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もしもし、ひいばあちゃん。相続のハンコ、雲の上にありますか?

2040年の静岡市清水区草薙は、未来になったわりに、朝の空気だけは昔とあまり変わらなかった。

草薙駅の改札では無人案内AIが「本日もご安全に」と言い、駅前のたこ焼きロボットは「外カリ中トロ、平成味」を売り文句にしている。空には宅配ドローンがすいすい飛び、県立美術館へ向かう坂道には、相変わらず緑の匂いが残っていた。

そんな草薙の商店街の端っこに、時代から三周遅れたような事務所があった。

山崎行政書士事務所。

入口のガラス戸には、金色の丸文字でそう書かれている。横には、平成二桁の頃に流行ったイルカのシールと、「ホームページ開設しました!」という色あせた貼り紙。なお、そのホームページのアクセスカウンターは、2040年現在も「0000128」のままだった。

所長の山崎まどかは、四十六歳。行政書士歴二十年。口ぐせは、

「書類は紙より、人の気持ちが折れやすい」

である。

事務所の中は、平成レトロ博物館みたいだった。MDコンポ、ガラケー、プリクラ帳、たまごっち、折りたたみ式のピンクの電子辞書、そしてなぜか壁には「冬ソナ」のポスター。最新の市役所AIポータルとつながる端末だけが、場違いに青白く光っている。

「先生、またFAX来てます」

新人補助者の佐々木レンが、白い紙をひらひらさせて言った。二十三歳。生まれた時から紙の通帳を見たことがない世代である。

「FAXって、なんで紙に電話がかかってくるんですか。怖くないですか」

「怖いのは、FAXを怖がるあなたの若さよ」

まどかが老眼鏡を上げた、その時だった。

ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。

事務所の奥で、黒電話が鳴った。

レンは飛び上がった。

「うわっ! なにこれ、昭和の警報機ですか!」

「電話よ」

「電話って、ポケットに入るやつですよね?」

「昔は、入らないほうが普通だったの」

ジリリリリリリリリリリリ。

その黒電話は、事務所の開業時から置かれているものだった。山崎まどかの父、山崎栄作が昭和の終わりに古道具屋で買ったという、重くて丸くて黒光りした電話。ダイヤルの穴に指を入れて回すと、ジーコ、ジーコと戻る。

ただし、回線にはつながっていない。

コンセントもない。

なのに、鳴る。

まどかは受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

受話器の向こうから、ざらざらした雑音が聞こえた。遠いラジオみたいな音。風鈴、蝉、茶の葉を揉むような音。

そして、しわがれた女の声が言った。

「もしもし……死んだひいおばあちゃんだけど」

まどかは、ゆっくり受話器を見た。

レンは口を開けたまま固まった。

「……どちらの、ひいおばあちゃんでしょうか」

「望月スミだよ。草薙の喫茶こまどりの。あんた、山崎さんちの子かい?」

まどかは眉をひそめた。

喫茶こまどり。

草薙商店街の奥にあった古い喫茶店だ。昭和の頃はナポリタンとクリームソーダで有名だったらしい。平成に入ってからは、近所の学生が試験前にたむろし、令和の頃は「レトロ映え」で若い子が来た。けれど三年前に店主の望月源三が亡くなってから、シャッターが下りたままだった。

