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もしもし相続、平成からです!山崎行政書士事務所の黒電話騒動

2040年、静岡市清水区草薙。

草薙駅前では、無人バスが「次は県立美術館前でございまーす」と妙に人間くさい声で案内し、空には宅配ドローンが桜えびせんべいを運んでいた。

そんな未来のど真ん中で、山崎行政書士事務所だけは、なぜか平成に取り残されていた。

入口には色あせた看板。

「相続・遺言・各種許認可山崎行政書士事務所FAXあります」

最後の一行だけ、やたら誇らしげだった。

事務所の中には、木目調の応接セット、ガラス戸の本棚、フロッピーディスクの箱、MDコンポ、使えるのか怪しいラミネーター、そして壁には平成31年4月のカレンダーが掛かったまま。

さらに、机の真ん中には黒電話。

丸いダイヤル式の、あの黒電話である。

「先生、これ、本当に電話なんですか?」

高校生の職業体験で来ている杉山ほのかが、黒電話の受話器を持ち上げて言った。

「電話よ」

山崎灯里は、書類の山から顔を上げずに答えた。

「でも画面がないです」

「電話に画面はいらないの」

「じゃあ、どうやって既読をつけるんですか?」

「心で」

ほのかは尊敬とも不安ともつかない顔で、黒電話をそっと戻した。

山崎灯里、三十八歳。

母のあとを継ぎ、草薙で小さな行政書士事務所を営んでいる。

世の中の申請書類はほとんどAIで作れる時代になった。相続関係説明図も、遺産分割協議書のたたき台も、許認可申請のチェックも、役所のAI窓口が「ピロン」とやってくれる。

それでも灯里の事務所には、ぽつぽつと人が来た。

理由は簡単だ。

AIは早い。

でも、人の愚痴を「うんうん、それは大変でしたね」と聞きながら、静岡茶を出してはくれない。

その日も、昼過ぎの事務所に、ひとりの女性が駆け込んできた。

「すみません、山崎先生ですか?」

「はい。どうぞ、こちらへ」

女性は佐野結衣、三十歳。

草薙商店街の奥にある、亡くなった祖母の古い駄菓子屋を改装して、子ども食堂兼レトロ喫茶を開きたいのだという。

名前は、もう決めてあるらしい。

「だがしカフェ・ただいま」

「いい名前ですね」

灯里が言うと、結衣は少しだけ笑った。

「でも、相続がぐちゃぐちゃで。母も十年前に亡くなっていて、祖母もその前に。遠い親戚のおじさんが、建物を売ったほうがいいって言ってるんです」

「登記の手続きは司法書士さんにつなぎます。ただ、その前に相続人の整理と、遺言があるかどうかの確認、それから開業するなら飲食店営業許可や古物商許可の準備も必要ですね」

灯里が説明すると、結衣はバッグから古い菓子缶を出した。

缶には、平成の女子高生が好きそうな丸文字で、

「だいじ。ぜったいすてるな」

と書かれていた。

中には、プリクラ帳、色あせた写真、古い商店街のチラシ、そして一本のビデオテープが入っていた。

ラベルにはこうあった。

「平成31年4月30日 家族」

「祖母が、遺言は山崎先生のところに相談したって言ってたらしいんです。でも、どこを探しても見つからなくて」

「うちの母の時代ですね」

灯里の母、山崎真理子は、草薙で長く行政書士をしていた。

明るくて、世話焼きで、口癖は「書類は紙だけど、紙の向こうに人がいる」だった。

六年前に亡くなった。

灯里は、母の名前が出ると、今でも胸の奥が少しだけ痛む。

「古い相談記録、探してみます」

灯里は立ち上がり、奥の書庫へ向かった。

その瞬間だった。

ジリリリリリリリリリリリリ!

事務所中に、甲高い音が鳴り響いた。

ほのかが飛び上がった。

「せ、先生! 黒い置物が怒ってます!」

「電話よ!」

灯里も驚いた。

なぜなら、その黒電話はもう回線につながっていないはずだったからだ。

ジリリリリリリリリ!

