殺された者たちの共犯
- 山崎行政書士事務所
- 1 時間前
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一 白い栞
三島駅の雨は、列車が入るたびに細かな銀の糸となって舞い上がった。
東海道新幹線の上りホーム。午前九時十八分。こだま七二一号が、灰色の空を切り裂くようにして停まった。
その日、荒木修一は本来そこにいるはずのない男だった。
彼の鞄には、大阪で開かれる医療福祉セミナーの資料が入っていた。乗る予定だったのは東京発八時三分の「のぞみ」。新大阪まで、乗り換えのない最短の列車だった。だが彼は品川で突然予定を変え、遅い「こだま」に乗った。しかも目的地のはずの名古屋にも京都にも向かわず、三島で降りた。
監視カメラの映像には、荒木が改札内の売店で紙コップの珈琲を二つ買う姿が映っていた。片方は自分のもの。もう片方は、誰かに渡すためのもの。
しかし、相手は現れなかった。
九時三十一分。清掃員が待合室の端で荒木を見つけた。背広の襟は濡れておらず、争った形跡もなかった。彼は眠るようにベンチに寄りかかり、右手に白い紙片を握っていた。
それは、古い乗車券の裏を細く切ったものだった。栞のような形に折られている。
そこには青いインクで、たった一行だけ書かれていた。
——まだ、あの子を守るつもりですか。
警視庁捜査一課から広域捜査班へ応援に出ていた刑事、桐生瑛子が三島に到着したのは昼過ぎだった。
ホームに立つと、遠くで富士山の裾だけが雨の向こうに見えた。山頂は雲に隠れ、まるで誰かが巨大な白い布で罪の形を覆い隠しているようだった。
「妙なんですよ」
静岡県警の若い刑事が、手帳を開いたまま言った。
「荒木は大阪へ行く予定だった。ところが列車を変えた。三島に知人はいない。携帯には直前まで誰かとやり取りした痕跡がありますが、肝心のメッセージは消されている」
「消したのは本人?」
「おそらく。死亡推定時刻の二十分前です」
瑛子は待合室のベンチを見た。何の変哲もない灰色の座面。雨の日の駅に似合う、冷たく疲れた色。
「本人が予定を変え、本人が証拠を消し、本人がここで誰かを待っていた」
「そうです。だから上は、被害者自身が何かの計画に関わっていたんじゃないかと」
「秘密組織?」
若い刑事は少し気まずそうに頷いた。
「荒木の持ち物から、十年前の東海道新幹線の古い切符が出ました。ほかにも、白い栞みたいな紙片。それと、ある名前を隠すように削除されたデータが」
「ある名前?」
「日下部結衣。十四歳。十年前の名古屋駅事故の関係者かもしれません」
その名前を聞いた瞬間、瑛子は窓の外を見た。
こだまが入線する。車体の白は、雨の中では骨の色に近かった。
列車は時間どおりに停まり、時間どおりに去っていく。人間の迷いや罪とは関係なく、時刻表の上ではすべてが整っている。
だからこそ、瑛子はその整いすぎた流れに不吉なものを感じた。
荒木はここへ逃げて来たのではない。ここへ呼ばれて来たのだ。
誰かに。
あるいは、過去に。
二 予定のない降車
二人目の死者は、名古屋の弁護士、真辺冴子だった。
彼女は東京で開かれる民事訴訟の準備会議に出るため、名古屋発十八時三十一分の「のぞみ」に乗る予定だった。ところが実際には、一本遅い「ひかり」に乗った。しかも東京へ向かわず、豊橋で降りている。
豊橋駅の構内で、真辺は公衆電話の前に立っていた。携帯を持っているにもかかわらず、硬貨を入れ、どこかへ電話をかけた。通話時間はわずか三十七秒。
そのあと彼女は、改札内のベンチに腰かけた。
監視カメラの映像では、真辺はずっとホームの先を見ていた。誰かを待っているというより、誰かが来ないことを初めから知っているような表情だった。
彼女の膝の上には、子ども用の切符が一枚置かれていた。乗車区間は「名古屋—東京」。日付は十年前。改札印は薄れ、紙は黄ばんでいた。
真辺の死因も荒木と同じだった。詳細な方法は捜査資料の中で伏せられたが、毒物による急性の中毒反応。外傷はなく、争った痕跡もない。
瑛子は豊橋駅の防犯映像を何度も見返した。
