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午前六時十三分、太陽は死体を乗せて昇る

※作中の列車番号・時刻・運行設定はすべて架空です。

東海道新幹線の朝は、いつも正確だった。

東京駅十七番線。午前五時五十七分発、下り「こだま601号」。

眠気を残した乗客たちが、白い車体へ吸い込まれていく。通勤客、出張の会社員、修学旅行の引率教師、泣きそうな赤ん坊を抱いた若い母親。日本でいちばん忙しい線路の上を、今日も何百もの人生が時刻表どおりに運ばれる。

十三号車、十三番E席。

そこに座った男は、窓の外に昇りはじめた朝日を眺めていた。

男の名は牧田剛司。大手医療機器メーカーの副社長。五十二歳。

隣の席の少年が、母親に叱られながらリュックを抱え直した。牧田はポケットから飴を一つ取り出し、少年に渡した。

「富士山、見えるかな」

少年はうなずいた。

「見えるよ。E席だもん」

その瞬間、牧田のスマートウォッチが小さく震えた。

画面には、たった一行。

六時十三分。陽は昇る。君は沈む。

牧田の顔から血の気が消えた。

少年が窓の外を見たのは、その直後だった。朝日がビルの隙間を破り、車内に金色の光が流れ込む。

そして、牧田剛司は笑ったまま死んだ。

警視庁捜査一課の真壁航平が東京駅に着いたとき、東海道新幹線のホームはすでに規制線で分断されていた。

「また新幹線か」

真壁は低く吐き捨てた。

三日前、品川駅のホームで大学教授が刺殺された。二日前、名古屋駅の待合室で弁護士が毒殺された。そして今朝、こだま601号の十三号車で牧田剛司が死んだ。

三人に共通していたのは、東海道新幹線に乗っていたこと。そして、死の直前に同じメッセージを受け取っていたことだった。

陽は昇る。君は沈む。

捜査本部では、犯人は「サンライズ」と呼ばれていた。

だが、真壁はその呼び名が嫌いだった。朝日を人殺しの名前にするな、と本気で思っていた。

「真壁さん」

若い女性刑事の白石瑠衣が、タブレットを手に駆け寄ってきた。

「被害者の死亡推定時刻は午前六時十三分前後です。スマートウォッチの心拍記録も、その時刻に途絶えています」

「犯人は?」

「第一容疑者は、蒲生零司。元システムエンジニア。鉄道ダイヤ解析ソフトの開発者です。IQテストの記録が異常値で、本人は自分を“MAX”と呼んでいたそうです」

「ふざけた野郎だ」

「問題は、アリバイです」

白石はタブレットに映像を出した。

午前六時十一分。品川駅構内の防犯カメラ。

黒いコートの男が、売店で新聞を買っている。顔ははっきり映っていた。蒲生零司。

「被害者が死亡した六時十三分、蒲生は品川駅にいました。こだま601号はすでに東京駅を出発しています」

真壁は映像を睨んだ。

「つまり、乗っていない列車の中で人を殺したってことか」

白石は唇を結んだ。

「それだけじゃありません。蒲生は六時二十三分発の、ひかり505号に乗っています。その後、名古屋で降りた記録があります」

「被害者の列車は?」

「こだまです。停車駅が多い。名古屋到着は八時四十分」

真壁は、ふと顔を上げた。

「後から出たひかりのほうが、先に名古屋に着く」

「はい」

「時刻表アリバイか」

白石はうなずいた。

「でも、死亡時刻が六時十三分なら、蒲生は物理的に無理です」

そのとき、真壁のスマホが鳴った。

非通知。

真壁は一瞬だけ白石を見て、通話を取った。

『おはよう、熱血刑事』

若い男の声だった。澄んでいて、冷たい。まるで水槽の中から聞こえる声。

「蒲生零司か」

『名前を呼ばれるのは好きだ。神に近づいた気がする』

「神は人を殺して喜ばねえ」

『人間だって殺して喜ぶじゃないか。戦争、裁判、手術、処刑。呼び方を変えれば、殺人は仕事になる』

真壁の拳が震えた。

「どこにいる」

『時刻表の中だ』

電話の向こうで、紙をめくる音がした。

『真壁航平。君はまだ新幹線を線路だと思っている。違う。新幹線は時計だ。東京、品川、新横浜、小田原、熱海、三島、静岡、浜松、名古屋、京都、新大阪。人間はその針の上で踊っているだけだ』