灯里は恐る恐る受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

少しの雑音。

そして、受話器の向こうから、おばあさんの声がした。

『もしもし? 山崎先生? あたし、佐野ハルだけどね』

結衣が息をのんだ。

「……おばあちゃん?」

受話器の向こうの声は、のんびり続けた。

『今日、平成31年4月30日でしょ。平成最後の日だから、ちゃんと遺言の控えをしまっとこうと思ってねえ』

灯里の背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。

平成31年4月30日。

今は2040年。

二十一年前の声が、黒電話から聞こえている。

結衣は口をぱくぱくさせた。

「先生、死んだおばあちゃんです。もしもし死んだおばあちゃん……」

受話器の向こうで、ハルが怒った。

『誰が死んだって? あたしゃ今、せんべい食べてるよ!』

ほのかが小声で言った。

「平成、元気ですね」

灯里は震える手で受話器を握った。

「佐野ハルさん。落ち着いて聞いてください。こちらは、2040年の山崎行政書士事務所です」

『にせん……何年?』

「2040年です」

『あらまあ。じゃあ消費税は下がった?』

灯里は目をそらした。

「その話は、未来の人間にも難しいです」

ハルは電話の向こうで豪快に笑った。

『山崎先生、相変わらず真面目だねえ。あ、でも声が若いね。風邪?』

灯里は一瞬、言葉に詰まった。

「私は、山崎真理子の娘です。灯里です」

受話器の向こうが、少し静かになった。

『あかりちゃん? あの、ランドセルに給食のパンを三個も入れて帰ってきた、あかりちゃん?』

「それ、今言わなくていいです」

ほのかが感心した顔でメモした。

「先生、パン泥棒だったんですね」

「職業体験で余計なことを学ばない」

ハルは笑いながら言った。

『真理子先生いる? ちょっと確認したいことがあって』

灯里は、胸の奥をぎゅっとつかまれたような気がした。

「母は……もう、いません」

それを言った瞬間、黒電話の奥で、カチリ、と音がした。

まるで古いカセットテープが反転するような音だった。

次に聞こえたのは、若い女性の声だった。

『はい、山崎行政書士事務所、山崎真理子です』

灯里の目が見開かれた。

「……お母さん?」

『え? どちらさま?』

灯里は声が震えた。

「お母さん……私、灯里」

『あかり? うちの灯里は今、向こうでたまごっちにご飯あげてるけど』

ほのかが小声で言った。

「たまごっちって、古代生物ですか?」

「違う。電子ペット」

「電子なのにペット……平成、奥深い」

受話器の向こうの母は、二十一年前の母だった。

まだ元気で、少し早口で、電話の横でボールペンをカチカチ鳴らす癖までそのままだった。

灯里の喉が詰まった。

言いたいことが山ほどあった。

お母さん、そっちは元気?

