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南海の白刃


暁のアユタヤは、金ではなく湿り気で輝いていた。チャオプラヤの水面は、太陽の前にすでに汗をかき、寺院の尖塔は、絢爛というより苛烈な沈黙をまとって突き立っている。鐘の音は遠く、太鼓は近い。香の匂いが甘く、甘さの底に、腐りかけた果実と血の気配が混じっている。

私はその匂いを吸い込みながら、刀の鍔に触れた。熱帯では鉄がすぐに汗をかく。汗をかいた鉄は、まるで生き物の皮膚のようにぬめり、武士の手にだけは、どこまでも馴染まない。

「ヤマダ」

呼ばれるたびに、私は自分の名が薄くなるのを感じた。長政――その二文字は、故国では重いはずだった。だがここでは、重いのは名ではない。権力の匂いだ。香と汗と金と、そして恐怖が混ざった匂い。それが人を跪かせる。名は飾りにすぎぬ。飾りは光るが、光はいつでも嘘をつく。

王宮へ向かう舟の上で、私はふと、指の腹を見た。刀の柄を握り、火縄銃の銃床を押し、何度も血を拭った指である。だがその指は、湿気にふやけ、皮膚が柔らかくなり、まるで別の人間の手のようだった。

——私の身体は、ここに馴染み始めている。——馴染むということは、腐るということに似ている。そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。熱帯の朝のど真ん中で、冷えたのだ。

舟が岸に着くと、白い花が一輪、土の上に落ちていた。プルメリア――この国の寺院の庭に、無邪気に咲く花だ。白は潔白ではない。白は、死体の色に似ている。私はその花を踏まずに避けた。避けたことが、かえって卑怯に思えた。卑怯さは、いつも足の裏から始まる。

私はもともと、異国の土に立つ運命ではなかった。海は、武士の行き先ではない。海は商人のものだ。商人は銭で世界を測る。武士は血で世界を測る。ところが、世は皮肉だ。血の時代が終わりかけた頃、私は海へ出た。銭の匂いのする船に乗り、銭のための旅に出ながら、心の奥では血の出口を探していた。

朱印船の甲板で、潮の匂いを嗅いだ夜を、私は今も覚えている。星が多すぎて、空が重く見えた。あの夜、私は確信した。海は国境を消す。国境が消えると、武士の誇りは浮き輪を失う。だが浮き輪を失った者だけが、溺れる美しさを知る。

アユタヤに着いて、私はすぐに理解した。ここでは命が、軽い。軽い命は、いくらでも捨てられる。捨てられる命は、かえって眩しい。日本で死ぬことは型の中の死だ。だがここで死ぬことは、型の外の死だ。型の外の死は、どこか淫らで、だからこそ誘惑的だった。

私は日本人町の男たちを集め、銃を持たせた。火縄の煙は、湿った空気の中で重く垂れ、撃てば火花が汗の粒に溶ける。銃声は、この国の太鼓と相性がいい。太鼓が鳴るたび、銃が鳴る。銃が鳴るたび、人が倒れる。倒れた人間の眼は、南国の青空を映し、ひどく澄んでいた。

王は私を用いた。私も王を用いた。用いるという関係は、愛に似ている。愛に似ているから、すぐ裏切りに変わる。

私は爵位を得、絹を着せられ、異国の称号を与えられた。称号の響きは派手だ。派手さは、刃のように薄い。薄い刃は、皮膚の表面だけを切る。血が出ない。血が出ない傷ほど、長く痛む。

王宮の回廊で、舞姫たちが踊るのを見た夜があった。金の腕輪が鳴り、指が花のように開いては閉じる。あの指は、何かを掴まない指だ。掴まない指は美しい。美しいが、信用できない。掴まないということは、責任を持たないということだ。

私はその中のひとりの横顔に、ふいに見惚れた。首の線が柔らかく、汗の粒が光っていた。私は思った。——この首を、刀で切り落としたら、どれほど美しいだろう。その考えが浮かんだ瞬間、私は自分を憎んだ。美の想像は、いつも殺意の仮面を被る。殺意が美に見えるとき、人間は最も危険だ。

舞姫が私を見る。私は視線を逸らした。逸らした視線の先に、王の侍従がいた。侍従の目は笑っていたが、その笑いには湿り気がなかった。乾いた笑いは、処刑の前の笑いだ。

その夜から、私はよく眠れなくなった。眠れぬ夜は、国境のない海のように続く。続くものほど、人を狂わせる。

王が病んだ。病む王の身体ほど、国を露わにするものはない。王の身体が弱ると、廷臣たちの舌が強くなる。舌は刃より鋭い。刃は肉を切るが、舌は未来を切る。

私は気づいていた。この国は、私を必要としなくなる。必要としなくなるとき、人は「功績」を褒める。褒めることは葬式の準備だ。私に与えられた新しい任地――リゴール(ナコーンシータンマラート)。それは栄転の顔をした追放だった。

出立の前夜、日本人町を歩いた。酒の匂い。汗の匂い。故国の言葉が、異国の夜に溶けて、妙に甘かった。男たちは笑い、女たちは歌い、子どもは走る。私はその光景を見て、突然、腹が立った。生きているというだけで、あまりに無邪気だ。無邪気は、死の重さを知らない。死の重さを知らない生は、私には耐えがたかった。

