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岡崎駅零時三分の死神

――時刻表に殺された街

※本作はフィクションです。駅名・地名を舞台表現として用いていますが、事件・人物・時刻表・列車運行・警察組織の描写は創作です。

岡崎駅零時三分の死神

岡崎駅の夜は、冷たい。

名古屋へ向かう人々のざわめきが消え、豊橋方面の列車の灯が遠ざかると、ホームには鉄と雨の匂いだけが残る。駅前のロータリーには、タクシーの赤いランプが点々と浮かび、コンビニの白い光が、眠りそこねた街をぼんやり照らしていた。

その夜、岡崎署刑事課の刑事・榊原迅は、駅北口の階段下で立ち尽くしていた。

足元には、血の気を失った男が倒れている。胸元には、折り畳まれた一枚の紙。

それは、古い紙の時刻表だった。

赤ペンで、たった一行だけ丸がつけられていた。

0:03 岡崎発 東へ

榊原は奥歯を噛んだ。

「またか……」

これで三人目だった。

第一の被害者は、岡崎駅西口の駐輪場。第二の被害者は、駅から少し離れた高架下。そして第三の被害者は、北口階段下。

すべて、岡崎駅の周辺。すべて、深夜。すべて、遺体のそばに時刻表。

そして、すべての事件で、最有力容疑者には完璧すぎるアリバイがあった。

容疑者の名は、白瀬怜央

元鉄道雑誌編集者。時刻表マニア。記憶力、計算力、観察力、すべてが異常なほど高い男。

取り調べ室で、白瀬は笑った。

「刑事さん。人はね、時計を見るから騙されるんですよ」

榊原は机を叩いた。

「三人も死んでるんだぞ!」

白瀬は首を傾けた。

「死んだんじゃない。時刻表に乗り遅れたんです」

その瞬間、榊原は悟った。

この男は、殺人を楽しんでいる。

第一の事件が起きた夜、白瀬は岡崎駅から電車に乗っていた。

駅の防犯カメラには、23時48分、白瀬が改札を通る姿が映っている。23時52分、ホームに立つ姿。23時56分、列車に乗り込む姿。そして被害者の死亡推定時刻は、23時58分。

