のぞみ0号は、死者の時刻表を走る
- 山崎行政書士事務所
- 5月16日
- 読了時間: 10分

※列車名・時刻・運行描写は物語上の架空設定です。
東海道新幹線は、日本の背骨だ。
東京から新大阪へ。 朝の光を切り裂き、ビルの谷間を抜け、海をかすめ、山を越え、街と街を定刻で縫い合わせる。
その背骨に、ある朝、死体が乗った。
午前七時三十二分。名古屋駅に到着した架空の「のぞみ613号」十一号車、窓側E席。
そこに座っていた男は、眠っているように見えた。紺のスーツ。膝の上には駅弁。左手には開きかけの文庫本。だが車内清掃員の女性が声をかけた瞬間、男の首が糸の切れた人形のように傾いた。
死んでいた。
胸元には、折り畳まれた時刻表のコピーが差し込まれていた。
赤いペンで、ひとつの時刻だけが丸で囲まれていた。
七時三十二分。
その下に、細い文字でこう書かれていた。
――死は定刻。警察は遅延。
*
警視庁捜査一課の鷲尾烈は、その文字を見た瞬間、拳を握り込んだ。
烈という名前にふさわしく、彼はいつも燃えていた。怒りや正義感だけではない。被害者の家族が泣いていると、誰より先に肩を貸す。寒い夜の聞き込みでは、若い部下に自分のコートを着せる。犯人に対しては獣のように吠えるが、遺族の前では声を落とす。
だからこそ、死を遊びに変える人間が許せなかった。
「ふざけやがって」
烈は時刻表のコピーを見下ろした。
被害者は仁科久之。医療機器会社の元役員。昨夜東京で会食を終え、今朝の新幹線で名古屋へ向かっていた。防犯映像では、仁科は東京駅で確かに生きていた。改札を通り、ホームでコーヒーを買い、列車に乗り込んでいる。
死亡推定時刻は、七時二十分から三十分の間。
だがその時間、最重要参考人として浮上した男は、東京駅八重洲口の巨大ビジョンに映っていた。
黒沢蒼。
数理工学の天才。かつて「人間の行動はダイヤグラムで支配できる」と豪語し、犯罪心理の研究から追放された男。メディアは彼を面白半分に「IQ測定不能の怪物」と呼んだ。
黒沢は七時二十五分、駅前のカフェでライブ配信を始めていた。
配信の中で、彼は笑っていた。
『鷲尾刑事、見ていますか。あなたは熱い。熱すぎる。熱で時計は狂いますよ』
その直後に仁科の死亡が確認された。
黒沢には完璧なアリバイがあった。 だが烈は配信画面の笑みを見た瞬間、確信した。
こいつだ。
*
二人目の死は、その日の昼に起きた。
京都駅。架空の「ひかり82号」が到着する三分前、ホームのベンチに座っていた女性弁護士・皆川芙美が倒れた。彼女のバッグからも、時刻表のコピーが見つかった。
赤い丸は、十二時十四分。
添えられた文字は、こうだった。
――ひかりは追い越される。正義も同じだ。
皆川は十年前、ある事故の民事訴訟に関わっていた。事故といっても、新幹線事故ではない。地方都市の古い高架下で起きた転落死。亡くなったのは、当時十六歳の少年、芳野昴。
仁科もまた、その訴訟に関係していた。
そして黒沢蒼は、また画面に現れた。
今度は新大阪駅の待合室からの配信だった。壁の時計、発車標、人の流れ。すべてが十二時十四分を示している。
『二人目です。警察はいつも、死んだ人間より生きている容疑者の都合を見ますね。だから負ける』
黒沢はカメラに向かって、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
『次は、のぞみが止まらない駅です』
*
捜査本部に、鉄道会社から派遣された若い女性が来た。
名前は芳野栞。
眼鏡の奥に静かな瞳を持つ、時刻表解析の専門家だった。白いブラウスに紺のジャケット。声は柔らかく、説明は正確で、誰にでも丁寧に頭を下げた。
「犯人は、時刻表を暗号として使っています」
栞はホワイトボードに架空ダイヤを書いた。
のぞみ。ひかり。こだま。 停車駅。通過駅。追い越し。接続。 線と点が複雑に交差し、まるで人間の運命を図にしたようだった。
「黒沢蒼は、各事件の時刻に別の場所にいるように見せています。でも、彼が犯人なら、殺害時刻そのものが偽装されている可能性があります」
「偽装?」
烈が聞き返す。
「はい。人は時計を見ると、それを信じます。駅の時計、スマートフォン、発車標、車内放送。でも、死体は時計を読みません」
その言葉に、烈はわずかに眉を動かした。
栞は続けた。
