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星ヶ丘駅で太陽を殺せ――0分遅れの殺人時刻表

※本作はフィクションです。作中の列車時刻・施設描写は物語上の創作です。

名古屋市営地下鉄東山線、星ヶ丘駅。

地上では星ヶ丘テラスの灯が坂道に淡くにじみ、買い物帰りの親子や学生たちが、冷たい夜風に肩をすくめて歩いていた。だが地下へ降りると、空気は別のものになる。

白い蛍光灯。黄色い点字ブロック。ホームに反響する靴音。そして、すべての人間を同じ速さで運んでいく、時刻表という名の冷たい神。

午後八時十七分。

下り藤が丘方面の電車が星ヶ丘駅を出た瞬間、改札外のコインロッカーのひとつが内側からゆっくり開いた。

中に倒れ込んできたのは、学習塾講師の男だった。

喉元には血ではなく、赤いインクで一本の線が引かれていた。まるで、時刻表の不要な列を消すように。

ロッカーの扉の裏には、黒い油性ペンでこう書かれていた。

次発、二十時二十三分。警察諸君、乗り遅れるな。――MAX

愛知県警捜査一課の火野丈一は、その文字を見た瞬間、怒りで奥歯を鳴らした。

「ふざけやがって」

火野は四十八歳。昔ながらの刑事だった。聞き込みは足でやる。犯人は目で見る。机上の理屈より、人間の汗と沈黙を信じる。若い刑事たちからは暑苦しいと言われていたが、誰よりも現場に早く着き、誰よりも最後まで残る男でもあった。

その隣で、若い女性刑事がしゃがみ込み、ロッカーの内側を冷静に見つめていた。

篠宮灯。二十八歳。火野の相棒だ。

彼女は火野とは正反対だった。声を荒げず、感情を見せず、わずかな傷や匂いから時間を読み取る。庁内では「氷の時計」と呼ばれている。

「火野さん」

灯が言った。

「犯人は、殺害時刻を二十時十七分だと思わせたがっています」

「実際は違うってか」

「少なくとも、そう決めつけるには早いです。ロッカーの中に、電車の発車音を録音した小型スピーカーがありました。扉が開くタイミングと同期していた」

「つまり、電車が出た瞬間に死体が出てくるよう仕掛けた」

「ええ。死体が“その時刻に死んだ”ように見せるためです」

火野はホームへ続く階段を見上げた。

二十時二十三分の電車が近づいている。風が先に来た。地下の闇が震えた。

そのとき、火野の携帯が鳴った。

非通知。

出ると、若い男とも女ともつかない加工音声が流れた。

「火野刑事。遅い」

火野のこめかみに血管が浮いた。

「誰だ」

「時刻表を読めない猿に名乗っても無駄だ」

「殺したのはお前か」

「殺した? 違うな。私は正しい時刻に、人間を配置しているだけだ。電車が駅に着き、出ていくように。人は生まれ、死ぬ」

「警察をおちょくって楽しいか」

沈黙のあと、声は笑った。

「最高に」

電話は切れた。

火野は携帯を握りつぶしそうな力で握った。

灯が静かに言った。

「MAX。おそらくネット上で数年前から噂になっていた人物です。未解決事件の掲示板に現れて、警察資料にない情報まで言い当てていた。知能指数は測定上限を超えた、と自称している」

