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霞が関駅、陽を殺す時刻表

――八時十二分発、死神行き――

※駅構内・時刻・運行は物語上の架空設定です。

 霞が関駅の夜は、地上の東京より冷たい。

 官庁街の灯が地上で白く燃え尽きたあと、地下には人間の疲労だけが沈殿する。靴音、改札機の電子音、遠くでうなる列車の気配。誰もが帰るために歩いている。だがその夜だけは、誰かが死ぬために、そこへ来ていた。

 午後八時十二分。

 千代田線ホームの端で、男がベンチに座っていた。

 紺のスーツ。膝の上に革鞄。頭は少し傾き、眠っているように見えた。帰宅客の誰もが一度は彼の前を通り過ぎ、誰もが見なかったことにした。都会では、疲れ切った人間は風景の一部になる。

 だが、ホーム清掃員の朝倉ひかりだけは足を止めた。

 男の靴先が、そろっていなかった。

 眠る人間の足ではない。倒れかけた何かを無理に座らせたような、奇妙な角度だった。

「お客さま?」

 ひかりが声をかける。

 男は返事をしなかった。

 彼の胸ポケットから、一枚の紙がのぞいていた。

 時刻表だった。

 ただし、どこの駅にも貼られていない、黒いインクで印刷された不気味な時刻表。

 そこには、こう書かれていた。

霞が関駅20:12発罪人一号、終点へ

 次の瞬間、ひかりの悲鳴が地下を裂いた。

 男の名は江田正臣。

 かつて東京地検で辣腕と呼ばれた検事だった。

 そして彼は、霞が関駅で殺された最初の人間になった。

 警視庁捜査一課の刑事、日向烈は、駅の階段を駆け下りながらネクタイを緩めた。

 四十二歳。怒ると声が大きい。走ると誰よりも速い。会議では嫌われ、現場では頼られる男だった。

「状況は!」

 若い相棒の片瀬凛が、スマートフォンを握ったまま早口で答える。

「被害者は江田正臣、六十三歳。死因はまだ確定していませんが、外傷は胸部に一か所。発見時刻は二十時十二分前後。目撃者多数です」

「犯人を見た奴は?」

「いません。ただ――」

 凛が言葉を切った。

 烈はホームに残された紙を見た。

 時刻表。

 几帳面すぎるほど整った数字。

 死んだ男の膝に置かれていた革鞄の上には、赤いスタンプでこう押されていた。

時刻表は嘘をつかない。嘘をつくのは、人間だ。

 烈は奥歯を噛んだ。

「ふざけやがって」

 そのとき、駅員室の電話が鳴った。

 駅員が受話器を取る。

 顔色が変わる。

「刑事さん……犯人からです」

 烈は受話器を奪った。

「誰だ」

 受話器の向こうで、男が笑った。

 薄い笑いだった。氷を爪でなぞるような、神経に触る笑い。

『初めまして、日向烈刑事』

「名乗れ」

『名乗る必要があるかな。君たちはどうせ、僕の名前を時刻表から読む』

「江田を殺したのはお前か」

『殺した? いいや。彼は乗ったんだよ。二十時十二分発、終点行きに』

「遊んでんじゃねえ!」

『遊んでいるとも』

 男はあっさり言った。

『人間は死ぬ直前、時間を見る。助けを求めるより先にね。面白いだろう? 命より時計を信じるんだ』

 烈の拳が受話器を握りしめた。

『次の発車は三日後。霞が関駅、二十時二十六分。遅れるなよ、熱血刑事』

 電話は切れた。

 烈は受話器を置かなかった。

 叩きつけた。

 三日後、霞が関駅は警官で埋まった。

 私服刑事、制服警官、鉄道警備員。改札、階段、ホーム、連絡通路。わずかな死角まで人員が置かれた。

 午後八時二十六分。

 烈は丸ノ内線側の連絡階段に立っていた。

 人の流れがうねる。霞が関駅は巨大な肺のようだった。列車が来るたびに人を吸い込み、吐き出す。

 そのとき、ホーム放送が響いた。

『まもなく、二十時二十六分発――』

 烈の無線が割れた。