私、事務所を継いだよ。

でも、うまくできてるかわからない。

AIに仕事を取られるんじゃないかって、毎日ちょっと怖い。

お母さんがいないと、相続の相談より、自分の心の整理ができない。

でも、口から出たのは、変な言葉だった。

「カレーの隠し味、何?」

母は即答した。

『めんつゆ』

灯里は泣きそうな顔で笑った。

「やっぱり」

『何がやっぱりなのよ。あなた、変な人ねえ』

母は少し黙ってから、ふっと声をやわらげた。

『でも、声がうちの子に似てる。未来からかけてきたって言うなら、ひとつ覚えておいて』

「うん」

『行政書士はね、ハンコを押させる仕事じゃないの。ハンコを押す人の背中を、そっと押す仕事。書類の余白を見なさい。余白に本音があるから』

灯里は、受話器を握りしめた。

その言葉は、母が生前よく言っていたことだった。

でも、今聞くと、まるで初めて聞いたみたいに胸にしみた。

そのとき、受話器の向こうでハルが叫んだ。

『真理子先生! 遺言の控え、どこにしまえばいいかねえ!』

母が答えた。

『佐野さん、なくさない場所にしてくださいね。間違ってもビデオテープのケースなんかに入れないでください』

ハルが沈黙した。

灯里も沈黙した。

結衣が菓子缶の中のビデオテープを見た。

ラベルには、

「平成31年4月30日 家族」

「……まさか」

灯里はビデオテープを手に取った。

ケースを開ける。

中にはテープ。

さらに、その下に、二つ折りにされた古い封筒が挟まっていた。

封筒には、丸い字で書かれていた。

「山崎先生に見てもらったやつ。未来の結衣へ」

結衣は震える手で封筒を開けた。

中には、公正証書遺言の控えと、公証役場の番号が書かれたメモが入っていた。

そして、祖母ハルの手紙も。

結衣へ。

もしあんたがこの店を好きでいてくれたら、使ってください。

駄菓子屋でも、喫茶店でも、子どもの居場所でも、何でもいいです。

ここは、帰ってきていい場所にしてください。

大人はすぐ「ちゃんとしなさい」と言うけど、ちゃんとしてない日にも寄れる場所が、町には必要です。

あと、冷蔵庫の右奥にソースせんべいの粉が落ちるので、掃除しなさい。

結衣は、手紙を読んで泣きながら笑った。

「最後、業務連絡……」

灯里も笑った。

「おばあちゃんらしいですね」

電話の向こうで、平成のハルが得意げに言った。

『ほらね、ちゃんとしまったでしょ』

母がすかさず言った。

『ビデオテープのケースにしまってますけどね』

『平成っぽくていいじゃないの』

ほのかが感動したように言った。

「平成、収納が雑で温かいです」

黒電話は、再びカチリと音を立てた。

母の声が少し遠くなった。

『未来の灯里さん』

「……はい」

『うちの子が大きくなったら、ちゃんと笑ってる?』

灯里は、泣き笑いの顔で答えた。

「笑ってるよ。ときどき、書類に埋もれて変な顔してるけど」

『それはうちの血筋ね』

母は笑った。

『じゃあ、その子に伝えて。大丈夫。失敗しても、事務所の湯のみは割れない。割れたら百均で買えばいい。人の気持ちは、割れないように両手で持ちなさい』

灯里は何度もうなずいた。

「うん。伝える」

本当は、伝える相手は自分自身だった。

やがて、電話の向こうで雑音が増えた。

ハルの声が遠ざかる。

『未来の結衣、店、頼んだよ。あと、草薙の桜はちゃんと咲いてるかねえ』

結衣は受話器に顔を近づけた。

「咲いてるよ。毎年、ちゃんと」

『なら、よかった』

母の声が最後に聞こえた。

『山崎行政書士事務所は、未来でも営業中?』

灯里は背筋を伸ばした。

「はい。FAXもあります」

『そこは買い替えなさい』

ブツッ。

黒電話は静かになった。

事務所には、しばらく誰も声を出せなかった。

やがて、ほのかがぽつりと言った。

「先生、今の相談、着信履歴は残りますか?」

「残らないと思う」

「じゃあ、通話料は?」

「平成持ちじゃないかな」

結衣が泣きながら吹き出した。

その後は、早かった。

灯里は遺言の控えをもとに必要書類を整理し、公証役場へ確認を取り、相続手続きに必要な資料をそろえた。登記は提携の司法書士に引き継ぎ、開業に向けて飲食店営業許可、古物商許可、補助金申請の準備も進めた。

