新清水行き、死体だけが定刻だった
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 12分
※作中の時刻・ダイヤ・事件・人物はすべて架空です。

雨の夜、静岡鉄道のレールは黒い蛇の背中のように光っていた。
新静岡駅を出た二両編成の電車が、ビルの谷間を抜け、日吉町、音羽町、春日町へと進んでいく。窓には疲れた会社員、塾帰りの少年、スーパーの袋を抱えた老女の顔が、蛍光灯の明かりに白く浮かんでいた。
その同じ時刻。
長沼駅からほど近い古い時計修理店で、店主の大場政雄が死んでいた。
壁じゅうに掛かった時計は、すべて同じ時刻で止められていた。
二十時十四分。
死体の胸には、白い紙がピンで留められていた。
新静岡発 二十時零六分長沼着 二十時十四分人間は遅れる。死だけは定刻。
清水署強行犯係の刑事、火浦剛士が現場に着いた時、店の奥ではまだ振り子時計が一つだけ動いていた。
かち、かち、かち。
その音が、まるで死者の歯ぎしりのように聞こえた。
「ふざけやがって……」
火浦は濡れたコートの肩を払うことも忘れて、紙片を睨みつけた。
彼は四十二歳。短気で、声が大きく、署内では「昭和の火薬庫」と呼ばれている。だが事件現場では誰よりも静かだった。怒りが深くなるほど、目だけが冷たくなる男だった。
鑑識の七海が顔を上げた。
「死亡推定時刻は、ほぼ二十時十四分前後です。外傷は少ないですが、首に圧迫痕があります。ただ……妙なんです」
「何が」
「犯人が店内にいた形跡が薄すぎる。鍵も内側から掛かっていました」
火浦は窓の外を見た。
雨の向こうを、静鉄の電車が走っていく。
短い二両編成。
青白い車内灯。
その瞬間、店のすべての時計がわずかに震えた。
かち、かち、かち。
火浦の背筋に、冷たいものが這った。
*
二人目は、草薙駅近くの画廊で見つかった。
被害者は元弁護士の久能寺誠。死体のそばには、また白い紙。
長沼発 二十一時二十八分草薙着 二十一時三十三分警察諸君、時刻表を疑え。君たちの脳は、終電より遅い。
三人目は桜橋の商店街裏。
四人目は県立美術館前の坂道にある空き家。
いずれも死体には時刻表が添えられ、死亡推定時刻は、近くを電車が通る時刻と奇妙に一致していた。
犯人は報道各社と清水署に同時送信のメールを送りつけた。
私のIQを測る機械は、先に壊れた。君たちに測れるのは遅延だけだ。次の死も定刻通り。さあ、清水署。走ってみろ。
署内は殺気立った。
だが、容疑者はいた。
黒須零。
二十九歳。時刻表解析アプリ「秒針の街」を作った天才プログラマー。高校時代に数学オリンピックで表彰され、大学を飛び級し、鉄道ダイヤの最適化理論で名を知られた男。
被害者全員と、過去に接点があった。
しかし黒須には、完璧すぎるアリバイがあった。
一件目の二十時十四分、彼は新静岡発の電車に乗っていた。駅の防犯カメラに映っている。長沼に到着するまで車両を降りた形跡はない。
二件目の二十一時三十三分、彼は新清水駅の改札を出ていた。乗車記録も、カメラも、目撃者も揃っている。
三件目、四件目も同じだった。
黒須はいつも、犯行時刻に電車の中にいた。
火浦が任意同行を求めると、黒須は新清水駅前の雨の中で、黒い傘を差して笑った。
「刑事さん。時刻表を見れば分かるでしょう。僕は、殺せない」
「殺せない人間が、なぜ被害者の名前を知ってる」
「静岡は狭い街ですから」
「ふざけるな」
火浦が一歩詰めると、黒須は傘を少し傾けた。
街灯の下で、彼の目は不自然なほど澄んでいた。人を見ている目ではない。数字を見ている目だった。