『日向さん! 日比谷線ホーム! 倒れている人が!』

「くそっ!」

 烈は走った。

 階段を二段飛ばしで駆け下りる。肩が乗客にぶつかる。怒号が飛ぶ。だが烈は止まらない。

 日比谷線ホームの中央。

 柱の陰。

 女が倒れていた。

 名は矢坂冴子。

 元裁判官。

 彼女の手にも、黒い時刻表が握られていた。

20:26発罪人二号、終点へ

「犯人は!」

 烈が叫んだ。

 凛が青い顔で答える。

「防犯カメラに映っていました。たぶん、あの男です」

 映像には、黒いコートの細身の男が映っていた。

 整った横顔。無表情。年齢は三十代前半。

 男は午後八時二十六分ちょうど、丸ノ内線ホームの反対側にいた。

 つまり、烈のすぐ近くにいた。

 だが同時刻、矢坂冴子は日比谷線ホームで殺されている。

 移動は不可能だった。

 烈は映像を睨んだ。

「こいつは何者だ」

 凛が資料を読み上げる。

「黒羽零次。三十二歳。官庁向け交通データ解析システムの元開発者。幼少期の知能検査で測定上限を振り切った記録があります。通称は――」

「通称?」

「MAX」

 烈は鼻で笑った。

「IQが最大だか何だか知らねえが、人を殺す脳みそなら腐ってる」

 その夜、警視庁にメールが届いた。

 件名は「解答用紙」。

 本文は一行。

君たちはまだ、時刻表の読み方を知らない。

 添付ファイルには、次の時刻が記されていた。

三日後霞が関駅21:03発罪人三号

 事件は都心を震え上がらせた。

 霞が関駅は「死神の駅」と呼ばれた。

 ワイドショーは黒羽零次の写真を流した。高IQの異才。交通データの天才。大学を飛び級し、官公庁のシステムに関わり、ある日突然姿を消した男。

 だが警察は黒羽を逮捕できなかった。

 一件目、江田が殺された二十時十二分、黒羽は霞が関駅から離れた喫茶店の監視カメラに映っていた。

 二件目、矢坂が殺された二十時二十六分、黒羽は丸ノ内線ホームにいた。

 いずれも、殺害場所まで移動する時間はない。

 完璧な時刻表アリバイ。

 烈は苛立っていた。

「完璧なアリバイなんざねえ。完璧に見える嘘があるだけだ」

 凛は捜査資料をめくりながら言った。

「被害者二人には共通点があります。十五年前の『朝倉旭事件』です」

 烈の指が止まった。

「朝倉旭……」

「当時、霞が関駅の駅員だった男性です。ホーム上で乗客を転落させたとして逮捕されました。本人は否認しましたが、江田検事が起訴し、矢坂裁判官が有罪判決を出しています」

「その後は?」

「服役中に自殺しています」

 烈は黙った。

 胸の奥に、かすかなざわめきが生まれた。

「黒羽との関係は?」

「黒羽零次は偽名です。本名は、朝倉零」

 凛が声を落とす。

「朝倉旭の息子です」

 烈は駅の天井を見上げた。

 蛍光灯が白く、冷たく光っている。

 復讐。

 その言葉なら、動機としてはわかりやすい。

 だが、烈は違和感を覚えた。

 電話の向こうの男は、憎しみだけで動いている声ではなかった。

 楽しんでいた。

 殺すことを。

 警察をあざ笑うことを。

 人間が恐怖に凍りつく瞬間を。

 烈はつぶやいた。

「復讐は、こいつの燃料じゃねえ」

「では何ですか」

「遊び道具だ」

 三件目の日。

 霞が関駅は要塞になった。

 改札は一部閉鎖され、構内には警官が立ち並んだ。乗客の視線は刺々しく、誰もが他人の鞄を疑っていた。

 午後九時三分。

 烈はホームではなく、駅の清掃員詰所の近くにいた。

 朝倉ひかりに会うためだった。

 最初の遺体発見者。

 そして、朝倉旭の娘。

 ひかりは二十八歳だった。黒い髪を後ろで束ね、作業着の袖を丁寧に折っている。兄が殺人犯として全国に報じられているのに、彼女の目は泣き腫らしていなかった。ただ、ずっと泣くことを禁じられてきた人間の目をしていた。

