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みかんの木が耳をひらくころ

 昭和二十六年の四月、静岡県庵原郡蒲原町の朝は、海のにおいをすこしだけ含んでいた。

 駿河湾から吹いてくる風は、まだ春の冷たさを手のひらに残していて、それでいて、みかん畑の土の上を渡るころには、陽にあたためられて、やわらかい綿のようになった。山の斜面に段々と続く畑には、ところどころに石垣があり、その隙間から小さな草が顔を出している。草の先には朝露がのっていて、幹夫がしゃがみこむと、一粒一粒が、まるで小さな目のように彼を見返した。

 幹夫は八つだった。

 町の人は、幹夫のことを「よく気のつく子だ」と言った。母は「胸のなかに耳がある子だね」と言った。たしかに幹夫は、ほかの子どもよりも、ものごとの気配を早く感じた。戸口に置かれた草履の向きで父の機嫌がわかり、湯気の立ち方で母の疲れがわかり、学校の帰り道にすれちがう犬の尻尾の揺れ方で、その犬が人恋しいのか、ただ腹をすかせているのかまでわかるような気がした。

 その朝、幹夫は父に頼まれて、みかん畑へ水を見に来ていた。父は畑の下の家で、古い鍬の柄を直している。母はかまどの前にいて、煮えはじめた味噌汁の音を聞いているだろう。幹夫だけが、畑の中にいた。

 四月のみかん畑は、冬の名残と夏の予感が、同じ枝の上で肩を寄せあっていた。濃い緑の葉の間には、新しい葉が小さな手のように開きかけている。花はまだ少なく、白い星になる前のつぼみが、葉陰で息をひそめていた。早い木だけが、こっそりと白い花をひとつふたつ咲かせていて、その匂いは近づかなければわからないほど淡かった。

 幹夫は桶を置き、いちばん古いみかんの木の前に立った。

 その木は、畑の上の端にあった。幹は少しねじれていて、根元の土は大きく盛り上がり、まるで木が長いあいだ座っていたために、そこだけ地面が椅子の形になったようだった。幹夫はその木を「おばあ」と呼んでいた。誰にも言ったことはない。言えば笑われると思ったからだ。

 おばあの枝には、昨日、父が切った跡があった。切り口は新しく、淡い色をしていて、そこだけ木の肌が痛そうに見えた。

 幹夫は胸がちくりとした。

「痛かった?」

 声は小さく、風にまぎれるほどだった。

 すると、葉がひと揺れした。

 ただの風だ、と幹夫は思った。けれど、風は下から上へ吹いたようで、葉の音は幹夫の耳もとで、かすかに言葉の形をした。

「痛いというのは、まだ生きているしるしだよ」

 幹夫は息を止めた。

 畑の下から、東海道を行く汽車の音が遠く聞こえた。煙のにおいが、海風に薄く混じって上がってきた。空はよく晴れて、富士の白い頂が、春霞の向こうにぼんやりと浮かんでいる。そんなふつうの朝の中で、みかんの木がしゃべったのだ。