真辺は誰にも接触していない。誰からも何かを渡されていない。けれども彼女は、死ぬ前に何かを受け取っていた。
映像の中で、真辺は自分の鞄から封筒を取り出している。封筒はすでに開かれていた。中を見た瞬間、彼女の肩がほんの少し震えた。
そして彼女は、誰もいないホームに向かって小さく頭を下げた。
相良警部補が映像を止めた。
「謝ってるみたいだな」
「ええ」
「相手はいないのに」
瑛子は黙っていた。
相手は、たぶん目の前にはいなかった。だが真辺には見えていたのだ。
十年前の列車。名古屋駅のホーム。怯えた少女の腕。そして、自分が書いた一枚の書面。
事件の後、真辺冴子は証言調書の作成に関わっていた。名古屋駅で起きた転落事故。死亡したのは日下部誠という男。駅員の安全確認に不備があったとされ、当時の助役、佐伯圭介が重い処分を受けた。
しかし、資料を読み込むほど、瑛子には違和感が増していった。
目撃者は四人。荒木修一。真辺冴子。榎戸匠。菅原隆臣。
彼らはそろって、日下部誠が「酒に酔ってふらつき、ホームで足を滑らせた」と証言していた。
ところが日下部誠の娘、結衣については、どの資料にも曖昧な記述しかなかった。
同乗していた。事故後に保護された。親族に引き渡された。
ただそれだけ。
十四歳の少女が、父親の死を目の前で見たにしては、あまりにも記録が薄い。
瑛子はファイルを閉じた。
「これは秘密組織じゃない」
相良が眉を上げる。
「じゃあ何だ」
「秘密そのものです。組織じゃなくて、沈黙を共有した人間たち」
「共犯か」
その言葉は、捜査本部の空気に妙にしっくりとはまった。
共犯。
けれど瑛子は、すぐには頷けなかった。
共犯なら、彼らは何を守っていたのか。自分たちの身か。過去の嘘か。
それとも、誰か。
三 乗り換えた男
三人目の被害者、榎戸匠は元新聞記者だった。
彼はかつて社会部で事件記者をしていたが、十年前の名古屋駅事故の直後に地方支局へ異動し、数年後に退職している。現在は小さな出版社で校閲の仕事をしていた。
榎戸は東京駅から京都へ向かうはずだった。
だが彼は新横浜で突然降り、反対方向のこだまに乗り換え、小田原で降りた。そこで駅員に「十三号車の落とし物は届いていないか」と尋ねている。
落とし物など、本当はなかった。
彼はただ、そう尋ねるよう命じられていたのだ。
榎戸の携帯には、消し忘れた下書きが残っていた。
——すまなかった。あの写真を出していれば、佐伯さんは死なずに済んだ。
宛先はなかった。
榎戸は小田原駅の待合室で亡くなった。膝の上には、十年前に自分が撮ったと思われる写真のプリントがあった。
そこには、名古屋駅のホームが写っていた。
転落事故の直前。人混みの端で、少女が男に腕を掴まれている。少女の顔はぶれていたが、怯えははっきり写っていた。
その横で、駅員の佐伯圭介が二人に駆け寄ろうとしていた。
佐伯は、遅れたのではない。むしろ誰より早く気づいていた。
瑛子は写真を見た瞬間、胸の内側が冷たく沈むのを感じた。
「証言と違う」
相良が低く言った。
「佐伯はただの不注意な駅員じゃない。止めようとしている」
「榎戸はそれを知っていた。写真も持っていた。でも出さなかった」
「なぜだ」
瑛子は写真の少女の顔を見た。
画質は荒い。それでも、少女の目だけは生きていた。
助けを求める目ではなかった。助けられることさえ諦めた者の目だった。
「この写真を出せば、事故じゃなくなる」
瑛子は言った。
「日下部誠が少女を連れ戻そうとしていたことも、少女が抵抗していたことも、全部表に出る。結衣という名前が、世間に晒される」
「だから四人は嘘をついた?」
「たぶん」
「そのせいで佐伯が責任を負った。処分され、叩かれ、翌年に自殺した」
相良の声には怒りがあった。
瑛子も同じ怒りを感じていた。だが、それだけではなかった。
人を守るためについた嘘が、別の人を沈めることがある。善意は罪を薄めない。けれど罪だけで人を裁くと、そこにあった怯えや愛情まで見えなくなる。
荒木は死ぬ前に三島へ行った。真辺は豊橋で公衆電話をかけた。榎戸は小田原で落とし物を探した。
