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みかん畑の耳

 昭和二十六年の二月、庵原郡蒲原町の朝は、海から来る白い息で始まった。

 駿河湾のほうから吹き上げる風は、まだ冬の骨を持っていて、みかん畑の葉をこすり合わせるたび、しゃら、しゃら、と小さな鈴のような音を立てた。けれど、その音の底には春の気配が沈んでいた。土の中で何かが目を覚まそうとしている匂い。霜の解けた畦から立つ湿った甘さ。遠く、東海道線の汽車が山裾を抜けると、煙は薄い雲になって、まだ眠そうな空へほどけていった。

 幹夫は八歳だった。

 背はまだみかんの木のいちばん低い枝より少し高いくらいで、頬には冬になると赤みが差した。母はそれを「寒さに負けん顔」と言ったが、幹夫は自分の頬が熱くなるたび、胸の中で何か言葉にならないものが燃えているのだと思っていた。

 その朝、幹夫はひとりで畑にいた。

 家の者は納屋のほうで籠を直していた。父は戦争から帰ってきて以来、時々、海を見たまま黙ることがあった。母はそんな父の背中へ、何も言わず湯気の立つ茶を置く。幹夫はその沈黙が少し怖く、けれど嫌いではなかった。沈黙の中にも、葉の裏に隠れた小さな虫のように、何かが生きている気がしたからだ。

 二月のみかん畑には、収穫を終えた木々が、どこか身軽になったように立っていた。それでも枝の奥には、取り残された実が一つ二つ、夕日のかけらのように残っている。幹夫はそれを見るたび、木が冬のために灯しておいた小さな提灯だと思った。

 彼は霜柱を踏まないように、畦をそっと歩いた。踏めばしゃくりと崩れて面白いのだが、今朝はなぜか踏めなかった。白く細い霜柱が、土の中からいっせいに背伸びした子どもの指のように見えたのだ。

「寒かったろう」

 幹夫は小さく言った。

 すると、畑のいちばん奥にある古いみかんの木が、葉をふるわせた。

「寒いのは、悪いことではないよ」

 声がした。

 幹夫は立ち止まった。風だろうかと思った。けれど風は、さっきまで海のほうを向いて吹いていた。今聞こえた声は、土の下からも、枝の中からも、幹夫の胸の奥からも同時に聞こえたようだった。

「だれ」

 幹夫が尋ねると、古い木は光をまとったように揺れた。葉の縁に残った霜が、朝日を受けて銀色に光った。

「わしは、ここに長くいる木だよ。おまえの父さんが子どものころから、おまえのおじいさんが若かったころから、ここで雨を飲み、風を聞き、実を育ててきた」

 幹夫は息を止めた。怖いとは思わなかった。ただ、胸の中の水たまりに、空が映り込んだような気持ちになった。

「木は、しゃべるの」

「人が聞く耳を持てばな」

 幹夫は両手を耳に当てた。冷えた耳たぶは固く、指先で触れると少し痛かった。

「ぼくの耳、聞こえる耳かな」

「今朝は聞こえる」

 古い木はそう言った。

 幹夫は木の根元にしゃがんだ。土は湿っていて、膝に冷たさが染みた。けれどその冷たさは、川の水に手を入れたときのように、どこか懐かしかった。

「どうして今朝だけ」

「おまえが霜柱を踏まなかったからだ」

 幹夫は驚いて、足元の白い針たちを見た。

「踏んじゃいけなかったの」

「いけないことはない。人は歩く。子どもは踏みたくなる。それも自然のひとつだ。ただ、おまえは今朝、踏まれたら痛かろうと思った。その思いが、耳を開けた」

 幹夫は黙った。

 彼はこのごろ、自分の心がやわらかすぎるのではないかと思っていた。鶏が鳴けば、その声の終わりにさびしさを感じた。浜に打ち上げられた木片を見ると、どこの山から流れてきたのかと考えて眠れなくなった。父が黙っていると、自分が何か悪いことをしたのではないかと、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 学校で友だちが虫をつぶして笑った日、幹夫は笑えなかった。泣きそうになって、けれど泣けば弱虫と言われるので、空き地の隅で拳を握りしめていた。

「ぼくは、へんかな」

 幹夫は木に聞いた。

 古いみかんの木は、しばらく答えなかった。代わりに、枝の間を風が通った。葉が触れ合い、幹夫にはそれがたくさんの老人たちの相談のように聞こえた。

「へんというのは、まっすぐなものだけを正しいと思う者の言葉だ」

 木はゆっくり言った。

「山の道を見てみろ。曲がっている。川も曲がる。根も曲がる。曲がるから、石をよけ、崖を抱き、遠くまで行ける」

 幹夫は畑の向こうを見た。段々になったみかん畑の石垣が、山の斜面に沿ってゆるやかに曲がっている。その上に並ぶ木々は、どれも同じではなかった。低いもの、高いもの、幹のねじれたもの、枝を海のほうへ伸ばしたもの。どの木も、違う形で朝日を受けていた。

