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太陽が昇るたび、誰かが灰になる

―清水区連続失踪焼却事件―

五月の終わり、清水港の朝は、いつもなら潮と鉄と魚の匂いがした。

だがその朝、日の出埠頭に漂っていたのは、焦げた毛と薬品のような、胸の奥をざらつかせる臭いだった。

午前四時二十二分。

岸壁で釣り糸を垂れていた老人が、コンテナの陰から這い出してくる男を見つけた。

男は裸足だった。服は焼け焦げ、髪には灰がこびりつき、喉は潰れかけていた。それでも男は、海へ向かって逃げるように、アスファルトの上を這った。

老人が駆け寄ったとき、男は血の混じった唾を吐きながら、かすれた声で言った。

「……炉だ」

「炉?」

「犬じゃない……人間だ……三番炉……」

男は老人の腕をつかんだ。

その力は、死にかけた人間のものとは思えないほど強かった。

「失踪者は……まだ、燃えてる」

それが最後の言葉だった。

男の身元は、七年前に清水区内で行方不明になっていた佐伯柊だと判明した。

当時三十一歳。小さな運送会社に勤めていた。借金も、失恋も、家族との不仲もなかった。ある夜、巴川沿いのコインパーキングに車だけを残し、煙のように消えた男。

その佐伯が、死体としてではなく、生きたまま見つかった。

そして、死んだ。

清水署刑事課の真壁昇は、現場に立った瞬間、怒りで奥歯を噛んだ。

「七年だぞ」

潮風に揺れる規制線の前で、真壁は低く言った。

「七年、家族は“どこかで生きてるかもしれない”って思ってたんだ。それを、こんなふうに返すのか」

相棒の女性刑事・雨宮玲は、静かに手帳を閉じた。

「怒るのはあと。怒りで見落とすと、犯人の勝ちです」

「わかってる」

真壁は拳を握った。

「だから走るんだよ。怒りを足に回す」

佐伯の所持品はほとんど残っていなかった。

ただ、焦げた上着の内側から、半分だけ焼け残った薄い紙片が見つかった。

そこに印字されていた文字は、かすれていた。

《虹橋メモリアル・三番炉・小型犬》

清水区の山沿いにある、動物火葬施設だった。

ペットを火葬し、骨壺に納める民間施設。犬や猫を失った家族が、最後の別れをする場所。

真壁と雨宮が向かったとき、虹橋メモリアルは閉まっていた。

入口には、白い看板が立っていた。

《大切な家族を、虹の橋へ》

その優しい文句が、真壁にはひどく不気味に見えた。

施設内は、清潔だった。

待合室には小さな花瓶。壁には犬や猫の写真。受付には、手書きのメッセージカードが積まれていた。

「また会おうね」

「ずっと家族だよ」

「天国で走ってね」

人の愛情が詰まった場所だった。

なのに奥へ進むほど、空気は冷たくなった。

火葬炉は三基あった。

一番炉、二番炉、三番炉。

その三番炉の下、灰を集める金属製の受け皿から、雨宮が小さなものをピンセットで拾い上げた。

「歯です」

真壁は眉を寄せた。

「犬のか?」

雨宮は首を振った。

「人間です。しかも、治療痕があります」

翌日、歯科記録から身元が判明した。

十一年前に行方不明になった看護学生、夏目美雨。

三日後、別の灰の中から人工関節の破片が見つかった。

十八年前に失踪した元教師、浦上辰夫。

さらに、炉の排気口近くに溜まった灰から、複数人分の骨片が検出された。

すべて、過去に清水区周辺で行方不明者として扱われていた人間だった。

失踪事件が、死体なき殺人事件へ変わった。

いや。

死体はあった。

灰になっていただけだった。

報道は一斉に騒ぎ立てた。

《清水区・失踪者連続焼却事件》

《動物火葬炉に人骨》

《過去二十年の未解決失踪に関連か》

清水署には電話が鳴り続けた。

「うちの息子も、あそこに?」

「娘は死んでるんですか、生きてるんですか」

「骨だけでも返してください」

真壁は、電話の向こうの声を聞くたび、胃の底が焼けるようだった。

その中で、ひとりの老婆が署を訪ねてきた。

桜庭トシ、七十八歳。

二年前に飼い犬のハルを虹橋メモリアルで火葬したという。

トシは震える手で、小さな骨壺を真壁に差し出した。

「刑事さん。これ、うちのハルじゃないんですか」

真壁は言葉に詰まった。

トシは涙を流していなかった。

涙が枯れるほど、恐れている顔だった。

「ハルはね、拾った犬でした。私が夫を亡くした年に、家の前で丸くなってた。あの子がいたから、私は朝起きられたんです。もしこの中に、誰か知らない人が混じっているなら……その人も、誰かの朝だったんでしょう」

