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三月の蜜柑畑

昭和二十六年の三月、蒲原の山裾には、まだ冬の名残が薄い煙のように残っていた。

庵原郡蒲原町は、海と山とが互いに声をかけあうような土地だった。朝になると駿河湾から湿った光が上がり、昼には蜜柑畑の葉の上でそれが細かく砕け、夕方には富士の白い肩が、遠くの空に静かに灯った。東海道を通る人の足音も、浜から聞こえる波の音も、山の斜面に植えられた蜜柑の木々のあいだでは、どこか遠い昔話のようにやわらいで聞こえた。

幹夫は八つだった。

背は小さく、膝のあたりにいつも土をつけていた。母はそれを見るたびに、「幹夫は畑に根っこを生やしてるみたいだね」と笑った。幹夫はその言葉が好きだった。根っこを生やしているなら、風の来る方角も、雨の匂いも、土の中で虫が動く音も、きっとわかるようになると思ったからである。

その日、学校から帰ると、幹夫はランドセルを土間に置き、母の声を背中で聞きながら、家の裏手の坂道をのぼった。

「暗くなる前に戻るんだよ」

「うん」

返事はしたが、声はもう蜜柑畑の方へ走っていた。

三月の畑は、実りの季節のように賑やかではなかった。冬のあいだ枝にぶら下がっていた蜜柑はほとんど収められ、木々は少し身軽になって、次の季節を胸の奥で準備しているように見えた。葉は厚く、濃い緑をして、風が触れると裏側の淡い色がちらりと見えた。その一瞬の光り方が、幹夫にはまばたきのように思えた。

畑の中ほどに、幹夫が「おばあの木」と呼んでいる蜜柑の木があった。

幹は曲がり、根元には苔が少し生えていた。枝ぶりはほかの木より低く、幹夫の肩に手を置くように葉を垂らしている。祖母が生きていたころ、「この木はね、幹夫よりずっと先にここに来て、ずっとここで空を見ているんだよ」と言った。その言葉を聞いてから、幹夫はこの木にだけ、心の中で話しかけるようになった。

今日も幹夫は、おばあの木の下に座った。

土はまだ少し冷たかったが、表面だけは春の日に温められていた。手のひらを置くと、冷たさの下から、かすかなぬくもりが上がってくる。幹夫はそれを、地面の息だと思った。

「ただいま」

小さく言うと、蜜柑の葉がさわ、と鳴った。

返事をしたのだ、と幹夫は思った。

風は海の方から吹いていた。塩の匂いを少しだけ含んで、それから山の土と若草の匂いをまとい、畑を通り抜けていく。幹夫の頬を撫でる風は、冷たいのに、どこか手のひらのようにやさしかった。

「今日は学校で、字をまちがえた」

幹夫は言った。

おばあの木は、何も言わなかった。ただ、枝の先の葉を一枚、光の中へ差し出した。

「『春』の字。下のところを変に書いたら、先生が笑ったんじゃなくて、みんなが笑った。先生は笑ってない。でも、みんなが笑った」

幹夫は唇を尖らせた。

笑われた時の教室の明るさが、まだ目の裏に残っていた。黒板の白い粉、窓の外の梅の枝、隣の席の政吉の歯。どれも悪いものではないのに、ひとつひとつが胸に刺さる小さな棘のようだった。

「字なんて、ちょっとくらい曲がったっていいのに」

そう言ってから、幹夫はおばあの木の幹を見た。

木の幹はまっすぐではなかった。右へ曲がり、左へ戻り、途中で小さな傷をいくつも抱えながら、それでも上へ伸びていた。傷のところには樹皮が盛り上がり、時間がそこをゆっくり包んだあとがあった。

幹夫は黙った。

まっすぐでないものが、ここでは少しも恥ずかしそうにしていない。

そのことが不思議だった。

風がもう一度吹いた。葉が重なり合って、細かな音を立てた。

——曲がったところにも、春は来るよ。

幹夫は、そんな声を聞いたような気がした。

もちろん、本当に木がしゃべったのかどうかはわからない。けれど幹夫には、その声が耳ではなく胸の真ん中に届いたように思えた。胸の奥の、朝からきゅっと縮んでいた場所が、少しだけほどけた。

畑の向こうでは、父が鋏を持って枝を見ていた。

父は戦争から帰ってきてから、あまり大きな声で笑わなくなった。幹夫がもっと小さかったころの父を、幹夫はよく覚えていない。ただ、母が時々、「お父さんは昔、祭りの太鼓みたいに笑う人だった」と言う。幹夫にはそれが想像できなかった。今の父の笑いは、茶碗の縁に残った湯気のように、すぐ消えてしまう。