「火浦さん。電車は美しいですよ。決められた時刻に来て、決められた場所へ行く。人間みたいに泣かない。怒らない。裏切らない」
「人間を殺すために走ってるんじゃない」
「では、何のために?」
「帰るためだ」
黒須は一瞬だけ、笑みを消した。
「あなたは熱い。だから遅い」
その直後、清水署に新たなメールが届いた。
次は二十二時零二分。入江岡。今度は刑事の目の前で殺す。
*
火浦は走った。
雨の商店街を抜け、傘を捨て、革靴で水たまりを蹴った。七海が無線で叫ぶ。
「入江岡周辺、封鎖開始! でも対象施設が多すぎます!」
「線路沿いを見ろ!」火浦は怒鳴った。「犯人は電車を使ってる!」
「黒須は?」
「新静岡発の電車に乗った。二十二時零二分には、入江岡付近を通る」
「またアリバイですか」
「違う」
火浦は息を切らしながら、ようやく気づいていた。
黒須は、犯行時刻に電車の中にいるのではない。
犯行時刻に電車の中にいなければならないのだ。
一件目の時計修理店。二件目の画廊。三件目の商店街裏。四件目の空き家。
どの現場も、線路から近すぎた。
窓が線路を向いていた。
死体は必ず、電車の通過する方向へ顔を向けられていた。
そして死亡推定時刻は、駅の到着時刻ではなく、現場脇を電車が通過する瞬間に合っていた。
火浦は無線に叫んだ。
「殺しているのは黒須の手じゃない! 電車の振動だ! 奴は時刻表を使って、現場に仕掛けた装置を作動させてる!」
七海の声が震えた。
「でも、そんな精密に?」
「黒須ならやる。奴は電車を凶器にしたんだ」
入江岡駅の手前、古い倉庫の窓に薄い光が見えた。
火浦は扉を蹴破った。
中には一人の男が椅子に縛られていた。
被害者候補。
そして床には、白い紙。
入江岡 二十二時零二分救えるなら救え。君の熱血は、時速七十キロに勝てるか。
遠くで踏切が鳴り始めた。
カン、カン、カン、カン。
火浦は椅子に飛びついた。縄を切ろうとするが、硬い。七海が駆け込んでくる。
「あと四十秒!」
「黙って切れ!」
「刃が入らない!」
電車の音が近づく。
レールが鳴る。
倉庫の壁が震える。
縛られた男は猿ぐつわの奥で悲鳴を上げた。
火浦は周囲を見回した。天井から古い滑車。壁に錆びた鎖。床の影に、黒い箱。
彼は考えるより先に動いた。
鎖を掴み、全体重をかけて引き倒す。滑車が外れ、吊られていた鉄棚が崩れた。黒い箱が潰れる。
次の瞬間、電車が倉庫脇を通過した。
轟音。
振動。
割れる窓。
散る雨粒。
火浦は男を抱え込むようにして床に倒れた。
装置は動かなかった。
七海が息を呑んだ。
「助かった……」
だが、火浦は立ち上がった。
倉庫の割れた窓の外、通過する電車の最後尾。
その窓際に、黒須零が立っていた。
彼は火浦を見ていた。
笑っていた。
そして、口だけを動かした。
――次は、あなたの太陽。
*
火浦には娘がいた。
名前は陽菜。
高校二年生。母親を病気で亡くしてから、父娘二人で暮らしていた。
火浦が夜中に帰ると、食卓にはラップをかけた夕飯が残されている。陽菜はいつも短いメモを書いた。
レンジ二分。無理しないで。朝はちゃんと起きて。
火浦はそれを、事件資料よりも大事に財布に入れていた。
黒須の言葉を聞いた瞬間、火浦の腹の底で何かが凍った。
陽菜は毎朝、静鉄で学校へ通っている。
新清水から乗り、草薙で降りる。
火浦は署を飛び出した。
電話をかける。
出ない。
もう一度かける。
出ない。
三度目で、知らない番号からメールが届いた。
お父さん。私、電車に乗ってる。でも、このメール、私が打ってない。
添付されていた写真には、陽菜の学生鞄が写っていた。
その横に、白い紙。
新清水発 五時零一分日の出前、太陽は沈む。火浦刑事、あなたの朝を殺してあげる。
