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五月の白い声

昭和二十五年の五月、静岡県庵原郡蒲原町の丘には、みかんの花がこぼれるように咲いていた。

海から上がってくる風は、まだ朝の冷たさを少しだけ含んでいて、それが畑のあいだを通るたび、白い花びらが小さくふるえた。風は蜜の匂いを抱いて、石垣の苔や、濡れた土や、遠くの駿河湾の青さまでを、ひとつのやわらかな息にして運んでくる。

七歳の幹夫は、畑のいちばん上の段に立っていた。

足もとの草は夜露に濡れ、足袋の先をしっとりと冷やした。みかんの木々は、低い背をまるくかがめるようにして並んでいた。幹夫にはそれが、何か大事なことを小声で相談している大人たちの背中のように見えた。

「おはよう」

幹夫がそっと言うと、いちばん近くの木の葉が、さわ、と鳴った。

返事があった、と幹夫は思った。

家では、あまり大きな声を出さない子だと言われていた。母は「幹夫は耳がよすぎるんだねえ」と笑った。けれど幹夫は、耳だけではないと思っていた。目も、鼻も、胸の奥の、名前のないところも、みんな少しずつ開きすぎている気がした。

父が鍬を振るう音。祖母が台所で味噌汁をかきまぜる音。隣家の赤ん坊の泣き声。遠くを走る汽車の、腹の底に響くような音。それらは幹夫の胸に、ひとつひとつ水滴のように落ちた。

うれしい音は、胸を明るくした。かなしい音は、いつまでもそこに残った。

戦争が終わって五年たっても、大人たちの話し声の中には、時々、黒い影のようなものが混じった。幹夫はその影の名前をよく知らなかったが、知らないままでも、胸はきゅっと痛くなった。

だから幹夫は、みかん畑にいるのが好きだった。

畑の音は、どれも急がなかった。葉のこすれる音も、蜂の羽音も、石垣のすきまから水がしみ出す音も、みんなゆっくりしていた。ここでは、胸の痛みまでが、土にほどけていくようだった。

幹夫は一本の若い木の前にしゃがんだ。

その木は、ほかの木より少しだけ小さかった。去年の台風で枝を折られ、幹に細い傷が残っていた。父は「こいつは今年、実をつけるかどうか分からんな」と言っていた。けれど幹夫は、この木がいちばん気になっていた。

