。 だが烈は配信画面の笑みを見た瞬間、確信した。

 こいつだ。

     *

 二人目の死は、その日の昼に起きた。

 京都駅。架空の「ひかり82号」が到着する三分前、ホームのベンチに座っていた女性弁護士・皆川芙美が倒れた。彼女のバッグからも、時刻表のコピーが見つかった。

 赤い丸は、十二時十四分。

 添えられた文字は、こうだった。

 ――ひかりは追い越される。正義も同じだ。

 皆川は十年前、ある事故の民事訴訟に関わっていた。事故といっても、新幹線事故ではない。地方都市の古い高架下で起きた転落死。亡くなったのは、当時十六歳の少年、芳野昴。

 仁科もまた、その訴訟に関係していた。

 そして黒沢蒼は、また画面に現れた。

 今度は新大阪駅の待合室からの配信だった。壁の時計、発車標、人の流れ。すべてが十二時十四分を示している。

『二人目です。警察はいつも、死んだ人間より生きている容疑者の都合を見ますね。だから負ける』

 黒沢はカメラに向かって、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。

『次は、のぞみが止まらない駅です』

     *

 捜査本部に、鉄道会社から派遣された若い女性が来た。

 名前は芳野栞。

 眼鏡の奥に静かな瞳を持つ、時刻表解析の専門家だった。白いブラウスに紺のジャケット。声は柔らかく、説明は正確で、誰にでも丁寧に頭を下げた。

「犯人は、時刻表を暗号として使っています」

 栞はホワイトボードに架空ダイヤを書いた。

 のぞみ。ひかり。こだま。 停車駅。通過駅。追い越し。接続。 線と点が複雑に交差し、まるで人間の運命を図にしたようだった。

「黒沢蒼は、各事件の時刻に別の場所にいるように見せています。でも、彼が犯人なら、殺害時刻そのものが偽装されている可能性があります」

「偽装?」

 烈が聞き返す。

「はい。人は時計を見ると、それを信じます。駅の時計、スマートフォン、発車標、車内放送。でも、死体は時計を読みません」

 その言葉に、烈はわずかに眉を動かした。

 栞は続けた。

「犯人は、被害者がその時刻まで生きていたと思わせる証拠を置いている。でも本当に大切なのは、時刻ではなく、人間です。被害者が最後に何を食べたか。誰に会ったか。どんな言葉を残したか」

