もしもし、ひいばあちゃん。相続のハンコ、雲の上にありますか?
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 13分

2040年の静岡市清水区草薙は、未来になったわりに、朝の空気だけは昔とあまり変わらなかった。
草薙駅の改札では無人案内AIが「本日もご安全に」と言い、駅前のたこ焼きロボットは「外カリ中トロ、平成味」を売り文句にしている。空には宅配ドローンがすいすい飛び、県立美術館へ向かう坂道には、相変わらず緑の匂いが残っていた。
そんな草薙の商店街の端っこに、時代から三周遅れたような事務所があった。
山崎行政書士事務所。
入口のガラス戸には、金色の丸文字でそう書かれている。横には、平成二桁の頃に流行ったイルカのシールと、「ホームページ開設しました!」という色あせた貼り紙。なお、そのホームページのアクセスカウンターは、2040年現在も「0000128」のままだった。
所長の山崎まどかは、四十六歳。行政書士歴二十年。口ぐせは、
「書類は紙より、人の気持ちが折れやすい」
である。
事務所の中は、平成レトロ博物館みたいだった。MDコンポ、ガラケー、プリクラ帳、たまごっち、折りたたみ式のピンクの電子辞書、そしてなぜか壁には「冬ソナ」のポスター。最新の市役所AIポータルとつながる端末だけが、場違いに青白く光っている。
「先生、またFAX来てます」
新人補助者の佐々木レンが、白い紙をひらひらさせて言った。二十三歳。生まれた時から紙の通帳を見たことがない世代である。
「FAXって、なんで紙に電話がかかってくるんですか。怖くないですか」
「怖いのは、FAXを怖がるあなたの若さよ」
まどかが老眼鏡を上げた、その時だった。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
事務所の奥で、黒電話が鳴った。
レンは飛び上がった。
「うわっ! なにこれ、昭和の警報機ですか!」
「電話よ」
「電話って、ポケットに入るやつですよね?」
「昔は、入らないほうが普通だったの」
ジリリリリリリリリリリリ。
その黒電話は、事務所の開業時から置かれているものだった。山崎まどかの父、山崎栄作が昭和の終わりに古道具屋で買ったという、重くて丸くて黒光りした電話。ダイヤルの穴に指を入れて回すと、ジーコ、ジーコと戻る。
ただし、回線にはつながっていない。
コンセントもない。
なのに、鳴る。
まどかは受話器を取った。
「はい、山崎行政書士事務所です」
受話器の向こうから、ざらざらした雑音が聞こえた。遠いラジオみたいな音。風鈴、蝉、茶の葉を揉むような音。
そして、しわがれた女の声が言った。
「もしもし……死んだひいおばあちゃんだけど」
まどかは、ゆっくり受話器を見た。
レンは口を開けたまま固まった。
「……どちらの、ひいおばあちゃんでしょうか」
「望月スミだよ。草薙の喫茶こまどりの。あんた、山崎さんちの子かい?」
まどかは眉をひそめた。
喫茶こまどり。
草薙商店街の奥にあった古い喫茶店だ。昭和の頃はナポリタンとクリームソーダで有名だったらしい。平成に入ってからは、近所の学生が試験前にたむろし、令和の頃は「レトロ映え」で若い子が来た。けれど三年前に店主の望月源三が亡くなってから、シャッターが下りたままだった。
「望月スミさん……亡くなられたのは」
「昭和六十二年」
「だいぶ前ですね」
「そっちから見ればね。こっちじゃ昨日みたいなもんだよ。で、源三はいるかい?」
「源三さんも、三年前に亡くなりました」
「あらやだ。あの子、こっち来てからも迷子かい」
その瞬間、受話器の向こうで別の声がした。
「母ちゃん! 迷子じゃねえ! 電話の順番待ちしてただけだ!」
レンが小声で叫んだ。
「先生、え、もしもしおじいちゃん……?」
まどかは受話器を肩に挟みながら、職業的な冷静さでメモを取った。
相談者:望月スミ様。属性:故人。用件:不明。備考:電話回線なし。
「源三さん、こちらは山崎行政書士事務所です。どうされましたか」
「どうされましたかじゃねえんだよ。うちの孫のこはるが、店を売ろうとしてるって聞いたんだ!」
「売るんですか?」
