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三月の蜜柑畑

 昭和三十年の三月、静岡県庵原郡蒲原町の朝は、海の匂いをふくんで淡く光っていた。

 幹夫は十二歳で、まだ子どもであることを惜しむような背丈をしていた。手足ばかりが先に伸び、着物の袖口からのぞく手首は細く、寒い日にはそこだけが心細げに赤くなった。だが目だけは、誰よりも先に春を見つける目だった。

 家の裏手から山へ向かって段々に続く蜜柑畑は、冬のあいだに実をもがれ、今はしずかな緑の波のように広がっていた。葉は厚く、陽を受けると裏側に小さな金色をためた。ところどころに摘み残された蜜柑があり、ひと冬を越した皮は少し硬く、けれど朝露をまとえば、まるで誰かが忘れていった小さな灯のように見えた。

 遠くには駿河湾がひらけていた。海は青というより銀に近く、その上を春霞が薄い布のように漂っている。さらに北には、雪をかぶった富士が、雲の間から静かに顔を出していた。幹夫はいつも思った。富士山は山ではなく、大きな白い生き物で、蒲原の町や畑や人々の息づかいを、じっと聞いているのではないかと。

 その日、幹夫は父に頼まれて、蜜柑畑へ剪定した枝を集めに来ていた。

 父は朝から隣の畑へ手伝いに出ていた。母は家で味噌汁を温め直しながら、妹の髪を結っているだろう。幹夫だけが、竹の籠を背負い、剪定鋏の入った道具袋を腰に下げて、段々畑の石垣の間を歩いていた。

 土はまだ冬の冷たさを残していたが、陽の当たる場所だけは柔らかく、靴底の下でほろりと崩れた。草の間から小さな青い花がのぞき、名も知らぬ虫が、まるで目を覚ましたばかりの夢のかけらのように飛んだ。

 幹夫は一本の蜜柑の木の前で立ち止まった。

 それは畑の端にある古い木で、祖父がまだ若いころに植えたと聞いていた。幹は黒ずみ、曲がり、ところどころに苔がついている。だが枝先の葉はつややかで、そこだけは若者の指のように春へ伸びていた。

 父はいつも言った。

「古い木ほど、手を入れてやらにゃならん。かわいそうだと思って枝を残しすぎると、かえって実がならん」

 幹夫にはそれがよくわからなかった。

 残すことが優しさではないのか。切らずに置くことが、木のためではないのか。枝を落とす鋏の音を聞くたび、幹夫は自分の胸の奥まで、ちきん、と切られるような気がした。

 彼は足もとの枝を拾いはじめた。切られたばかりの枝の断面は白く、そこからかすかに青い匂いが立っていた。蜜柑の葉を指でこすると、冬の光と夏の雨が混じったような香りがした。

 不意に、風が吹いた。

 海の方から来た風だった。潮の匂いをまとい、山の斜面をのぼり、蜜柑の葉をいっせいに揺らした。葉が触れ合う音は、さらさらではなかった。もっと小さく、もっと内緒めいていた。

 ――みきお。

 幹夫は顔を上げた。

 誰もいない。

 段々畑の上の方にも下の方にも、人影はなかった。遠くの道を、自転車に乗った郵便屋が通り過ぎていくのが見えたが、声が届く距離ではなかった。

 ――みきお。

 今度ははっきり聞こえた。けれど耳で聞いたのではない。胸の中で、小石が水に落ちたように、ぽちゃんと響いたのだ。

「だれ」

 幹夫は小さく言った。

 古い蜜柑の木が、わずかに葉を鳴らした。幹夫は息をのんだ。枝の間に残った一つの蜜柑が、朝日を受けて、ほのかに明るんでいる。

 ――そんな顔をするな。春が驚いて逃げてしまう。

 声は、祖父にも似ていた。けれどもっと遠く、もっと土に近い声だった。

 幹夫は籠を地面に下ろした。胸がどきどきしていたが、不思議と怖くはなかった。むしろ、ずっと前からこの声を知っていたような気がした。夜、布団の中で聞く波の音。雨の日に屋根を叩く雫。母が台所で米を研ぐ音。そういうものと同じ場所から来る声だった。