三人とも、予定とは違う列車に乗った。三人とも、誰かに会うはずだった。三人とも、過去の一場面に引き戻されていた。
犯人は彼らを追っていない。
瑛子は時刻表を広げた。
細かい数字の列。東京、品川、新横浜、小田原、熱海、三島、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、新大阪。
そこに並ぶ時刻は、人間の運命とは無関係なはずだった。だが犯人は、その無機質な表を罫線として使った。
人の罪悪感を、その一点に押し込めるために。
「犯人は現場へ行っていない」
瑛子は言った。
相良が顔を上げる。
「何?」
「犯人は被害者を殺しに現場へ行ったんじゃない。被害者を、殺すために用意した時刻表上の一点へ歩かせた」
瑛子は三人の移動履歴を赤鉛筆で結んだ。
三島。豊橋。小田原。
どれも、被害者の本来の予定から外れた駅だった。そしてどれも、十年前の名古屋駅事故に関わる証言の矛盾をなぞっていた。
荒木は、結衣の逃亡経路を知っていた。真辺は、少女の存在を法的な記録から薄めた。榎戸は、佐伯を救える写真を隠した。
「彼らは自分の意思で動いていたように見える。でも、本当にそうでしょうか」
相良は黙った。
瑛子は、死者たちの顔写真を見た。
荒木の目元には疲れがあった。真辺の口元には諦めがあった。榎戸の額には、長く眠れなかった人間の皺があった。
罪悪感は、命令より強いことがある。後悔は、脅迫より深く人を従わせる。
犯人は、それを知っていた。
四 時刻表の一点
佐伯那月という名前が捜査線上に浮かんだのは、榎戸の死の翌朝だった。
彼女は三十四歳。鉄道関連の編集会社に勤め、時刻表や乗換案内の記事を担当していた。父は、十年前の名古屋駅事故で処分を受けた佐伯圭介。
佐伯圭介は事故後、会社からは公式に守られなかった。週刊誌は「新幹線ホームの安全神話崩壊」と騒ぎ、匿名掲示板には彼を罵る言葉が並んだ。真相を知らない人々は、いつも正義の顔で石を投げる。
彼は一年後、自宅の物置で命を絶った。
遺書には、たった一文。
——あの子を、もう一度守れなかった。
那月は当時二十四歳だった。
捜査本部はすぐ彼女を疑った。動機がある。時刻表に詳しい。被害者たちの過去を調べる能力もある。
しかし、彼女には完璧すぎるアリバイがあった。
荒木が三島で死んだ時、那月は東京駅近くの編集部で打ち合わせをしていた。真辺が豊橋で死んだ時、彼女はオンライン配信の鉄道番組に出演していた。榎戸が小田原で死んだ時、彼女は横浜の書店でトークイベント中だった。
どれも多数の証人がいる。
刑事たちは首をひねった。瑛子は、むしろその完璧さに犯人の影を見た。
那月は現場にいる必要がなかった。現場に必要だったのは、被害者自身だった。
被害者が予定を変える。指定された列車に乗る。指定された駅で降りる。指定された封筒を開ける。指定された電話をかける。指定された待合室に座る。
そうして初めて、犯行は完成する。
犯人は手を下す前に、彼らの心の中へ入っていた。
瑛子は、被害者たちに届いたメッセージの復元を急がせた。
完全ではなかったが、断片が残っていた。
荒木へ。
——あなたが買った切符で、あの子は名古屋へ連れ戻された。——今度は正しい列車を選んでください。——三島で待っています。白い栞を持って。
真辺へ。
——あなたの書いた一文で、佐伯圭介は沈黙させられた。——結衣の名前を守りたいなら、豊橋の公衆電話へ。——十年前と同じように、記録に残らない声で。
榎戸へ。
——写真を返してください。——あなたが消したものを、もう一度落とし物として届けてください。——小田原、十三号車。
どのメッセージにも、脅迫めいた言葉は少ない。代わりに、相手の心の柔らかい傷口を正確に押していた。
お前のせいだ。だが、まだ守れる。今度こそ正しい行動をすれば、あの子を救える。
その言葉に、三人は抗えなかった。
瑛子は荒木の妻に会った。
妻は小さな声で言った。
「夫は、十年前から新幹線に乗る前の夜だけ眠れませんでした」
「理由を話したことは?」
「いいえ。ただ一度だけ、酔って言いました。『子どもは、助けたあとも助け続けなきゃいけないんだ』って」