「望月スミさん……亡くなられたのは」

「昭和六十二年」

「だいぶ前ですね」

「そっちから見ればね。こっちじゃ昨日みたいなもんだよ。で、源三はいるかい?」

「源三さんも、三年前に亡くなりました」

「あらやだ。あの子、こっち来てからも迷子かい」

その瞬間、受話器の向こうで別の声がした。

「母ちゃん! 迷子じゃねえ! 電話の順番待ちしてただけだ!」

レンが小声で叫んだ。

「先生、え、もしもしおじいちゃん……?」

まどかは受話器を肩に挟みながら、職業的な冷静さでメモを取った。

相談者:望月スミ様。属性:故人。用件:不明。備考:電話回線なし。

「源三さん、こちらは山崎行政書士事務所です。どうされましたか」

「どうされましたかじゃねえんだよ。うちの孫のこはるが、店を売ろうとしてるって聞いたんだ!」

「売るんですか?」

「いや、売らねえんだ。売りたくねえんだ。でも親戚がごちゃごちゃ言っててよ。相続の書類だの、土地の持分だの、未来の言葉はややこしい!」

スミの声が割って入った。

「源三、あんたがちゃんと書いておかないからだよ」

「書いたよ!」

「どこに」

「それが……忘れた」

受話器の向こうで、昭和の母と平成を生き抜いた息子の親子げんかが始まった。

まどかは深くうなずいた。

「なるほど。書類を探せ、ということですね」

「頼むよ、山崎さん。こはるを助けてやってくれ。あいつ、昔から泣くと鼻の下に縦じわが寄るんだ」

「それ、本人の前で言わないほうがいいです」

「それと、店は売るなって伝えてくれ」

「お気持ちはわかりますが、故人のご意向だけでは手続きになりません。生きている方々の合意が必要です」

「そこをなんとか、行政書士パワーで」

「行政書士は魔法使いではありません」

まどかが言うと、黒電話は少し沈黙した。

そしてスミが、ぼそりと言った。

「でも、その黒電話は、ちょっと魔法みたいなもんだよ」

その日の午後、望月こはるが事務所にやって来た。

三十二歳。黒いボブヘアで、平成レトロ柄のカーディガンを着ていた。胸元には、喫茶こまどりの古いロゴが刺繍されている。

「山崎先生、すみません。突然なんですが……祖父の店のことで」

こはるは、古びた紙袋を抱えていた。中には、喫茶こまどりのメニュー表、古い営業許可証、スタンプカード、そしてピンク色のプリクラ帳が入っていた。

「父の兄弟たちは、土地を売ってドローン駐車場にしたほうがいいって言ってます。草薙駅から近いし、需要があるって。でも私は、店を残したいんです」

「再開したいんですね」

「はい。平成レトロ喫茶として。ナポリタンと、メロンソーダと、ガラケー充電サービスと、あと、MDが聴ける席を作りたくて」

レンが目を丸くした。

「MDって、音楽が入ったコースターですか?」

「違います」

まどかとこはるが同時に言った。

こはるは苦笑したが、すぐに目を伏せた。

「祖父は、生きてる時に『店はこはるに任せる』って言ってくれてました。でも、ちゃんとした遺言が見つからなくて。親戚の中には、私だけが得するのはおかしいって言う人もいて」

「争いになっている場合、私は代理人にはなれません。けれど、みなさんが話し合うための資料を整えたり、合意がまとまった後の書類を作ったりすることはできます」

「はい。まずは、祖父が何を残したかったのか知りたいんです」

その時、黒電話が鳴った。

ジリリリリリリリリリリリ。

こはるの顔が青くなった。

「え、その音……」

「ご存じですか」

「喫茶こまどりにあった黒電話と同じ音です。祖父が亡くなる前、時々鳴ってました。回線なんて、とっくに外してたのに」

まどかは受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

「こはるか? こはるいるか?」

源三の声だった。

こはるは、椅子から立ち上がった。

「おじいちゃん?」

「おう、こはる。鼻の下に縦じわ寄ってるか?」

「開口一番、それ?」

こはるの目に涙が浮かんだ。けれど、口元は笑っていた。

「おじいちゃん、どこにいるの?」

「うーん。なんか、でっかい待合室だ。番号札が雲でできてる」

「天国の市役所みたいですね」とレンがつぶやいた。

受話器の向こうでスミが言った。

「源三、用件を言いな。電話代はかからないけど、未練代が高いんだから」

「そうだった。こはる、店はお前に任せるつもりだった。ちゃんと書いた。赤い缶に入れた」

「赤い缶?」

「ほら、平成の頃に流行ったやつだ。丸くて、キラキラしてて、ふたを開けると甘い匂いがする」

こはるは考え込んだ。

「クッキー缶?」

「いや、もっと若者っぽいやつ」

レンが手を挙げた。

「先生、タピオカの缶ですか?」

「タピオカは缶に入れない」

スミが言った。

「源三、あんた本当に忘れっぽいねえ。赤い缶じゃなくて、赤い箱だよ。上に“平成永久保存版”って書いた」

こはるがはっとした。

「プリクラ帳の箱!」

その夜、山崎行政書士事務所の一行は、こはると一緒に喫茶こまどりへ向かった。

2040年の草薙商店街は、昔ながらの八百屋の横に無人薬局があり、AI占いの屋台の隣で手焼きたい焼きが売られている。新しいものと古いものが、静岡茶とミルクティーみたいに混ざっていた。