「おばあ、今、言った?」

 葉がまた揺れた。光が葉の表で跳ね、裏で沈み、そのたびに木は笑っているようにも、眠っているようにも見えた。

「幹夫が聞いたなら、言ったのだろうね」

 幹夫は胸のなかが熱くなった。こわいのではなかった。むしろ、前から知っていたことが、やっと声になって返ってきたような気がした。

 彼は木の根元に腰を下ろした。土は冷たく、やわらかかった。指でほじると、小さな虫が驚いて逃げた。

「父ちゃん、枝を切ったんだ。おばあがかわいそうだと思った」

「かわいそう、か」

 おばあは、葉の奥でゆっくり考えるように沈黙した。その沈黙は、人間の沈黙とは違っていた。責めるでもなく、隠すでもなく、ただ山の土が雨を待つような沈黙だった。

「幹夫は、切られることは、なくなることだと思っているのかい」

「だって、枝はもう伸びないだろ」

「その枝はね。けれど、ほかの枝へ光が届く。根から上がる水も、若い葉へ行く。ひとつを手放すと、べつのところが息をすることもある」

 幹夫は切り口を見つめた。

 そこから血のようなものは出ていなかった。ただ、朝の光が小さく乗っていた。幹夫は昨日の夕方のことを思い出した。父が無言で枝を切っていたこと。母が縁側で、古い着物をほどいて、幹夫の学校用の袋を縫っていたこと。ほどかれた着物はもう着物ではなくなっていたけれど、袋になれば幹夫の教科書を運ぶ。なくなるのではなく、形を変える。

 けれど、幹夫の胸にはまだ、うすい悲しみが残った。

「でも、痛いのは嫌だよ」

「そうだね」

 おばあの声は、みかんの花の匂いのように淡かった。

「痛いのは、嫌でいい。嫌だと感じる心は、大切にしなければならない。ただ、痛いものを見たとき、そこに終わりだけを見るか、これからを探すかで、人は少しずつ変わる」

 幹夫は何も言えなかった。

 斜面の下のほうで、雀が二羽、石垣の上を跳ねた。片方が何かをついばみ、もう片方がそのそばで首をかしげた。畑の空気は、朝から昼へ向かって少しずつ明るさを増していく。葉に残っていた露は細くなり、乾いた土のにおいが立ちはじめた。

 そのとき、幹夫の耳に、かすかな音が届いた。

 ちり、ちり、と、小さな鈴を砂の中に埋めたような音だった。幹夫は顔を上げた。音はおばあの根元ではなく、少し離れた若い木のそばから聞こえる。

「行っておやり」とおばあが言った。

 幹夫は立ち上がり、そっと畑の中を歩いた。みかんの枝は、幹夫の肩に触れ、髪を撫でた。どの木も、まだ声にはならない言葉を持っているようだった。幹夫は、胸のなかの耳をすませた。

 若い木の根元に、小さな鳥が落ちていた。

 まだ巣立ったばかりなのか、羽はふくらんでいて、くちばしだけが黄色かった。目は黒く、驚きと不安でいっぱいだった。近くの枝の上で、親鳥らしい一羽が激しく鳴いている。

 幹夫はしゃがみこんだ。

 触っていいのか、いけないのか、わからなかった。学校の友だちなら、すぐにつかまえて、家へ持って帰ると言うかもしれない。幹夫にも一瞬、その考えが浮かんだ。小さな鳥を両手で包めば、温かいだろう。自分だけの秘密にして、餌をやって、名前をつければ、きっとかわいい。

 けれど、鳥の黒い目を見たとき、幹夫の胸に、きゅっとしたものが走った。

 鳥は幹夫を見ていなかった。幹夫の向こう、枝の上で鳴く親鳥を見ていた。

「帰りたいんだね」

 幹夫はそう言った。

 すると、若いみかんの木の葉が、ささやくように鳴った。

「帰るとは、もとの場所へ戻ることだけではないよ。自分の空へ向かうことだよ」

 幹夫は驚かなかった。もう、畑全体が生きものの声で満ちていることを、どこかで受け入れはじめていた。

 彼は鳥をつかまえなかった。かわりに、近くに落ちていた細い枝を拾い、鳥のそばにそっと差し出した。鳥は最初、動かなかった。幹夫も動かなかった。風だけが、みかんの葉を通り過ぎた。