真辺の妹は、遺品の中から古い封筒を出した。
そこには真辺の筆跡で、こう書かれていた。
——法は人を守る。でも、ときどき守るために人の名前を奪う。私はあの子から名前を奪った。生きるために必要だったと信じた。でも佐伯さんからも名前を奪った。
榎戸の机には、十年前の未発表原稿が残っていた。
題名は「名古屋駅事故の少女」。
本文は途中で途切れていた。最後の行は、消しゴムで何度も擦られ、紙が薄く破けていた。
——彼女は被害者であり、目撃者であり、そしておそらく——
その先はなかった。
瑛子は三人を許せなかった。
だが、単なる犠牲者として片づけることもできなかった。
彼らは弱かった。卑怯だった。しかし、その卑怯さの奥に、ひとりの少女を二度と檻へ戻すまいとする必死さがあった。
人間は、清い動機で残酷なことをする。その残酷さに気づいたあとも、清かった部分だけは捨てられずに抱えて生きる。
犯人は、そこを利用した。
五 最後の証人
四人目の証人、菅原隆臣は東京郊外の病院にいた。
元救急医。十年前、彼は偶然ひかりの車内に乗り合わせ、名古屋駅で倒れた日下部誠の死亡確認に関わった。のちの調書では、彼は「事故前に暴行や争いの兆候は見なかった」と証言している。
瑛子たちが病院を訪ねた時、菅原はすでに姿を消していた。
机の上に、手紙が一通残っていた。
——私は逃げたのではありません。——あの子を、もう一度隠しに行きます。
相良が舌打ちした。
「まただ。自分から行った」
「いいえ」
瑛子は手紙を握った。
「行かされたんです」
菅原の端末には、削除されたメッセージが残っていた。
——本日十五時二十六分。——名古屋駅十四番線、白い柱の前。——十年前にあなたが死亡時刻を書き換えた場所へ。——結衣はそこにいます。
瑛子は時刻表を確認した。
菅原は東京発十三時台ののぞみに乗れば、十五時前に名古屋へ着く。だがメッセージには、わざと別の列車が指定されていた。途中でひかりに乗り換え、さらに名古屋到着を十五時二十六分に合わせる、不自然な経路。
十年前の事故発生時刻は、十五時二十六分。
犯人は菅原を、事故そのものの時刻へ戻そうとしている。
「名古屋へ」
瑛子は言った。
ホームへ駆け上がると、東京駅は昼の光で白く燃えていた。人々は弁当を買い、土産を抱え、改札を抜けていく。誰もが自分の目的地へ向かっているように見える。
だが本当にそうだろうか、と瑛子は思った。
私たちはみな、自分の意思で列車を選んでいるのか。それとも、過去に買わされた切符を、今も使い続けているだけなのか。
のぞみの窓から、品川、新横浜、小田原が過ぎていった。海は見えず、町は低い雲の下に沈んでいた。
菅原はどこかの車両にいるはずだった。しかし、指定席にも自由席にも姿はない。
瑛子はふと気づいた。
犯人は菅原を名古屋へ向かわせている。だが、菅原が本当に乗っているのは、名古屋へ着くための列車ではない。
十年前へ戻るための列車だ。
ならば彼は、人目につかない場所ではなく、あの事故を最も強く思い出す場所へ行く。
デッキ。
列車が名古屋に近づくころ、瑛子は十一号車のデッキで菅原を見つけた。
彼はドアの前に立ち、窓に映る自分の顔を見ていた。白髪は乱れ、手には古い子ども用の上着があった。
「菅原先生」
瑛子が声をかけると、彼はゆっくり振り向いた。
「刑事さん。私はもう、守るのに疲れました」
「何を守っていたんですか」
菅原は笑った。笑いではなく、顔の筋肉が諦めの形に動いただけだった。
「あの子の名前です」
「日下部結衣」
彼の目に涙が浮かんだ。
「彼女は父親から逃げていた。父親と呼ぶのも嫌な男でした。暴力、支配、金。母親は亡くなり、親族は見ないふりをした。荒木は、福祉関係の知人から相談を受けて、彼女を東京へ逃がす手配をしていた。だが日下部に見つかった」
「名古屋駅で」
「ええ。彼は結衣を連れ戻そうとした。腕を掴み、叩いた。彼女は逃げようとして、突き飛ばした。殺そうとしたわけじゃない。ただ、離れたかっただけです」
列車が静かに減速し始めた。
菅原の声もまた、時間に引き戻されるように低くなった。