「IQが高けりゃ人を殺していいのかよ」

「いいはずがありません」

灯の声は冷たかった。

だがその目の奥に、火野は一瞬だけ、見慣れない熱を見た。

怒りか。それとも、別の何かか。

第二の殺人は、その三日後に起きた。

場所は星ヶ丘駅の一番出口近く、閉店後の喫茶店。被害者は精神科医の長谷部という男だった。

午後九時五分。

警察には犯行予告が届いていた。

九時五分、上り高畑方面。星はまたひとつ落ちる。――MAX

火野たちは星ヶ丘駅に警官を配置した。改札、階段、ホーム、出口、すべてに目を置いた。

そして午後九時五分、怪しい男が現れた。

黒いコート。白い手袋。帽子を深くかぶり、上りホームの柱にもたれていた。

火野が飛び出した。

「動くな!」

男は逃げた。

人混みが割れた。悲鳴が上がった。火野は改札前の階段を駆け下り、ホームへ滑り込む。男は発車寸前の電車に飛び乗った。

火野も続いた。

扉が閉まる。

男は車内を走った。乗客が悲鳴を上げ、吊り革が揺れた。火野は人をかき分け、男の肩をつかむ。だが黒いコートだけが脱げた。

下には駅員の制服。

男は笑った。

「遅いんだよ、熱血刑事」

次の瞬間、電車が東山公園駅に着いた。男は開いた扉から飛び出し、反対側の階段へ駆け上がった。

火野は追った。

地上へ出る。夜の空気。街灯。車のヘッドライト。

男は歩道橋から身を翻し、植え込みに転がり込んだ。火野もためらわず飛び降りた。膝に衝撃が走る。だが止まらない。

「待て!」

男は振り返った。

その顔を、火野は見た。

若い。二十代後半。整った顔。笑っている。

火野があと一歩で捕まえるという瞬間、男は道路へ飛び出した。クラクション。急ブレーキ。トラックの巨体が火野の視界を塞いだ。

男は消えた。

その直後、灯から電話が入った。

「火野さん。喫茶店で長谷部医師が発見されました」

火野は息を切らしながら言った。

「九時五分か」

「はい。ですが、おかしいです」

「何が」

「死亡推定時刻は、少なくとも一時間前です」

火野は夜の道路に立ち尽くした。

ならば、さっきの男は何だったのか。

犯人か。囮か。それとも、時刻表に書かれた、ただの記号か。

三人目の被害者は、元地下鉄職員の倉田だった。

彼は退職後、星ヶ丘駅近くの小さなアパートで暮らしていた。

犯行予告はなかった。

代わりに、星ヶ丘駅のホームにある広告モニターが、数秒だけ真っ黒になり、白い文字を映した。

三本目は予告しない。時刻表を信じる者ほど、時刻に殺される。――MAX

その夜、倉田は自宅で発見された。

室内には争った形跡がなく、机の上には古い紙の時刻表が置かれていた。東山線の、十五年前のものだった。

火野はその紙を見て、胸の奥がざわついた。

十五年前。

星ヶ丘駅で、女子中学生がホームから転落した事件があった。名は篠宮陽菜。灯の姉だった。

当時は事故として処理された。だが後に、彼女が誰かに突き落とされた可能性が浮上した。容疑者として逮捕されたのは、陽菜の父親、篠宮誠。

決め手は、時刻表だった。

誠は「事件時刻には星ヶ丘駅にいなかった」と主張した。しかし、証言と列車時刻を照合すると、その主張は崩れた。彼は有罪となり、獄中で亡くなった。

火野はその事件を覚えていた。

若手刑事だった自分は、捜査本部の端で黙って資料を運んでいた。何かがおかしいと感じながら、声を上げる力がなかった。

灯は当時、十三歳だった。

火野は古い時刻表を握りしめた。

「まさか……」

灯が隣で言った。

「火野さん。私情を挟まないでください」

「お前の事件だぞ」

「だからです」

彼女はまっすぐ火野を見た。

「十五年前に父は死にました。姉も死にました。でも、今起きている殺人とは別です。犯人は、それを利用している」

その声は揺れていなかった。

揺れていないことが、火野には怖かった。

突破口は、星ヶ丘駅で清掃員をしている老婆、春野キヨの一言だった。

キヨは毎朝四時半に駅へ来る。誰よりも駅の匂いを知り、誰よりもホームの傷を覚えている。

彼女は火野に缶コーヒーを差し出した。

「あんた、顔が怖いよ。刑事さんは太陽みたいに笑っとらんと、地下は余計に暗くなる」

火野は苦笑した。

「太陽みたいな顔ってのは、暑苦しいって意味か?」

「そうとも言うね」

キヨは笑い、それからふと表情を曇らせた。

「でも、あの子は昔から笑わんかった」

「あの子?」

「灯ちゃんだよ」

火野は顔を上げた。

キヨはホームの奥を見た。

「十五年前、陽菜ちゃんが落ちたあと、灯ちゃんは毎朝ここに来とった。始発前にね。時刻表を見上げて、ずっと立っとった。『お父さんは嘘をついてない』って、何度も何度も言っとったよ」