現場は駅西口の駐輪場。

普通に考えれば、白瀬には不可能だった。

第二の事件でも同じだった。

白瀬は、事件発生時刻に岡崎駅構内の売店前にいた。第三の事件では、駅のホームで駅員と会話していた。

誰が見ても、白瀬は犯人ではない。

だが、榊原だけは納得しなかった。

「偶然が三回続くか」

若い女性刑事・水野灯里が資料を抱えて言った。

「榊原さん、死亡推定時刻は監察医も確認しています。大きなズレはないと」

「ズレてるのは、死体じゃない」

榊原は時刻表を睨んだ。

「俺たちの見ている時間だ」

灯里は眉を寄せた。

「時間?」

榊原は、被害者の遺品を並べた。

スマートフォン。腕時計。ICカード。コンビニのレシート。そして、三人ともが持っていた古い写真。

写真には、二十年前の岡崎駅前が写っていた。まだ再開発前の風景。古い喫茶店。雨に濡れた歩道橋。そして、笑っている四人の若者。

その中の一人が、白瀬怜央だった。

「三人の被害者と白瀬は、昔からの知り合いだったんですね」

灯里が言う。

榊原は頷いた。

「ただの知り合いじゃない。二十年前、同じ鉄道研究会にいた」

四人は大学時代、時刻表を使った旅を趣味にしていた。だが、ある夜、仲間の一人が岡崎駅近くで事故死した。

当時は自殺として処理された。名前は、南雲誠司

白瀬の親友だった。

「復讐ですか」

「わからん」

榊原は写真の端を指でなぞった。

「だが、白瀬は二十年前から止まってる」

第四の予告状が届いたのは、翌日の夕方だった。

岡崎署の代表メールに、短い文章が送られてきた。

次は、0:03。岡崎駅で、刑事さんも時刻表に殺される。

榊原は即座に駅へ向かった。

夜の岡崎駅。雨が降っていた。

ホームの屋根を叩く雨音。発車ベル。濡れた線路の反射。乗客の足音。

すべてが不気味に重なっていた。

白瀬は、ホームの端に立っていた。

黒いコート。白い手袋。片手には、古い時刻表。

榊原が近づくと、白瀬は楽しそうに笑った。

「来ましたね、熱血刑事」

「終わりだ、白瀬」

「終わり? 違いますよ。まだ始発前です」

そのとき、構内アナウンスが流れた。

白瀬は腕時計を見た。

「あと三分」

榊原は周囲を見回した。

灯里は駅員室側を確認している。応援の刑事たちは改札と階段を封鎖している。逃げ場はない。

だが、白瀬は余裕だった。

「刑事さん。あなたは犯人を捕まえたい。でも、犯人が“ここにいる”とは限らない」

「何を言ってる」

白瀬は時刻表を開いた。

「時刻表の本質は、移動ではありません」

雨音が強くなる。

「不在の証明です」

次の瞬間、駅の電光掲示板が一瞬だけ乱れた。

表示された文字。

0:03 死亡

灯里の悲鳴が響いた。

「榊原さん! 駅前ビルの屋上!」

榊原が振り返る。

駅前のビルの屋上に、人影が見えた。そして、誰かが倒れた。

白瀬はホームにいる。刑事たちの目の前にいる。

つまり、今この瞬間、白瀬には完璧なアリバイが成立していた。

榊原は走った。

階段を駆け上がり、改札を飛び出し、雨のロータリーを横切る。車のクラクション。滑る靴底。肺を刺す冷気。

ビルの非常階段を駆け上がる途中、榊原は胸の奥で叫んでいた。

また負けるのか。また、時刻表に。

屋上に着くと、そこには中年の男が倒れていた。二十年前の写真に写っていた最後の一人。

羽柴克彦

だが、まだ息があった。

羽柴は榊原の腕を掴んだ。

「違う……白瀬じゃない……」

榊原は顔を近づけた。

「誰だ!」

羽柴は震える唇で言った。

「誠司は……死んでない……」

その直後、羽柴は意識を失った。

病院の廊下で、榊原は拳を壁に押しつけていた。

羽柴は一命を取り留めた。だが、事件はますます不気味になった。

南雲誠司は二十年前に死んだはずだった。白瀬の親友。最初の悲劇の中心人物。

しかし羽柴は言った。

「誠司は死んでない」と。

灯里が走ってきた。

「榊原さん、二十年前の事故記録を調べ直しました」

「どうだった」

「身元確認が曖昧です。遺体の損傷が激しく、所持品と証言で南雲誠司と判断されていました」

榊原の目が変わった。

「つまり、南雲は生きている可能性がある」

「はい」

そのとき、榊原のスマートフォンが鳴った。

非通知。

出ると、白瀬の声がした。

「刑事さん、気づきましたね」

「白瀬、お前は犯人じゃないのか」

電話の向こうで、白瀬が笑った。

だが、その笑いには初めて、寂しさが混じっていた。

「私は犯人ではありません」

「じゃあ、なぜ挑発した」

「犯人を駅に戻すためです」

榊原は息を呑んだ。

白瀬は続けた。

「二十年前、誠司は死んでいなかった。私たちは彼を見捨てた。いや、見捨てたと思い込まされた」

「誰に」

「時刻表を作った男です」

電話が切れた。

榊原は、すべての資料を最初から洗い直した。

防犯カメラ。レシート。ICカード履歴。駅のアナウンス。電光掲示板。死亡推定時刻。そして、三つの現場に残された時刻表。

灯里が気づいた。

「榊原さん、この時刻表、全部同じ版に見えますけど……微妙に違います」

「どこが」

「0:03の行だけ、印刷のズレがあります」

榊原は拡大鏡で見た。

確かに、0:03の数字だけがわずかに浮いている。

切り貼りではない。だが、正規印刷でもない。

「偽の時刻表か」

「はい。しかも、昔の版を再現したものです」

「作れる人間は限られる」

灯里が頷く。

