岡崎駅零時三分の死神
- 山崎行政書士事務所
- 5月16日
- 読了時間: 10分

――時刻表に殺された街
※本作はフィクションです。駅名・地名を舞台表現として用いていますが、事件・人物・時刻表・列車運行・警察組織の描写は創作です。
岡崎駅零時三分の死神
岡崎駅の夜は、冷たい。
名古屋へ向かう人々のざわめきが消え、豊橋方面の列車の灯が遠ざかると、ホームには鉄と雨の匂いだけが残る。駅前のロータリーには、タクシーの赤いランプが点々と浮かび、コンビニの白い光が、眠りそこねた街をぼんやり照らしていた。
その夜、岡崎署刑事課の刑事・榊原迅は、駅北口の階段下で立ち尽くしていた。
足元には、血の気を失った男が倒れている。胸元には、折り畳まれた一枚の紙。
それは、古い紙の時刻表だった。
赤ペンで、たった一行だけ丸がつけられていた。
0:03 岡崎発 東へ
榊原は奥歯を噛んだ。
「またか……」
これで三人目だった。
第一の被害者は、岡崎駅西口の駐輪場。第二の被害者は、駅から少し離れた高架下。そして第三の被害者は、北口階段下。
すべて、岡崎駅の周辺。すべて、深夜。すべて、遺体のそばに時刻表。
そして、すべての事件で、最有力容疑者には完璧すぎるアリバイがあった。
容疑者の名は、白瀬怜央。
元鉄道雑誌編集者。時刻表マニア。記憶力、計算力、観察力、すべてが異常なほど高い男。
取り調べ室で、白瀬は笑った。
「刑事さん。人はね、時計を見るから騙されるんですよ」
榊原は机を叩いた。
「三人も死んでるんだぞ!」
白瀬は首を傾けた。
「死んだんじゃない。時刻表に乗り遅れたんです」
その瞬間、榊原は悟った。
この男は、殺人を楽しんでいる。
第一の事件が起きた夜、白瀬は岡崎駅から電車に乗っていた。
駅の防犯カメラには、23時48分、白瀬が改札を通る姿が映っている。23時52分、ホームに立つ姿。23時56分、列車に乗り込む姿。そして被害者の死亡推定時刻は、23時58分。
現場は駅西口の駐輪場。
普通に考えれば、白瀬には不可能だった。
第二の事件でも同じだった。
白瀬は、事件発生時刻に岡崎駅構内の売店前にいた。第三の事件では、駅のホームで駅員と会話していた。
誰が見ても、白瀬は犯人ではない。
だが、榊原だけは納得しなかった。
「偶然が三回続くか」
若い女性刑事・水野灯里が資料を抱えて言った。
「榊原さん、死亡推定時刻は監察医も確認しています。大きなズレはないと」
「ズレてるのは、死体じゃない」
榊原は時刻表を睨んだ。
「俺たちの見ている時間だ」
灯里は眉を寄せた。
「時間?」
榊原は、被害者の遺品を並べた。
スマートフォン。腕時計。ICカード。コンビニのレシート。そして、三人ともが持っていた古い写真。
写真には、二十年前の岡崎駅前が写っていた。まだ再開発前の風景。古い喫茶店。雨に濡れた歩道橋。そして、笑っている四人の若者。
その中の一人が、白瀬怜央だった。
「三人の被害者と白瀬は、昔からの知り合いだったんですね」
灯里が言う。
榊原は頷いた。
「ただの知り合いじゃない。二十年前、同じ鉄道研究会にいた」
四人は大学時代、時刻表を使った旅を趣味にしていた。だが、ある夜、仲間の一人が岡崎駅近くで事故死した。
当時は自殺として処理された。名前は、南雲誠司。
白瀬の親友だった。
「復讐ですか」
「わからん」
榊原は写真の端を指でなぞった。
「だが、白瀬は二十年前から止まってる」
第四の予告状が届いたのは、翌日の夕方だった。
岡崎署の代表メールに、短い文章が送られてきた。
次は、0:03。岡崎駅で、刑事さんも時刻表に殺される。
榊原は即座に駅へ向かった。
夜の岡崎駅。雨が降っていた。
ホームの屋根を叩く雨音。発車ベル。濡れた線路の反射。乗客の足音。
すべてが不気味に重なっていた。
白瀬は、ホームの端に立っていた。
黒いコート。白い手袋。片手には、古い時刻表。
榊原が近づくと、白瀬は楽しそうに笑った。
「来ましたね、熱血刑事」
「終わりだ、白瀬」
「終わり? 違いますよ。まだ始発前です」
そのとき、構内アナウンスが流れた。
白瀬は腕時計を見た。
「あと三分」
榊原は周囲を見回した。
