もしもし草薙、昭和何年ですか?――黒電話とひいおじいちゃんの未来相談
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 14分

2040年の静岡市清水区草薙は、妙に新しくて、妙に古かった。
草薙駅前には自動運転バスが静かに滑り込み、コンビニのレジでは猫型の小さな案内ロボットが「お弁当、あたためますにゃ?」と聞いてくる。けれど、少し歩けば、昭和の看板をわざと残した喫茶店があり、平成の終わりごろに流行ったような分厚いスマホケースを売る雑貨屋があり、商店街のスピーカーからは、なぜか2000年代のJ-POPが薄く流れていた。
人々はそれを「平成レトロ」と呼んでいた。
山崎行政書士事務所もまた、その流行に少しだけ乗っていた。
入口には、木目調の看板。
受付には、令和初期のタブレット端末。
壁には、平成の香りがするカレンダー。
そして、応接室の隅には、黒光りする古い黒電話が置かれていた。
「先生、これ、完全にインテリアですよね?」
事務員のふみかが、書類棚を整理しながら言った。
「もちろん。昭和感が出るだろう」
山崎先生は、湯呑みを片手にうなずいた。
「でも、うち、平成レトロがテーマなんですよね?」
「昭和があって平成がある。つまり昭和を置けば平成も深まる」
「深まりますかね」
隣で申請書をチェックしていた奏汰が、真顔で言った。
「僕、黒電話って使ったことないです。これ、画面どこですか?」
「画面はない」
「えっ、通知は?」
「鳴る」
「着信拒否は?」
「気合い」
「迷惑電話は?」
「受話器を置く」
奏汰は、感心したように黒電話を見つめた。
「昭和、強いですね」
その日の午後、事務所には妙にのんびりした空気が流れていた。相続相談の予約は夕方。補助金申請の確認メールはまだ返ってこない。クラウド契約書レビューの返事も、なぜか全員「確認中」で止まっている。
こういう時間が、いちばん危ない。
誰かが余計なことを始めるからである。
ゆいが、黒電話の前にしゃがみこんだ。
「これ、ほんとに鳴るんですか?」
「線はつながっていないはずだよ」
山崎先生が答えた。
「じゃあ、鳴ったらホラーですね」
りなが眼鏡を上げた。
「物理的に配線されていない機器が鳴動した場合、原因は三つです。一、内部電源。二、外部電磁波。三、誰かのいたずら」
「四、昭和から電話」
ゆいが言った。
「非科学的です」
「でも、ロマンありますよ」
その瞬間だった。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
応接室の空気が固まった。
ふみかが書類を落とした。
奏汰が「出ました、昭和」とつぶやいた。
山崎先生は、湯呑みを持ったまま黒電話を見つめた。
ジリリリリリリリリリリリリリリ。
「……先生」
りなが小声で言った。
「内部電源は?」
「確認していません」
「外部電磁波は?」
「測定器がありません」
「いたずらは?」
「私じゃないです」
「じゃあ」
全員の視線が黒電話に集まる。
山崎先生は、ゆっくり受話器を取った。
「はい。山崎行政書士事務所です」
受話器の向こうから、ザザッ、という雑音がした。
そして、少し遠く、少し若い女の人の声が聞こえた。
『……もしもし? もしもし、聞こえますか?』
ゆいが、口を押さえた。
山崎先生は、できるだけ落ち着いた声で言った。
「聞こえます。どちらさまでしょうか」
『こちら、清水の草薙ですけど……山崎さんのお宅ですか?』
「はい。山崎です」
『ああ、よかった。あのね、変なことを言うようだけど、そちらは……何年ですか?』
部屋の中が、さらに静かになった。
奏汰が小さくカレンダーを見た。
山崎先生は答えた。
「2040年です」
受話器の向こうで、長い沈黙があった。
『……にせん、よんじゅう?』
「はい」
『昭和で言うと、何年ですか?』
りなが素早く端末に入力した。
「昭和換算で、昭和115年です」
山崎先生がそのまま伝えた。
『昭和百十五年!』
声の主は、電話の向こうで盛大にむせた。
『ちょっと、お父さん! 未来につながった! 昭和百十五年だって!』
遠くで男の人の声がした。
『何を馬鹿なことを言っとる。電話は近所につながるもんだ。未来にはつながらん』
『でも山崎さんだって!』
『山崎? どこの山崎さんだ』
その声を聞いた瞬間、山崎先生の顔色が変わった。
「……その声」
ふみかが聞いた。
「どうしました?」