火野の喉が乾いた。

「それを知ってる人間は?」

「駅の人間なら何人かは。倉田さんも、長谷部先生も、最初の塾の先生もね。あの子をかわいそうな子だって、みんな言っとった」

被害者三人。

全員、十五年前の事件の関係者だった。

火野は走った。

署に戻り、十五年前の資料をひっくり返した。証言。時刻表。乗車記録。現場写真。

そして見つけた。

当時、篠宮誠を有罪に追い込んだ時刻表には、一本だけ存在しない電車が載っていた。

印刷ミスではなかった。

誰かが、捜査資料の時刻表だけを差し替えていた。

その偽の一本があったから、誠のアリバイは崩れた。その偽の一本があったから、真犯人たちは逃げた。

火野は震える指で資料をめくった。

偽時刻表を提出したのは、元職員の倉田。証言したのは、塾講師。精神鑑定で誠を追い詰めたのは、長谷部。

三人とも、死んでいる。

火野の背中に冷たい汗が流れた。

そのとき、灯が部屋に入ってきた。

「見つけましたか」

火野はゆっくり振り返った。

灯はいつも通り無表情だった。

だが、その手には拳銃があった。

「灯」

「火野さんは、やっぱり優秀ですね。暑苦しいけれど」

「お前なのか」

灯は少しだけ首を傾げた。

「“お前”とは誰のことですか。篠宮灯ですか。それとも、MAXですか」

火野は立ち上がった。

「殺したのか」

「はい」

「楽しんだのか」

灯はしばらく黙っていた。

それから、静かに笑った。

「一人目は復讐でした。二人目は確認。三人目で、分かりました」

「何が」

「私は、警察が時刻表にひれ伏す姿を見るのが好きなんです」

火野は胸の奥が凍るのを感じた。

「灯……」

「火野さん。時刻表アリバイトリックの本質は、電車ではありません」

灯は拳銃を下ろさずに言った。

「人間は“書かれた時刻”を信じる。死体がその時刻に見つかれば、その時刻に死んだと思う。犯人がその時刻に電車に乗っていれば、犯人ではないと思う。でも本当は違う」

「死んだ時刻じゃない」

「そう。私が作ったのはアリバイではありません。警察の頭の中に、間違った時刻表を差し込んだだけです」

第一の被害者は、二十時十七分より前に殺されていた。第二の被害者も、九時五分より前に殺されていた。第三の被害者も同じ。

死体を発見させる仕掛け、音、照明、予告、駅の発車時刻。すべては、警察に「その時刻が事件の中心だ」と思わせるための舞台装置だった。

そして灯は、捜査員としてその中心に立ち、誰よりも自然に現場を動かせた。

火野はかすれた声で言った。

「じゃあ、東山公園まで逃げた男は」

「雇っただけです。顔も名前も知りません。あの人は自分が何のために走っているのかも知らなかった」

「MAXは」

「私です。父が昔、私をそう呼んでいました。テストの点を取ると、いつも言ったんです。“灯、お前の頭はMAXだな”って」

灯の目に、初めて涙が浮かんだ。

だが、その涙は一瞬で消えた。

「でも父は馬鹿でした。正直で、やさしくて、時刻表を偽造するような人間に勝てなかった」

「だから殺したのか」

「はい」

「俺を撃つのか」

灯は首を横に振った。

「いいえ。火野さんには、最後の電車に乗ってもらいます」

署内のスピーカーが鳴った。

いや、署内ではない。火野の携帯だった。

画面には、星ヶ丘駅のライブ映像が映っていた。

ホームに人がいる。帰宅客、学生、老人。そして、ホーム端の非常扉付近に、小さな黒いバッグが置かれていた。

灯が言った。

「午前零時三分。星ヶ丘駅、最終一本前。火野さんが私を捕まえるか、あのバッグを処理するか」

「何を入れた」

「人が死ぬものです」

「灯!」

「時刻表を読み間違えないでください」

灯は走った。

火野も走った。

星ヶ丘駅は、夜の底に沈んでいた。

改札を飛び越え、火野はホームへ駆け下りた。膝が痛む。息が焼ける。それでも止まれない。

灯はホームの端にいた。

黒いバッグのそばではない。反対側。線路へ降りる非常階段の前。

