死体は時刻表より正確に笑う
- 山崎行政書士事務所
- 2 時間前
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――多摩センター駅・終電前連続殺人――
※実在の駅名を舞台にしたフィクションです。時刻表・駅構造・事件・人物は物語上の創作です。
多摩センター駅には、三つの時刻がある。
京王の時刻。小田急の時刻。そして、空を走るモノレールの時刻。
刑事の朝日奈烈は、その夜まで、時刻表というものをただの数字の羅列だと思っていた。
何時何分に電車が来る。何時何分に人が乗る。何時何分に街が動き出す。
だが、その夜。
時刻表は、人を殺した。
いや、正確には――人を殺した男が、時刻表の顔をして笑っていた。
最初の死体が見つかったのは、午後八時十二分。
京王多摩センター駅と小田急多摩センター駅を結ぶ通路のベンチに、初老の男が座っていた。眠っているように見えた。膝には古びたポケット時刻表が置かれている。胸元には小さな白い紙。
そこには、赤いペンでこう書かれていた。
20:12君たちの正義は、いつも四分遅れる。IQ = MAX
死んでいた男の名は、石塚裕介。かつて鉄道会社のダイヤ編成に関わっていた人物だった。
朝日奈烈は現場に飛び込むなり、規制線をくぐった。
「ふざけやがって……!」
若い鑑識が顔を上げる。
「朝日奈さん、まだ――」
「まだじゃねえ! 人が死んでるんだぞ!」
烈の声が通路に響いた。買い物帰りの人々が遠巻きに足を止め、警官が慌てて誘導する。駅の照明は明るいのに、ベンチの周囲だけが深い井戸の底のように暗かった。
相棒の水瀬灯が、冷静な声で言った。
「死亡推定時刻は、午後八時前後。ですが奇妙です。被害者のスマホから、午後八時十二分ぴったりに警視庁へ音声ファイルが送られています」
「聞かせろ」
灯がスマホを再生した。
雑踏。足音。駅の自動放送。
そして、石塚らしき男の震えた声。
『助けてくれ……俺は、時刻表に殺される……』
その直後、別の声が入った。
若い男の声。澄んでいて、笑っていた。
『朝日奈烈。君は走るのが好きだろう? では走れ。次は二十時四十七分。三つの多摩センターの真ん中で待っている』
音声が切れた。
朝日奈は拳を握った。
「俺の名前を知ってやがる」
「挑発です」
「上等だ」
そのとき、駅員の一人が近づいてきた。
紺色の制服に、柔らかな目。胸の名札には、牧野湊とあった。
「刑事さん。これ、温かいですから」
差し出されたのは缶コーヒーだった。
朝日奈は一瞬、面食らった。
「今はそんな場合じゃ――」
「人が死んだ場所で、人まで冷たくなったら、本当に終わりです」
牧野は静かに言った。
その言葉に、朝日奈は怒鳴り返せなかった。
缶コーヒーは熱かった。
その熱さだけが、その夜の多摩センター駅で、まだ人間の側にあるもののように思えた。
二人目の死体は、本当に午後八時四十七分に見つかった。
モノレールへ続く高架通路の踊り場。被害者は野々宮和枝、交通事故訴訟を専門にしていた元弁護士だった。彼女の手にも、時刻表が握られていた。
赤い文字。
20:47乗り換え三分。命の乗り換えは、もっと短い。
朝日奈は駆けた。
通路を走り抜け、階段を三段飛ばしで下り、制服警官の制止も聞かずに防犯カメラ室へ飛び込んだ。
「映像を出せ!」
モニターには、午後八時四十二分の映像が映っていた。
フードをかぶった男が、野々宮の後を追っている。
「こいつだ!」
朝日奈は怒鳴った。
だが、灯が別のモニターを指した。
「待ってください。同時刻、同じ服装の人物が小田急側の改札にもいます」
「どういうことだ」
「さらに五分後、モノレール側にも映っています。時刻表上の移動では不可能です」
朝日奈は画面を睨んだ。
京王、小田急、モノレール。
三つの駅。三つの改札。三つの時計。
犯人は、そのすべてを嘲笑うように映像に現れ、そして消えていた。
その直後、朝日奈の携帯が鳴った。
非通知。
「朝日奈だ」
『走るのが速いね、刑事さん』
あの声だった。
「てめえ、どこにいる!」
『駅だよ。君の目の前にある駅。君たちが“ひとつ”だと思っている駅』
「名乗れ」
『名乗っているじゃないか。MAXだ』
「人を殺して楽しいか」
沈黙。
それから、笑い声。
『楽しい? 違うよ。これは鑑賞だ。人間が時刻表に負ける瞬間ほど、美しいものはない』
朝日奈は歯を食いしばった。
「俺が捕まえる」
『無理だよ。君は熱い。熱いものは、冷たい数字に勝てない』
電話は切れた。
朝日奈は壁を殴った。