山崎先生は、受話器を握り直した。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか」
女の人の声が答えた。
『私は、きよ。山崎きよです』
山崎先生の目が大きくなった。
「……ひいおばあちゃん?」
部屋の全員が息を呑んだ。
電話の向こうの女性は、きょとんとした声で言った。
『ひいおばあちゃん? 私、まだ三十二だけど』
遠くの男の声が近づいてきた。
『もしもし。私は山崎源三郎だが、そちらは本当に未来かね』
山崎先生は、ほとんど呆然としながら答えた。
「……ひいおじいちゃん」
『ひいおじいちゃん? 私はまだ三十五だ』
奏汰が感動した声で言った。
「すごい。ひいおじいちゃんが若い」
ゆいが泣きそうな顔で言った。
「先生、よかったですね。ご先祖さま、電話対応が丁寧です」
りなが冷静に言った。
「時空間通信の発生です。なお、通話料体系は確認できません」
山崎先生は、深呼吸した。
「そちらは昭和何年ですか?」
電話の向こうで、きよが答えた。
『昭和三十九年です。東京でオリンピックがあるって、みんな騒いでいます』
2040年の事務所に、昭和39年の空気が流れ込んできた。
それは、古い畳の匂いと、夕飯の味噌汁の湯気と、遠くで鳴る自転車のベルの音を連れていた。
*
黒電話は、それから毎日午後三時三分に鳴るようになった。
最初の数日は、全員が大騒ぎだった。
ふみかは議事録を取った。
りなは「時空間通信記録管理表」を作成した。
奏汰は「昭和語辞典」を作った。
ゆいは毎回、お茶とお菓子を黒電話の前に置いた。
「電話の向こうに届くわけないだろう」
山崎先生が言うと、ゆいは真剣に答えた。
「気持ちは届きます」
昭和39年のきよと源三郎は、未来の話を聞くたびに驚いた。
『洗濯機が勝手に洗って、乾かす?』
「はい」
『米も機械が炊く?』
「はい」
『電話に顔が映る?』
「はい」
『じゃあ、会いに行かなくても用が済むのか』
「まあ、そういうこともあります」
源三郎は少し黙ってから言った。
『それは便利だが、さみしいな』
山崎先生は、何も言えなかった。
一方で、2040年の事務所も昭和からいろいろ学んだ。
きよは、書類仕事に妙に強かった。
『役所へ出す書類はね、相手が読んで困らないように書くんだよ。自分の都合だけ書いちゃだめ。読む人にも朝があり、昼があり、腹が減る時間があるんだから』
ふみかは感心した。
「名言です。行政手続の本質です」
源三郎は、人付き合いに強かった。
『契約というのは、紙より先に顔だ。顔を見て、声を聞いて、互いに逃げ道をなくしすぎない。全部縛ると、人は嘘をつく』
りなはメモを取りながら言った。
「現代の契約実務にも通じます」
奏汰は、ひいおじいちゃんに聞いた。
「昭和って、何が一番大変ですか?」
『冷蔵庫が小さいことだな』
「もっと社会的なやつかと思いました」
『社会は大きすぎる。家の困りごとの方が先に来る』
ゆいは、ひいおばあちゃんに聞いた。
「昭和の人は、未来に何を望みますか?」
きよは少し考えて言った。
『子どもが、ちゃんと笑ってご飯を食べられること。それだけでいいよ』
2040年の事務所は、その言葉にしんとした。
未来は進んだ。
便利になった。
けれど、誰かが笑ってご飯を食べられるかどうかは、結局いつの時代も変わらない大問題だった。
*
ある日、草薙の商店街から一人の老人が事務所にやって来た。
名は望月昭夫。八十二歳。
歩くたびに杖がコツ、コツと鳴る。白髪はきれいに撫でつけられ、胸ポケットには古い万年筆が入っていた。
「山崎先生、ちょっと頼みがあるんです」
「どうされましたか」
望月は封筒を出した。
「実家を処分することになりましてね。古い手紙が出てきたんです。父が若いころ、ある人から借りた金のことが書いてある」
ふみかが封筒を受け取る。
中には、黄ばんだ便箋が数枚入っていた。
昭和39年。
草薙。
山崎源三郎殿。
山崎先生の手が止まった。
「……源三郎?」
望月は首をかしげた。
「ご先祖さまですか?」
「はい。私のひいおじいさんです」
手紙には、こう書かれていた。
――源三郎さん、あの時はありがとうございました。いただいた三万円のおかげで、父の入院費を払うことができました。必ず返します。
差出人は、望月の父だった。
「父は、その後すぐ東京へ出て、返せないまま亡くなりましてね。私も最近まで知らなかった。利息をつけたら、とんでもない金額になるでしょうが……せめて、きちんと謝りたい」