 烈は、彼女を信用した。

 冷たい数字の中で、栞だけが人間を見ているように思えたからだ。

     *

 三人目の被害者は、静岡駅近くのホテルで見つかった。

 真島遼。元記者。十年前の芳野昴転落死について、最初に「事故ではない」と記事を書こうとした男だった。だが記事は出なかった。圧力がかかったのだと噂されていた。

 机の上には、やはり時刻表。

 赤い丸は、十六時四十四分。

 ――こだまは待つ。死人も待つ。

 黒沢蒼は同時刻、今度は架空の「のぞみ700号」の車内から配信していた。窓の外を流れる景色。通過する駅。車内アナウンス。どれも本物に見えた。

『鷲尾刑事、あなたは今どこにいますか。私を追っていますか。死体を追っていますか。それとも、時刻表に追われていますか』

 捜査員たちは焦った。

 だが烈は、三人目の遺族の部屋で、別のものを見つけた。

 真島の娘、莉子が泣きながら握っていた、小さな折り紙の太陽だった。

「お父さん、出張の朝はいつも、これを財布に入れてくれたんです」

 莉子は震える声で言った。

「でも、今回は机に置いたままだった。変だと思った。お父さん、必ず持っていくのに」

 烈は折り紙を見つめた。

 人間は、時刻表の点ではない。

 誰かを待つ。 誰かに帰る。 忘れない癖がある。 小さな約束がある。

 烈は捜査本部へ戻り、黒沢の配信映像を最初から見直した。

 そして気づいた。

 朝の映像。 黒沢は「西へ向かう列車内」にいるはずだった。 だが、窓から差し込む朝日が、逆側から入っていた。

「こいつは西へ向かっていない」

 烈が低く言った。

「東へ向かう列車の映像だ」

 誰かが息を呑んだ。

 さらに、配信の車内アナウンスは本物ではあったが、別の日、別方向、別列車のものだった。停車駅と通過駅が似た架空ダイヤを利用し、映像を「今」に見せかけていたのだ。

 そして被害者たちの最後のメッセージも、すべて不自然だった。

 仁科が妻に送った「駅弁がうまい」という文面。仁科は糖尿で、長く駅弁を避けていた。 皆川が残した音声。彼女は普段、京都を「きょうと」と平板に発音しない。 真島が娘へ送った短い返信。そこには、いつも使う太陽の絵文字がなかった。

 犯人は、殺害時刻を偽装した。

 被害者たちは、発見されるずっと前に殺されていた。 その後、時刻表に合わせて「生きている証拠」だけが流された。

 黒沢蒼の完璧なアリバイは、完璧だからこそ嘘だった。

 烈は叫んだ。

「黒沢を追うな! 黒沢の映像を作れる人間を洗え!」

     *

 その夜、黒沢蒼が見つかった。

 生きてはいなかった。

 東京駅近くの古い倉庫。簡易ベッドの上で、彼は冷たくなっていた。死亡は少なくとも二日前。連続殺人が始まる前だった。

 では、配信の黒沢は誰だったのか。

 映像は、過去に撮影された黒沢の断片を組み合わせたものだった。声も、言葉も、笑みも、何者かが作り直していた。

 烈の背中を、氷のようなものが滑り落ちた。

 黒沢蒼は犯人ではなかった。

 犯人が作った、時刻表上の幽霊だった。

 そのとき、烈の携帯が鳴った。

 画面に表示された名前は、芳野栞。

『鷲尾さん』

 受話口の向こうで、栞はいつもの穏やかな声だった。

『やっと、定刻に近づきましたね』

 烈は動きを止めた。

「……お前か」

『はい』

 ためらいのない返事だった。

『黒沢さんは頭がよかった。でも、自己愛が強すぎた。使いやすい幽霊でした』

「芳野昴は、お前の兄か」

『弟です』

 栞の声が、一瞬だけ人間のものになった。

『十年前、昴は助けを求めていた。仁科も、皆川も、真島も、みんな知っていた。でも誰も間に合わなかった。みんな自分の時刻表を守ったんです。会議の時間、訴訟の都合、記事の締切。昴の命より、自分の予定を優先した』

「だから殺したのか」

『いいえ』

 栞は静かに笑った。

『最初は復讐でした。でも途中から、違うものになった。人が死に、警察が走り、列車が定刻で進む。その美しさに気づいてしまったんです』

 烈の拳が震えた。

『鷲尾さん、最後の列車に乗ってください。架空の、のぞみ0号。終点は夜明けです』

     *

 のぞみ0号。

 その名は、栞が作った最後の暗号だった。

 存在しない列車。時刻表に載らない列車。 だが、深夜の車両基地から東京方面へ移動する回送列車の一本が、その暗号と一致した。

 烈は走った。

 ホームを蹴り、階段を飛ばし、制止する駅員の声を振り切った。部下たちが追う。構内放送が揺れる。深夜の駅に、彼の荒い息だけが響いた。

 閉まりかけたドアの向こうに、栞が立っていた。

 白い顔。 静かな笑み。 その手には、最後の時刻表。

 烈は体ごと飛び込んだ。

 ドアが閉まった。

 列車が動き出す。

 車内は無人だった。照明は半分落ち、窓の外の街灯が線になって流れていく。床が唸り、連結部が低く震える。

「栞!」

 烈が叫ぶ。

「もう終わりだ!」

「終わり?」

 栞は首を傾げた。

「違います。最後の殺人がまだです」

 彼女は時刻表を広げた。

 赤い丸は、午前五時十三分。 夜明けの時刻だった。

「最後の被害者は誰だ」

 烈は一歩近づいた。

 栞は微笑んだ。

「私です」

 烈の目が見開かれる。

「あなたに殺されるんです、鷲尾さん。怒りに任せて。正義のために。そうすれば、あなたも私の時刻表に載る。熱血刑事が、連続殺人犯を殺害。警察は最後まで遅延。最高の終点でしょう?」