つまりバッグは囮か。いや、囮だとしても放置できない。

火野は叫んだ。

「乗客を下がらせろ!」

駅員が動く。警官が人を押し戻す。ホームが混乱する。

灯は非常扉を開け、線路脇の通路へ消えた。

火野はバッグへ走った。中身を確認する。危険物処理班を待つ時間はない。だが、バッグの中にあったのは、古い目覚まし時計と、十五年前の時刻表だけだった。

紙には赤い線が引かれていた。

最後の被害者火野丈一の正義

火野は顔を上げた。

「灯!」

彼は非常扉へ飛び込んだ。

線路脇の通路は狭く、暗く、湿っていた。遠くから電車の走行音が迫ってくる。

灯は数十メートル先にいた。手すりを越え、線路へ降りようとしている。

「やめろ!」

「父はここで死にました」

「違う。お前の父親は、ここでは死んでない」

灯が振り返った。

「何を――」

「お前の父親は、時刻表に殺されたんじゃない。嘘をついた人間に殺されたんだ。お前はいま、その人間たちと同じことをしてる」

灯の顔が歪んだ。

「黙れ!」

彼女は火野へ飛びかかった。小柄な体からは想像できない速さだった。火野の腹に膝が入り、息が詰まる。灯は警察学校で常に首席だった。格闘も射撃も、火野の教えをすべて吸収していた。

火野は殴られ、壁に叩きつけられた。

電車のライトが、トンネルの奥に見えた。

灯は線路へ下りた。

「私は父を救えなかった。姉も救えなかった。だから、せめて世界に証明したかった。警察がどれほど愚かか。正義がどれほど遅れて来るか」

火野は血の味を飲み込み、立ち上がった。

「正義は遅れることがある」

灯が笑った。

「認めるんですね」

「ああ。遅れる。間違える。取り返しがつかないこともある」

火野は線路へ飛び降りた。

「でも、それでも追いつこうとする人間まで殺していい理由にはならねえ!」

電車の警笛が鳴った。

火野は灯へ突進した。灯は避けようとしたが、火野は彼女の腕をつかんだ。二人はもつれ、線路脇へ転がった。

轟音。

電車が目前を通過した。

風が全身を殴った。火花の匂い。鉄の悲鳴。灯の髪が舞い、火野の腕に爪が食い込む。

電車が止まったとき、火野は灯を抱えたまま、線路脇のわずかな空間に倒れていた。

灯は泣いていた。

今度は、消えない涙だった。

「どうして助けたんですか」

火野は荒い息の中で言った。

「刑事だからだ」

「私は殺人犯です」

「ああ」

「あなたを騙しました」

「ああ」

「警察を笑いました」

「ああ」

「それでも?」

火野は灯の手首に手錠をかけた。

金属音が、地下に小さく響いた。

「それでも、朝は来るんだよ」

翌朝、星ヶ丘駅は何事もなかったように人を迎えた。

通勤客は眠そうな顔で改札を通り、学生たちはイヤホンをつけ、誰かがパン屋の袋を抱えて階段を上がっていく。

時刻表は新しいものに差し替えられていた。

火野はホームの端に立っていた。

灯は逮捕された。十五年前の事件は再捜査されることになった。死んだ三人の罪は明らかになるだろう。だが、彼らはもう裁けない。灯が殺した命も戻らない。篠宮誠の失われた年月も、陽菜の未来も戻らない。

正義は、あまりにも遅かった。

春野キヨが隣に来て、缶コーヒーを差し出した。

「また怖い顔しとる」

火野は受け取った。

「太陽みたいに笑えってか」

「そう。地下鉄にも朝は必要だからね」

そのとき、階段の上から朝日が差し込んだ。

地下の駅に、ほんのわずか、金色の光が落ちた。

火野はそれを見た。

星ヶ丘駅は、今日も時刻通りに電車を走らせる。人々は乗り、降り、またどこかへ向かう。時刻表は嘘をつくことがある。人間も嘘をつく。正義も遅れる。

それでも。

火野は缶コーヒーを握りしめ、ホームに入ってくる電車を見つめた。

陽はまた昇る。

たとえ、その光が地下の底まで届くのに、少し時間がかかるとしても。

 
 
 

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