「いや、売らねえんだ。売りたくねえんだ。でも親戚がごちゃごちゃ言っててよ。相続の書類だの、土地の持分だの、未来の言葉はややこしい!」
スミの声が割って入った。
「源三、あんたがちゃんと書いておかないからだよ」
「書いたよ!」
「どこに」
「それが……忘れた」
受話器の向こうで、昭和の母と平成を生き抜いた息子の親子げんかが始まった。
まどかは深くうなずいた。
「なるほど。書類を探せ、ということですね」
「頼むよ、山崎さん。こはるを助けてやってくれ。あいつ、昔から泣くと鼻の下に縦じわが寄るんだ」
「それ、本人の前で言わないほうがいいです」
「それと、店は売るなって伝えてくれ」
「お気持ちはわかりますが、故人のご意向だけでは手続きになりません。生きている方々の合意が必要です」
「そこをなんとか、行政書士パワーで」
「行政書士は魔法使いではありません」
まどかが言うと、黒電話は少し沈黙した。
そしてスミが、ぼそりと言った。
「でも、その黒電話は、ちょっと魔法みたいなもんだよ」
その日の午後、望月こはるが事務所にやって来た。
三十二歳。黒いボブヘアで、平成レトロ柄のカーディガンを着ていた。胸元には、喫茶こまどりの古いロゴが刺繍されている。
「山崎先生、すみません。突然なんですが……祖父の店のことで」
こはるは、古びた紙袋を抱えていた。中には、喫茶こまどりのメニュー表、古い営業許可証、スタンプカード、そしてピンク色のプリクラ帳が入っていた。
「父の兄弟たちは、土地を売ってドローン駐車場にしたほうがいいって言ってます。草薙駅から近いし、需要があるって。でも私は、店を残したいんです」
「再開したいんですね」
「はい。平成レトロ喫茶として。ナポリタンと、メロンソーダと、ガラケー充電サービスと、あと、MDが聴ける席を作りたくて」
レンが目を丸くした。
「MDって、音楽が入ったコースターですか?」
「違います」
まどかとこはるが同時に言った。
こはるは苦笑したが、すぐに目を伏せた。
「祖父は、生きてる時に『店はこはるに任せる』って言ってくれてました。でも、ちゃんとした遺言が見つからなくて。親戚の中には、私だけが得するのはおかしいって言う人もいて」
「争いになっている場合、私は代理人にはなれません。けれど、みなさんが話し合うための資料を整えたり、合意がまとまった後の書類を作ったりすることはできます」
「はい。まずは、祖父が何を残したかったのか知りたいんです」
その時、黒電話が鳴った。
ジリリリリリリリリリリリ。
こはるの顔が青くなった。
「え、その音……」
「ご存じですか」
「喫茶こまどりにあった黒電話と同じ音です。祖父が亡くなる前、時々鳴ってました。回線なんて、とっくに外してたのに」
まどかは受話器を取った。
「はい、山崎行政書士事務所です」
「こはるか? こはるいるか?」
源三の声だった。
こはるは、椅子から立ち上がった。
「おじいちゃん?」
「おう、こはる。鼻の下に縦じわ寄ってるか?」
「開口一番、それ?」
こはるの目に涙が浮かんだ。けれど、口元は笑っていた。
「おじいちゃん、どこにいるの?」
「うーん。なんか、でっかい待合室だ。番号札が雲でできてる」
「天国の市役所みたいですね」とレンがつぶやいた。
受話器の向こうでスミが言った。
「源三、用件を言いな。電話代はかからないけど、未練代が高いんだから」
「そうだった。こはる、店はお前に任せるつもりだった。ちゃんと書いた。赤い缶に入れた」
「赤い缶?」
「ほら、平成の頃に流行ったやつだ。丸くて、キラキラしてて、ふたを開けると甘い匂いがする」
こはるは考え込んだ。
「クッキー缶?」
「いや、もっと若者っぽいやつ」
レンが手を挙げた。
「先生、タピオカの缶ですか?」
「タピオカは缶に入れない」
スミが言った。
「源三、あんた本当に忘れっぽいねえ。赤い缶じゃなくて、赤い箱だよ。上に“平成永久保存版”って書いた」
こはるがはっとした。
「プリクラ帳の箱!」
その夜、山崎行政書士事務所の一行は、こはると一緒に喫茶こまどりへ向かった。
2040年の草薙商店街は、昔ながらの八百屋の横に無人薬局があり、AI占いの屋台の隣で手焼きたい焼きが売られている。新しいものと古いものが、静岡茶とミルクティーみたいに混ざっていた。