喫茶こまどりのシャッターを開けると、ほこりとコーヒーの匂いがふわっと出てきた。

店内には、丸い椅子、木目のカウンター、色あせた食品サンプル。壁には平成十年代のポスターが貼られている。

「うわあ……本当にレトロですね」

レンが感動したように言った。

「あなたにとっては遺跡ね」

まどかが言った。

こはるは奥の棚から、赤い箱を取り出した。ふたには、丸文字でこう書かれていた。

平成永久保存版・こはるのプリクラ宝箱

「うわ、恥ずかしい……」

中には、プリクラ、シール帳、ミサンガ、謎のビーズ、そして「着メロランキング」と書かれた紙が入っていた。

まどかは真剣な表情で言った。

「これは文化財です」

「先生、仕事してください」

レンが突っ込んだ。

箱の底に、茶封筒があった。

こはるが震える手で取り出す。

封筒には、源三の字で書かれていた。

こはるへ。店のこと。

中には、法的な遺言書と呼ぶには少し足りない、けれど源三の気持ちがぎっしり詰まった手紙が入っていた。

こはるへ。この店は、ばあちゃんが始めて、俺が守って、お前が笑ってくれた場所だ。金になるかはわからん。でも、人がひと息つける場所は、金だけじゃ作れん。もしできるなら、こまどりを残してくれ。無理なら、売ってもいい。ただし、売る時も、誰かが笑って休める場所にしてくれ。ナポリタンの玉ねぎは焦がすな。源三。

こはるは泣いた。

レンも泣いた。

まどかも、老眼鏡を外して鼻をすすった。

その時、店の奥に置かれていた別の黒電話が鳴った。

ジリリリリリリリリリリリ。

こはるが受話器を取った。

「おじいちゃん?」

「読んだか?」

「読んだよ」

「字、汚かっただろ」

「うん」

「そこは否定しろ」

こはるは泣きながら笑った。

「おじいちゃん、私、店を残したい。でも、みんなを困らせたくない」

受話器の向こうで、源三は少し黙った。

それから言った。

「じゃあ、困ってる人の話も聞け。俺は店ばっかり見て、家族の顔を見てなかったかもしれん」

スミが続けた。

「店ってのは、建物じゃないよ。そこに座る人の気持ちだ。親戚も、ドローンも、ナポリタンも、みんな座らせてやんな」

翌日、山崎行政書士事務所で家族会議が開かれた。

こはるの叔父、叔母、いとこたちが集まった。中でも一番声が大きかったのは、いとこの望月拓也だった。三十八歳。ドローン整備会社をやっている。

「俺は現実を言ってるだけだ。あの土地は便利だし、駐車場にすれば収益になる。古い喫茶店なんて、今さら」

こはるは膝の上で手を握った。

「でも、私は」

まどかが静かに言った。

「今日は、売るか残すかを決めつける日ではありません。まず、みなさんが何を心配しているかを出しましょう」

レンがホワイトボードに書いた。

売る派の心配:お金、管理、修繕費、将来性。残す派の希望:思い出、地域の居場所、源三の気持ち。共通点:揉めたくない。できれば損したくない。ナポリタンは食べたい。

「最後のは誰が言いました?」

「僕です」とレンが正直に言った。

会議は二時間続いた。

最初は刺々しかった声も、こはるが源三の手紙を読んだあたりから、少しずつやわらいだ。

拓也が腕を組んだまま言った。

「……俺だって、じいちゃんの店が嫌いなわけじゃない。小学生の頃、あそこでクリームソーダ飲ませてもらったし」

「じゃあ、どうして売りたいって」

こはるが聞くと、拓也は目をそらした。

「ドローン整備の拠点が欲しかったんだよ。駅前の配送網に近いから。でも、親戚の店を利用するみたいで言い出しづらくて、売ったほうが公平だと思った」

その時、事務所の黒電話が鳴った。

ジリリリリリリリリリリリ。

まどかは一瞬ためらったが、受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

「拓也か? 拓也そこにいるか?」

源三の声だった。

まどかは冷静に言った。

「源三さん、会議中です。発言は一分以内でお願いします」

「行政書士ってのは天国にも厳しいな」

拓也は真っ青になった。

「じ、じいちゃん?」

「お前、小三の時、クリームソーダのアイスだけ三回おかわりしたな」

「本物だ……」

「拓也、店の裏の倉庫、覚えてるか。あそこ、昔は豆の置き場だったけど、広い。こはるの喫茶と、お前のドローン整備、半分こできねえか」

拓也はぽかんとした。

「半分こ?」

スミの声も入った。

「昭和はね、ちゃぶ台も半分こだったよ。おかずが少ない時は、目で半分こして、だいたい多く取ったほうが怒られた」

「母ちゃん、それ今関係ある?」

「あるよ。欲張るなって話だよ」

会議室に、くすくす笑いが広がった。

まどかはホワイトボードに新しい案を書いた。

喫茶こまどり再開。裏倉庫を拓也の小型ドローン修理スペースとして賃貸。親戚には収益から一定額を分配。建物修繕費は事業計画に入れる。月一回、親戚無料ナポリタン会。ただし大盛りは有料。

