十三駅、太陽を殺す時刻表
- 山崎行政書士事務所
- 2 時間前
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※作中の鉄道ダイヤ・駅構造・事件設定はすべてフィクションです。
最初の死体は、十三駅の時刻表の裏から現れた。
大阪の夜は雨だった。淀川から吹く湿った風が、十三駅前のアーケードを低く鳴らしていた。居酒屋の赤提灯は雨粒でにじみ、終電を急ぐ人々の足音が、線路の上を走る電車の轟音に飲み込まれていく。
午後十時十三分。
駅裏の古い映画館跡で、元駅員の水野周一が死んでいた。
胸には折り畳まれた時刻表。赤ペンで、ただ一つの時刻だけが囲まれていた。
二十二時十三分。十三駅発。
捜査一課の刑事、日向烈は、その赤い丸を見た瞬間、奥歯を噛みしめた。
「ふざけやがって」
彼は熱血という言葉を人間にしたような男だった。短気で、声が大きく、上司には何度も怒鳴られ、犯人には何度も殴られた。だが、被害者の前では必ず黙る。死者に向かって怒鳴ることだけはしなかった。
相棒の白石澪が、遺体のそばに落ちていたスマートフォンを拾った。
「動画があります」
画面の中で、水野は椅子に縛られていた。顔は恐怖で歪み、口元が震えている。背後では、はっきりと十三駅の発車アナウンスが聞こえた。
『二十二時十三分発、神戸方面――』
水野が泣きながら叫んだ。
「助けてくれ……MAXが来る……!」
直後、画面は黒くなった。
烈は拳を握った。
「MAX?」
その名は、翌朝には警察中に広まった。
犯人は自らそう名乗った。捜査本部宛てに届いた黒い封筒には、整った文字でこう書かれていた。
人間は嘘をつく。だが、時刻表は嘘をつかない。十三駅で、太陽を殺す。――MAX
封筒の中には、次の時刻表が入っていた。
二十三時十三分。
容疑者はすぐに浮かんだ。
久遠怜人。
二十九歳。天才的な鉄道ダイヤ解析アプリ「DIA-MAX」の開発者。テレビでは“測定不能のIQを持つ男”として持ち上げられ、ネットでは半ば神のように扱われていた。
彼は十三駅のダイヤを、子どものころから丸暗記していたという。
だが、水野殺害時刻、久遠には完璧なアリバイがあった。
午後十時九分、十三駅の防犯カメラに映っていた。午後十時十一分、神戸方面行きの急行に乗車。午後十時十三分、列車はすでに十三駅を離れていた。午後十時二十七分、別の駅で降車する姿も確認されている。
つまり、動画が正しければ、久遠は犯行現場にいられない。
澪が静かに言った。
「犯人は時刻表を使って、殺人時間を証明している。しかも、その時刻に自分は別の場所にいる」
烈は吐き捨てた。
「それをアリバイって言うんだろ」
「普通は」
澪は動画を何度も巻き戻した。
「でも犯人は普通じゃない」
その夜、第二の殺人が起きた。
午後十一時十三分。
十三駅西口の雑居ビル屋上で、建設会社社長の田所誠が殺された。
田所のスマートフォンにも動画が残されていた。背後では、また十三駅のアナウンス。
『二十三時十三分発、京都方面――』
田所は泣きながら、同じ言葉を口にした。
「MAXが来る……!」
だが、その時刻、久遠怜人は警察署にいた。
任意同行に応じ、烈たちの前で紅茶を飲んでいた。彼は取調室の時計を眺め、午後十一時十三分ちょうどに微笑んだ。
「刑事さん」
「何だ」
「人が死ぬ時間です」
直後、澪の携帯が鳴った。
第二の遺体発見。
久遠は椅子に背を預け、薄く笑った。
「時刻表は美しいでしょう? 誰も遅れない。誰も裏切らない。人間だけが、いつも醜い」
烈は机を叩いた。
「てめえがやったんだろ!」
「証明してください。刑事なら」
久遠は烈の目を見つめた。
「あなたの怒鳴り声では、電車一本止められませんよ」
烈は胸ぐらを掴みかけた。澪が腕を押さえた。
「日向さん。挑発です」
烈は息を荒くしながら、手を引いた。
久遠は笑った。
「十三駅には三本の線が集まる。人の人生も同じです。京都へ行く者、神戸へ行く者、宝塚へ行く者。けれど、終点は一つ」
「どこだ」
「死です」
その時、烈は本気で思った。
こいつは殺人を楽しんでいる。
第三の殺人は、午前零時十三分に起きた。
被害者は大槻健一。元新聞記者。十三駅前の古い喫茶店で、首を吊ったように見せかけられていた。
だが、遺体の足元には踏み台がなかった。
スマートフォンには、やはり動画。
『零時十三分発――』
「MAXが来る……」
その瞬間、久遠怜人は警察署の取調室で、烈と向かい合っていた。
誰もが言葉を失った。
久遠は両手を広げた。