拳から血が滲んだ。
灯が言った。
「朝日奈さん。怒りでは解けません」
「じゃあ何で解くんだ」
「人です」
灯は、最初の現場にいた小さな男の子を見ていた。
迷子として保護されていた子だ。牧野湊がずっと世話をしていた。男の子は恐竜のぬいぐるみを抱いて、泣き疲れた顔でベンチに座っていた。
朝日奈はしゃがんだ。
「名前は?」
「凪」
「怖かったな」
凪はこくりとうなずいた。
「おじさん、走ってた」
「どのおじさんだ?」
「駅員さん。やさしい駅員さん。でもね」
凪はぬいぐるみを抱きしめた。
「放送、変だった」
灯が目を細める。
「変?」
「さっき聞いたのと同じだった。女の人が『本日は特別ダイヤ』って言った。でも、ママが『今日は普通の日だよ』って」
朝日奈と灯は顔を見合わせた。
「音声ファイルだ」
灯が低く言った。
「犯人は、被害者がその時刻に生きていたように見せかけるため、駅の放送音を使った録音を送っていた」
朝日奈の中で、何かが噛み合った。
死亡推定時刻は曖昧だった。スマホの送信時刻だけが正確すぎた。時刻表だけが、犯人の言い分だった。
「つまり、殺しはもっと前に行われていた」
「はい。犯人のアリバイは、犯行時刻そのものを偽装して作られていた」
朝日奈は立ち上がった。
「時刻表アリバイじゃねえ」
灯がうなずく。
「時刻表に見せかけた、感情のアリバイです」
三人目の死体が見つかったのは、午後九時三十一分。
駅前の広場。イルミネーションの下だった。
被害者は鹿島了。かつて大手広告代理店に勤め、多摩センター周辺の再開発広報に関わっていた男。
彼の胸元の紙には、こうあった。
21:31君たちはまだ、あの子の時刻を知らない。始発で最後の答えを見せる。
「あの子……?」
灯は被害者三人の過去を洗った。
石塚裕介。野々宮和枝。鹿島了。
三人には共通点があった。
十二年前、多摩センター駅周辺で起きた女子中学生の転落死亡事故。
少女の名は、瀬戸茜。
当時、駅構内で小規模な混乱が起きていた。臨時ダイヤ、誘導ミス、遅延隠し、責任逃れ。報告書には「死亡推定時刻二十時十二分」と記されていたが、救急通報はそれより十七分も後だった。
石塚はダイヤ担当。野々宮は会社側の顧問弁護士。鹿島は事故後の広報担当。
三人は、茜が助けを求めていた時間を、記録の中から消した。
「ひでえ話だ」
朝日奈は資料を握り潰した。
灯が静かに言う。
「瀬戸茜には弟がいました。事故後、母方の姓に変わっています」
「今の名前は?」
灯は、ためらった。
「牧野湊」
朝日奈の胸の中で、缶コーヒーの熱が一瞬で氷になった。
牧野湊は、案内カウンターにいなかった。
代わりに、一枚の時刻表が置かれていた。
赤い文字。
04:58始発前。太陽が昇る前に、最後の列車を止めに来い。朝日奈烈、君ひとりで。
朝日奈は署に連絡しようとした。
だが、その直後、灯の携帯から着信があった。
画面には灯の名前。
出ると、牧野の声がした。
『相棒さんは預かった。大丈夫、まだ殺していない。僕は優しいからね』
「牧野!」
『君は怒鳴ると昔の大人たちに似ている。誰かを助けるより、自分の正しさを証明したがる』
「灯に手を出したら――」
『どうする? 殺す? いいね。それで僕と同じだ』
電話の向こうで、灯の声がかすかに聞こえた。
『朝日奈さん……来ないで……罠です……』
通話が切れた。
朝日奈は走った。
終電後の多摩センター駅は、昼間とは別の怪物だった。
シャッターが半分下りた通路。誰もいない改札。遠くで震える誘導灯。巨大な時計だけが、空っぽの街に秒針を刻んでいた。
朝日奈は、牧野が残した紙の裏に、小さな鉛筆の跡を見つけた。
「三つの多摩センターの真ん中」
それは、利用客が通る道ではなかった。
駅員用の連絡通路。
朝日奈は非常扉を蹴り開けた。
警報音が鳴った。
狭い階段を駆け上がる。息が焼ける。足がもつれる。だが止まらない。
屋上に近い管理通路で、牧野湊が待っていた。
その足元に、水瀬灯が縛られて座っている。口元には布。意識はある。
牧野は制服姿のまま、穏やかに微笑んだ。
「遅かったね」
朝日奈は肩で息をしながら言った。
「まだ始発じゃねえ」
「そう。君は初めて時刻表に勝った」
「三人を殺したのか」
「うん」
あまりにも軽い返事だった。
朝日奈の拳が震えた。
「姉さんの復讐か」
牧野の笑みが、少しだけ消えた。
「最初はね」
「最初は?」
「復讐は一度で終わる。でも、あいつらが怯える顔を見たらわかった。僕は悲しみで殺しているんじゃない。僕は、僕の頭の中で組んだ時刻表通りに人が壊れていくのを見るのが好きなんだ」