喫茶こまどりのシャッターを開けると、ほこりとコーヒーの匂いがふわっと出てきた。
店内には、丸い椅子、木目のカウンター、色あせた食品サンプル。壁には平成十年代のポスターが貼られている。
「うわあ……本当にレトロですね」
レンが感動したように言った。
「あなたにとっては遺跡ね」
まどかが言った。
こはるは奥の棚から、赤い箱を取り出した。ふたには、丸文字でこう書かれていた。
平成永久保存版・こはるのプリクラ宝箱
「うわ、恥ずかしい……」
中には、プリクラ、シール帳、ミサンガ、謎のビーズ、そして「着メロランキング」と書かれた紙が入っていた。
まどかは真剣な表情で言った。
「これは文化財です」
「先生、仕事してください」
レンが突っ込んだ。
箱の底に、茶封筒があった。
こはるが震える手で取り出す。
封筒には、源三の字で書かれていた。
こはるへ。店のこと。
中には、法的な遺言書と呼ぶには少し足りない、けれど源三の気持ちがぎっしり詰まった手紙が入っていた。
こはるへ。この店は、ばあちゃんが始めて、俺が守って、お前が笑ってくれた場所だ。金になるかはわからん。でも、人がひと息つける場所は、金だけじゃ作れん。もしできるなら、こまどりを残してくれ。無理なら、売ってもいい。ただし、売る時も、誰かが笑って休める場所にしてくれ。ナポリタンの玉ねぎは焦がすな。源三。
こはるは泣いた。
レンも泣いた。
まどかも、老眼鏡を外して鼻をすすった。
その時、店の奥に置かれていた別の黒電話が鳴った。
ジリリリリリリリリリリリ。
こはるが受話器を取った。
「おじいちゃん?」
「読んだか?」
「読んだよ」
「字、汚かっただろ」
「うん」
「そこは否定しろ」
こはるは泣きながら笑った。
「おじいちゃん、私、店を残したい。でも、みんなを困らせたくない」
受話器の向こうで、源三は少し黙った。
それから言った。
「じゃあ、困ってる人の話も聞け。俺は店ばっかり見て、家族の顔を見てなかったかもしれん」
スミが続けた。
「店ってのは、建物じゃないよ。そこに座る人の気持ちだ。親戚も、ドローンも、ナポリタンも、みんな座らせてやんな」
翌日、山崎行政書士事務所で家族会議が開かれた。
こはるの叔父、叔母、いとこたちが集まった。中でも一番声が大きかったのは、いとこの望月拓也だった。三十八歳。ドローン整備会社をやっている。
「俺は現実を言ってるだけだ。あの土地は便利だし、駐車場にすれば収益になる。古い喫茶店なんて、今さら」
こはるは膝の上で手を握った。
「でも、私は」
まどかが静かに言った。
「今日は、売るか残すかを決めつける日ではありません。まず、みなさんが何を心配しているかを出しましょう」
レンがホワイトボードに書いた。
売る派の心配:お金、管理、修繕費、将来性。残す派の希望:思い出、地域の居場所、源三の気持ち。共通点:揉めたくない。できれば損したくない。ナポリタンは食べたい。
「最後のは誰が言いました?」
「僕です」とレンが正直に言った。
会議は二時間続いた。
最初は刺々しかった声も、こはるが源三の手紙を読んだあたりから、少しずつやわらいだ。
拓也が腕を組んだまま言った。
「……俺だって、じいちゃんの店が嫌いなわけじゃない。小学生の頃、あそこでクリームソーダ飲ませてもらったし」
「じゃあ、どうして売りたいって」
こはるが聞くと、拓也は目をそらした。
「ドローン整備の拠点が欲しかったんだよ。駅前の配送網に近いから。でも、親戚の店を利用するみたいで言い出しづらくて、売ったほうが公平だと思った」
その時、事務所の黒電話が鳴った。
ジリリリリリリリリリリリ。
まどかは一瞬ためらったが、受話器を取った。
「はい、山崎行政書士事務所です」
「拓也か? 拓也そこにいるか?」
源三の声だった。
まどかは冷静に言った。
「源三さん、会議中です。発言は一分以内でお願いします」
「行政書士ってのは天国にも厳しいな」
拓也は真っ青になった。
「じ、じいちゃん?」
「お前、小三の時、クリームソーダのアイスだけ三回おかわりしたな」
「本物だ……」
「拓也、店の裏の倉庫、覚えてるか。あそこ、昔は豆の置き場だったけど、広い。こはるの喫茶と、お前のドローン整備、半分こできねえか」
拓也はぽかんとした。
「半分こ?」
スミの声も入った。