「三人殺した理由は何だ」

『三人?』

蒲生は笑った。

『刑事さん、時刻表はちゃんと最後まで読みなよ。まだ途中駅だ』

通話が切れた。

同時に、真壁のスマホに一枚の画像が届いた。

新幹線の座席表。赤く塗られた席。

七号車七番E席。

その下に、時刻が書かれていた。

京都 九時四十四分。

捜査本部は一気に混乱した。

次の標的は京都。だが、どの列車なのか分からない。

「東海道新幹線の下りで九時四十四分に京都に着く列車は複数あります」

白石が叫ぶように報告した。

「のぞみ、ひかり、臨時列車も含めると絞りきれません!」

「E席を押さえろ。七号車七番E席に座る乗客を全部確認しろ!」

真壁は怒鳴った。

だが、犯人はその怒鳴り声すら読んでいた。

京都駅で見つかったのは、七号車七番E席ではなかった。七号車七番E席に座っていた女性会社員のスーツケースの中だった。

被害者は千田孝明。元外科医。

死体の胸ポケットには、折り畳まれた時刻表の切れ端が入っていた。

赤いペンで囲まれていたのは、「待避」の文字。

そして裏には、こう書かれていた。

先に出た者が、先に着くとは限らない。先に生まれた者が、先に死ぬとも限らない。

蒲生零司は、その時刻、京都駅にはいなかった。

防犯カメラでは、午前九時四十二分、新大阪駅のホームにいた。京都で死体が発見される二分前だ。

「無理です」

白石の声はかすれていた。

「京都駅と新大阪駅を二分で移動することはできません」

「じゃあ映像が嘘だ」

「解析しました。映像加工の痕跡はありません。新大阪駅の監視カメラそのものです」

真壁は黙った。

蒲生零司は、警察の前に姿を見せつけながら、警察を笑っていた。

その夜、真壁はひとりで東京駅の端に立っていた。

終電後のホームは、昼間とは別の場所のようだった。白い車体は消え、線路だけが黒く横たわっている。

「刑事さん」

声をかけてきたのは、駅員OBの大槻という老人だった。かつて東海道新幹線の車掌だった男で、捜査協力者として呼ばれていた。

「時刻表ってのは、冷たい数字じゃありません」

大槻は皺だらけの手で、古びた携帯用時刻表を開いた。

「これは約束なんです。お父さんを家に帰す。子どもを修学旅行に連れていく。病人を病院へ間に合わせる。そういう約束が、分単位で並んでいる」

真壁は老人を見た。

「犯人は、その約束を殺しの道具にしてる」

「だから許せません」

大槻の目は濡れていた。

「新幹線は、人を死なせるために走ってるんじゃない」

真壁は何も言えなかった。

そのとき、小さな少年がホームの向こうで泣き出した。牧田に飴をもらった、あの少年だった。母親に連れられ、事情聴取のために来ていた。

真壁はしゃがみ、少年に目線を合わせた。

「怖かったな」

少年は泣きながらうなずいた。

「おじさん、笑ってた。でも、怖かった」

「何か覚えてるか」

少年は鼻をすすった。

「富士山が見えるって言ってた」

「うん」

「でも、まだ富士山のところじゃなかった」

真壁の目が止まった。

「どういうことだ」

「だって、窓に富士山が映ってたんだ。ほんとは外はビルだったのに」

真壁は立ち上がった。

「白石!」

翌朝、捜査本部で真壁はホワイトボードに三つの時刻を書いた。

六時十三分。九時四十四分。次は、十一時二十七分。

「犯人は俺たちに時刻表を読ませているんじゃない」

真壁は言った。

「時刻表を信じ込ませている」

白石が息を呑んだ。

「信じ込ませる?」

「六時十三分に牧田が死んだと俺たちは思った。心拍データが途絶えたからだ。だが、スマートウォッチは牧田の命そのものじゃない。外された時計が止まっただけかもしれない」

「でも乗客の少年が、牧田さんが笑って死んだと」

「少年は死を見たんじゃない。怖い顔を見た。牧田はそのあとも生きていた可能性がある」

真壁は、時刻表のコピーに赤丸をつけた。

「こだま601号は三島で長く停まる。後発のひかり505号が追いつく。蒲生は品川で映ったあと、ひかりに乗り、三島でこだまに接触した。先に出た列車に、後から出た男が追いつける。それが第一の仕掛けだ」

