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十四番線の優しさ

※作中の列車番号・時刻は架空です。

名古屋駅十四番線の待合室で、二人目の被害者が見つかった。

午前十時二十一分。

東海道新幹線の上りホームは、いつものように人で満ちていた。スーツケースを引く会社員、修学旅行の列、スマートフォンを見ながら無言で歩く乗客たち。そのざわめきの隅で、広瀬真理はベンチに腰かけた姿勢のまま死んでいた。

膝の上には、白い紙袋が置かれていた。

中身は、富士山の形をした小さな羊羹が二つ。水色の靴下。新幹線の絵が描かれた幼児用の絵本。

「妙ですね」

そう言ったのは、警視庁捜査一課に配属されてまだ半年の若手刑事、佐伯陸斗だった。

すぐ横で、捜査本部の主任刑事・岩瀬が眉をひそめた。

「何が妙なんだ」

「広瀬真理は独身で、子どももいないと資料にはあります。でも、これ……明らかに小さな子どもへの土産です」

「だから何だ」

岩瀬の声は硬かった。

「死亡推定時刻は十時十六分から二十四分の間。凶器は細い注射針。毒物は即効性。目撃者はなし。ただし、容疑者の阿久津怜司には鉄壁のアリバイがある。お前が今見るべきなのは羊羹じゃない。時刻表だ」

佐伯は口を閉じた。

阿久津怜司。

元鉄道系システム会社の天才プログラマーであり、二年前に起きた企業情報漏洩事件の中心人物だった。被害者の広瀬真理は、当時その会社で経理を担当していた。さらに一週間前、京都駅に到着した下り「こだま」の多目的室で殺された大前啓介も、同じ会社の元監査役だった。

二人は、阿久津の過去を知っていた。

そして二人とも、東海道新幹線の中か、そのホームで殺された。

捜査本部は阿久津を追っていた。だが、阿久津は捜査員たちを嘲笑うように、完璧な証拠を残していた。

広瀬が殺された時刻、阿久津は東京発京都行きの「こだま四一二号」十号車八番A席にいたことになっている。

東京駅の改札記録。

乗車直後の防犯カメラ。

車内で撮られた乗客の動画。

京都駅で降りる阿久津の映像。

すべてが揃っていた。

しかも、十時二十分前後に十号車を通った乗客が、「黒いコートの男が窓際で眠っていた」と証言していた。

岩瀬は言った。

「阿久津は頭が切れる。だが、いくら天才でも、名古屋駅で人を殺して、同時にこだまの車内で寝ていることはできない」

「……本当に、寝ていたんでしょうか」

佐伯が呟くと、岩瀬の目が細くなった。

「またそれか」

佐伯は肩をすくめた。

一週間前の大前殺しでも、佐伯は同じようなことを言って叱責されていた。

大前啓介は下り「こだま」の多目的室で死んでいた。死亡推定時刻は、新富士から静岡へ向かう区間。阿久津はその時間、東京駅構内の会議室で講演をしていたことになっていた。動画、受付記録、参加者の証言。どれも揃っていた。

だが佐伯は、現場写真の一点に引っかかっていた。

大前の右手には、しわになった時刻表のコピーが握られていた。捜査本部はそれを「阿久津の時刻表トリックを示す挑発」と考えた。だが佐伯には、どうしてもそう見えなかった。