 やがて鳥は、細い足で枝につかまった。幹夫はゆっくりと枝を持ち上げ、若い木の低い枝へ近づけた。鳥は一度よろめき、羽をばたつかせ、それから低い枝に移った。

 親鳥の鳴き声が変わった。

 さっきまでの鋭い音ではなく、雨上がりの水たまりに落ちる光のような、短く明るい声だった。小鳥は枝の上で身を縮め、それから、まだ不器用な羽を震わせた。

 幹夫は胸をなでおろした。自分の手の中に入れなかったのに、なぜか、手の中に温かいものが残っているようだった。

 おばあのところへ戻ると、幹夫はしばらく黙って座った。

「ぼく、連れて帰りたかった」

 正直に言うと、少し恥ずかしかった。

「そうだろうね」

「でも、あの鳥は、ぼくの鳥じゃなかった」

「よく聞いたね」

「何を?」

「あの鳥の声を。声に出していない声を」

 幹夫は自分の胸に手を当てた。母が言った「胸のなかの耳」という言葉が、そこに小さな種のように埋まっている気がした。

 それまで幹夫は、自分がいろいろ感じすぎることを、ときどき困ったものだと思っていた。友だちが笑っているのに、その笑いの奥に寂しさを感じてしまう。父が黙っているだけで、言葉にしない疲れを拾ってしまう。雨の日には、道ばたの草まで寒そうに見えて、胸がいっぱいになる。

 感じることは、重たいことだった。

 けれど今、みかん畑の光の中で、幹夫は少しだけわかった。感じることは、奪うためではなく、そっと返すためにあるのかもしれない。小鳥を自分のものにしなかったように。枝の痛みを、ただかわいそうで終わらせなかったように。

 幹夫は立ち上がり、桶の水を若い木の根元へ運んだ。水は土にしみこみ、すぐに見えなくなった。見えなくなっても、なくなったわけではない。根のほうへ行き、葉のほうへ行き、いつか白い花の香りになる。

 ふと、幹夫は切られた枝の跡をもう一度見た。

 そこはまだ痛そうだった。けれど、朝よりも少しだけ明るく見えた。

 畑の下から、母の呼ぶ声が聞こえた。

「幹夫、朝ごはんだよ」

 幹夫は返事をしようとして、いったん口を閉じた。おばあの葉が光を受けて、静かに揺れている。若い木の枝では、小鳥がまだ心細げに羽をふくらませていたが、そのそばには親鳥がいた。

「また来るね」

 幹夫が言うと、おばあは答えた。

「いつでもおいで。けれど、幹夫」

「なに?」

「木の声を聞ける子は、人の声も、聞きすぎることがある。全部を背負わなくていい。風は風の分だけ運ぶ。土は土の分だけ受けとめる。幹夫は、幹夫の分だけでいい」

 幹夫は目を大きくした。

 その言葉は、みかんの葉よりも、海からの風よりも、深く胸に入った。彼は急に泣きそうになったが、泣かなかった。ただ、鼻の奥がつんとして、空を見上げた。

 富士山は、春霞の向こうで静かに白かった。駿河湾は見えないけれど、そこから来る風はたしかに畑を通っている。遠くの汽車の音も、母の声も、鳥の羽ばたきも、みかんの葉ずれも、ひとつひとつ違うのに、みんな同じ朝の中にあった。

 幹夫は坂道を下りはじめた。

 石垣の草が足もとで揺れた。露はもう消えていたが、草は元気そうだった。幹夫は、消えた露の行き先を思った。土へ入り、根へ入り、いつか木の中を昇っていくのだろう。

 家の屋根から細い煙が上がっていた。母の味噌汁の匂いが近づいてくる。父の鍬を打つ音が、こつん、こつんと響いている。

 幹夫は一度だけ振り返った。

 四月のみかん畑は、陽の中で静かに輝いていた。白い花はまだ少ない。けれど、見えないところで、たくさんのつぼみが準備をしている。

 幹夫の胸の中にも、まだ名前のない小さなつぼみがあった。

 それは、だれかの痛みを感じても、すぐに抱えこまなくてよいということ。大切なものを大切にするには、ときに手の中へ閉じこめず、空へ返す勇気がいるということ。

 八つの幹夫には、それを言葉にすることはできなかった。

 けれど彼は、朝ごはんへ向かって走り出した。坂道を下りる足音が、土の上で軽く弾んだ。みかんの葉が背中で鳴った。

 それは、さようならではなく、またおいで、という音だった。

 
 
 

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