「犯人は、被害者がその時刻まで生きていたと思わせる証拠を置いている。でも本当に大切なのは、時刻ではなく、人間です。被害者が最後に何を食べたか。誰に会ったか。どんな言葉を残したか」
烈は、彼女を信用した。
冷たい数字の中で、栞だけが人間を見ているように思えたからだ。
*
三人目の被害者は、静岡駅近くのホテルで見つかった。
真島遼。元記者。十年前の芳野昴転落死について、最初に「事故ではない」と記事を書こうとした男だった。だが記事は出なかった。圧力がかかったのだと噂されていた。
机の上には、やはり時刻表。
赤い丸は、十六時四十四分。
――こだまは待つ。死人も待つ。
黒沢蒼は同時刻、今度は架空の「のぞみ700号」の車内から配信していた。窓の外を流れる景色。通過する駅。車内アナウンス。どれも本物に見えた。
『鷲尾刑事、あなたは今どこにいますか。私を追っていますか。死体を追っていますか。それとも、時刻表に追われていますか』
捜査員たちは焦った。
だが烈は、三人目の遺族の部屋で、別のものを見つけた。
真島の娘、莉子が泣きながら握っていた、小さな折り紙の太陽だった。
「お父さん、出張の朝はいつも、これを財布に入れてくれたんです」
莉子は震える声で言った。
「でも、今回は机に置いたままだった。変だと思った。お父さん、必ず持っていくのに」
烈は折り紙を見つめた。
人間は、時刻表の点ではない。
誰かを待つ。 誰かに帰る。 忘れない癖がある。 小さな約束がある。
烈は捜査本部へ戻り、黒沢の配信映像を最初から見直した。
そして気づいた。
朝の映像。 黒沢は「西へ向かう列車内」にいるはずだった。 だが、窓から差し込む朝日が、逆側から入っていた。
「こいつは西へ向かっていない」
烈が低く言った。
「東へ向かう列車の映像だ」
誰かが息を呑んだ。
さらに、配信の車内アナウンスは本物ではあったが、別の日、別方向、別列車のものだった。停車駅と通過駅が似た架空ダイヤを利用し、映像を「今」に見せかけていたのだ。
そして被害者たちの最後のメッセージも、すべて不自然だった。
仁科が妻に送った「駅弁がうまい」という文面。仁科は糖尿で、長く駅弁を避けていた。 皆川が残した音声。彼女は普段、京都を「きょうと」と平板に発音しない。 真島が娘へ送った短い返信。そこには、いつも使う太陽の絵文字がなかった。
犯人は、殺害時刻を偽装した。
被害者たちは、発見されるずっと前に殺されていた。 その後、時刻表に合わせて「生きている証拠」だけが流された。
黒沢蒼の完璧なアリバイは、完璧だからこそ嘘だった。
烈は叫んだ。
「黒沢を追うな! 黒沢の映像を作れる人間を洗え!」
*
その夜、黒沢蒼が見つかった。
生きてはいなかった。
東京駅近くの古い倉庫。簡易ベッドの上で、彼は冷たくなっていた。死亡は少なくとも二日前。連続殺人が始まる前だった。
では、配信の黒沢は誰だったのか。
映像は、過去に撮影された黒沢の断片を組み合わせたものだった。声も、言葉も、笑みも、何者かが作り直していた。
烈の背中を、氷のようなものが滑り落ちた。
黒沢蒼は犯人ではなかった。
犯人が作った、時刻表上の幽霊だった。
そのとき、烈の携帯が鳴った。
画面に表示された名前は、芳野栞。
『鷲尾さん』
受話口の向こうで、栞はいつもの穏やかな声だった。
『やっと、定刻に近づきましたね』
烈は動きを止めた。
「……お前か」
『はい』
ためらいのない返事だった。
『黒沢さんは頭がよかった。でも、自己愛が強すぎた。使いやすい幽霊でした』
「芳野昴は、お前の兄か」
『弟です』
栞の声が、一瞬だけ人間のものになった。
『十年前、昴は助けを求めていた。仁科も、皆川も、真島も、みんな知っていた。でも誰も間に合わなかった。みんな自分の時刻表を守ったんです。会議の時間、訴訟の都合、記事の締切。昴の命より、自分の予定を優先した』
「だから殺したのか」
『いいえ』
栞は静かに笑った。
『最初は復讐でした。でも途中から、違うものになった。人が死に、警察が走り、列車が定刻で進む。その美しさに気づいてしまったんです』
烈の拳が震えた。
『鷲尾さん、最後の列車に乗ってください。架空の、のぞみ0号。終点は夜明けです』
*
のぞみ0号。
その名は、栞が作った最後の暗号だった。