「これで三人。刑事さん、あなた方は私を疑う。だが私はここにいる。時刻表の上で、私はいつも無実です」
烈は立ち上がり、取調室の扉を蹴り開けた。
「澪、現場に行くぞ!」
「でも久遠は――」
「こいつは後だ!」
「証拠がないままでは逮捕できません」
「証拠は現場にある!」
烈は雨の十三へ戻った。
駅前商店街は、終電後の静けさに沈んでいた。だが、烈の耳にはまだ発車ベルが鳴っているようだった。
三つの動画。三つの時刻。三つのアリバイ。
犯人は毎回、時刻表を盾にしていた。
人間の証言より、駅のアナウンス。体温の曖昧な推定より、動画の時刻。刑事の勘より、電車の定刻。
烈は喫茶店の窓辺に立った。向かいには十三駅のホームが見える。
そのとき、背後から小さな声がした。
「刑事さん」
振り返ると、近所の食堂の老女、千代が立っていた。十三駅前で五十年、朝から晩まで定食を出している女だ。烈も若いころ、金がないときに何度も飯を食わせてもらった。
「千代さん、危ないから帰ってくれ」
「水野さんも田所さんも大槻さんも、昔はよう来てくれた。そやけど、あの子のことだけは、誰も話さへんかった」
「あの子?」
千代は、喫茶店の古い壁を見た。
「朝陽ちゃんや」
烈の胸が、妙に冷えた。
朝陽。
その名前は、黒い封筒にもあった。
十三駅で、太陽を殺す。
「朝陽ちゃんは、十三駅の子やった。親に捨てられて、商店街のみんなで面倒見てた。いつも笑ってな、『陽はまた昇るから大丈夫』って言う子やった」
千代は唇を震わせた。
「十三年前、死んだ。事故や言われた。けどな、ほんまは違うんとちゃうかって、ずっと思てた」
烈は黙った。
雨音が、屋根を叩いていた。
「刑事さん」
千代はスマートフォンの動画を指さした。
「この動画、今日の夜やないわ」
澪が顔を上げた。
「どうしてですか」
「向こうに映ってるやろ、うちの看板」
動画の端に、食堂の黄色い看板が小さく映っていた。
あさひ食堂。
「今日は雨漏りで電気切ってた。看板、夕方から消えてたんや」
烈の目が細くなった。
「でも動画では光ってる」
「せや。これは今日やない」
澪が息を呑んだ。
「動画は事前に撮られていた……?」
烈はすぐに全ての動画を見返した。
第一の動画。水野の背後、駅のホームに映る広告。第二の動画。田所の背後、濡れていない歩道。第三の動画。大槻の背後、消えているはずの看板が光っている。
そして、音。
烈は駅員に確認した。
その夜、雨の影響で四番線のスピーカーが故障し、午後九時半以降、発車アナウンスは別系統に切り替えられていた。
だが、三つの動画の音声では、四番線のアナウンスが鮮明に入っていた。
澪が言った。
「犯行時刻は、動画が送信された時刻。殺害時刻ではない」
烈は低く言った。
「殺しは十三分前だ」
久遠は、被害者を事前に縛り、動画を撮らせた。駅の音は別の日に録音したもの。動画の時刻情報は改ざんし、決められた時刻に自動送信させた。
午後十時十三分に動画が届いたとき、水野はすでに死んでいた。午後十一時十三分に動画が届いたとき、田所もすでに死んでいた。午前零時十三分に動画が届いたとき、大槻もすでに死んでいた。
久遠のアリバイは完璧ではなかった。
完璧なのは、警察に“時刻表を信じさせる”罠だった。
烈は拳を握った。
「俺たちは、死体じゃなくて電車を見てた」
澪が顔を上げた。
「でも、まだ終わっていません」
捜査本部に、四通目の封筒が届いた。
中には、始発前の時刻表。
赤く囲まれていた時刻は――
四時十三分。
そして一枚の写真。
縛られた澪の写真だった。
烈の血が凍った。
澪はすぐ横にいた。だが写真の中の澪は、今の服と違う。髪も少し濡れている。
「これも事前撮影か……?」
澪が唇を噛んだ。
「違います。これは今日です」
その瞬間、彼女の携帯が鳴った。
画面には非通知。
烈が出た。
久遠の声が聞こえた。
「刑事さん、次はあなたの相棒です」
「てめえ、どこにいる!」
「十三駅です。もちろん、時刻表の中に」
「澪はここにいる」
「今は、ね」
電話の向こうで、久遠が笑った。
「三時五十九分。あなたがそれに気づけるか、試してみましょう。人間の熱血が、時刻表に勝てるかどうか」
通話が切れた。
烈は澪を見た。
「お前、絶対に一人になるな」
「日向さんもです」
だが、その言葉が終わるより早く、庁舎の照明が落ちた。
非常灯が赤く点滅する。
一瞬の混乱。
その隙に、澪が消えた。
床には、黒い封筒。
四時十三分に死ぬと思うな。君たちは、いつも十三分遅い。
烈は走った。
考えるより先に体が動いていた。
