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ビストゥルツ


六月二十二日。ブルノの中心部の石畳を離れ、トラムに揺られてビストゥルツへ向かう。窓の外の街並みは、古い屋根瓦の赤から、少しずつ緑の比率を増やしていく。車輪がレールを噛む乾いた音が一定のリズムを刻み、その単調さが、これから出会うものを静かに受け入れるための“間”のように思えた。

降り立つと、空気が違う。街の匂い——排気や石の冷たさ——が薄まり、代わりに松の樹脂の甘い香りが胸の奥まで入ってくる。六月の陽射しは強いのに、木陰はひんやりとして、首筋に汗がにじむのと同時に背中が少しだけ落ち着く。遠くで人の集まるざわめきが波のように寄せては返し、その合間を縫って、金属的な楽器の音や、手拍子、笑い声が混じる。今日は古いキリスト教の祝日——この土地では「豊かさ」と「喜び」と「繁栄」を祈り、祝う日だと聞いていた。言葉で知っていたはずのそれが、ここでは匂いと温度と音になって、私の皮膚に触れてくる。

会場は森の縁に寄り添うように開けていて、仮設の舞台の前には簡素な椅子や機材箱が並ぶ。舞台の床は淡い黄土色で、日光を受けて乾いたパンの皮のように温かそうに見えた。人々は思い思いの服装で立ち、子どもは足元の芝を蹴りながら走り、年配の人は紙コップ片手にゆっくりと話している。ビールの泡が鼻の奥をくすぐる匂いと、焼けた肉の脂が弾ける香り、酸味のあるピクルスの気配。胃がきゅっと小さく鳴って、恥ずかしくなって周囲を見回すと、同じように屋台へ吸い寄せられる人たちの視線があった。ここでは空腹すら、祝祭の一部なのかもしれない。

やがて舞台に、若い男女が並ぶ。肩を組み、腕を隣の人の肩にそっと預けるようにして、横一列になった瞬間、空気が一段、張り詰めた。衣装が目に飛び込んでくる。女性たちは、白いブラウスの袖がふわりと膨らみ、黒地のスカートには花の刺繍が咲き乱れている。赤い身頃や帯に施された細かな模様は、近くで見ると糸の光沢が微かに波打ち、手で縫った時間の重みがそのまま形になっているようだった。頭には花冠。小さな花々が輪になり、その下から長いリボンが何本も垂れて背中へ流れる。風が吹くたび、そのリボンが肩甲骨のあたりを撫で、色が一瞬だけ空中にほどける。

男性たちは黒い帽子を被り、濃紺や黒の短いベストを着ている。縁取りに細い赤や緑の装飾が走り、ボタンが整列して光る。腰には赤い刺繍の布が結ばれていて、歩くたびに布端が揺れた。足元の長靴には、やはり色とりどりのリボンが束ねられていて、それがまるで“踊りの火花”のように見える。舞台の端には小さな籠が置かれ、そこからもリボンが溢れるように覗いていた。誰かの手仕事が、踊りの前に静かに息をしている。

歌が始まる。最初の一音で、私の胸の奥が妙に締まった。声は若いのに、歌の節回しには古い土の匂いが混じっているようだった。言葉は分からない。でも、祝う歌だということだけは分かる。肩を組んだ列が、ほんの少し左右に揺れ、呼吸が揃う。誰かが次のフレーズを力強く引っ張ると、隣がそれを受け取り、また隣へ渡していく。歌が“個人の声”から“共同体の声”へ変わっていく過程が、目で見えるようだった。

踊りに移ると、床を踏む音が加わる。長靴が舞台を叩く、低く乾いた音。リズムは決して派手ではないのに、踏むたびに体の芯へ響いてくる。女性のスカートが一拍遅れて揺れ、刺繍の花が咲いては閉じるように見えた。男性が腰の布を軽く弾ませ、肩の力を抜いたまま足だけが正確に動く。笑っている人もいれば、真剣な表情で前を見つめている人もいる。その混ざり方が、むしろ本当の喜びに近い気がした。喜びは、いつも笑顔だけで出来ているわけではない。集中や誇りや、少しの緊張が混ざるからこそ、深くなる。