「おまえが、しゃべったの」

 ――しゃべるというほどのことでもない。おまえが、ようやく聞いたのだ。

 幹夫は黙った。

 蜜柑の木の下には、剪定された枝がいくつも落ちていた。ついさっきまで木の一部だったものが、今は地面に横たわっている。幹夫は一本を拾い上げた。先には小さな芽がついていた。

「これも、生きてたのに」

 ――生きていた。

「切られて、痛くないの」

 古い木は、葉を少しだけ震わせた。

 ――痛いとも。風に葉を奪われる時も、虫に皮を食われる時も、実をもがれる時も、痛みはある。だが痛みは、終わりのしるしではない。

 幹夫は枝の芽を見つめた。

 その芽は米粒ほどに小さく、固く閉じていた。けれど中には、まだ見えない何かが眠っている。白い花かもしれない。新しい葉かもしれない。あるいは幹夫の知らない、もっと別の春かもしれなかった。

「父ちゃんは、いらない枝を切るって言う」

 ――いらない枝などない。

 木の声は、少し笑ったようだった。

 ――けれど、すべてを抱えたままでは、次の光を受けられぬことがある。枝は枝のまま空へ行きたがる。実は実のまま甘くなりたがる。根は根のまま深くへ行きたがる。みな願いを持つ。だから時々、ひとつの願いを手放して、別の願いに道をあけるのだ。

 幹夫は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 この春、幹夫は小学校を卒業する。四月からは中学校へ行く。町の上の道を越え、汽車の音が聞こえる校舎へ通うのだと、大人たちは当たり前のように言う。だが幹夫には、その当たり前が少し怖かった。

 小学校の木造校舎。運動場の隅の楠。妹と並んで歩いた帰り道。母が縫ってくれた手提げ袋。そういうものから離れることが、まるで自分の枝を一本ずつ切られるように思えていた。

 誰にも言えなかった。

 父に言えば笑われるかもしれない。母に言えば心配させるかもしれない。友だちに言えば、女みたいだと言われるかもしれない。だから幹夫は、いつも畑の隅で、蜜柑の葉の匂いを嗅ぎながら、その怖さを胸の中にしまっていた。

「ぼくも、切られるのかな」

 幹夫は思わずそう言った。

 風が止んだ。

 畑の音が、急に深くなった。遠くの波、鳥の羽音、土の下を流れる水。幹夫はそれらが一つずつ、自分の言葉を聞いているように感じた。

 ――おまえは切られるのではない。伸びるのだ。

「でも、伸びたら、今のぼくじゃなくなる」

 ――今のままでいたいのか。

 幹夫は答えられなかった。

 今のままでいたい。そう思う時もある。だが、夜になると、まだ見たことのない町の灯や、遠い山の向こうの景色や、汽車に乗ってどこかへ行く自分を思い描くこともあった。そのたび胸は苦しくなった。苦しいのに、少し甘かった。

 古い蜜柑の木は、枝先の残り蜜柑を揺らした。

 ――幹夫。甘くなるものは、みな一度は青かった。

 幹夫はその言葉を、掌に受けるように聞いた。

 ――青い実は、青いままでいたいとは言わぬ。かといって、急いで甘くなろうともしない。ただ、雨を受け、陽を受け、風に吹かれる。そうしてある日、自分でも知らぬうちに色づくのだ。

 幹夫は、枝についた蜜柑に手を伸ばした。

 触れると、皮は少し冷たかった。けれど内側には確かにぬくもりがあった。幹夫はその蜜柑をもがず、ただ両手で包んだ。

「ぼく、怖いんだ」

 声に出すと、胸の中で固くなっていたものが、少しだけほどけた。

「中学校へ行くのも、背が伸びるのも、父ちゃんみたいな男になるのも。ぼくは、まだ知らないことばかりで……知らないことは、暗い穴みたいに見える」

 古い木は黙っていた。

 その沈黙は、突き放すものではなかった。土が種を包むような沈黙だった。

 やがて、蜜柑の葉の間から一羽の目白が飛び出した。黄緑色の小さな体が、光の中をすばやく渡っていく。幹夫の目には、その鳥が一瞬、葉から生まれた春そのもののように見えた。