コピーは時刻の列ではなく、駅名のところで折られていた。

三島。

新富士。

静岡。

まるで、数字ではなく場所を探していたように。

その違和感を話した時、岩瀬は机を叩いた。

「お前は詩人か。刑事は感想で犯人を捕まえるんじゃない」

それでも、佐伯は捨てられなかった。

違和感は、証拠ではない。

けれど証拠の入口になることがある。

そう教えてくれたのは、教育係の滝本だった。

滝本は定年前の刑事で、普段は飄々としているが、現場では誰よりも静かに人を見る男だった。佐伯が叱られたあと、彼は缶コーヒーを渡して言った。

「岩瀬さんは間違ってない。違和感だけじゃ逮捕状は出ない」

「はい」

「でもな、違和感を捨てる刑事は、証拠の前を素通りする。お前はそれを証拠まで育てろ」

その言葉だけが、佐伯の中に残っていた。

広瀬真理の白い紙袋を見た時、佐伯はまた同じものを感じた。

時刻表の数字では説明できない、人の行動。

死ぬ直前の人間が、なぜ子どもへの土産を買うのか。

佐伯は捜査資料を読み返した。

広瀬真理。五十四歳。独身。

いや、正確には違った。

二十七年前に離婚している。旧姓時代に娘が一人。親権は元夫へ。娘の名前は篠田梢。現在、三島市在住。

佐伯は胸の奥が熱くなるのを感じた。

三島。

大前の握っていた時刻表の折り目。

広瀬の紙袋。

富士山の羊羹。

幼児用の靴下。

それは逃亡者の荷物ではなかった。

母親の荷物だった。

佐伯は滝本とともに三島へ向かった。

篠田梢は、小さな保育園の迎えの時間を終えたばかりだった。三歳ほどの男の子が、彼女の足元で新幹線の玩具を走らせていた。

「母とは、もう十年以上会っていません」

梢はそう言った。

けれど声は震えていた。

「でも、昨日、電話がありました。名古屋から。『三島で会えないか』って。孫に会わせてほしいって。勝手ですよね。今さら」

彼女は笑おうとしたが、うまくいかなかった。

「私、断ったんです。でも……母は最後に、『靴下を買ったの。水色が似合うと思って』って」

佐伯は黙って聞いた。

梢は続けた。

「それから、変なことを言いました。『数字に騙されないで』って。『あの人は、速い列車に乗ってるふりをする』って」

滝本の目がわずかに動いた。

佐伯は息を止めた。

広瀬は知っていたのだ。

阿久津のトリックを、完全ではなくとも、何か掴んでいた。

だから殺された。

捜査本部に戻ると、佐伯は時刻表を壁一面に貼った。

岩瀬は苛立った顔で腕を組んでいた。

「また時刻表か」

「はい。でも、今度は数字だけじゃありません」

佐伯は赤いペンで線を引いた。

阿久津が乗っていたとされる「こだま四一二号」は、東京を八時二分に出発し、各駅に停まりながら京都へ向かう。途中、速達列車の通過待ちで何度も長く停車する。

佐伯は別の青い線を引いた。

「阿久津は東京駅でこだまに乗った。これは事実です。でも、新横浜で降りた可能性があります。こだまはそこから先、各駅停車と待避で時間を失う。一方、阿久津は後続の速達列車に乗り換えれば、名古屋に先着できる」

岩瀬が低く言った。

「改札記録は?」

「新幹線改札を出なければ残りません。広瀬は名古屋駅の新幹線改札内、十四番線の待合室で殺されています」

「車内の目撃証言はどうする」

「黒いコートの男が寝ていた、という証言です。顔を見た者はいません」

佐伯は写真を出した。

乗客が撮った動画の一コマ。十号車八番A席。黒いコート。帽子。マスク。窓際に傾いた姿。

「これは人間ではなくても成立します。コート、帽子、マスク、膝に置いた鞄。眠っている乗客を、他人はじっと見ません」

「京都で降りた映像は」

「阿久津は名古屋で広瀬を殺したあと、さらに別の速達列車で米原へ先回りした。そこで本来のこだまに復帰したと考えれば説明できます」

会議室が静まり返った。

岩瀬の表情が変わった。

それは感心ではなく、まだ疑いだった。

「仮説としては面白い。だが証拠は?」

佐伯は白い紙袋の写真を出した。

「広瀬の紙袋の内側に、黒いボタンが一つ落ちていました。最初は店員のものと思われていました。でも、阿久津が東京駅で乗車する映像を見ると、黒いコートの左袖に同じ形のボタンが四つあります」