真壁は骨壺を両手で受け取った。

その重みは、証拠品ではなかった。

誰かの愛情だった。

「必ず調べます」

「犯人を憎んでください、とは言いません」

トシは小さく首を振った。

「でも、忘れないでください。灰になっても、人は人です」

その言葉が、真壁の胸に残った。

捜査は難航した。

虹橋メモリアルの経営者は、三年前に病死していた。現在の運営責任者は行方不明。職員名簿は改ざんされ、監視カメラの映像はすべて消されていた。

三番炉の使用履歴には、不自然な空白がいくつもあった。

そして、その空白の日付と、過去の行方不明者の失踪日には、関係がなかった。

雨宮は検査結果を見つめながら言った。

「妙です」

「何が」

「骨の状態から見て、亡くなったのは失踪直後ではありません。多くは、かなり最近です」

真壁は顔を上げた。

「つまり?」

「この人たちは、失踪してから何年も生きていた可能性があります」

署内が静まり返った。

失踪者は、消えた日に殺されたのではない。

どこかで生きていた。

そして、最近になって殺され、焼かれた。

では、誰が彼らを隠していたのか。

答えは、一枚の古いチラシから浮かび上がった。

《夜明けの会――人生をやり直したい人へ》

表向きは、失踪者家族の相談支援団体。

代表は、桐生戒斗。

心理学者、数学者、元AI研究者。

十代で国際数学オリンピック金メダル。二十代で海外大学の客員研究員。テレビ番組では「IQ測定不能の天才」「人間心理を数式で読む男」と呼ばれていた。

通称、IQ MAX。

現在は清水区で小さなカウンセリングルームを開き、失踪者家族の心のケアをしている。

真壁は、桐生と初めて対面した瞬間、肌が粟立った。

桐生は細身の男だった。黒いシャツに、灰色のジャケット。声は穏やかで、目だけが異様に冷たい。

「刑事さん、失踪とは何だと思いますか」

桐生は紅茶を注ぎながら尋ねた。

「質問してるのはこっちだ」

真壁は睨んだ。

「虹橋メモリアルと夜明けの会の関係を話せ」

「失踪とは、失敗した死です」

桐生は微笑んだ。

「死ねば、人は悲しまれる。けれど失踪すれば、待たれる。待つ人間は壊れていく。希望という毒でね」

真壁は机を叩いた。

「ふざけるな」

桐生は眉ひとつ動かさなかった。

「あなたは熱い人だ。だから刑事になった。誰かを助けるために。けれど、助けたいという感情ほど傲慢なものはない」

「佐伯柊を知っているな」

「相談者の守秘義務があります」

「死んでるんだぞ」

「死んで、ようやく完結したのかもしれない」

その瞬間、真壁は桐生の胸倉をつかんでいた。

雨宮が止めなければ、そのまま殴っていた。

桐生は真壁の耳元で囁いた。

「あなたにも、行方不明の家族がいる」

真壁の手が止まった。

「弟さんでしたね。真壁陽太。十五年前、三保の松原近くで失踪。靴だけが砂浜に残っていた」

雨宮の顔色が変わった。

真壁は桐生を突き飛ばした。

「どこで知った」

「人は、知りたがる者にほど情報を残す」

桐生は乱れた襟を直した。

「あなたの怒りは、正義ではない。個人的な穴です」

真壁は何も言えなかった。

十五年前。

弟の陽太は十六歳だった。

家出をするような少年ではなかった。明るく、よく笑い、朝が好きだった。口癖は「陽はまた昇る」だった。

その陽太が消えた日、真壁は警察官ではなかった。

兄として、何もできなかった。

だから刑事になった。

行方不明者の家族に「探します」と言える人間になりたかった。

桐生は、その傷を知っていた。

そして、わざと触れた。

その夜、清水署に一通の封筒が届いた。

中には、灰色の紙片とUSBメモリ。

紙片には印字されていた。

《次の朝までに解け。でなければ、最後の失踪者も灰になる》