白石が続けた。

「第二の京都の事件は?」

「新大阪の防犯カメラに映った蒲生は、本当に新大阪にいた。だが、その時刻に京都で殺したとは限らない。死体はスーツケースに入れられ、別の乗客の荷物として運ばれた。犯人は新大阪で“発見時刻”だけを操作した」

「発見時刻を、死亡時刻に見せかけた……」

「そうだ。俺たちは時刻表を見て、事件を点で考えた。東京、京都、新大阪。だが犯人は線で考えている。列車は動く密室じゃない。駅ごとに扉が開く、巨大な舞台だ」

白石は青ざめた顔で言った。

「では、次の十一時二十七分は」

真壁は蒲生から送られてきた最後の画像を壁に貼った。

十六号車。一番E席。

その窓に、朝日が映っている。

だが真壁は窓の反射を指差した。

「ここを見ろ」

白石が拡大した。

窓に映っていたのは、山の稜線だった。

「富士山……?」

「京都だと言って送ってきた映像にも、富士山の影があった。京都から富士山は見えない。あれは新幹線の窓に駅名標を映し込ませた偽装だ。蒲生は“場所”を偽っている。時刻だけは正確に」

真壁は時刻表を叩いた。

「十一時二十七分。十六号車一番E席。富士山が窓に映る角度。下りじゃない。上りだ」

「上り……東京方面?」

「蒲生の次の標的は、新大阪じゃない。東京へ戻ってくる列車だ」

白石の指が止まった。

「該当する列車があります。のぞみ128号。十一時二十七分、静岡県内を通過。十六号車一番E席は空席……いえ、直前に予約が入りました」

「名前は」

白石は画面を見て、顔色を失った。

「大槻源三郎」

駅員OBの老人。時刻表を「約束」と呼んだ男。

真壁は走った。

東京駅の階段を駆け下り、改札を抜け、ホームへ飛び込む。白石が後ろで叫ぶ。

「真壁さん、のぞみ128号はすでに小田原を通過しています!」

「止めろ!」

「安全確認なしに止められません!」

「人が死ぬんだぞ!」

真壁は無線を奪うように握った。

「車内警備に連絡! 十六号車一番E席、大槻源三郎を保護しろ!」

だが返答は遅かった。

『十六号車、該当座席に乗客なし』

真壁の背中を冷たいものが走った。

次の瞬間、スマホが鳴った。

蒲生だった。

『残念。老人は席にはいない』

「どこだ」

『時刻表を読めと言っただろう。列車は席だけじゃない。デッキ、洗面所、車掌室前。人は数字の隙間で死ぬ』

「蒲生!」

『真壁刑事、君は熱い。だから美しい。だが熱はすぐ冷める。人間の善意も同じだ。あの老人も、十三年前に冷めた』

「十三年前?」

電話の向こうで、蒲生の声が初めて濁った。

『母は死んだ。東海道新幹線のホームで。誰も助けなかった。発車時刻が迫っていたからだ。人間は命より時刻表を選ぶ』

真壁は黙った。

『大槻は車掌だった。母の前を通った。見て見ぬふりをした。定刻運転のためにね』

「違う」

真壁は即答した。

蒲生が笑った。

『何を知っている』

「大槻さんは言った。時刻表は約束だと。人を帰すための約束だと。おまえの言ってる時刻表とは違う」

『きれいごとだ』

「だったら、なぜ最後の標的にした。憎いなら最初に殺せばいい。おまえは確かめたいんだろう。あの人が本当に母親を見捨てたのか」

電話の向こうが沈黙した。

真壁は言葉を叩きつけた。

「蒲生。おまえは殺人を楽しんでる顔をしてるが、本当はまだホームで泣いてる子どもだ」

『黙れ』

「黙らねえ」

『十一時二十七分、十六号車のデッキで会おう。間に合えばね』

通話が切れた。

白石が叫んだ。

「のぞみ128号、まもなく品川到着です!」

真壁はホームへ飛び出した。

列車が滑り込んでくる。白い車体。青い帯。窓に流れる無数の顔。

扉が開いた瞬間、真壁は十六号車へ駆け込んだ。

デッキには誰もいない。

いや、奥の連結部に、黒いコートの男が立っていた。

蒲生零司。

その足元に、大槻が倒れていた。意識はある。口元が震えている。

蒲生は薄く笑った。

「間に合ったね。熱血刑事」