次に、京都駅で降りる阿久津の映像を出した。

「京都で降りた時、左袖のボタンは三つです」

岩瀬が身を乗り出した。

「つまり、名古屋で広瀬ともみ合った時に取れた」

「はい。広瀬は死ぬ直前、証拠を残そうとしたんじゃないと思います」

佐伯は小さく息を吐いた。

「彼女は紙袋を守ろうとしたんです。孫に渡すつもりだった靴下と羊羹を。犯人がそれを奪おうとしたか、あるいは彼女が胸に抱え込んだ。その時、ボタンが落ちた」

数字だけを追っていれば、紙袋はただの遺留品だった。

だが、広瀬の最後の行動にあったのは恐怖だけではない。

後悔。

謝罪。

会いたかったという感情。

その感情が、阿久津の完璧な時刻表に穴を開けた。

滝本が静かに言った。

「人間は、最短距離で動くとは限らない。会いたい人のいる駅で降りる」

岩瀬はしばらく黙っていた。

やがて、低い声で言った。

「佐伯。続けろ」

その時、捜査本部に電話が入った。

篠田梢に、差出人不明のメッセージが届いた。

《お母様の忘れ物を預かっています。三島駅新幹線ホームでお渡しします。十一時四十六分発、上りこだま六〇八号の前方へ》

佐伯の背筋に冷たいものが走った。

三人目だ。

阿久津は、広瀬の娘を呼び出していた。

母親の最後の土産を餌にして。

岩瀬が叫んだ。

「三島に向かう。全員配置につけ!」

三島駅の空は、薄い雲に覆われていた。

ホームには風が吹き抜けていた。遠くで接近放送が流れる。レールが震え、白い車体が滑り込んでくる。

佐伯は息を整えながら、十号車付近へ向かった。

阿久津が今回も同じ手を使うなら、彼はどこかの「こだま」に自分の影を置き、本体は別の列車で三島に先回りしているはずだった。

十号車八番A席。

窓際に黒いコートの男がいた。

帽子を深くかぶり、マスクをして、眠っているように見える。

佐伯はドアが開いた瞬間、車内に踏み込んだ。

「警察です」

反応はない。

近づいて、肩に手を置く。

軽い。

コートの下にあったのは、丸めた毛布と鞄だった。

佐伯は無線を握った。

「阿久津はこの列車にいません。影だけです」

ホームの向こうで、子どもの泣き声がした。

佐伯は振り返った。

篠田梢が、白い紙袋を持った男と向き合っていた。

男は穏やかな顔をしていた。

阿久津怜司。

テレビで見た時より痩せていたが、目だけは異様に澄んでいた。

「お母様からです」

阿久津は優しい声で言った。

「最後まで、あなたに会いたがっていました」

梢が一歩近づく。

その瞬間、佐伯は走った。

「離れて!」

阿久津の手が動いた。

紙袋の中から、小さな注射器が覗いた。

佐伯は梢の肩を引き、阿久津の腕に飛びついた。注射器がホームに落ち、透明な液体がコンクリートに散った。

阿久津は抵抗しなかった。

ただ、倒れ込んだ佐伯を見下ろし、薄く笑った。

「若い刑事さん。君は時刻表が読めない」

佐伯は荒い息をしながら立ち上がった。

「読めます」

「なら、なぜここへ来た。私はこの時刻、この列車には乗っていないことになっている」

「だから来ました」

阿久津の笑みが止まった。

佐伯は言った。

「あなたは人を数字だと思っている。何時何分に乗る。何時何分に降りる。何分あれば殺せる。何分あれば戻れる。でも広瀬真理は、数字じゃなかった」

阿久津の目が細くなる。

「彼女は三島に来ようとしていた。娘に謝るために。孫に靴下を渡すために。あなたはそれを知らなかった。いや、知っていても理解しなかった。だから紙袋を軽く見た。そこにあなたのボタンが残った」

阿久津は黙った。

滝本が背後から近づき、阿久津の手首に手錠をかけた。

「阿久津怜司。殺人および殺人未遂の容疑で逮捕する」

阿久津は抵抗せず、佐伯だけを見ていた。

「感情で推理したつもりか」

「違います」

佐伯は答えた。

「感情を、証拠まで追いました」

その言葉を聞いた滝本が、少しだけ笑った。

だが次の瞬間、佐伯の中に怒りが込み上げた。

広瀬真理が買った水色の靴下。

会えなかった娘。

渡せなかった羊羹。

大前啓介が握っていた、駅名で折られた時刻表。

阿久津は、それらをすべて自分のゲームの駒にした。

佐伯は拳を握った。

殴りたいと思った。

刑事になって初めて、証拠や手続きの向こうにある怒りを、身体で知った。

その拳に、滝本の手がそっと重なった。

「怒れ」

滝本は低く言った。

「だが、その手は殴るためじゃない。捕まえるために使え」

佐伯はゆっくり拳をほどいた。

阿久津は連行された。

白い紙袋は、梢の手に戻った。中には水色の靴下が入っていた。羊羹は一つだけ潰れていたが、もう一つは無事だった。

梢はそれを胸に抱き、泣いた。

佐伯は何も言えなかった。

ただ、ホームの端から見える曇った空を見上げた。

遠くで新幹線が通過する音がした。

速く、正確で、迷いのない音。

けれど人間は、その音のようには生きられない。

遅れることもある。

戻ることもある。

会いたい誰かのいる駅で、予定を変えることもある。

事件後、捜査本部で岩瀬は佐伯を呼び止めた。

「佐伯」

「はい」

「最初に羊羹を見たのは、お前だったな」

「……はい」

「次からは、違和感を口にする前に、証拠の匂いまで嗅げ」

いつもの叱責のようだった。

だが、その声は少しだけ柔らかかった。

佐伯が背筋を伸ばすと、岩瀬は書類を机に置いた。

「ただし、今回はよくやった」

それだけ言って、岩瀬は背を向けた。

滝本が横で笑った。

「一段、上がったな」

佐伯は窓の外を見た。

東京駅のホームに、白い車体が入ってくる。

発車時刻は正確だった。

けれど佐伯はもう、時刻表だけを見て事件を考えることはできなかった。

数字の隙間に、人の後悔がある。

証言の裏に、恐怖がある。

遺留品の中に、優しさが残る。

刑事はそれを拾わなければならない。

佐伯陸斗は、次の事件資料を手に取った。

今度は、叱られる前に気づいてみせる。

そう思いながら、彼は赤いペンで、時刻ではなく駅名に丸をつけた。

 
 
 

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