灯里は駅員室側を確認している。応援の刑事たちは改札と階段を封鎖している。逃げ場はない。
だが、白瀬は余裕だった。
「刑事さん。あなたは犯人を捕まえたい。でも、犯人が“ここにいる”とは限らない」
「何を言ってる」
白瀬は時刻表を開いた。
「時刻表の本質は、移動ではありません」
雨音が強くなる。
「不在の証明です」
次の瞬間、駅の電光掲示板が一瞬だけ乱れた。
表示された文字。
0:03 死亡
灯里の悲鳴が響いた。
「榊原さん! 駅前ビルの屋上!」
榊原が振り返る。
駅前のビルの屋上に、人影が見えた。そして、誰かが倒れた。
白瀬はホームにいる。刑事たちの目の前にいる。
つまり、今この瞬間、白瀬には完璧なアリバイが成立していた。
榊原は走った。
階段を駆け上がり、改札を飛び出し、雨のロータリーを横切る。車のクラクション。滑る靴底。肺を刺す冷気。
ビルの非常階段を駆け上がる途中、榊原は胸の奥で叫んでいた。
また負けるのか。また、時刻表に。
屋上に着くと、そこには中年の男が倒れていた。二十年前の写真に写っていた最後の一人。
羽柴克彦。
だが、まだ息があった。
羽柴は榊原の腕を掴んだ。
「違う……白瀬じゃない……」
榊原は顔を近づけた。
「誰だ!」
羽柴は震える唇で言った。
「誠司は……死んでない……」
その直後、羽柴は意識を失った。
病院の廊下で、榊原は拳を壁に押しつけていた。
羽柴は一命を取り留めた。だが、事件はますます不気味になった。
南雲誠司は二十年前に死んだはずだった。白瀬の親友。最初の悲劇の中心人物。
しかし羽柴は言った。
「誠司は死んでない」と。
灯里が走ってきた。
「榊原さん、二十年前の事故記録を調べ直しました」
「どうだった」
「身元確認が曖昧です。遺体の損傷が激しく、所持品と証言で南雲誠司と判断されていました」
榊原の目が変わった。
「つまり、南雲は生きている可能性がある」
「はい」
そのとき、榊原のスマートフォンが鳴った。
非通知。
出ると、白瀬の声がした。
「刑事さん、気づきましたね」
「白瀬、お前は犯人じゃないのか」
電話の向こうで、白瀬が笑った。
だが、その笑いには初めて、寂しさが混じっていた。
「私は犯人ではありません」
「じゃあ、なぜ挑発した」
「犯人を駅に戻すためです」
榊原は息を呑んだ。
白瀬は続けた。
「二十年前、誠司は死んでいなかった。私たちは彼を見捨てた。いや、見捨てたと思い込まされた」
「誰に」
「時刻表を作った男です」
電話が切れた。
榊原は、すべての資料を最初から洗い直した。
防犯カメラ。レシート。ICカード履歴。駅のアナウンス。電光掲示板。死亡推定時刻。そして、三つの現場に残された時刻表。
灯里が気づいた。
「榊原さん、この時刻表、全部同じ版に見えますけど……微妙に違います」
「どこが」
「0:03の行だけ、印刷のズレがあります」
榊原は拡大鏡で見た。
確かに、0:03の数字だけがわずかに浮いている。
切り貼りではない。だが、正規印刷でもない。
「偽の時刻表か」
「はい。しかも、昔の版を再現したものです」
「作れる人間は限られる」
灯里が頷く。
「当時、鉄道研究会で会誌の印刷を担当していた人物がいます」
榊原は写真を見た。
白瀬。羽柴。被害者三人。南雲誠司。
そして、写真の端に半分だけ写っている男。
名前は、鴻上久遠。
当時の鉄道研究会の顧問。現在は、駅周辺の再開発会社の顧問弁護士。
二十年前の事故後、表舞台から消えていた男だった。
鴻上は、岡崎駅近くの古い喫茶店跡にいた。
すでに閉店し、取り壊しを待つ建物。二十年前、南雲誠司が最後に目撃された場所だった。
榊原が踏み込むと、鴻上は椅子に座っていた。
白髪交じりの端正な男。手元には紅茶。そして、壁一面に貼られた時刻表。
鴻上は穏やかに言った。
「ようやく到着しましたか、刑事さん」
榊原は拳銃を構えた。
「連続殺人の容疑で逮捕する」
鴻上は微笑んだ。
「殺人? 私は誰も殺していませんよ。人は、自分の時刻に従って終着するだけです」
「黙れ」
「白瀬君は優秀でした。しかし彼は優しすぎた。だから犯人役には向かない」
榊原は壁の時刻表を見た。
そこには、被害者たちの名前が書き込まれていた。
「なぜ殺した」
鴻上の目が細くなる。