火浦は携帯を握りしめた。
手の甲の血管が浮いた。
署の若い刑事が声をかける。
「火浦さん、応援を――」
「全員で線路沿いを洗え。だが黒須には気づかせるな」
「どうするんですか」
「時刻表を殺す」
*
火浦は鉄道会社に頭を下げた。
運行指令室に入り、状況を説明し、夜明け前の一本を極秘で遅らせてもらった。理由は設備点検。表向きは数分の調整。
黒須の装置は、定刻の振動に合わせている。
ならば定刻を壊せばいい。
だが黒須は天才だった。
五時前、新清水駅のホームに黒須は現れた。黒いコート。黒い傘。雨はもう止んでいたのに、傘だけを持っていた。
火浦は柱の陰から見ていた。
黒須はスマートフォンを確認し、微笑んだ。
運行遅延に気づいている。
その目が、火浦を探してホームを滑った。
やがて二人の視線がぶつかった。
「火浦さん」
黒須は声を出さずに唇だけで言った。
――遅い。
彼はホームを走り出した。
火浦も飛び出した。
始発前の駅に、二人の足音が響く。
階段を駆け上がり、改札横を抜け、非常扉を押し開ける。駅員の怒号。無線のノイズ。朝焼け前の薄闇。
黒須は線路沿いの通路へ逃げた。
火浦は追う。
巴川の方から湿った風が吹いてきた。空の端が、わずかに白み始めている。
黒須は振り返り、初めて声を荒げた。
「なぜ分からない! 人間は誤差なんです! 約束を破る! 時間を盗む! 泣いて、怒って、記憶を書き換える! だから僕が正す!」
「正す?」
火浦は肩で息をしながら近づいた。
「お前がやってるのは、ただの殺しだ」
「違う。これは証明です。時刻表だけが真実だという証明だ」
「違うな」
火浦はポケットから古い写真を取り出した。
黒須の顔色が変わった。
写真には、十七年前の踏切が写っていた。
小さな少女。
黄色い傘。
線路脇に立つ少年。
そして、泣きながら何かを指差す大人たち。
「黒須陽向。お前の妹だ」
黒須の唇が震えた。
「黙れ」
「お前は妹の復讐をしてるつもりだった。あの事故の時刻を偽証した大人たちを殺している。大場、久能寺、桜橋の商店主、県立美術館前の家主。全員、あの踏切事故の関係者だ」
「黙れ!」
「だが本当は違う」
火浦は一歩踏み込んだ。
「お前が殺したかったのは、証人じゃない。記憶だ」
黒須の表情が歪んだ。
天才の仮面に、初めて亀裂が入った。
「お前は妹を押した」
空気が止まった。
黒須は笑おうとした。
だが笑えなかった。
「違う」
「小さな喧嘩だった。妹が、お前の作った時刻表のノートを破った。お前は怒って、踏切の前で突き飛ばした。電車はまだ遠かった。助けられたはずだった。でもお前は怖くなって動けなかった」
「違う……」
「大人たちは、お前を守った。天才少年の将来を守るために、時刻をずらした。事故にした。お前はその嘘に救われた」
「違う!」
黒須は絶叫した。
その声は、これまで警察を嘲笑っていた男の声ではなかった。
十七年間、踏切の前に取り残された子供の声だった。
「僕は……僕は悪くない。時刻が悪い。あの日、電車が一分遅れていれば、陽向は死ななかった。大人たちが正しい時刻を言っていれば、僕は……僕は……」
「お前は罰を受けられた」
黒須は崩れるように膝をついた。
その時、彼のスマートフォンが鳴った。
画面に表示された文字。
手動起動まで十秒。
火浦は目を見開いた。
黒須は泣きながら笑った。
「遅いって……言ったでしょう」
「陽菜はどこだ!」
「長沼の旧倉庫。線路の真横。あなたの太陽は、始発が来たら沈む」
火浦は黒須に掴みかかった。
黒須は抵抗しなかった。
ただ、囁いた。
「僕にも朝は来ませんでした」
*