「親方、向こうは危ねえって話ですぜ」

誰かが言った。私は頷いた。危ないのは知っている。危なさを知っているのに行くのは、勇敢だからではない。危なさの方が、正直だからだ。安全は嘘をつく。危険は嘘をつかない。嘘をつかないものにだけ、武士は身を預けられる。

船に乗り込むと、夜風が潮を運んできた。潮は、故国の冬を思い出させる冷たさを持っていた。私は甲板で、ひとり刀を抜き、月にかざした。刀身は白く、熱帯の月は妙に薄かった。

——この薄い月の下で死ねば、私は何者になる。——日本人か。シャムの官か。——それとも、ただの肉か。

答えは出なかった。答えが出ないまま、私は刀を納めた。納める音が、やけに大きく響いた。

リゴールの海は、荒かった。波は怒っているように白く砕け、風は椰子を鞭打つ。私はこの海を好きになった。海の怒りは、政治の笑いより誠実だ。

私は城塞を整え、兵を鍛え、税を集めた。統治は剣より疲れる。剣は一瞬で決まるが、統治は決まらない。決まらないものは、いつも人を汚す。汚れは見えぬところで増え、ある日突然、手の甲に現れる。私は自分の手を何度も洗った。洗っても、落ちない汚れがあることを知っていたのに。

やがて、知らせが来た。アユタヤで政変が起きた、と。王は死に、新しい権力が立ち、そして日本人町が危ない、と。

紙の文字は、湿気で滲んでいた。滲んだ文字は、まるで血のようだ。私はその紙を握り潰し、掌の中で湿った塊にした。湿った塊は、心臓に似ていた。心臓もまた、掌の中で潰せない湿った塊だ。

私は決めた。戻る、と。

戻るという言葉には、いつも甘さがある。甘さは郷愁だ。郷愁は、死よりも人を弱くする。だが私は、弱くなってでも戻る必要があった。日本人町は、私の部下であり、私の罪であり、私の鏡だった。

出航の日、空が急に暗くなった。雨季の雨は、剣のように垂直に落ちる。雨粒が肌を打つたび、自分の身体が生き物であることを思い知らされる。生き物であることは恥だ。武士は、本当は石でありたいのだ。

船が沖へ出たとき、遠くの岬の緑が、まるで巨大な獣の背中のようにうねって見えた。私は、その獣に飲まれる予感を抱いた。予感は、いつも当たる。当たる予感ほど、心地よいものはない。心地よさは、破滅の前触れだ。

襲撃は、夜だった。夜は公平だ。誰の顔も同じ闇にする。闇にされると、人は肩書きを失い、ただの肉になる。肉になる瞬間、私は不思議に落ち着いた。

刃が閃き、叫びが上がり、火が走った。火は、雨季の湿気にも負けず、欲望のように燃え広がる。燃える船の木材は、甘い匂いを出した。甘い匂いは、私をあの舞姫の首の線へ連れていった。私は歯を食いしばった。美の記憶は、死の瞬間にこそ最も残酷になる。

「長政!」

誰かが叫んだ。その叫びの中に、故国の訛りが混じっていた。私は振り向き、部下の顔を見た。顔は煤で黒く、目だけが白かった。白い目は、助けを求めている。助けを求める目は、武士を殺す。

私は剣を抜いた。抜いた瞬間、空気が変わる。刀は世界の形を単純にする。単純になることは、救いに似ている。私はその救いを、疑いながらも受け取った。

斬り結ぶ音。雨の音。火の音。それらが一つに混じり、南海の夜は巨大な楽器になった。私はその音の中で、自分がようやく“物語”になっていくのを感じた。物語になれば、痛みは意味になる。意味になる痛みは、どこか甘い。

だが、刃が私の身体を裂いたとき、甘さは消えた。熱いものが流れ、すぐに冷え、冷えた熱が腹の奥に溜まる。人は死ぬとき、まず匂いが鋭くなる。雨に濡れた木の匂い。焦げた油の匂い。血の鉄の匂い。そして、なぜか白い花の匂い。

私は膝をついた。甲板の板は濡れて滑り、私の血が雨と混ざって、海へ運ばれていく。海はすべてを洗う。だが洗われたあとに残るのは、清さではなく、ただの無だ。

私は空を見た。雲の切れ間に、薄い月があった。あの夜、甲板で見た薄い月だ。薄い月は、私を裁かない。裁かないものは優しい。優しさは、死の最後の贈り物だ。

——私は結局、何者だった。問いがまた浮かんだ。そして答えが、今度は静かに降りてきた。

——何者でもない。——だからこそ、ここまで来た。——何者でもないからこそ、ここで終われる。

私は笑おうとしたが、口はうまく動かなかった。笑えない顔のまま死ぬのは、案外ふさわしい。笑いは、生き残る者の特権だ。

最後に、白い花が一輪、甲板に落ちた。雨に打たれ、すぐに汚れ、汚れた白は、いっそう白く見えた。

私はその花に、故国の桜を重ねた。桜は散る。この花も散る。散るという事実だけが、国境を越えて同じだ。

そして私は、散るものの側へ、静かに移った。


 
 
 

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