「昭和はね、ちゃぶ台も半分こだったよ。おかずが少ない時は、目で半分こして、だいたい多く取ったほうが怒られた」
「母ちゃん、それ今関係ある?」
「あるよ。欲張るなって話だよ」
会議室に、くすくす笑いが広がった。
まどかはホワイトボードに新しい案を書いた。
喫茶こまどり再開。裏倉庫を拓也の小型ドローン修理スペースとして賃貸。親戚には収益から一定額を分配。建物修繕費は事業計画に入れる。月一回、親戚無料ナポリタン会。ただし大盛りは有料。
叔母が言った。
「無料なのに大盛り有料なの?」
こはるが涙目で笑った。
「玉ねぎ代があるから」
拓也も笑った。
「じゃあ、俺はドローンで玉ねぎ運ぶよ」
まどかはうなずいた。
「合意できるなら、遺産分割協議書、賃貸借契約書、営業再開に必要な手続きの整理、こちらでお手伝いします」
レンが小声で言った。
「あと、黒電話使用規約も作りますか?」
「作らないわよ」
しかし、まどかは少し考えた。
「……いや、作ってもいいかもしれないわね。第一条、故人は一回の通話につき未練を三つまで」
受話器の向こうで源三が言った。
「四つにしてくれ」
「却下です」
それから三か月後。
喫茶こまどりは、名前を少し変えて再開した。
喫茶こまどり・もしもし店。
店内には昭和の黒電話、平成のプリクラ機、令和の配膳ロボ、そして2040年型のドローン充電ポートが並んだ。
メニューには、昔ながらのナポリタン、クリームソーダ、平成ギャル風パンケーキ、そして「源三じいちゃんの玉ねぎ焦がすなカレー」があった。なぜカレーなのかは誰にもわからなかったが、意外と人気だった。
裏の倉庫では、拓也が小型ドローンを修理している。待ち時間に客が喫茶でコーヒーを飲むので、商売は思ったよりうまく回った。
親戚無料ナポリタン会は月一回開催された。ただし大盛り有料のルールは、叔母たちの圧力により撤廃された。
山崎行政書士事務所には、こはるからお礼の品が届いた。
古い赤い缶に入ったクッキーと、店の新しいスタンプカード。
レンがカードを見て言った。
「先生、十個ためると何がもらえるんですか」
まどかは裏面を読んだ。
「黒電話で一分だけ、会いたい人に声が届く……かもしれません」
「かもしれないんだ」
「行政書士的には、断定しない表現は大事です」
その夕方、事務所の黒電話が鳴った。
ジリリリリリリリリリリリ。
まどかが受話器を取った。
「はい、山崎行政書士事務所です」
少し雑音がして、懐かしい男の声が聞こえた。
「まどかか」
まどかは息を止めた。
「……お父さん?」
それは、十年前に亡くなった父、山崎栄作の声だった。
「お前、よくやってるな」
まどかは受話器を握りしめた。
「急に何よ」
「いや、ちょっと言っておこうと思ってな。書類は紙より、人の気持ちが折れやすい」
「それ、私の口ぐせ」
「俺の受け売りだろ」
まどかは笑った。少し泣いた。
父は続けた。
「ただな、まどか」
「なに」
「事務所のホームページ、アクセスカウンターがまだ百二十八だぞ。あれ、俺が生きてた時から変わってない」
レンが横で吹き出した。
まどかは涙を拭きながら言った。
「お父さん、天国からでもそこ気になるの?」
「気になる。あと、入口のイルカのシール、そろそろはがせ」
「平成レトロです」
「ただの劣化だ」
黒電話の向こうで、スミと源三が笑っている声も混じった。
まどかは受話器を耳に当てたまま、窓の外を見た。
2040年の草薙の空を、ドローンが夕焼けに向かって飛んでいく。商店街の向こうから、こはるの店の配膳ロボが「ナポリタン、焦がしてません」と宣伝している声が聞こえた。
未来は、思ったより新しくて、思ったより古い。
死んだ人の声は、書類にはならない。
けれど、生きている人が一歩を踏み出すきっかけにはなる。
まどかは電話に向かって言った。
「お父さん。山崎行政書士事務所は、今日も営業中です」
受話器の向こうで、父が笑った。
「じゃあ、ちゃんと看板磨いとけ。あと、ハンコはまっすぐ押せ」
まどかは笑って答えた。
「それが一番むずかしいのよ」
黒電話は、満足したように、チン、と小さく鳴った。





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