火浦は走った。
人生で一番速く走った。
応援車両のサイレンが街を裂く。無線が怒鳴る。七海が長沼へ先行する。鉄道会社は始発を止めようとするが、すでに電車は動き出していた。
遅延させた数分。
その数分だけが、陽菜の命だった。
長沼の旧倉庫に着いた時、空は薄青くなっていた。
倉庫の中で、陽菜は椅子に縛られていた。
泣いていなかった。
ただ、父を見ると、かすかに笑った。
「お父さん……朝ごはん、まだ作ってない」
「バカ、そんなこと言うな!」
火浦は縄を切る。七海が装置を止めようとする。だが黒須の仕掛けは複雑で、時間がない。
踏切が鳴った。
カン、カン、カン、カン。
始発電車が近づく。
火浦は陽菜を椅子ごと抱え上げた。
「七海、伏せろ!」
電車の音。
振動。
倉庫が震える。
黒い箱の中で何かが作動する。
火浦は窓へ走った。
間に合わない。
ならば、と彼は陽菜を抱いたまま、腐った木壁に肩から突っ込んだ。
壁が砕けた。
親子は朝の冷たい空気へ投げ出された。
背後で倉庫の中が轟音を立てて崩れた。
電車が通過する。
まぶしい車内灯。
眠そうな乗客たち。
誰も知らない。
今、自分たちの乗る電車が、誰かの命を奪いかけたことを。
火浦は地面に倒れたまま、陽菜を抱きしめていた。
「痛いよ、お父さん」
「生きてるか」
「うん」
「なら文句言うな」
陽菜は震える手で、父の背中を掴んだ。
「怖かった」
「俺もだ」
火浦は初めて、声を詰まらせた。
*
黒須零は逮捕された。
彼は取り調べで、最初だけ笑っていた。
しかし妹の名を出されるたび、笑みは薄れた。
最後には、時刻表の余白に同じ言葉を何度も書き続けた。
陽向は何時に死んだ。陽向は何時に死んだ。陽向は何時に死んだ。
火浦はその紙を見て、何も言わなかった。
怒りはあった。
憎しみもあった。
だが、それだけではなかった。
十七年前の踏切で、泣くことも罰を受けることも許されず、天才という箱に閉じ込められた少年。
その少年が、成長して怪物になった。
だからといって、死んだ者は戻らない。
許されるわけでもない。
ただ、むなしかった。
どうしようもなく、むなしかった。
*
事件から数日後。
火浦は陽菜と一緒に、新清水駅のホームに立っていた。
朝の電車が来る。
何事もなかったように。
定刻通りに。
ホームには学生がいて、会社員がいて、買い物袋を持った老人がいた。誰かがあくびをし、誰かがイヤホンを直し、誰かが小さな子供の手を握っている。
陽菜が言った。
「電車、怖くならない?」
火浦は線路を見た。
朝日がレールの上に伸びていた。
「少しはな」
「じゃあ、どうして乗るの」
火浦はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で答えた。
「それでも、人は帰らなきゃならないからだ」
電車が入ってくる。
扉が開く。
陽菜が乗り込む前に、火浦を振り返った。
「朝ごはん、今日は私が作ったから。冷蔵庫」
「何分温める」
「二分」
火浦は笑った。
事件以来、初めて笑った。
陽菜を乗せた電車が動き出す。
新清水から、桜橋へ、入江岡へ、狐ヶ崎へ、草薙へ。
街は傷ついていた。
死者は帰らない。
天才の罪も、刑事の怒りも、遺族の涙も、朝日に消えるほど軽くはない。
それでも電車は走る。
誰かを殺すためではなく。
誰かを家へ帰すために。
火浦はホームの端で、遠ざかる二両編成を見送った。
空はもう、眩しいほど明るかった。
むなしさと絶望の向こうで――
それでも、陽はまた昇っていた。





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