USBには動画が入っていた。

薄暗い部屋。壁に貼られた古い新聞記事。行方不明者の写真。

その中央に、若い女性が縛られて座っていた。

雨宮が息を呑んだ。

「この人……八年前に失踪した高校教師、結城灯です」

灯はカメラに向かって泣きながら言った。

「帰りたい……私は、帰りたかっただけ……」

背後で、桐生の声がした。

「失踪者が帰ると、待っていた者の時間が壊れる。だから僕が終わらせる」

画面が暗転した。

次に映ったのは、三番炉の扉だった。

真壁はUSBを握りしめた。

「場所は?」

雨宮は映像を何度も巻き戻した。

「音が入ってます。海鳴りじゃない。これは……コンテナを動かすクレーン音」

「港か」

「でも炉は虹橋メモリアルにあるはず」

真壁は映像の隅に映った壁の傷を見た。

白い塗料が剥がれ、下から青い文字が出ている。

《HINODE》

日の出倉庫。

清水港の古い冷凍倉庫群だった。

真壁は走った。

雨宮が叫んだ。

「応援を待って!」

「待ってる間に焼かれる!」

港は雨だった。

夜のコンテナ群は迷路のようにそびえ、クレーンの赤い灯が霧の中で瞬いていた。

真壁は倉庫の扉を蹴破った。

中には、動物火葬用の移動炉が置かれていた。

改造された小型炉。

その前に、結城灯がいた。

生きていた。

だが炉のタイマーが動いている。

残り三分。

真壁が駆け寄ろうとした瞬間、背後から鉄パイプが振り下ろされた。

桐生だった。

真壁は腕で受けた。骨が軋む。桐生は細身に見えたが、動きに無駄がなかった。相手の重心、呼吸、痛点を計算している。

真壁が踏み込むと、桐生は半歩ずれて膝を狙う。

雨で濡れた床に、真壁は倒れかけた。

桐生は囁いた。

「君の行動パターンは単純だ。怒る。走る。殴る。守る。だから読みやすい」

「人を将棋の駒みたいに言うな」

「駒のほうが美しい。無駄な感情がない」

桐生が再び襲いかかる。

真壁は避けなかった。

肩に鉄パイプを受け、そのまま桐生の腕を掴んだ。

「読めたか?」

真壁は血を吐きながら笑った。

「俺はな、単純なんだよ」

桐生の目が初めて揺れた。

真壁は頭突きを叩き込んだ。

桐生がよろめく。

雨宮が駆け込み、灯の拘束を切った。

炉のタイマーは残り三十秒。

桐生は倒れながら笑った。

「無駄だ。止め方は僕しか知らない」

真壁は制御盤を見た。

ボタンも配線も、素人には分からない。

だが彼は考えなかった。

炉の電源ケーブルを、工具箱から拾った斧で叩き切った。

火花が散り、倉庫が暗闇に沈んだ。

タイマーが止まった。

雨宮が怒鳴った。

「感電したら死んでましたよ!」

真壁は肩で息をしながら言った。

「あとで説教を聞く」

結城灯は泣き崩れた。

「帰りたいって言っただけなのに……あの人は、帰るなって……灰になれば、家族は諦められるって……」

桐生は床に座り込み、低く笑った。

「諦めは救いだ」

真壁は桐生の前にしゃがんだ。

「違う」

「では希望か? 希望で人は壊れる。佐伯の娘も、夏目の母も、君も。みんな待つことで壊れていった」

「それでも」

真壁は震える拳を下ろした。

「待つかどうかは、残された人間が決める。帰るかどうかは、生きてる人間が決める。終わらせる権利は、お前にはない」

桐生の笑みが消えた。

その顔は、初めて人間らしく歪んだ。

「僕は、母を待った」

桐生はぽつりと言った。

「十歳のとき、母が消えた。警察は言った。成人女性の自発的失踪かもしれない、と。父は一年で諦めた。親戚は忘れた。学校の教師は、気にするなと言った」

声が震えた。

「僕だけが待った。毎朝、玄関を見た。十四年後、母の白骨が山中で見つかった。殺されていた。誰も探さなかった。誰も、母が死んでいたことすら知らなかった」