けれど父は蜜柑の木の前では、長く黙っていることができた。

黙って、枝の混み具合を見て、古い枝を切り、新しい芽の出る場所を確かめる。その横顔を見ていると、幹夫は父が木と話しているのだと思った。父は人には言えないことを、葉の裏や枝の節に少しずつ預けているのかもしれなかった。

幹夫は、おばあの木の低い枝に手をかけた。

葉の間に、小さな丸い芽があった。まだ固く、緑色の粒のようだった。幹夫は息を止めてそれを見た。

「これ、花になるの?」

尋ねると、風が止んだ。

畑全体が、ほんの少しだけ静かになった。鳥の声も、遠くの波も、父の鋏の音も、一枚の薄紙の向こう側へ行ってしまったようだった。

すると、芽の中から、白いものが見えた気がした。

本当に見えたわけではない。まだ花は咲いていない。けれど幹夫の目の奥には、五月になってこの畑いっぱいに咲く小さな白い花が、ふっと浮かんだ。甘くて、少し青くて、夕方になると胸が苦しくなるような蜜柑の花の匂い。その匂いに包まれて、蜂が金色の点のように飛び、母が手ぬぐいで汗を拭き、父が少しだけ笑う。

まだ来ていない季節が、芽の中で眠っている。

幹夫はそう思った。

その瞬間、幹夫の胸に、朝の教室とは違う明るさが広がった。笑われた「春」の字も、間違って曲がった線も、もしかしたらまだ芽なのかもしれない。今はうまく書けなくても、何度も書いているうちに、どこかで白い花になるのかもしれない。

「おまえ、すごいな」

幹夫は芽に向かって言った。

すると、背後で父の声がした。

「何がすごいんだ」

幹夫は驚いて振り向いた。父が鋏を片手に立っていた。日に焼けた顔の影が、麦わら帽子の下に落ちている。幹夫は少し恥ずかしくなって、枝から手を離した。

「芽。こんな小さいのに、花になるんだって」

父は木の枝を見た。それから幹夫の隣にしゃがんだ。

「そうだな」

それだけ言って、父は黙った。

幹夫は、父が何かを言い足すのを待った。けれど父は言葉を探すように、芽を見つめ続けていた。父の指は太く、爪の間には黒い土が入っていた。その指が、芽に触れそうで触れないところで止まっている。

「木はえらいな」

父はやがて言った。

「冬の間、何もしてないみたいに見えても、ちゃんと中で支度してる」

幹夫は父の横顔を見た。

父の声は低かった。けれどその低さの中に、海の底に沈んだ石のような重みだけでなく、少しだけ温かいものがあった。

「人も?」

幹夫が聞くと、父はすぐには答えなかった。

遠くで汽車の音がした。東海道線を走る汽車だろう。山と海のあいだを抜けるその音は、煙を引きながら知らない町へ行く人々の気配を運んでくる。幹夫は、汽車に乗れば、春の字を誰にも笑われない遠い場所へ行けるのではないかと思ったことがある。

しかし今は、この畑から離れたいとは思わなかった。

父は幹夫の頭に手を置いた。

「人も、だろうな」

その手は重く、少し不器用だった。幹夫はその重みの下で、胸の奥がじんわり温まるのを感じた。父が自分のことを言ったのか、幹夫のことを言ったのか、それとも二人ともに言ったのか、幹夫にはわからなかった。ただ、父の手もまた、冬を越しているのだと思った。

父は立ち上がり、一本の細い枝を鋏で切った。

ぱちん、という音が、春の空気に澄んで響いた。

幹夫は少し身をすくめた。

「かわいそう」

思わず言うと、父は切った枝を手に取り、幹夫に見せた。

「全部を残すと、木が苦しくなる。風も通らんし、陽も入らん。切るのは、いじめるためじゃない。生きる場所をつくるためだ」

幹夫は枝を受け取った。

切られた枝の先にも、小さな芽があった。もう木には戻れない芽だった。幹夫は急に、その芽が自分を見ているような気がした。

「この芽は、花になれないの?」

幹夫の声は小さくなった。

父は困ったように眉を動かした。きっと、どう答えればよいか迷ったのだろう。父はそういう時、すぐに言葉を出さない。口を閉じ、相手の胸を傷つけない場所を探すように黙る。

「木の上では、なれんかもしれん」

父は言った。

「でも、土に返る。土に返って、また木を助ける」

幹夫は切られた枝を見つめた。

それは悲しいことのようでもあり、やさしいことのようでもあった。なくなるのではなく、戻っていく。形を変えて、見えないところで誰かを助ける。

祖母のことを思い出した。

去年の秋、祖母は眠るように死んだ。幹夫は、死ぬということがよくわからなかった。ただ、祖母が座っていた縁側に座布団だけが残り、夕飯の時に祖母の箸が出なくなり、蜜柑をむく時に白い筋を丁寧に取ってくれる手がなくなった。その「ない」が、家の中のあちこちに置かれていた。