「兄は、父の無実を信じていました」

 ひかりは言った。

「私も信じています。でも……だからって、人を殺していいわけじゃありません」

 烈は彼女を見た。

 強い女だと思った。

 強さとは怒鳴ることではない。崩れそうなものを、両手で支え続けることだ。

「お父さんの事件について、何か覚えているか」

「父はよく言っていました。『駅員は時刻を守るんじゃない。人を守るんだ』って」

 ひかりは唇を噛んだ。

「でも裁判では、時刻表が父を殺しました」

「時刻表?」

「父が乗客と揉み合ったとされる時刻に、本当の犯人は別の列車に乗っていた。だから犯人ではありえない。そう証明されたんです。時刻表で」

 烈の眉が動いた。

 十五年前。

 時刻表アリバイ。

 現在の連続殺人。

 黒羽零次――朝倉零は、父を殺したものを使って、復讐している。

 そのとき、ひかりが小さく言った。

「刑事さん。ひとつだけ、変なことがあります」

「何だ」

「最初の事件のとき、ホーム放送の声が……古かったんです」

「古い?」

「今の放送と少し違いました。言い回しも、間も。私、毎日聞いているからわかるんです。あれは今の駅の放送じゃありません」

 烈の背筋に冷たいものが走った。

 同時に無線が鳴った。

『日向さん! 三件目です! 連絡通路で男性が倒れています!』

 烈は駆け出した。

 今度の被害者は菱沼修。

 十五年前、霞が関駅の監視カメラ管理に関わっていた技術者だった。

 その胸元にも、黒い時刻表。

21:03発罪人三号、終点へ

 だが烈は、もう紙を見ていなかった。

 耳を澄ましていた。

 地下を満たす、放送の残響に。

 翌朝、烈はひとりの少年を訪ねた。

 名は奏太。

 十歳。

 鉄道が好きで、毎日、母親と霞が関駅を通る。二件目の事件の直前、日比谷線ホームにいた目撃者だった。

 少年は病室にいた。事件後、恐怖で過呼吸を起こして搬送されたという。

 烈は缶コーヒーではなく、駅売店で買った小さな鉄道模型を持っていった。

「おじさん、刑事?」

「そうだ」

「犯人、捕まえる?」

「捕まえる」

 少年は布団を握った。

「あの日の電車、変だった」

「何が変だった?」

「放送は言った。二十時二十六分発が来るって。でも、電車の音が遅かった。あと、チャイムが鳴らなかった」

 烈は身を乗り出した。

「チャイム?」

「いつもは、放送のあとに、ホームの端で小さい音がする。ぼく、好きだから覚えてる。でもあの日は、声だけだった。電車が来る前に、声だけ」

 少年は震えながら続けた。

「だから変だなって思った。なのに大人たちはみんな、二十時二十六分だって言ってた。放送がそう言ったから」

 烈の中で、何かがつながった。

 黒羽の言葉。

 時刻表は嘘をつかない。

 嘘をつくのは、人間だ。

 違う。

 黒羽は時刻表を使っていない。

 時刻表を信じる人間の記憶を使っている。

 烈は凛に電話をかけた。

「全事件の死亡推定時刻を洗い直せ。発見時刻じゃない。放送でもない。医学的に可能な幅だけを見ろ」

『でも、犯人のアリバイは――』

「アリバイなんか最初からなかった」

 烈は病室の窓の外を見た。

 朝の光がビルのガラスに反射している。

「殺された時刻を、俺たちが間違えてたんだ」

 黒羽零次のトリックは、単純で、残酷で、そして恐ろしいほど人間的だった。

 彼は駅の時刻表を改ざんしたのではない。

 列車を動かしたのでもない。

 彼は、人の記憶に時刻表を貼りつけた。

 被害者たちは、実際には「発車時刻」より前に襲われていた。黒羽はその後、警察や乗客の目が集まる瞬間に合わせて、古い録音のホーム放送、黒い時刻表、停止した腕時計、そして自らの姿を別の場所のカメラに映すことで、「その時刻に殺人が起きた」と全員に思い込ませた。