存在しない列車。時刻表に載らない列車。 だが、深夜の車両基地から東京方面へ移動する回送列車の一本が、その暗号と一致した。
烈は走った。
ホームを蹴り、階段を飛ばし、制止する駅員の声を振り切った。部下たちが追う。構内放送が揺れる。深夜の駅に、彼の荒い息だけが響いた。
閉まりかけたドアの向こうに、栞が立っていた。
白い顔。 静かな笑み。 その手には、最後の時刻表。
烈は体ごと飛び込んだ。
ドアが閉まった。
列車が動き出す。
車内は無人だった。照明は半分落ち、窓の外の街灯が線になって流れていく。床が唸り、連結部が低く震える。
「栞!」
烈が叫ぶ。
「もう終わりだ!」
「終わり?」
栞は首を傾げた。
「違います。最後の殺人がまだです」
彼女は時刻表を広げた。
赤い丸は、午前五時十三分。 夜明けの時刻だった。
「最後の被害者は誰だ」
烈は一歩近づいた。
栞は微笑んだ。
「私です」
烈の目が見開かれる。
「あなたに殺されるんです、鷲尾さん。怒りに任せて。正義のために。そうすれば、あなたも私の時刻表に載る。熱血刑事が、連続殺人犯を殺害。警察は最後まで遅延。最高の終点でしょう?」
栞は短い刃物を床に落とした。
烈の足元へ滑ってくる。
「拾ってください」
「馬鹿にするな」
「怒っているでしょう? 私を憎んでいるでしょう? 遺族の涙を見た。莉子ちゃんの折り紙も見た。あなたは優しい。だからこそ、私を許せない」
栞は近づいてきた。
「殺してください。そうすれば、すべて定刻です」
烈は刃物を見下ろした。
仁科の妻の泣き声。 皆川の母の震える手。 真島莉子の折り紙の太陽。 死んだ黒沢の空虚な顔。 十年前に助けを呼んだという少年。
怒りが、喉までせり上がった。
だが烈は、刃物を拾わなかった。
代わりに、栞の胸ぐらをつかんだ。
「お前の時刻表には、誰かを待っている人間が載っていない」
栞の表情が初めて崩れた。
「何を――」
「遺族は、お前の死なんか望んでいない。真相を望んでいる。朝を望んでいる。お前が生きて裁かれることを望んでいる」
「きれいごとです」
「ああ、そうだ」
烈は吠えた。
「だが人間は、きれいごとがなきゃ夜を越えられねえんだよ!」
栞が隠し持っていた別の刃を振る。烈の腕に赤い線が走る。彼は怯まず踏み込んだ。車両が揺れる。二人は座席に倒れ込み、栞は細い体からは想像できない力で暴れた。
烈は肩で受け、腕で押さえ、床に落ちた刃を遠くへ蹴った。
栞が叫んだ。
「私は間に合わなかった! 誰も間に合わなかった! だったら世界ごと時刻表にして、全部遅れさせてやりたかった!」
その声は、初めて怪物ではなく、壊れた姉の声だった。
烈は彼女を押さえつけたまま、低く言った。
「それでも、殺していい理由にはならない」
栞の目から、涙がこぼれた。
だがそれは後悔の涙ではなかった。
空っぽの器から、最後に残った水がこぼれただけのように見えた。
*
午前五時十三分。
列車は停車した。
東の空が、淡く白み始めていた。
ホームに降ろされた栞は、手錠をかけられたまま朝日を見た。彼女が作った最後の時刻表は、烈の血でにじみ、赤い丸が潰れていた。
「どうして殺さなかったんですか」
栞がつぶやいた。
烈は答えなかった。
答えれば、彼女の物語にまた一行を与える気がした。
代わりに彼は、真島莉子から預かった折り紙の太陽をポケットから取り出した。血のついた指で、そっと形を整える。
太陽は少し潰れていた。 それでも、太陽だった。
数日後、烈は莉子にそれを返した。
「お父さん、怖かったかな」
莉子が聞いた。
烈は膝をつき、彼女と同じ高さで言った。
「怖かったと思う。でも、君のことを思っていた。最後まで」
莉子は折り紙を胸に抱いた。
「朝、来るかな」
「ああ」
烈は窓の外を見た。
街はまだ事件の影を引きずっていた。死んだ者は戻らない。奪われた時間は戻らない。栞が裁かれても、空いた席は空いたままだ。
むなしさは残る。 絶望も消えない。 正義は遅れる。 人間は、何度も間に合わない。
それでも。
東の空に、淡い光が差した。
新幹線が遠くを走っていく。 誰かを運ぶために。 誰かが待つ場所へ向かうために。
烈は小さく息を吐いた。
時刻表に書かれていない朝が、今日も来る。
陽はまた昇る。





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