叔母が言った。

「無料なのに大盛り有料なの?」

こはるが涙目で笑った。

「玉ねぎ代があるから」

拓也も笑った。

「じゃあ、俺はドローンで玉ねぎ運ぶよ」

まどかはうなずいた。

「合意できるなら、遺産分割協議書、賃貸借契約書、営業再開に必要な手続きの整理、こちらでお手伝いします」

レンが小声で言った。

「あと、黒電話使用規約も作りますか?」

「作らないわよ」

しかし、まどかは少し考えた。

「……いや、作ってもいいかもしれないわね。第一条、故人は一回の通話につき未練を三つまで」

受話器の向こうで源三が言った。

「四つにしてくれ」

「却下です」

それから三か月後。

喫茶こまどりは、名前を少し変えて再開した。

喫茶こまどり・もしもし店。

店内には昭和の黒電話、平成のプリクラ機、令和の配膳ロボ、そして2040年型のドローン充電ポートが並んだ。

メニューには、昔ながらのナポリタン、クリームソーダ、平成ギャル風パンケーキ、そして「源三じいちゃんの玉ねぎ焦がすなカレー」があった。なぜカレーなのかは誰にもわからなかったが、意外と人気だった。

裏の倉庫では、拓也が小型ドローンを修理している。待ち時間に客が喫茶でコーヒーを飲むので、商売は思ったよりうまく回った。

親戚無料ナポリタン会は月一回開催された。ただし大盛り有料のルールは、叔母たちの圧力により撤廃された。

山崎行政書士事務所には、こはるからお礼の品が届いた。

古い赤い缶に入ったクッキーと、店の新しいスタンプカード。

レンがカードを見て言った。

「先生、十個ためると何がもらえるんですか」

まどかは裏面を読んだ。

「黒電話で一分だけ、会いたい人に声が届く……かもしれません」

「かもしれないんだ」

「行政書士的には、断定しない表現は大事です」

その夕方、事務所の黒電話が鳴った。

ジリリリリリリリリリリリ。

まどかが受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

少し雑音がして、懐かしい男の声が聞こえた。

「まどかか」

まどかは息を止めた。

「……お父さん?」

それは、十年前に亡くなった父、山崎栄作の声だった。

「お前、よくやってるな」

まどかは受話器を握りしめた。

「急に何よ」

「いや、ちょっと言っておこうと思ってな。書類は紙より、人の気持ちが折れやすい」

「それ、私の口ぐせ」

「俺の受け売りだろ」

まどかは笑った。少し泣いた。

父は続けた。

「ただな、まどか」

「なに」

「事務所のホームページ、アクセスカウンターがまだ百二十八だぞ。あれ、俺が生きてた時から変わってない」

レンが横で吹き出した。

まどかは涙を拭きながら言った。

「お父さん、天国からでもそこ気になるの?」

「気になる。あと、入口のイルカのシール、そろそろはがせ」

「平成レトロです」

「ただの劣化だ」

黒電話の向こうで、スミと源三が笑っている声も混じった。

まどかは受話器を耳に当てたまま、窓の外を見た。

2040年の草薙の空を、ドローンが夕焼けに向かって飛んでいく。商店街の向こうから、こはるの店の配膳ロボが「ナポリタン、焦がしてません」と宣伝している声が聞こえた。

未来は、思ったより新しくて、思ったより古い。

死んだ人の声は、書類にはならない。

けれど、生きている人が一歩を踏み出すきっかけにはなる。

まどかは電話に向かって言った。

「お父さん。山崎行政書士事務所は、今日も営業中です」

受話器の向こうで、父が笑った。

「じゃあ、ちゃんと看板磨いとけ。あと、ハンコはまっすぐ押せ」

まどかは笑って答えた。

「それが一番むずかしいのよ」

黒電話は、満足したように、チン、と小さく鳴った。

 
 
 

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