 人は時計を見て時間を知ると思っている。

 だが本当は違う。

 人は出来事に時間を結びつける。

 列車が来た。

 放送が流れた。

 人が倒れていた。

 だから、その時刻に死んだ。

 黒羽は、その思い込みを殺人現場にした。

 烈は捜査会議で言った。

「奴のアリバイは移動距離じゃねえ。俺たちの頭の中に作られていた。黒羽は殺したあとで、堂々と別の場所に立っただけだ」

 管理官が唸った。

「しかし証拠は?」

「あります」

 凛が録音データを再生した。

 事件時に複数の目撃者が聞いたという放送。

 次に、現在の駅放送。

 わずかに違う。

 言い回し、息継ぎ、背景音。

 清掃員のひかりと、少年の奏太だけが気づいた違和感。

 凛が続ける。

「さらに三件とも、被害者の腕時計は外された形跡があります。死亡後に時刻を合わせられた可能性が高い」

 烈は黒い時刻表を机に叩きつけた。

「黒羽は天才なんかじゃねえ。人間の弱さを知ってるだけの卑怯者だ」

 その瞬間、会議室のモニターが一斉に暗転した。

 そして、文字が浮かび上がった。

よくできました。だが、終電ではない。最後の発車は、明朝五時四分。霞が関駅。乗客名――日向烈。

 会議室が凍りついた。

 烈だけが、笑った。

 怒りで。

「上等だ」

 始発前の霞が関駅は、死者の国に似ていた。

 シャッターの下りた売店。

 消灯された通路。

 床を磨く機械の低い唸り。

 人がいない地下鉄駅は、駅ではない。ただの巨大な穴だ。

 午前四時五十七分。

 烈は防弾ベストを着ずに来た。

 凛が怒った。

「何考えてるんですか!」

「着てたら走りにくい」

「馬鹿ですか!」

「よく言われる」

 凛は泣きそうな顔で睨んだ。

「死なないでください」

 烈は答えなかった。

 代わりに、凛の肩を叩いた。

「お前は、ひかりさんを守れ」

 午前五時一分。

 駅の照明が一瞬だけ揺れた。

 遠くから拍手が聞こえた。

 黒羽零次が、連絡通路の中央に立っていた。

 黒いコート。

 青白い顔。

 美しいほど無感情な目。

 その隣に、朝倉ひかりがいた。

 口を塞がれ、手を縛られている。

 烈の血が沸騰した。

「黒羽!」

「朝倉零だよ、刑事さん」

 黒羽は微笑んだ。

「でも、もう名前なんてどうでもいい。人は最後に、時刻しか残らない」

「妹を放せ」

「妹?」

 黒羽はひかりの髪に触れた。

 ひかりは嫌悪で身をよじった。

「この子は裏切り者だ。父の無実を信じながら、僕の殺しを否定した。父を殺した世界に、まだ朝が来ると信じている」

 黒羽の笑みが深くなる。

「だから、陽を殺す」

 烈は一歩踏み出した。

「お前が殺してるのは陽じゃねえ。お前自身の中に残ってた人間だ」

「人間?」

 黒羽が声を上げて笑った。

「父が死んだ日、人間なんてものは全部死んだよ。検事も、裁判官も、警察も、時刻表を見て安心した。誰も父の声を聞かなかった」

「だから江田を殺した。矢坂を殺した。菱沼を殺した」

「そうだ。楽しかったよ」

 黒羽はうっとりと目を細めた。

「命が消える瞬間、人は本当に素直になる。自分の罪も、恐怖も、全部顔に出る。あれは美しい。刑事さん、君にも見せたかった」

 烈は拳を握った。

「反吐が出る」

「君もすぐにわかる」

 黒羽はポケットから古い封筒を取り出し、床に投げた。

「十五年前の本当の資料だ。朝倉旭事件で、決定的な映像を消した刑事の名前がある」

 烈は封筒を見た。

 凛が後ろで息を呑む。

 黒羽が囁く。

「日向修三」

 烈の父の名だった。

 世界が一瞬、音を失った。

 日向修三。

 烈にとって、刑事の原点だった男。

 正義を教えた男。

 弱い者を守れと言った男。

 黒羽は楽しそうに烈の表情を観察していた。

「君の父親は、僕の父を殺した側だ。さあ、どうする? 僕を撃つか? 殴り殺すか? 復讐は気持ちいいぞ。僕が保証する」

 烈の喉が震えた。

 父の顔が浮かぶ。