「佐伯さんは、それを止めようとしていた。誰よりも早く。彼は悪くなかった。でも真実を話せば、結衣は世間に晒される。人は可哀想な少女を救うふりをして、何度でもその傷を覗き込む。私たちは、それが怖かった」
「だから嘘をついた」
「はい」
「佐伯さんを犠牲にして」
菅原は目を閉じた。
「はい」
その返事には弁解がなかった。
名古屋駅到着のアナウンスが流れた。十五時二十六分。
デッキの窓に、ホームの白い柱が近づいてきた。
菅原は上着を胸に抱いた。
「あの子は、今も生きていますか」
「生きています」
瑛子は言った。
菅原の目が揺れた。
「なら、私は——」
その時、ドアの向こう、ホームの柱のそばに一人の女性が立っているのが見えた。
細い体。黒いコート。手に持った白い栞。
佐伯那月だった。
六 父の遺書
名古屋駅十四番線は、十年前と同じように騒がしかった。
発車ベル、乗客の足音、車内清掃の声、駅員の案内。日常は、どんな悲劇の上にも平気な顔で積み重なる。
那月は逃げなかった。
瑛子が近づくと、彼女は穏やかな表情で言った。
「菅原先生には、来てほしかったんです。ここへ」
「殺すために?」
「認めさせるために」
「三人は死んでいる」
「三人とも、最後に本当のことを話しました」
那月は鞄から小型の記録媒体を出した。
「荒木さんは、結衣さんを逃がすために切符を手配したことを。真辺さんは、証言を整えたことを。榎戸さんは、写真を隠したことを。みんな、父のことも話しました。父は悪くなかったと」
「そのために殺したんですか」
那月の唇が震えた。
「父は、悪くなかった」
その一言だけは、幼い子どもの泣き声のようだった。
「父は毎朝、時刻表を見ていました。遅れがないか、乗客が困らないか、駅で誰かが迷わないか。人が正しい場所へ行けることを、誰より大事にしていた人でした」
那月は白い柱を見た。
「その父が、たった一度、人を守ろうとして、壊された。新聞には不注意な駅員と書かれた。会社は沈黙した。目撃者たちは口を閉ざした。父は遺書に『あの子を守れなかった』と書いた。私はずっと思っていました。あの子とは、私のことだと」
瑛子は黙っていた。
「でも違った。父が守ろうとしたのは、結衣さんだった。なら私は、父を奪った人たちから真実を取り戻すしかなかった」
「真実は、人を殺して取り戻すものじゃない」
「刑事さんは、そう言える側の人です」
那月は微笑んだ。
「私は十年間、父の汚名が時刻表みたいに毎日繰り返されるのを見ていました。朝が来るたび、父はまた不注意な駅員になる。新聞記事は消えない。ネットの言葉も消えない。死んだ人間は、自分で弁明できない」
瑛子は那月の目を見た。
そこには狂気よりも、乾ききった悲しみがあった。復讐は熱いものだと人は思う。けれど本当に長く続いた復讐は、氷のように静かになる。
「あなたは、被害者たちに選ばせた」
瑛子は言った。
「予定どおりの列車に乗るか、過去へ戻る列車に乗るか」
「彼らは戻りました」
「罪悪感を利用したんです」
「罪悪感があるなら、それは罪があるからです」
「でも彼らは、結衣さんを守ろうとしていた」
那月の表情がわずかに歪んだ。
その時、人混みの奥から一人の女性が歩いてきた。
三十代半ば。淡い灰色のコートを着ている。顔立ちは静かで、どこか壊れやすい硝子細工を思わせた。だがその目は、十年前の写真の少女とは違っていた。
自分の足でここまで来た者の目だった。
「日下部結衣さんですね」
瑛子が言うと、女性は小さく頷いた。
「今は、野宮灯と名乗っています」
那月は息を呑んだ。
結衣——灯は、那月を見た。怯えも憎しみもなかった。あるのは、長い時間をかけて痛みを手で包んできた人間の静けさだけだった。
「佐伯さんは、私を守ってくれました」
灯は言った。
「あなたのお父さんは、私の腕を掴んでいたあの人から、私を離そうとしてくれました。私はそれを覚えています」
那月の目から、涙が一筋落ちた。
「でも、父は死んだ」
「はい」
灯は目を伏せた。
「私のために、たくさんの人が嘘をつきました。その嘘で、あなたのお父さんが苦しんだことも知っています。私は長い間、生きているだけで誰かを殺し続けている気がしていました」