けれど、祖母が教えてくれたおばあの木はここにある。

幹夫は切られた枝を、木の根元の土の上にそっと置いた。

「じゃあ、ここに戻れ」

そう言うと、葉がさわさわと揺れた。

——ありがとう。

今度の声は、木ではなく、土の下から聞こえたような気がした。

幹夫は目を閉じた。

暗いまぶたの裏に、土の中の世界が広がった。細い根が白い糸のように伸び、虫がやわらかい体をくねらせ、雨のしずくが石の隙間を伝っていく。その中に、祖母の笑い声が小さな鈴のように混じっていた。祖母はどこか遠くへ消えたのではなく、土の匂いの中に、葉のつやの中に、春を待つ芽の丸みに、少しずつ散らばっているのかもしれなかった。

幹夫は胸の中で祖母に言った。

おばあ、ぼく、春の字をまちがえた。

すると、祖母の声がした気がした。

まちがえた線にも、行きたいところがあるんだよ。

幹夫は目を開けた。

空は淡い青だった。雲が一筋、山の上にほどけている。蜜柑の葉の間から落ちる光は、地面に小さな水玉模様をつくっていた。その光の中で、切られた枝は少しも寂しそうではなく、まるで眠る場所を見つけた子どものように横たわっていた。

父は畑の向こうへ歩いていった。幹夫はしばらくその背中を見ていた。父の背中は大きいが、どこか寂しい。けれど今日の幹夫には、その寂しさの中にも芽があるように見えた。いつか父の笑いが、祭りの太鼓みたいに戻る日が来るかもしれない。来ないかもしれない。でも、木が冬の中で支度するように、父の中でも何かがゆっくり動いているのだと思えた。

夕方が近づくと、畑の色は変わった。

昼の光で固く見えていた葉は、金色の縁を持ちはじめた。海の方から聞こえる波音は、朝よりも深くなり、山の影は少しずつ畑の下段から上段へとのぼってきた。幹夫は、おばあの木に背中を預けた。樹皮の凹凸が服越しに伝わる。それは祖母の手の皺にも、父の荒れた指にも似ていた。

「ぼくも支度してるのかな」

幹夫は誰にともなく言った。

返事はすぐには来なかった。

かわりに、一羽の目白が枝から枝へ飛び移った。小さな体をふるわせ、幹夫の方を見て、細い声で鳴いた。その声は、まだ形にならない言葉のようだった。

幹夫は笑った。

朝から初めて、声を出して笑った。

笑うと、胸の中の固いものが少し割れ、その割れ目から光が入った。すると不思議なことに、教室でみんなが笑った顔も、前ほど痛くなくなった。政吉の歯も、黒板の白い粉も、先生の赤い筆も、どれも遠いものではなく、自分の一日の中にあるものとして戻ってきた。

明日、もう一度「春」と書いてみよう。

まっすぐでなくてもいい。曲がったら、その曲がった線がどこへ行きたがっているのか見てやろう。幹夫はそう思った。

家へ帰る前に、幹夫はおばあの木の幹に額をつけた。

「また来る」

葉が揺れた。

——待っているよ。

その声は、夕方の風と一緒に幹夫の耳元を通りすぎた。幹夫は坂道を下りはじめた。足元の土は柔らかく、ところどころに小さな草が出ていた。草の先には光が乗っていて、まるで一つひとつが小さな灯明のようだった。

家の方から味噌汁の匂いがした。

母が竈の前にいるのだろう。煙突から上がる煙が、夕空の中へ薄く伸びていた。幹夫はその煙を見ながら、土間に置きっぱなしのランドセルを思い出した。ノートの中には、下のところを変に書いた「春」の字が残っている。けれどもう、それを破り捨てたいとは思わなかった。

あの字も、今日の幹夫の芽だった。

坂の途中で振り返ると、蜜柑畑は夕日に包まれていた。おばあの木も、父のいる畝も、切られた枝を置いた根元も、すべてが淡い金色に沈んでいた。まだ花は咲いていない。実もない。けれど畑全体が、見えない花の匂いを先取りしているようだった。

幹夫は小さく手を振った。

三月の蒲原の風が、その手をそっと押し返した。

幹夫はうなずき、家へ向かって走り出した。膝にはまた土がつくだろう。母はきっと笑うだろう。

けれど今度は、幹夫も笑って言える気がした。

「ぼく、根っこを生やしてるんだよ」

その根っこは、まだ細くて頼りなかった。けれど、山の土と、海から来る風と、蜜柑の木の古い声と、父の重い手と、祖母の見えない笑いに触れながら、少しずつ深く伸びていく。

春は、まだ始まったばかりだった。

 
 
 

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