 ――暗い穴にも、根は伸びる。

 木が言った。

 ――根は光を知らぬ。けれど光を支えている。見えぬところへ伸びることを、恐れすぎてはいけない。

 幹夫は膝をついた。

 土に手を置くと、冷たさの下に、かすかな湿り気があった。もっと深くには、根がある。木を支える根。花を咲かせる根。実を甘くする根。誰にも見られず、褒められず、それでも毎日、暗い土の中へ伸びていくもの。

 幹夫は、自分の胸にも根があるような気がした。

 今はまだ細く、頼りなく、石に当たれば曲がってしまうような根。けれどそれは、たぶんどこかへ伸びようとしている。怖がりながら、迷いながら、それでも水の匂いを探している。

 幹夫は立ち上がり、落ちた枝を一本ずつ籠に入れた。

 さっきまで痛ましく見えていた枝が、少し違って見えた。切られた枝は終わりではなく、畑の土へ返るものだった。やがて燃やされて灰になるものもあるだろう。その灰はまた土に混じり、根に吸われ、葉になり、花になり、実になるのかもしれない。

 幹夫は、鋏を手に取った。

 父に言われていた、細く絡まった枝が一本ある。光を遮り、ほかの枝に寄りかかるように伸びていた。幹夫はしばらくそれを見つめた。

「切っても、いいかな」

 ――おまえが聞いたなら、もう大丈夫だ。

 幹夫は両手で鋏を握った。

 ちきん。

 小さな音がした。

 枝は落ちた。幹夫の胸にも痛みが走った。けれどその痛みの向こうで、木の内側へ光が差し込むのがわかった。ほんのわずかな隙間だった。だがそこには、春が入ってくるだけの広さがあった。

 幹夫は落ちた枝を拾い、籠に入れた。

 その時、枝先の芽が、陽の中でほんの少しふくらんだように見えた。見間違いかもしれない。けれど幹夫は、見間違いでもよかった。世界には、見間違いの形をして本当にやって来るものがあると、彼はその朝、初めて知った。

 昼近くになると、海の光はさらに明るくなった。

 町の方から汽車の汽笛が聞こえた。細く長い音が、山の斜面を渡り、蜜柑畑の上でほどけていく。幹夫はその音を聞きながら、四月から通う道を思った。知らない教室、知らない先生、まだ名前も知らない友だち。胸はやはり少し怖かった。けれど、その怖さの中には、さっきまでなかったものが混じっていた。

 それは、芽のようなものだった。

 幹夫は古い蜜柑の木に向かって、ぺこりと頭を下げた。

「また、聞きに来るよ」

 木は何も答えなかった。

 ただ葉を鳴らした。海からの風を受け、春の光を受け、古い幹に新しい影を落としながら。

 幹夫は籠を背負い、石段を下りた。背中の枝は思ったより重かったが、不思議と苦ではなかった。家へ帰れば、母が「遅かったね」と言うだろう。父は夕方になれば、剪定の具合を見に来るだろう。その時、幹夫はうまく説明できないかもしれない。蜜柑の木が話したことも、自分の胸に根があると感じたことも、言葉にすればたちまち消えてしまいそうだった。

 けれど、それでよかった。

 大切なことのいくつかは、誰にも見えないところで育つ。土の中の根のように。枝先の芽のように。まだ声にならない少年の心のように。

 段々畑の下まで来た時、幹夫は振り返った。

 三月の蜜柑畑は、静かに光っていた。古い木も若い木も、切られた枝も残された枝も、みな同じ春の中にいた。駿河湾の向こうから来る風が、葉を揺らし、幹夫の頬を撫でた。

 その風は、ほんの少しだけ蜜柑の花の匂いがした。

 まだ咲いていない花の匂いだった。

 幹夫は笑った。

 そして、自分でも気づかぬほど小さな声で言った。

「ぼくも、これから咲くんだな」

 風は答えなかった。

 けれど蜜柑畑全体が、やわらかくうなずいたように見えた。

 
 
 

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