「なら、なぜ黙っていたんですか」
那月の声は責めるようでいて、縋るようでもあった。
灯は答えるまでに時間をかけた。
「怖かったからです」
その言葉は、駅の騒音の中でもはっきり聞こえた。
「また、名前を呼ばれるのが怖かった。父の娘として、事故の少女として、可哀想な子として、誰かの物語にされるのが怖かった。荒木さんたちは、私を守ってくれました。でも同時に、あなたのお父さんを守れなかった。私は、その両方を知って生きてきました」
菅原がホームの柱にもたれ、声を殺して泣いた。
那月は白い栞を握り潰した。
「私は……父を救いたかっただけです」
瑛子は手錠を取り出した。
「ええ」
その短い返事に、瑛子は自分でも驚くほど多くの感情を込めていた。
怒り。憐れみ。理解。それでも、止めなければならないという冷たい決意。
「でも、死者を救うために別の死者を増やしてはいけなかった」
那月は抵抗しなかった。
手錠の金属音が、発車ベルに混じった。
その瞬間、ホームに停まっていたのぞみのドアが閉まり、白い車体がゆっくり動き出した。
十年前と同じ時刻。同じ駅。同じ東海道新幹線。
だが今度は、誰も線路へ落ちなかった。
七 殺された者たちの共犯
事件後、佐伯圭介の処分記録は再調査された。
公式発表は慎重な言葉で飾られた。当時の証言に重大な不備があった。佐伯圭介の対応には、少なくとも従来報じられたような過失は認められない。関係者の名誉回復に努める。
それは遅すぎる言葉だった。死者には届かない。届いたとしても、棺の蓋を開ける力はない。
それでも、那月は面会室でその文書を読んだ時、初めて泣いたという。
灯は、自分の過去をすべて公表しなかった。
瑛子はそれでいいと思った。
真実は、必ずしも世界中に配られる必要はない。誰かを裁くための真実と、誰かが生きるための真実は、同じ形をしていないことがある。
荒木修一。真辺冴子。榎戸匠。菅原隆臣。
彼らは罪を犯した。嘘をつき、沈黙し、佐伯圭介を孤独へ追いやった。
それでも彼らは、結衣という少女を守った。守り方を間違えた。間違えたまま十年を生き、犯人の言葉に揺さぶられ、最後には自分の足で死へ向かう列車に乗った。
彼らは被害者だった。同時に、過去の共犯だった。そして、犯人の計画を完成させてしまった共犯でもあった。
瑛子は東京駅のホームに立っていた。
夕方の東海道新幹線は、帰る人々で満ちていた。ビジネスマンが電話を切り、親子が駅弁を選び、老夫婦が手をつないで指定席の番号を探している。
列車は今日も正確に来る。人間の罪や後悔を知らない顔で。
けれど瑛子には、その白い車体が少しだけ違って見えた。
ただ人を運ぶものではない。過去から逃げる者を乗せる。過去へ戻る者を乗せる。誰かを守るために嘘をついた者も、嘘によって壊された者も、同じ線路の上に乗せていく。
発車ベルが鳴った。
瑛子はふと、灯が最後に言った言葉を思い出した。
「私は、あの人たちを許せません。でも、あの人たちがいなければ、私は生きていません」
許しではない。断罪でもない。そのあいだにある、名づけようのない場所。
人はそこでしか、過去と向き合えないのかもしれない。
新幹線のドアが閉まった。
窓の向こうに、乗客たちの顔が流れていく。それぞれが、それぞれの切符を持っている。本当に自分で選んだ切符もあれば、誰かの罪や愛情や沈黙によって、知らぬ間に手渡された切符もある。
列車は静かに動き出した。
瑛子はその白い尾灯を見送った。
復讐は救済にはならない。けれど、復讐によってしか掘り起こされなかった救いもある。
それがこの事件のいちばん残酷な真相だった。
殺された者たちは、犯人の共犯ではなかった。少なくとも、初めからそうだったわけではない。
彼らはただ、過去の一瞬に置き去りにした少女を、十年後も守ろうとしていた。
そして犯人は、その優しさと罪の区別がつかない場所に、死への時刻表を置いたのだった。





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