「当時、鉄道研究会で会誌の印刷を担当していた人物がいます」

榊原は写真を見た。

白瀬。羽柴。被害者三人。南雲誠司。

そして、写真の端に半分だけ写っている男。

名前は、鴻上久遠

当時の鉄道研究会の顧問。現在は、駅周辺の再開発会社の顧問弁護士。

二十年前の事故後、表舞台から消えていた男だった。

鴻上は、岡崎駅近くの古い喫茶店跡にいた。

すでに閉店し、取り壊しを待つ建物。二十年前、南雲誠司が最後に目撃された場所だった。

榊原が踏み込むと、鴻上は椅子に座っていた。

白髪交じりの端正な男。手元には紅茶。そして、壁一面に貼られた時刻表。

鴻上は穏やかに言った。

「ようやく到着しましたか、刑事さん」

榊原は拳銃を構えた。

「連続殺人の容疑で逮捕する」

鴻上は微笑んだ。

「殺人? 私は誰も殺していませんよ。人は、自分の時刻に従って終着するだけです」

「黙れ」

「白瀬君は優秀でした。しかし彼は優しすぎた。だから犯人役には向かない」

榊原は壁の時刻表を見た。

そこには、被害者たちの名前が書き込まれていた。

「なぜ殺した」

鴻上の目が細くなる。

「二十年前、南雲誠司は、私の不正を知った。駅前再開発に絡む金の流れをね。彼は告発しようとした」

「それで消したのか」

「消したのではない。時刻表から外しただけです」

榊原は怒りで視界が赤くなった。

「人間は列車じゃない!」

鴻上は初めて声を荒らげた。

「ならばなぜ、誰も彼を探さなかった! 白瀬も、羽柴も、死んだ三人も! 全員、自分の人生に乗り換えた!」

その瞬間、奥の扉が開いた。

白瀬が現れた。

顔は青白く、肩で息をしていた。

「違う……僕は探した」

鴻上はゆっくり振り向いた。

「探した? 君は時刻表ばかり見ていた。人間を見なかった」

白瀬は震えていた。

「誠司はどこだ」

鴻上は笑った。

「この街の下だ」

榊原は一歩踏み出した。

「どういう意味だ」

「再開発の基礎工事の前、古い地下通路があった。そこに彼は落ちた。私は助けなかった。だが、死んだかどうかは確認していない」

白瀬が崩れ落ちた。

「じゃあ……二十年……」

鴻上は懐から小型の起爆装置のようなものを取り出した。

榊原は即座に飛びかかった。

「伏せろ!」

激しい音。砕ける窓。舞い上がる埃。

だが爆発ではなかった。建物の古い照明が一斉に落ちただけだった。

鴻上はその隙に逃げた。

榊原は追った。

雨の路地。岡崎駅へ続く暗い道。鴻上は驚くほど速かった。

榊原は濡れたアスファルトを蹴り、肩で息をしながら叫んだ。

「逃げるな!」

鴻上は駅の自由通路へ駆け込んだ。

深夜の岡崎駅。誰もいない通路。蛍光灯の白い光。

二人の足音だけが響く。

鴻上は階段を駆け上がり、ホームへ出た。

そこへ、白瀬も追いついた。

三人は雨の吹き込むホームで向かい合った。

鴻上は笑った。

「見事だ。だが、もう終電だ」

白瀬が叫ぶ。

「誠司を返せ!」

鴻上は首を振った。

「彼はもう、誰のものでもない」

次の瞬間、白瀬が鴻上に飛びかかった。二人はもつれ合い、ホームの端へ倒れ込む。

榊原は全力で走った。

「やめろ!」

列車の接近音が響いた。

雨。警笛。白いライト。

榊原は白瀬の腕を掴んだ。灯里も駆け寄り、鴻上の襟を掴んだ。

三人の体がホーム上で引き戻される。

列車が轟音とともに通過した。

風圧で、時刻表の紙片が夜空へ舞った。

鴻上は床に倒れたまま、初めて笑わなかった。

榊原は彼に手錠をかけた。

「お前の時刻表は終わりだ」

鴻上は呟いた。

「いいえ、刑事さん。人間はいつも、遅れて真実に着く」

榊原は低く言った。

「それでも着く。歩いてでもな」

夜明け前、岡崎駅近くの再開発予定地で、古い地下通路が見つかった。

その奥から、白骨化した遺体が発見された。

所持品から、南雲誠司と確認された。

二十年前、彼は生きて閉じ込められていた可能性が高かった。助けを呼んだかもしれない。誰かが気づいたかもしれない。けれど、街は再開発の騒音の中で、その声を聞かなかった。

白瀬は遺体発見現場の前で、声もなく泣いた。

榊原は隣に立った。

「お前は犯人じゃなかった。だが、事件を利用した」

白瀬は頷いた。

「罰は受けます」

「なぜ警察に言わなかった」

白瀬は朝焼けの空を見た。

「信じられなかったんです。警察も、友人も、自分も」

榊原は何も言わなかった。

正義は、遅れることがある。真実は、錆びた線路の下に埋まることがある。それでも誰かが掘り返さなければ、死者は永遠に夜の駅で待ち続ける。

始発列車のアナウンスが流れた。

岡崎駅に、朝が来た。

灯里が小さく言った。

「陽は……昇るんですね」

榊原は疲れ切った顔で、けれど確かに頷いた。

「昇る。むなしくても、絶望しても、それでも昇る」

ホームに光が差し込む。

濡れた線路が、金色に光った。

白瀬はポケットから一枚の時刻表を取り出した。そこには、南雲誠司の筆跡で、小さく書かれていた。

迷ったら、朝の列車に乗れ。夜は必ず終わる。

榊原はその言葉を見つめた。

時刻表は、人を殺すためにあるのではない。誰かが帰るためにある。

その朝、岡崎駅の始発列車は、定刻どおりに発車した。

けれど榊原には、その列車だけが、二十年遅れて走り出したように見えた。

 
 
 

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