桐生は真壁を見た。

「だから僕は、失踪者に終わりを与えた。待つ者に解放を与えた。僕は怪物じゃない」

真壁は静かに言った。

「怪物は、だいたい自分を救済者だと思ってる」

桐生は黙った。

その後の捜査で、すべてが明らかになった。

夜明けの会は、人生から逃げたい人間を集めていた。

借金、虐待、いじめ、孤独、罪悪感。

桐生は彼らに新しい名前と住まいを与えた。失踪を手伝い、社会から切り離した。

だが、やがて帰りたいと言い出した者、家族へ連絡しようとした者、桐生の支配から逃げようとした者は、消された。

動物火葬炉で焼かれ、灰にされた。

一部の骨は、ペットの遺骨に紛れ込ませられた。

愛する動物の骨壺の中に、誰かの人生の残骸が混じっていた。

それは、犯人から世界への悪意ある手紙だった。

「人間も動物も、灰になれば同じだ」

桐生は取り調べでそう言った。

真壁は、その言葉を聞いたとき、初めて犯人を殴りたいと思わなかった。

ただ、哀れだと思った。

灰の違いが分からない男。

待つことの痛みしか知らず、待つことの温かさを知らなかった男。

事件は解決した。

だが、終わらなかった。

鑑識から最後の報告が来たのは、桐生逮捕から二週間後だった。

日の出埠頭で死んだ佐伯柊。

そのDNAが、佐伯家のものと一致しなかった。

一致したのは、十五年前に三保で失踪した少年の親族データ。

真壁陽太。

真壁昇の弟だった。

真壁は報告書を見つめたまま、長い間動かなかった。

雨宮が隣に立った。

「真壁さん」

彼は返事をしなかった。

報告書の文字が滲んだ。

佐伯柊という名前で生きていた男は、陽太だった。

十五年前に消えた弟は、生きていた。

どこかで、別の名を与えられ、生きていた。

そして、帰ろうとした。

兄に会おうとした。

だから殺された。

あの日、埠頭で死にかけた男は、最後に何かを言っていた。

真壁は思い出した。

炉だ。

犬じゃない。

失踪者はまだ燃えてる。

違う。

その前に、男は一瞬だけ、真壁の顔を見ていた。

そして、唇を動かした。

あれは、何だったのか。

鑑識の映像を何度も確認した雨宮が、静かに言った。

「音声を補正しました」

真壁はイヤホンをつけた。

雑音の奥、焦げた喉から漏れた声が聞こえた。

「……兄ちゃん」

真壁は膝から崩れ落ちた。

清水港の空は、白み始めていた。

夜明けだった。

事件が解決しても、弟は帰ってこない。

犯人を捕まえても、十五年は戻らない。

灰になった人々は、生き返らない。

家族の朝に空いた穴は、塞がらない。

それでも、清水署の駐車場に出た真壁は、東の空を見た。

駿河湾の向こうで、太陽が昇っていた。

腹が立つほど、綺麗だった。

桜庭トシが言っていた。

灰になっても、人は人です。

真壁はポケットから、小さな青いガラス片を取り出した。

陽太の遺留品の中にあったものだ。

子どものころ、三保の海岸で拾って、兄弟で宝物にしたシーグラス。

真壁はそれを握りしめた。

「陽太」

声は震えた。

「遅くなって、ごめん」

返事はなかった。

だが、朝日は昇った。

むなしさの上にも。

絶望の上にも。

焼け残った灰の上にも。

容赦なく、温かく、何も知らない顔で。

真壁昇は涙を拭い、署へ戻った。

机の上には、まだ未解決の行方不明者ファイルが積まれている。

誰かが待っている。

誰かが帰りたがっている。

誰かが、まだ灰になっていない。

真壁は最初の一冊を開いた。

そして、低く呟いた。

「探すぞ」

清水の朝が、また始まった。

 
 
 

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