望月は頭を下げた。
「先生、こういうのは、どうすればいいでしょう」
事務所に沈黙が落ちた。
2040年の法律としては、とうに時効の問題である。そもそも証拠も古い。請求する話ではない。
けれど、これは金の話だけではなかった。
胸につかえたままの「ありがとう」と「ごめんなさい」を、どこへ置くかの話だった。
その午後三時三分。
黒電話が鳴った。
ジリリリリリリリリリリリリリリ。
山崎先生は受話器を取った。
「もしもし」
『おお、未来の山崎か。今日はな、きよがコロッケを焦がした』
『焦がしてません。きつね色です』
いつもの声だった。
山崎先生は、少し迷ってから言った。
「源三郎さん。昭和39年に、望月さんという方へ三万円を貸しましたか」
電話の向こうが静かになった。
『……どうしてそれを』
「未来で、その手紙が見つかりました」
源三郎は、ゆっくり息を吐いた。
『そうか。あいつ、ちゃんと生きたか』
「息子さんが、いま事務所に来ています。お父さまが返せなかったことを謝りたいと」
源三郎は笑った。
『馬鹿だなあ。返してもらうつもりで貸したんじゃない』
望月老人は、受話器のそばで震えていた。
山崎先生は言った。
「望月さんに、聞こえるようにします」
黒電話は古い。スピーカー機能などない。
それでも、事務所の全員が息を潜めると、受話器から漏れる声は不思議と部屋に広がった。
『望月の息子さんかい』
老人は、両手で杖を握りしめた。
「はい。望月昭夫です。父が、ご迷惑をおかけしました」
『迷惑なんぞ、かけられとらんよ』
「しかし、父は返さないまま……」
『あの金はな、君のお父さんに貸したんじゃない。君のおじいさんを助けるために出したんだ。人が困っている時に財布を開けた。それだけだ』
望月老人の目から、涙が落ちた。
『もし、返したいと思うなら、誰かが困っている時に、三万円ぶん助けてやりなさい。金でなくてもいい。時間でも、言葉でも、傘でもいい』
望月老人は、声を詰まらせながら言った。
「ありがとうございます。父も、ようやく頭を下げられます」
電話の向こうで、きよの声がした。
『よかったねえ。昭和から未来へ、貸し借りが渡ったねえ』
ゆいは涙を拭きながら言った。
「ひいおばあちゃん、表現があったかいです」
奏汰は鼻をすすった。
「三万円ぶんの傘……いいですね」
りなは静かにメモした。
――債務ではなく、善意の承継。
*
ところが、黒電話の奇跡は、笑いも忘れなかった。
ある日、源三郎が真剣に聞いてきた。
『未来では、男も料理をするのか』
「しますね」
『洗濯も?』
「します」
『子守りも?』
「します」
源三郎は、しばらく黙った。
『……きよ、聞いたか。未来では男もやるそうだ』
『未来じゃなくても、今やってください』
事務所は爆笑した。
別の日、きよが聞いた。
『未来の若い人は、手紙を書きますか』
「少なくなりましたね。メッセージが多いです」
『めっせーじ?』
「短い文章をすぐ送れます」
『便利ねえ。じゃあ、みんな気持ちを伝えるのが上手になったのね』
2040年の全員が、同時に黙った。
きよは察した。
『……便利と上手は、別なのね』
「はい」
『じゃあ、未来も大変ねえ』
また別の日、奏汰が聞いた。
「昭和の恋愛って、どうやって告白するんですか?」
源三郎は即答した。
『会って言う』
「メッセージでは?」
『ない』
「既読は?」
『ない』
「未読スルーは?」
『家の前を三回通る』
ゆいが吹き出した。
「昭和の未読スルー、物理ですね」
*
そんな楽しい日々は、長くは続かなかった。
黒電話の声に、少しずつ雑音が混じるようになった。
ザザッ、ザザザッ。
きよの声が遠くなる。
源三郎の笑い声が途切れる。
りなが調べたが、原因はわからなかった。そもそも原因がわかるような現象ではない。
ある夕方、きよが言った。
『たぶん、この電話、もうすぐ切れるね』
山崎先生は何も言えなかった。
『不思議なものは、長く続かない方がいいのよ。長く続くと、人はそれを当たり前にしてしまうから』
源三郎も言った。
『未来の山崎。最後に一つ頼みがある』
「何でしょう」
『きよに、未来の桜を見せてやりたかった』
山崎先生は、窓の外を見た。
2040年の草薙の春は、昔より少し早く来る。けれど、桜はまだ咲く。線路沿いにも、神社のそばにも、川の近くにも、薄い桃色の花が毎年ちゃんと戻ってくる。