白い花が三つ、枝先に咲いていた。

花びらは厚く、まるで米粒で作った小さな星のようだった。真ん中には黄色いしべがあり、そこから甘い匂いが立っていた。幹夫は鼻を近づけ、目を閉じた。

そのとき、声がした。

――そんなに近づくと、くすぐったいよ。

幹夫は目を開けた。

畑には誰もいなかった。下の段では父がまだ来ていない。海の方で、かすかに鳥が鳴いただけだった。

「いま、言った?」

幹夫は木に向かって尋ねた。

葉がまた、さわ、と鳴った。

――聞こえたのなら、そうだろうね。

幹夫は息を止めた。怖くはなかった。むしろ、ずっと前から待っていたことが、ようやく本当になったような気がした。

「木は、しゃべるの?」

――いつもしゃべっているよ。ただ、人間の耳は忙しいから、たいてい通りすぎてしまう。

幹夫は胸に手を当てた。そこが少し熱くなっていた。

「ぼくの耳は、忙しくないの?」

――君の耳は、まだ空が入るくらい広い。

そう言われると、幹夫は少し恥ずかしくなった。けれど、その恥ずかしさは嫌なものではなかった。春の陽に干した布団の中にもぐる時のように、くすぐったくて温かかった。

蜂が一匹、花のあたりを旋回した。黒と黄色の小さな体が、陽を受けてぴかりと光る。幹夫は思わず手で払おうとした。

――払わないでおくれ。

木の声が言った。

――あの子は手紙を運んでいる。

「手紙?」

――花から花へ。見えない粉の手紙だよ。それが届くと、花は実になる準備を始める。

幹夫は蜂を見つめた。蜂は忙しそうに花の中へもぐり、黄色い足を震わせていた。前はただの虫に見えていたものが、急に小さな郵便屋のように思えた。

「じゃあ、この花も、みかんになるの?」

幹夫は三つの白い花を指さした。

木はしばらく黙った。

海の方から、少し強い風が吹いた。畑の葉が一斉に裏を見せ、銀色に光った。その風に乗って、一枚の花びらが落ちた。幹夫の膝の上に、白く、軽く、音もなく降りた。

幹夫の胸が、急に縮んだ。

「落ちちゃった」

声が小さくなった。

「だめなの? もう、みかんにならないの?」

幹夫は花びらを指先に乗せた。ほんの少し前まで枝についていたそれは、もう力を失っていた。白さだけが残っていて、幹夫にはそれが、何かの終わりのように見えた。

――花はみんな実になるわけではないよ。

木の声は、さっきより低く、土に近い響きをしていた。

――落ちる花もある。風に持っていかれる花もある。虫に食べられる花もある。けれど、それで木が悲しみだけになるわけではない。

「でも、かわいそうだよ」

――かわいそうと思える君の胸は、やわらかい。やわらかい胸は、痛みをよく知る。けれど、痛みを知った胸は、守ることも覚える。

幹夫は膝の上の花びらを見た。

守る。その言葉は、七歳の幹夫には少し大きかった。けれど、大きいからこそ、胸の奥にまっすぐ落ちた。

「ぼく、何を守れるの?」

幹夫は尋ねた。

木は葉を鳴らした。まるで笑ったようだった。

――まずは、踏まないことだね。

「踏まない?」

――落ちた花を。小さな虫を。土の下で眠っている根を。誰かの黙っている気持ちを。

幹夫はゆっくり立ち上がった。

立ち上がる時、いつもなら草をぐっと踏みしめるのに、その朝は足を置く場所を探した。濡れた草の間には、小さな蟻が歩いていた。白い花びらが二枚、土の上に散っていた。幹夫は足を少し横にずらした。

ただそれだけのことだった。

けれど幹夫には、その少し横へずらした足の分だけ、自分の中に新しい道ができたように感じられた。

下の段から父の声がした。

「幹夫、そこにいたのか」

父は鍬を肩にかついで、石段を上がってきた。日に焼けた顔に汗が光っている。戦地から戻ってきてから、父は笑う時もどこか遠くを見ることがあった。幹夫はその遠さが怖くて、時々、父に話しかける言葉をなくした。

けれど今朝は、言葉が少しだけ見つかった。

「父ちゃん」

「なんだ」

「花、落ちても、木は悲しみだけじゃないんだって」

父は足を止めた。

幹夫は、自分が今、少し変なことを言ったのだと気づいた。頬が熱くなる。父に笑われるかもしれないと思った。

だが父は笑わなかった。

若いみかんの木を見て、それから幹夫の膝のあたりについた白い花びらを見た。しばらく黙っていた父は、鍬を地面に下ろし、ゆっくりと言った。

「そうかもしれんな」

風が二人の間を通った。

父の声は低かったが、その中には、いつもの遠さとは違うものがあった。遠くから帰ってきた人の声ではなく、今ここにいる人の声だった。

幹夫は、胸の中の何かがほどけるのを感じた。

「じゃあ、父ちゃんも?」

そう言いかけて、幹夫は言葉を止めた。

父の中にも落ちた花があるのではないか。幹夫はそう思った。けれど、それをそのまま言ってはいけない気がした。木が教えてくれた「誰かの黙っている気持ちを踏まないこと」を、幹夫は思い出した。

父は幹夫を見た。

「なんだ?」

「ううん」

幹夫は首を振った。

そして、かわりに言った。

「この木、今年、少しでも実がなるといいね」

父は目を細めた。

「ああ。少しでもな」

その言葉のあと、父は若い木の根元の土を、鍬でやさしく寄せた。幹夫には、その手つきが、人の肩に布団をかける時のように見えた。

蜂がまた一匹、花のまわりを飛んだ。海は朝の光を受けて、遠くで静かにきらめいていた。山の斜面に並ぶみかんの木々は、白い花を抱えたまま、何も言わずに二人を見守っていた。

幹夫は、さっき落ちた花びらを拾い、木の根元にそっと置いた。

「ここなら、踏まれないよ」

すると若い木が、ほんの少し枝を揺らした。

――ありがとう、幹夫。

その声は、風の音にまぎれるほど小さかった。けれど幹夫には、はっきり聞こえた。

その日から、幹夫は畑を歩く時、足もとを見るようになった。花の散った場所、蟻の道、土の割れ目、影の向き。見ようとすると、世界は前よりずっとたくさんのものを持っていた。

そして幹夫は知った。

成長するということは、背が伸びることだけではない。大きな声で言えることが増えることだけでもない。

小さなものを踏まないように、少しだけ足をずらせること。落ちた花を、終わりではなく、土へ帰る途中として見られること。黙っている誰かの心にも、根があるのだと想像できること。

五月のみかん畑は、その朝、七歳の少年にそんなことを教えた。

白い花の匂いは、昼が近づくにつれて濃くなっていった。幹夫は父のそばで草を抜きながら、ときどき若い木を見上げた。

三つあった花は、二つになっていた。けれど枝先には、光が宿っていた。

それはまだ実ではなかった。けれど、実になるかもしれないものだった。

幹夫はその小さなふくらみを見つめ、胸の奥でそっと言った。

「ぼくも、ゆっくりでいい?」

畑じゅうの葉が、さわさわと鳴った。

まるで蒲原の丘全体が、海からの風と、五月の光と、白いみかんの花の匂いを合わせて、少年に返事をしているようだった。

――ゆっくりでいい。甘くなるには、時間がいる。

 
 
 

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