「でも、父ちゃんは、ときどき何にも言わない」

「言えないものもある」

 木の声は、今度は少し低くなった。

「風が強すぎると、葉は音を立てることもできない。ただ耐える。だが、耐えている間も、木の中では水が動いている。春の支度をしている」

 幹夫は父の背中を思い出した。海を見ているときの父の肩は、冬の山のようだった。固く、遠く、手を伸ばしても届かない。しかしその山にも、見えないところで湧き水が流れているのかもしれない。

「父ちゃんの中にも、春があるの」

「ある」

 古い木は即座に答えた。

「ただ、冬の長かった者は、春が来てもすぐには咲けない」

 その言葉は、幹夫の胸に静かに落ちた。落ちて、土に染み込み、見えない根に触れた。

 その時、畑の上のほうで一羽の目白が鳴いた。黄緑色の小さな体が、みかんの葉の間を跳ねる。取り残された実をつつくと、しずくのような果汁が光った。

「おまえに頼みがある」

 木が言った。

「頼み?」

「あの実を、ひとつ取って、父さんに持っていきなさい」

 幹夫は枝の奥に残ったみかんを見上げた。少ししなびて、皮に小さな黒い点がある。売り物にはならない実だった。だが朝の光を受けると、そのみかんはまるで小さな太陽のようにあたたかく見えた。

「でも、すっぱいかもしれない」

「すっぱさも、実の言葉だ」

 幹夫は背伸びをした。指先が皮に触れた。冷たいと思ったが、掌で包むとすぐにぬくもりが返ってきた。枝から離すとき、みかんはぽん、と小さな音を立てた。まるで木が軽く頷いたようだった。

 幹夫はみかんを胸に抱えて、畦を戻った。

 霜柱はまだ白く光っていた。今度も彼は踏まなかった。踏まないように歩くのは少し難しかったが、その難しさが、幹夫には大人へ続く細い橋のように思えた。何かを壊さずに進むには、足元をよく見なければならない。けれど足元ばかり見ていては、空の色を見失う。だから幹夫は、一歩ごとに土を見て、そして顔を上げた。

 納屋の前に父がいた。

 父は竹籠の割れ目を直していたが、手は止まっていた。目はやはり海のほうを向いている。二月の海は青というより、薄い鉄の色をしていた。波は遠くで光り、どこか知らない国のことを話しているようだった。

「父ちゃん」

 幹夫は呼んだ。

 父はゆっくり振り向いた。

「これ」

 幹夫はみかんを差し出した。

「残ってたのか」

 父は受け取ると、少し笑った。その笑いは大きくなかった。けれど、冬の畑で見つけた小さな芽のように、確かにそこにあった。

「木がくれた」

 幹夫は言いかけて、途中で口を閉じた。言えば父は笑うだろうか。あるいは困った顔をするだろうか。

 しかし父は、みかんを掌で転がしながら言った。

「そうか。木は、よう見とるでな」

 幹夫は父を見上げた。

 父は皮をむいた。冬を越したみかんの皮は少し固く、指先に柑橘の匂いがはじけた。その匂いは、畑と海と朝日が一緒になったようだった。父は一房を幹夫に渡し、自分も一房を口に入れた。

 すっぱかった。

 幹夫の目に涙がにじむほど、すっぱかった。けれどそのすっぱさの奥に、かすかな甘みがあった。すぐにはわからない、ゆっくり舌に残る甘みだった。

 父は目を細めた。

「うまいな」

 幹夫は驚いた。

「すっぱいよ」

「すっぱいから、うまい」

 父はそう言って、もう一房食べた。

 幹夫は胸の中で何かがほどけるのを感じた。父の沈黙も、虫の死も、霜柱の白い指も、自分の泣きそうになる心も、みんなすっぱいみかんの中にあるのかもしれないと思った。すっぱくて、少し痛くて、それでも奥のほうに甘みを隠している。

 風が吹いた。

 みかん畑の木々がいっせいに葉を鳴らした。しゃら、しゃら、しゃら。幹夫にはそれが拍手のようにも、内緒話のようにも聞こえた。

 父は海を見た。幹夫も同じ方を見た。湾の向こうには、まだ白い雪をかぶった富士の裾が、薄雲の間にかすかに浮かんでいた。世界は広く、時々怖く、言えないことをたくさん抱えている。けれど、その世界の片隅で、一本の木が少年に話しかけ、しなびたみかんが父と子をつないだ。

 幹夫は思った。

 自分の耳は、たぶんこれからもいろいろなものを聞くだろう。人が聞かずに通り過ぎる葉擦れの声。石垣の隙間を流れる水の小さな歌。黙っている父の胸の奥で、ゆっくり春を待つ音。

 それらを聞くことは、時々つらいかもしれない。けれど、聞こえる耳を閉じてしまうより、痛くても聞いていたい。

 幹夫は父の手元を見た。みかんの汁で濡れた大きな指が、朝日に光っていた。

「父ちゃん」

「なんだ」

「春、来るかな」

 父は少しだけ考え、それから幹夫の頭に手を置いた。

「来るさ。遅れても、来る」

 その手は重く、あたたかかった。

 みかん畑の奥で、古い木が静かに枝を揺らした。幹夫には、それが「そうだ」と言っているように聞こえた。二月の風はまだ冷たかったが、その冷たさの中で、少年の心には小さな春が芽を出していた。

 
 
 

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