真壁はゆっくり近づいた。

「大槻さんから離れろ」

「いやだと言ったら?」

蒲生は小さなナイフを取り出した。

乗客の悲鳴が上がる。真壁は迷わず突っ込んだ。

蒲生の動きは速かった。細い身体が蛇のように沈み、真壁の腕をかわす。刃が袖を裂く。真壁は痛みを無視して肩からぶつかった。

二人はデッキの壁に叩きつけられた。

蒲生は笑っていた。

「いいね、いいね。刑事さん。人間は怒ってるときが一番読みやすい」

「黙れ!」

真壁の拳が蒲生の腹に入る。蒲生はよろめきながらも、真壁の足を払った。床に倒れた真壁の顔の横を、刃が掠める。

白石が車内に飛び込んだ。

「真壁さん!」

蒲生が一瞬そちらを見た。

その一瞬で、真壁は蒲生の手首を掴んだ。骨が軋むほど握りしめる。

「殺しをゲームにするな」

「ゲームじゃない」

蒲生の目が、初めて少年のように揺れた。

「証明だ。人は結局、自分の時刻表しか守らない。母の発車時刻に、誰も遅れてくれなかった」

「違う!」

倒れていた大槻が、かすれた声で叫んだ。

蒲生の目が大槻に向いた。

老人は震える手で、胸ポケットから古い紙を取り出した。黄ばんだ運転記録のコピーだった。

「私は……列車を遅らせた」

蒲生の表情が止まった。

「嘘だ」

「一分二十秒、遅らせた。君のお母さんのために。ホームで倒れた人がいると聞いて、非常停止の連絡を入れた。規則違反だと責められた。私はそれで現場を外された」

蒲生は首を振った。

「嘘だ。だって母は」

「助けられなかった」

大槻の声は崩れた。

「だが、見捨ててはいない。誰も、見捨ててはいない。君を抱いて泣いていたお母さんを、忘れたことはない」

蒲生の指から力が抜けた。

ナイフが床に落ちた。

その音は、新幹線の走行音の中でもはっきり響いた。

蒲生は笑おうとした。しかし笑えなかった。

「じゃあ、俺は……」

真壁は手錠をかけた。

蒲生は抵抗しなかった。

「俺は、何を殺したんだ」

誰も答えなかった。

三人の命。十三年分の憎しみ。母親の記憶。自分自身。

列車は品川を出て、東京へ向かった。

事件後、蒲生零司は取り調べでほとんど黙秘した。

ただ一度だけ、真壁にこう言った。

「完璧な時刻表だった」

真壁は答えた。

「完璧じゃなかった」

蒲生は目だけで笑った。

「どこが」

「人間が入っていた」

蒲生は何も言わなかった。

牧田に飴をもらった少年は、しばらく新幹線に乗れなくなった。千田の娘は、父の過去を知って泣いた。大槻は自分を責め続けた。白石は事件資料を見るたびに、時刻表の数字の隙間に人の顔を思い浮かべるようになった。

真壁も変わった。

彼は東海道新幹線に乗るたび、必ずE席を見る。そこに座る誰かが、窓の外の富士山を待っている。誰かが家へ帰ろうとしている。誰かが、大切な人に会いに行く。

時刻表は冷たい。

だが、その冷たさは、人間が迷わず誰かのもとへ辿り着くためのものだ。

事件から一か月後、真壁は東京駅のホームにいた。

朝六時十三分。

ホームの端から、太陽が昇った。

白い車体が光を受けて、まるで夜を切り裂く刃のように輝く。

真壁の隣には、牧田に飴をもらった少年がいた。母親に手を握られ、震えながらもホームに立っている。

「怖いか」

真壁が聞くと、少年は小さくうなずいた。

「でも、乗る」

「どうして」

少年は涙をこらえながら言った。

「おじいちゃんに会いに行くから」

真壁は少しだけ笑った。

「そうか」

列車の扉が開いた。

人々が乗り込む。泣きそうな顔も、眠そうな顔も、急いでいる顔も、全部まとめて朝の列車が運んでいく。

むなしさは消えない。死んだ者は戻らない。間違えた憎しみも、殺された時間も、元には戻らない。

それでも、陽はまた昇る。

東京駅午前六時十三分。

死を乗せた列車のあとに、今日も誰かを生かす列車が走り出した。

 
 
 

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