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千の塔と一本の糸――プランバナンでサンダルを縫う

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月14日
  • 読了時間: 5分
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雲が綿の房をちぎったみたいに浮かび、ジャワの陽が黒い安山岩の塔をくっきり起こしていた。尖った屋根が幾重にも重なるプランバナン(ロロ・ジョングラン)に足を踏み入れると、まず目に入るのは、積み直しを待つ石の海だ。四角い塊一つひとつに白い数字が書かれていて、まるで巨大なパズルの駒が草原で昼寝をしているように見える。9世紀に造られ、シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーへ捧げられた寺院群――そう頭で反芻しながら、私は砂の小径を歩いた。

最初の失敗は早々に来た。サンダルの鼻緒がぷつりと切れたのだ。熱い地面に素足が触れた瞬間、あやうく小さく跳ねる。近くの木陰に腰を下ろしてどうしたものかと困っていると、小さなワルン(売店)のおばさんが手を振った。

「Mas、こっちおいで。直してあげるよ」

彼女の名はワティさん。棚の奥からライター、釣り糸、そして透明な瞬間接着剤を取り出す。鼻緒の切れ目を火で軽く炙って柔らかくし、糸でぎゅっと縛ってから“レム(接着剤)”を一滴。最後に洗濯ばさみでしばらく挟み、「乾くまでお茶でも飲んで待ちな」と湯気の立つウェダン・ジャヘ(生姜の甘いお茶)を差し出してくれた。ひと口。喉の奥がじんわり温まる。

「2006年の地震のときね、石がたくさん落ちたの」ワティさんは接着剤のフタを閉めながら言う。「誰も怪我しないように、みんなでゴトン・ロヨン(助け合い)よ。ここらの人は強いの。石も、人も、ゆっくり元に戻る」

彼女の指は小さく、でも迷いがない。乾くのを待つ間、石の番号の意味を教えてくれた。崩れた石をひとつずつ計測し、元の位置に戻すための符号だという。巨大な寺院を、まるで家族の写真をアルバムに戻すみたいに、丁寧に整えていく。

サンダルが復活すると、彼女は「ほら、歩ける」と笑って、揚げたてのピサン・ゴレン(バナナの天ぷら)を半分に裂いて持たせてくれた。代金を渡そうとすると、手をひらひらさせて言う。「Sudah, sudah(もういいの)。旅人はちゃんと食べて、ちゃんと戻って来て。また喉が渇いたらここに座りな」

歩き出すと、さっきまで足もとにまとわりついていた不安が嘘みたいに軽くなった。中央のシヴァ寺院へ向かう途中、校外学習の小学生たちに囲まれる。「Mister, foto?」とスマホを掲げられ、肩を寄せ合って数枚。別れ際、ひとりの女の子が「Terima kasih」と言い、そっと飴をくれた。包み紙に笑顔のシール。あまりに真っ直ぐで、ポケットにしまう手が少し震えた。

シヴァの周りを巡る回廊では、石のレリーフが長い物語を連ねていた。猿の軍勢、弓を引く王子、森を行く彼らの足取り――ラーマーヤナの一場面だと案内板にある。石に刻まれた線が陽に乾いて、昨日の出来事みたいに生々しい。ふと肩を叩かれた。係員のバパック(おじさん)が控えめに微笑む。

「北の小部屋、見ました? Roro Jonggrang――私たちはそう呼ぶ女神像があります」

案内に従って入った小さな部屋の奥、鬼を倒すドゥルガー像が静かに立っていた。バパックは声を落として、昔話を短く聞かせてくれた。千の寺を一夜で造れと王女が言い、男は魔力で999まで成し遂げたが、王女が村人に臼を搗かせ、夜明けを偽った。怒った男は王女を石に変えた――この地域で語り継がれる“ロロ・ジョングラン”の伝説だ。「人はみんな、誰かのために急ぎすぎることがある。ここは、急がなくていい場所」とバパックは言った。

外へ出ると、午後の空気が少し柔らいでいた。石の山にも短い影が落ちる。崩れた石の隙間から、小さなトカゲがすばやく走り抜け、草むらで止まってこちらを窺う。そこへさっきの小学生たちが再登場し、ひとりの男の子が私のサンダルを指差して親指を立てた。「Kuat!(強いね!)」私が「ワティさんが直してくれた」と言うと、彼らは口々に「Ibu Wati!」と笑い、どうやらここでは有名人らしい。

日が傾き、塔の輪郭が金色の縁取りをまとい始める。ワティさんのワルンに戻ると、彼女は待っていたみたいに湯呑みを差し出した。「Teh tawar(砂糖なしの紅茶)。夕方はこっちでスッとするよ」ベンチに腰を下ろすと、隣の席では若いカップルが前撮り写真の最終確認をしている。カメラマンが「風が来る、ベールを上げて」と手を振り、ワティさんはベールの端をそっと押さえる。見知らぬ者同士が、自然に作業を分担していくのがこの遺跡のやさしいところだ。

「ねえ、Mas」ワティさんが空を見上げた。「ここは“千の寺”の伝説があるけど、私にとっては“千の手”の場所。地震のあと、知らない人たちが手を貸してくれた。観光客も、近所の人も、兵隊さんも。石は重いけど、手の数が増えると軽く見えるのよ。不思議だね」

私は飴の包み紙を出して見せた。笑顔のシールが光る。「今日も一つ、手が増えましたね」と言うと、ワティさんは目を細めた。「そう。あなたのサンダルを縫った糸も、その一本」

帰り道、私は石の海を振り返った。番号が白く光り、夕陽が塔の先端を一本ずつ撫でていく。千年前の物語と、今日のちいさな修理とが、同じ草原の上で同居している。足もとは確かで、サンダルは前より少しだけ丈夫になった気がした。

空が藍色に沈み、遠くでガムランの練習らしい音がかすかに揺れた。ワティさんが手を振る。「また来なさい。次はサンダルじゃなく、あなたの心を縫ってあげる」冗談みたいに聞こえたけれど、ここでは本当かもしれない。崩れた石も、伝説の王女も、人の記憶も、時間をかけて縫い直される。プランバナンは、そんな針と糸の場所だった。

ポケットの飴を口に入れる。生姜と紅茶の香りの上に、甘さがふわりと重なった。千の塔を見上げながら、一本の糸に救われた日のことを、私はきっと長く覚えている。

 
 
 

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