「咲いています。草薙の桜は、未来でも咲いています」
きよが小さく笑った。
『よかった』
山崎先生は言った。
「こちらからも、伝言があります」
『なあに』
「あなたたちが、ちゃんと生きてくれたから、私たちはここにいます。事務所があります。困った人の話を聞いて、書類を作って、時々笑って、時々泣いています」
受話器の向こうで、きよが泣いている気配がした。
「未来は完璧ではありません。便利になっても、人は迷います。契約で困り、相続で悩み、家族とすれ違い、言えなかった言葉を抱えています」
山崎先生は、黒電話を両手で包むように持った。
「でも、あなたたちの言葉が、今日も誰かを助けています」
源三郎が、照れ隠しのように咳払いした。
『大げさだな』
きよが笑った。
『お父さん、泣いてる』
『泣いとらん』
『昭和の男は、すぐ泣いてないって言う』
事務所のみんなが笑った。
その笑い声の中で、電話の雑音が大きくなった。
ザザザザザッ。
『未来の山崎』
「はい」
『ご飯をちゃんと食べなさい』
「はい」
『困った人が来たら、まずお茶を出しなさい』
「はい」
『書類は、読む人の顔を思って書きなさい』
「はい」
『それから』
きよの声が、少し遠くなった。
『笑える時は、笑いなさい。笑いはね、貧乏にも、心配にも、少しだけ勝てるから』
山崎先生は、目を閉じた。
「はい」
源三郎の声が続いた。
『未来からの伝言、確かに受け取った。こちらも昭和をちゃんと生きる』
ジジッ。
『そっちも、未来をちゃんと生きろ』
最後に、きよが言った。
『もしもし、聞こえますか』
「聞こえます」
『よかった。じゃあね』
プツン。
黒電話は静かになった。
*
それから黒電話は、二度と鳴らなかった。
りなは原因を「確認できません」と記録した。
ふみかは、応接室の黒電話の横に小さな札を置いた。
――この電話は、時々、人の心につながります。
奏汰は毎朝、黒電話に向かって言った。
「おはようございます、昭和」
ゆいはお菓子を一つ、黒電話のそばに置いた。
「気持ちは届きますから」
山崎先生は、あの日以来、相談者が来るたびに、まずお茶を出すようになった。
どんなに急ぎの案件でも。
どんなに複雑な相続でも。
どんなに難しい契約書でも。
まず、お茶。
そして、相手の顔を見る。
ある春の日、望月老人が再び事務所にやって来た。
「先生、報告です」
望月は少し誇らしげに言った。
「近所の子が、進学費用で困ってましてね。少しだけ、援助しました。三万円では足りませんでしたが」
山崎先生は笑った。
「源三郎さんも喜びます」
望月は、黒電話を見た。
「不思議ですね。父が返せなかった金が、未来で誰かの入学金になる」
「ええ」
「借金じゃなくて、順番だったんですね」
山崎先生は、静かにうなずいた。
窓の外では、草薙の桜が咲いていた。
2040年の空に、昭和の風が少しだけ混じっているようだった。
その日の夕方、事務所の片づけをしていた奏汰が、黒電話の前で首をかしげた。
「先生」
「どうした?」
「これ、受話器の下に紙があります」
古びた小さな紙片だった。
いつからそこにあったのか、誰にもわからない。
山崎先生が広げると、そこには丸い字でこう書かれていた。
――未来の山崎さんへ。 昭和三十九年の草薙より。 こちらは今日も、なんとか笑っています。 そちらも、どうか、なんとか笑ってください。 きよ、源三郎。
ゆいがまた泣いた。
ふみかも目を拭いた。
りなは眼鏡を外した。
奏汰は鼻をすすりながら言った。
「先生、これ、時空郵便ですか?」
山崎先生は、少し考えてから答えた。
「いや」
みんなが先生を見た。
「これは、家族からの普通の手紙だ」
黒電話は黙っていた。
けれど、その沈黙は、もう怖くなかった。
草薙の夕暮れに、古い電話が一台、そこにある。
昭和と平成と2040年を、笑いながら結ぶように。
そして山崎行政書士事務所では、今日も誰かが相談に来る。
契約書を持って。
相続の悩みを抱えて。
言えなかった「ありがとう」と「ごめんなさい」を胸にしまって。
そのたびに、先生はお茶を出す。
ゆいは笑う。
奏汰は少し慌てる。
ふみかは書類を整える。
りなは静かに要点をまとめる。
そして黒電話は、鳴らないまま、そっとそこにいる。
まるで言っているようだった。
――もしもし。 未来は、ちゃんと笑えていますか。





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