AI窓口は何度も、

「申請目的:駄菓子による地域情緒の再起動」

という謎の文言を出した。

灯里は三回修正した。

ほのかはその横で、

「先生、地域情緒の再起動って、ちょっとかっこいいです」

と言った。

「行政文書にかっこよさはいりません」

「でも平成っぽいです」

「平成を何だと思ってるの」

一か月後。

草薙商店街の奥に、古い駄菓子屋は新しく生まれ変わった。

店の名前は、

「だがしカフェ・ただいま」

入口には、昔ながらの赤い丸ポスト風の看板。

店内には、ラムネ、麩菓子、ソースせんべい、平成のゲーム機、プリクラ帳風のメニュー、そして奥には子どもたちが宿題を広げられる長い机。

壁にはハルの手紙のコピーが飾られた。

その横に、小さな札がある。

「ちゃんとしてない日にも、どうぞ」

開店初日、店は大にぎわいだった。

近所のおじいさんは「懐かしいなあ」と言いながら、買ったばかりのラムネの開け方がわからず、小学生に教わっていた。

無人配達ロボットは入口の段差につまずき、子どもたちに「がんばれー」と応援されていた。

ほのかは平成風のルーズソックスを履いて接客しようとして、灯里に止められた。

「それは職業体験の範囲を超えてる」

「先生、これは地域情緒です」

「便利な言葉にしない」

結衣はカウンターの奥で、祖母の写真に向かって小さく頭を下げた。

「おばあちゃん、ただいま」

その言葉を聞いて、灯里は胸が温かくなった。

店を出ると、夕方の草薙の空が淡いオレンジ色に染まっていた。

遠くに富士山の輪郭が見え、静鉄の電車が、昔と変わらない音で通り過ぎていく。

未来になっても、町の音は全部変わるわけではない。

事務所に戻ると、机の上の黒電話が、また静かにたたずんでいた。

ほのかが言った。

「先生、それ、博物館に寄贈しないんですか?」

灯里は首を振った。

「うちの大事な業務用電話だから」

「業務内容、時空を超えた相続相談ですか?」

「守秘義務が難しすぎるわね」

二人が笑った、そのとき。

ジリリリリリリリリ!

黒電話が鳴った。

灯里とほのかは顔を見合わせた。

灯里は、今度は迷わず受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

受話器の向こうから、懐かしい祖母の声がした。

『もしもし、灯里? あたしだけど』

灯里は目を丸くした。

「おばあちゃん?」

それは灯里の祖母、山崎ツルの声だった。

とっくに亡くなっている、あの口うるさくて、でも誰より優しかった祖母。

『そっち、未来?』

「うん。2040年」

『あらまあ。じゃあ聞くけど、ビデオの録画予約って未来でも難しい?』

灯里は吹き出した。

「おばあちゃん、未来ではもうビデオ使ってないよ」

『何だって? じゃあ、あたしが取っておいた二百本の空テープは?』

「たぶん、平成レトロとして価値が出てる」

『ほら見なさい! 捨てるなって言ったでしょ!』

灯里は笑いながら、少しだけ涙ぐんだ。

「ねえ、おばあちゃん」

『何?』

「私、ちゃんとやれてるかな」

受話器の向こうで、祖母は鼻で笑った。

『ちゃんとなんか、やらなくていいよ。あんたは昔から、ちゃんとしようとすると味噌汁を焦がすんだから』

「味噌汁は焦がさないでしょ」

『山崎家では焦がすの』

灯里は声を出して笑った。

祖母は続けた。

『人の話を聞いて、お茶を出して、最後に“また困ったら来てください”って言えたら、それで仕事は半分できてる。残り半分は、書類を間違えないこと』

「そこ大事だね」

『大事だよ。行政書士なんだから』

黒電話の奥で、祖母が誰かに呼ばれている声がした。

『じゃあね、灯里。未来の草薙を頼んだよ』

「うん」

『あと、黒電話の下にへそくりがあるから』

「えっ」

ブツッ。

灯里は急いで黒電話を持ち上げた。

そこには、古い封筒が一枚挟まっていた。

ほのかが目を輝かせた。

「先生、時空へそくりです!」

灯里は封筒を開けた。

中には、一万円札……ではなく、平成時代の商店街スタンプカードが入っていた。

しかも、あと一個で満了。

灯里はしばらく黙った。

ほのかが言った。

「先生、これは……」

灯里は真顔でうなずいた。

「相続財産ね」

「評価額は?」

「コロッケ一個分」

二人は顔を見合わせて、同時に笑った。

山崎行政書士事務所の窓の外では、2040年の草薙に夕暮れが降りていた。

AIもドローンも無人バスもある未来。

けれど、どこかで誰かが「もしもし」と呼べば、懐かしい声がつながるかもしれない。

平成から。

家族から。

そして、人の心の、いちばんあたたかい余白から。

黒電話は、今日も机の真ん中で黙っている。

でも灯里にはわかっていた。

またいつか、きっと鳴る。

そのとき山崎行政書士事務所は、いつものように受話器を取るのだ。

「はい、山崎行政書士事務所です」

お茶を淹れて。

書類をそろえて。

ちょっと笑って。

困った人の背中を、そっと押すために。

 
 
 

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