十三駅へ。
雨は止みかけていた。空はまだ黒く、始発前の駅は眠っているようだった。だが、烈には分かっていた。
犯人は四時十三分に殺す気などない。
四時ちょうどだ。
十三分前。
駅の高架下、使われなくなった旧信号室。そこに、澪はいた。
椅子に縛られ、足元には古い駅の時計。針は三時五十九分を指している。
その背後で、久遠怜人が待っていた。
黒いコート。濡れた髪。白い顔。微笑み。
「見事です、日向刑事。あなたはようやく、時刻表の外に出た」
烈は息を切らしながら言った。
「澪を離せ」
「嫌です」
久遠は澪の首元にナイフを当てた。
「この人が死ねば、完成します。十三駅、十三年前、十三分前。美しいでしょう?」
「美しくなんかねえ」
烈は一歩踏み出した。
「お前がやってるのは、人を殺して遊んでるだけだ」
久遠の笑みが消えた。
「遊び?」
「違うのか」
「これは復讐です」
「朝陽のか」
久遠の目が揺れた。
烈はポケットから古い資料を取り出した。
「調べた。朝陽には兄弟はいなかった。お前は家族じゃない」
久遠の顔から、血の気が引いた。
「黙れ」
「十三年前、朝陽を旧信号室に閉じ込めたのはお前だ。助けを呼べば間に合った。でもお前は試したんだ。『人間は何分で死ぬか』『大人は何分で気づくか』。子どもの残酷な実験だ」
「黙れ!」
「水野、田所、大槻は真実を知っていた。事故にして隠した。だからお前は殺した。復讐じゃない。口封じだ」
久遠の手が震えた。
「違う……僕は……僕は朝陽を……」
「好きだったのか?」
烈の声は低かった。
「それとも、自分より明るい人間が許せなかったのか」
久遠は叫んだ。
「彼女は太陽だった! みんなが彼女を見た! 僕を見なかった! だから、太陽なんて消えればいいと思った!」
澪の目に涙が浮かんだ。
烈は言った。
「それがお前の正体だ。IQが高い? 時刻表を覚えてる? だから何だ。お前は、寂しさを殺人に変えた子どものままだ」
久遠はナイフを振り上げた。
烈は飛び込んだ。
刃が肩を裂いた。熱い痛みが走る。それでも烈は止まらなかった。久遠の腕を掴み、壁に叩きつけた。
二人は旧信号室の床を転がった。
窓の外、始発の試運転列車が轟音を立てて通過した。部屋が震え、古い時計が落ちて割れた。
三時五十九分。
久遠は笑いながら、烈の首を絞めた。
「間に合わない……人間はいつも遅れる……!」
烈は膝で久遠の腹を蹴り上げた。
「遅れてねえよ」
彼は血の滲む肩で久遠を押さえつけた。
「俺は今、ここにいる」
澪が椅子ごと倒れながら、床に落ちていたナイフを遠くへ蹴った。
烈は久遠の腕をねじ上げた。
「終わりだ、MAX」
久遠は笑った。泣いているようにも見えた。
「終わらない。時刻表は繰り返す。朝が来ても、また夜が来る」
烈は荒い息を吐いた。
「それでも朝は来る」
外で、始発のアナウンスが鳴った。
今度は録音ではなかった。
本物の朝の音だった。
久遠怜人は逮捕された。
三件の殺人と、十三年前の朝陽の死。全てが明らかになったわけではない。水野も田所も大槻も、自分たちが隠した罪を抱えたまま死んだ。朝陽は戻らない。久遠がどれだけ裁かれても、失われた時間は戻らない。
事件が終わっても、十三駅はいつも通り動き出した。
人々は改札を抜ける。誰かは京都へ向かう。誰かは神戸へ向かう。誰かは宝塚へ向かう。誰かは帰る家を持ち、誰かは持たない。
烈は肩に包帯を巻いたまま、十三駅前のあさひ食堂に座っていた。
千代が味噌汁を置いた。
「朝陽ちゃん、よう言うてたわ」
烈は顔を上げた。
「何を」
「夜が長い日ほど、朝焼けはきれいやって」
澪は窓の外を見た。
空が白み始めていた。
淀川の向こうから、薄い光が差してくる。線路の上を、始発電車がゆっくり走っていく。
烈は、朝陽という少女を知らない。
それでも、その子が笑っていた商店街を見た。その子が信じていた朝を見た。その子を殺した絶望の跡に、まだ人が飯を作り、電車に乗り、誰かを待っているのを見た。
久遠の言う通り、時刻表は繰り返す。
だが、人間も繰り返す。
傷ついても、飯を食う。泣いても、歩く。失っても、誰かを抱きしめる。夜が来ても、また朝を待つ。
烈は味噌汁をすすった。
熱かった。
生きている味がした。
窓の外で、十三駅のホームに朝日が差した。
烈は小さく呟いた。
「陽は、また昇る」
そしてその言葉は、誰に向けたものでもなく、すべての死者に向けた祈りだった。





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