朝日奈は一歩踏み出した。
「お前は天才なんかじゃない」
牧野の目が冷たくなる。
「僕の知能検査は測定不能だった。上限を超えた。MAXだよ」
「違う」
朝日奈は言った。
「お前は、誰にも助けてくれと言えなかった子どものまま、時刻表の陰に隠れてるだけだ」
牧野は笑った。
その瞬間、彼は灯の背後に立ち、片手で何かのスイッチを握った。
「刑事さん。選んで。僕を捕まえるか、彼女を助けるか」
朝日奈は迷わなかった。
飛び込んだ。
牧野の身体にぶつかり、二人は管理通路の床を転がった。金属音。痛み。牧野は細い体に似合わぬ力で朝日奈の首を押さえつける。
「熱いね、朝日奈烈!」
「うるせえ!」
朝日奈は肘を叩き込み、牧野を跳ね飛ばした。牧野は立ち上がり、非常階段へ走る。
朝日奈も追う。
夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。
階段を駆け下りる。改札を抜ける。無人のコンコースを走る。
牧野はまるで駅そのものを知り尽くした影だった。柱の裏を抜け、シャッターの隙間をくぐり、駅員用扉を開けては閉める。
だが、朝日奈は止まらなかった。
途中で、あの迷子の凪が母親に抱かれて立っていた。避難誘導中の警官に守られている。
凪が叫んだ。
「刑事のおじさん! そっちじゃない! 駅員さん、さっき下に行った!」
朝日奈は方向を変えた。
凪の母親が泣きながら頭を下げた。
その一声が、時刻表より正確だった。
牧野は駅前広場に出た。
始発前の空気は冷たい。街路樹の向こう、東の空が薄く燃え始めている。
牧野は広場の中央で立ち止まった。
「ここが最後だ」
「何をする気だった」
「四人目の死体を作る」
「誰だ」
牧野は、自分の胸を指した。
「僕だよ」
朝日奈は息を呑んだ。
「君に殺される予定だった。熱血刑事が怒りに任せて容疑者を殺す。警察は隠す。世間は騒ぐ。姉さんの事件と同じ構図だ。僕の死後に送信されるデータが、全部ばらまかれる」
牧野は微笑んだ。
「最後の殺人は、君の人生だ」
朝日奈は拳を握った。
殴りたかった。
三人を殺し、灯を危険にさらし、死んだ姉まで自分の劇場に使った男を、地面に叩きつけたかった。
だが、背後から灯の声がした。
「朝日奈さん!」
灯が警官に支えられて立っていた。
朝日奈は牧野を見た。
牧野は両手を広げている。
「ほら。燃えろよ」
朝日奈は、拳を下ろした。
「お前の時刻表には乗らない」
牧野の表情が初めて崩れた。
「何……?」
「俺は刑事だ。お前を殺すんじゃない。捕まえる」
牧野が逃げようとした瞬間、朝日奈は飛びかかり、地面に押さえつけた。
「牧野湊。石塚裕介、野々宮和枝、鹿島了に対する殺人容疑で逮捕する」
牧野は暴れた。叫んだ。笑った。泣いた。
やがて、力が抜けた。
「姉さんは……二十時十二分じゃなかった」
朝日奈は手錠をかけながら聞いた。
牧野は空を見た。
「二十時二十九分まで、生きてた。十七分間、助けてって言ってた。誰も来なかった。時刻表は守られた。姉さんだけが、置いていかれた」
朝日奈は何も言えなかった。
怒りはあった。憎しみもあった。
だが、その奥に、どうしようもない空洞があった。
殺された三人が戻ることはない。茜も戻らない。牧野も、もう戻れない。
正義は勝ったのではない。
ただ、これ以上誰かが死ぬことを止めただけだった。
午前五時十七分。
始発の案内放送が流れた。
駅に人が戻ってくる。
眠そうな会社員。部活のバッグを背負った高校生。手をつないだ親子。清掃員。駅員。警察官。
誰も、夜のあいだに時刻表が血で濡れていたことを知らない。
それでも街は動き出す。
朝日奈は広場の端に立ち、東の空を見た。
灯が隣に来た。
「悔しいですね」
「ああ」
「むなしいですね」
「ああ」
「それでも、止めました」
朝日奈は目を閉じた。
缶コーヒーの熱。凪の声。灯の叫び。牧野の泣き顔。茜の十七分。
すべてが胸の中で、冷たい時刻表にならず、人間の痛みとして残っていた。
やがて、太陽が昇った。
多摩センター駅のガラスに、朝日が反射した。
それは残酷なほど明るかった。
朝日奈烈は、血の滲んだ拳を開いた。
「行くぞ」
灯がうなずく。
「はい」
事件は終わった。
だが、失われたものは戻らない。
それでも人は歩く。
絶望の中で。むなしさの中で。それでも、陽はまた昇る。





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