観客席の端で、私は自分の立ち位置を探していた。ここは旅先で、私はよそ者だ。カメラを構える手つきも、拍手のタイミングも、どこかぎこちない。それなのに、歌の波に包まれているうちに、よそ者であることが少しだけ溶けていく感覚があった。言葉が分からないからこそ、意味を“理解する”のではなく、“受け取る”しかない。受け取ると決めた瞬間、私は参加者になるのだと、体が先に悟ってしまった。

ふと、森の奥の方から風が吹き抜け、松葉が擦れる音がサーッと広がった。舞台の歌声と重なり、まるで自然も一緒にコーラスをしているように聴こえる。古いキリスト教の祝日、という説明を思い出す。祈りは教会の中だけでは完結しないのだろう。祈りは畑に降り、食卓に乗り、踊りの足音になって地面へ刻まれる。豊穣や繁栄は、天から降ってくるだけではなく、人が集まって確かめ合うことで“育つ”のかもしれない。

踊りが一段落すると、会場の空気がふっと緩む。観客の笑い声が太くなり、紙コップがぶつかる軽い音が増える。私は屋台に近づき、焼けたソーセージを受け取る。皮がパリッと裂け、熱い肉汁が舌の上に広がる。塩気と香辛料の強さが、さっきまで胸にあった感傷を現実の方へ引き戻す。ビールを一口飲むと、喉が一瞬で冷たくなり、その直後に苦味がじわりと残る。胃が満たされるにつれて、心の輪郭も柔らかくなるのが分かる。満腹は、単なる欲の充足ではなく、安心の形なのだと、こんな場所で教えられるとは思わなかった。

近くのベンチでは、年配の女性がパン菓子のようなものを切り分け、子どもに手渡していた。子どもが頬を膨らませて笑うと、周囲の大人たちもつられて笑う。私はその輪に入る勇気がなくて、少し離れたところから眺めていた。けれど、その女性が私の視線に気づいたのか、短い言葉と一緒に小さな一切れを差し出してくれる。言葉は聞き取れない。けれど、差し出された手の温度と、目元の柔らかさだけで十分だった。受け取った菓子は、素朴な甘さで、焼き目の香ばしさの奥に、微かな乳の匂いがした。私はただ「ありがとう」と日本語で言い、慌てて「Děkuji」と付け足す。彼女はそれで笑ってくれた。その笑い方が、祝祭の“繁栄”の正体のように思えた。通じること。手渡せること。受け取れること。

夕方が近づくと、陽射しが斜めになり、衣装の刺繍がさらに立体的に浮かび上がる。赤は深く、黒は柔らかく、白は眩しいほどに清潔だ。舞台ではまた歌が始まり、今度は観客も口ずさむ人が増える。私は相変わらず言葉が分からない。けれど、拍手をする手のひらが少し痛くなるくらい打ち続けるうちに、分からないことへの焦りが消えていった。分からないまま、そこに居ていい。理解の代わりに、体温で参加すればいい。旅先で、こんな許可をもらえる日があるとは思わなかった。

帰り道、森の匂いが濃くなる。靴の裏に芝の湿り気が少しだけ残り、指先にはまだビールの冷たさの記憶がある。耳の奥には歌の余韻がこびりついて、静かな道でもふとした瞬間に旋律が立ち上がる。私は今日、異国の祝祭を見に来たつもりだった。けれど実際には、祝祭に“見られた”のだと思う。外から眺めるつもりだった私の心の隙間に、「豊かさ」の定義がするりと入り込んできた。

豊かさとは、特別なものを持つことだけではない。見知らぬ人と肩を並べて歌えること。刺繍の一針一針に、誰かの暮らしが縫い込まれていること。空腹が満たされ、喉が潤い、笑い声が夜気に溶けていくこと。繁栄とは、奪い合いではなく、分け合いが続くこと。そういう当たり前の連なりを、今日のビストゥルツは、踊りの足音で教えてくれた。

トラムが再び街へ向かって走り出す。窓の外で松の影が遠ざかり、街灯の光が増えていく。私は紙コップの底に残った泡の跡を見つめながら、胸の奥の静かな場所で、今日の歌にそっと拍手を続けていた。

 
 
 

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