 栞は短い刃物を床に落とした。

 烈の足元へ滑ってくる。

「拾ってください」

「馬鹿にするな」

「怒っているでしょう? 私を憎んでいるでしょう? 遺族の涙を見た。莉子ちゃんの折り紙も見た。あなたは優しい。だからこそ、私を許せない」

 栞は近づいてきた。

「殺してください。そうすれば、すべて定刻です」

 烈は刃物を見下ろした。

 仁科の妻の泣き声。 皆川の母の震える手。 真島莉子の折り紙の太陽。 死んだ黒沢の空虚な顔。 十年前に助けを呼んだという少年。

 怒りが、喉までせり上がった。

 だが烈は、刃物を拾わなかった。

 代わりに、栞の胸ぐらをつかんだ。

「お前の時刻表には、誰かを待っている人間が載っていない」

 栞の表情が初めて崩れた。

「何を――」

「遺族は、お前の死なんか望んでいない。真相を望んでいる。朝を望んでいる。お前が生きて裁かれることを望んでいる」

「きれいごとです」

「ああ、そうだ」

 烈は吠えた。

「だが人間は、きれいごとがなきゃ夜を越えられねえんだよ!」

 栞が隠し持っていた別の刃を振る。烈の腕に赤い線が走る。彼は怯まず踏み込んだ。車両が揺れる。二人は座席に倒れ込み、栞は細い体からは想像できない力で暴れた。

 烈は肩で受け、腕で押さえ、床に落ちた刃を遠くへ蹴った。

 栞が叫んだ。

「私は間に合わなかった! 誰も間に合わなかった! だったら世界ごと時刻表にして、全部遅れさせてやりたかった!」

 その声は、初めて怪物ではなく、壊れた姉の声だった。

 烈は彼女を押さえつけたまま、低く言った。

「それでも、殺していい理由にはならない」

 栞の目から、涙がこぼれた。

 だがそれは後悔の涙ではなかった。

 空っぽの器から、最後に残った水がこぼれただけのように見えた。

     *

 午前五時十三分。

 列車は停車した。

 東の空が、淡く白み始めていた。

 ホームに降ろされた栞は、手錠をかけられたまま朝日を見た。彼女が作った最後の時刻表は、烈の血でにじみ、赤い丸が潰れていた。

「どうして殺さなかったんですか」

 栞がつぶやいた。

 烈は答えなかった。

 答えれば、彼女の物語にまた一行を与える気がした。

 代わりに彼は、真島莉子から預かった折り紙の太陽をポケットから取り出した。血のついた指で、そっと形を整える。

 太陽は少し潰れていた。 それでも、太陽だった。

 数日後、烈は莉子にそれを返した。

「お父さん、怖かったかな」

 莉子が聞いた。

 烈は膝をつき、彼女と同じ高さで言った。

「怖かったと思う。でも、君のことを思っていた。最後まで」

 莉子は折り紙を胸に抱いた。

「朝、来るかな」

「ああ」

 烈は窓の外を見た。

 街はまだ事件の影を引きずっていた。死んだ者は戻らない。奪われた時間は戻らない。栞が裁かれても、空いた席は空いたままだ。

 むなしさは残る。 絶望も消えない。 正義は遅れる。 人間は、何度も間に合わない。

 それでも。

 東の空に、淡い光が差した。

 新幹線が遠くを走っていく。 誰かを運ぶために。 誰かが待つ場所へ向かうために。

 烈は小さく息を吐いた。

 時刻表に書かれていない朝が、今日も来る。

 陽はまた昇る。

 
 
 

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