「二十年前、南雲誠司は、私の不正を知った。駅前再開発に絡む金の流れをね。彼は告発しようとした」
「それで消したのか」
「消したのではない。時刻表から外しただけです」
榊原は怒りで視界が赤くなった。
「人間は列車じゃない!」
鴻上は初めて声を荒らげた。
「ならばなぜ、誰も彼を探さなかった! 白瀬も、羽柴も、死んだ三人も! 全員、自分の人生に乗り換えた!」
その瞬間、奥の扉が開いた。
白瀬が現れた。
顔は青白く、肩で息をしていた。
「違う……僕は探した」
鴻上はゆっくり振り向いた。
「探した? 君は時刻表ばかり見ていた。人間を見なかった」
白瀬は震えていた。
「誠司はどこだ」
鴻上は笑った。
「この街の下だ」
榊原は一歩踏み出した。
「どういう意味だ」
「再開発の基礎工事の前、古い地下通路があった。そこに彼は落ちた。私は助けなかった。だが、死んだかどうかは確認していない」
白瀬が崩れ落ちた。
「じゃあ……二十年……」
鴻上は懐から小型の起爆装置のようなものを取り出した。
榊原は即座に飛びかかった。
「伏せろ!」
激しい音。砕ける窓。舞い上がる埃。
だが爆発ではなかった。建物の古い照明が一斉に落ちただけだった。
鴻上はその隙に逃げた。
榊原は追った。
雨の路地。岡崎駅へ続く暗い道。鴻上は驚くほど速かった。
榊原は濡れたアスファルトを蹴り、肩で息をしながら叫んだ。
「逃げるな!」
鴻上は駅の自由通路へ駆け込んだ。
深夜の岡崎駅。誰もいない通路。蛍光灯の白い光。
二人の足音だけが響く。
鴻上は階段を駆け上がり、ホームへ出た。
そこへ、白瀬も追いついた。
三人は雨の吹き込むホームで向かい合った。
鴻上は笑った。
「見事だ。だが、もう終電だ」
白瀬が叫ぶ。
「誠司を返せ!」
鴻上は首を振った。
「彼はもう、誰のものでもない」
次の瞬間、白瀬が鴻上に飛びかかった。二人はもつれ合い、ホームの端へ倒れ込む。
榊原は全力で走った。
「やめろ!」
列車の接近音が響いた。
雨。警笛。白いライト。
榊原は白瀬の腕を掴んだ。灯里も駆け寄り、鴻上の襟を掴んだ。
三人の体がホーム上で引き戻される。
列車が轟音とともに通過した。
風圧で、時刻表の紙片が夜空へ舞った。
鴻上は床に倒れたまま、初めて笑わなかった。
榊原は彼に手錠をかけた。
「お前の時刻表は終わりだ」
鴻上は呟いた。
「いいえ、刑事さん。人間はいつも、遅れて真実に着く」
榊原は低く言った。
「それでも着く。歩いてでもな」
夜明け前、岡崎駅近くの再開発予定地で、古い地下通路が見つかった。
その奥から、白骨化した遺体が発見された。
所持品から、南雲誠司と確認された。
二十年前、彼は生きて閉じ込められていた可能性が高かった。助けを呼んだかもしれない。誰かが気づいたかもしれない。けれど、街は再開発の騒音の中で、その声を聞かなかった。
白瀬は遺体発見現場の前で、声もなく泣いた。
榊原は隣に立った。
「お前は犯人じゃなかった。だが、事件を利用した」
白瀬は頷いた。
「罰は受けます」
「なぜ警察に言わなかった」
白瀬は朝焼けの空を見た。
「信じられなかったんです。警察も、友人も、自分も」
榊原は何も言わなかった。
正義は、遅れることがある。真実は、錆びた線路の下に埋まることがある。それでも誰かが掘り返さなければ、死者は永遠に夜の駅で待ち続ける。
始発列車のアナウンスが流れた。
岡崎駅に、朝が来た。
灯里が小さく言った。
「陽は……昇るんですね」
榊原は疲れ切った顔で、けれど確かに頷いた。
「昇る。むなしくても、絶望しても、それでも昇る」
ホームに光が差し込む。
濡れた線路が、金色に光った。
白瀬はポケットから一枚の時刻表を取り出した。そこには、南雲誠司の筆跡で、小さく書かれていた。
迷ったら、朝の列車に乗れ。夜は必ず終わる。
榊原はその言葉を見つめた。
時刻表は、人を殺すためにあるのではない。誰かが帰るためにある。
その朝、岡崎駅の始発列車は、定刻どおりに発車した。
けれど榊原には、その列車だけが、二十年遅れて走り出したように見えた。





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