 厳しい声。

 大きな背中。

 そして、その背中の影。

 烈の中で何かが崩れた。

 だが、ひかりが叫んだ。

「違う!」

 涙で顔を濡らしながら、彼女は叫んだ。

「復讐しても、お父さんは帰ってこない! あなたも帰ってこない! お兄ちゃん、もうやめて!」

 黒羽の顔から、初めて笑みが消えた。

 その隙に烈は走った。

 黒羽がひかりを突き飛ばす。

 凛が飛び込み、ひかりを抱きとめた。

 黒羽は非常階段へ駆け上がる。

 烈が追う。

 階段に靴音が炸裂する。

 金属の手すりが冷たい火花のように光る。

 黒羽は細い身体に似合わぬ速さで逃げた。だが烈はさらに速かった。怒りでも、復讐でもない。止めなければならないという、ただそれだけの力で走っていた。

 改札階。

 丸ノ内線ホームへ続く階段。

 遠くで始発列車の接近音が鳴る。

 午前五時四分。

 黒羽はホームへ飛び出した。

 列車のライトが闇を裂いて近づいてくる。

「刑事さん!」

 黒羽が振り返る。

 その目は狂気と歓喜で光っていた。

「最後の問題だ。僕を捕まえるか、僕を殺すか!」

 烈は答えなかった。

 黒羽がホーム端へ下がる。

 烈は飛びかかった。

 二人はもつれ、床に叩きつけられた。

 列車が轟音とともに入ってくる。

 風が烈の頬を切る。

 黒羽が笑う。

「撃て! 殴れ! 君の父親と同じになれ!」

 烈の拳が上がった。

 黒羽の顔が期待に歪む。

 だが烈の拳は、床を殴った。

 硬い音が響いた。

 烈は黒羽の襟を掴み、耳元で言った。

「俺は、お前の時刻表には乗らねえ」

 黒羽の目が見開かれた。

 凛が駆けつけ、黒羽の手に手錠をかけた。

 始発列車の扉が開いた。

 誰も乗らなかった。

 誰も降りなかった。

 ただ、朝の冷たい空気だけが、地下に流れ込んだ。

 事件後、朝倉旭の再審請求が始まった。

 黒羽が残した資料は本物だった。

 十五年前、監視映像の一部が消されていた。

 その処理に関わった捜査員の中に、日向修三の名があった。

 烈は父の墓前に立った。

 空は曇っていた。

 墓石に手を置く。

「親父」

 声は出たが、続かなかった。

 尊敬していた。

 信じていた。

 その信じていたものが、誰かの人生を踏みつけていたかもしれない。

 むなしさは、怒りより重かった。

 絶望は、悲しみより静かだった。

 凛が少し離れた場所に立っていた。

 何も言わなかった。

 それがありがたかった。

 やがて烈は、墓石に向かって頭を下げた。

「俺は調べる。全部。あんたの罪も、あんたが守ろうとしたものも。嘘の上に朝は来ねえから」

 その日の午後、霞が関駅に戻ると、朝倉ひかりがホームを掃除していた。

 彼女は烈を見ると、小さく頭を下げた。

「兄は?」

「黙秘してる。でも、生きてる」

「そうですか」

 ひかりは目を伏せた。

「生きているなら、いつか聞けますね。どうして、そんなに寂しかったのか」

 烈は何も言えなかった。

 そのとき、あの少年、奏太が母親と一緒にホームを歩いてきた。

 奏太は烈を見つけると、少しだけ笑った。

「刑事さん」

「おう」

「今日の電車は、ちゃんと時間どおりだよ」

 烈はホームの時計を見上げた。

 針は進んでいた。

 止まらずに。

 何もなかったように。

 人が死んでも、罪が暴かれても、信じたものが崩れても、時刻表は次の列車を示す。

 それは残酷だった。

 だが同時に、救いでもあった。

 終点だと思った場所からでも、人はまた歩き出すしかない。

 列車が到着する。

 扉が開く。

 地上へ向かう乗客たちが、光の方へ流れていく。

 烈は階段の先を見た。

 霞が関駅の出口から、朝日が差し込んでいた。

 薄く、弱く、それでも確かに。

 陽はまた昇る。

 たとえ誰かが、それを殺そうとしても。

 
 
 

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