星ヶ丘駅で太陽を殺せ――0分遅れの殺人時刻表
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 12分

※本作はフィクションです。作中の列車時刻・施設描写は物語上の創作です。
名古屋市営地下鉄東山線、星ヶ丘駅。
地上では星ヶ丘テラスの灯が坂道に淡くにじみ、買い物帰りの親子や学生たちが、冷たい夜風に肩をすくめて歩いていた。だが地下へ降りると、空気は別のものになる。
白い蛍光灯。黄色い点字ブロック。ホームに反響する靴音。そして、すべての人間を同じ速さで運んでいく、時刻表という名の冷たい神。
午後八時十七分。
下り藤が丘方面の電車が星ヶ丘駅を出た瞬間、改札外のコインロッカーのひとつが内側からゆっくり開いた。
中に倒れ込んできたのは、学習塾講師の男だった。
喉元には血ではなく、赤いインクで一本の線が引かれていた。まるで、時刻表の不要な列を消すように。
ロッカーの扉の裏には、黒い油性ペンでこう書かれていた。
次発、二十時二十三分。警察諸君、乗り遅れるな。――MAX
愛知県警捜査一課の火野丈一は、その文字を見た瞬間、怒りで奥歯を鳴らした。
「ふざけやがって」
火野は四十八歳。昔ながらの刑事だった。聞き込みは足でやる。犯人は目で見る。机上の理屈より、人間の汗と沈黙を信じる。若い刑事たちからは暑苦しいと言われていたが、誰よりも現場に早く着き、誰よりも最後まで残る男でもあった。
その隣で、若い女性刑事がしゃがみ込み、ロッカーの内側を冷静に見つめていた。
篠宮灯。二十八歳。火野の相棒だ。
彼女は火野とは正反対だった。声を荒げず、感情を見せず、わずかな傷や匂いから時間を読み取る。庁内では「氷の時計」と呼ばれている。
「火野さん」
灯が言った。
「犯人は、殺害時刻を二十時十七分だと思わせたがっています」
「実際は違うってか」
「少なくとも、そう決めつけるには早いです。ロッカーの中に、電車の発車音を録音した小型スピーカーがありました。扉が開くタイミングと同期していた」
「つまり、電車が出た瞬間に死体が出てくるよう仕掛けた」
「ええ。死体が“その時刻に死んだ”ように見せるためです」
火野はホームへ続く階段を見上げた。
二十時二十三分の電車が近づいている。風が先に来た。地下の闇が震えた。
そのとき、火野の携帯が鳴った。
非通知。
出ると、若い男とも女ともつかない加工音声が流れた。
「火野刑事。遅い」
火野のこめかみに血管が浮いた。
「誰だ」
「時刻表を読めない猿に名乗っても無駄だ」
「殺したのはお前か」
「殺した? 違うな。私は正しい時刻に、人間を配置しているだけだ。電車が駅に着き、出ていくように。人は生まれ、死ぬ」
「警察をおちょくって楽しいか」
沈黙のあと、声は笑った。
「最高に」
電話は切れた。
火野は携帯を握りつぶしそうな力で握った。
灯が静かに言った。
「MAX。おそらくネット上で数年前から噂になっていた人物です。未解決事件の掲示板に現れて、警察資料にない情報まで言い当てていた。知能指数は測定上限を超えた、と自称している」
「IQが高けりゃ人を殺していいのかよ」
「いいはずがありません」
灯の声は冷たかった。
だがその目の奥に、火野は一瞬だけ、見慣れない熱を見た。
怒りか。それとも、別の何かか。
第二の殺人は、その三日後に起きた。
場所は星ヶ丘駅の一番出口近く、閉店後の喫茶店。被害者は精神科医の長谷部という男だった。
午後九時五分。
警察には犯行予告が届いていた。
九時五分、上り高畑方面。星はまたひとつ落ちる。――MAX
火野たちは星ヶ丘駅に警官を配置した。改札、階段、ホーム、出口、すべてに目を置いた。
そして午後九時五分、怪しい男が現れた。
黒いコート。白い手袋。帽子を深くかぶり、上りホームの柱にもたれていた。
火野が飛び出した。
「動くな!」
男は逃げた。
人混みが割れた。悲鳴が上がった。火野は改札前の階段を駆け下り、ホームへ滑り込む。男は発車寸前の電車に飛び乗った。
火野も続いた。
扉が閉まる。
男は車内を走った。乗客が悲鳴を上げ、吊り革が揺れた。火野は人をかき分け、男の肩をつかむ。だが黒いコートだけが脱げた。
下には駅員の制服。
男は笑った。
「遅いんだよ、熱血刑事」
次の瞬間、電車が東山公園駅に着いた。男は開いた扉から飛び出し、反対側の階段へ駆け上がった。
火野は追った。
地上へ出る。夜の空気。街灯。車のヘッドライト。
男は歩道橋から身を翻し、植え込みに転がり込んだ。火野もためらわず飛び降りた。膝に衝撃が走る。だが止まらない。
「待て!」
男は振り返った。
その顔を、火野は見た。
若い。二十代後半。整った顔。笑っている。
火野があと一歩で捕まえるという瞬間、男は道路へ飛び出した。クラクション。急ブレーキ。トラックの巨体が火野の視界を塞いだ。
男は消えた。
その直後、灯から電話が入った。
「火野さん。喫茶店で長谷部医師が発見されました」
火野は息を切らしながら言った。
「九時五分か」
「はい。ですが、おかしいです」
「何が」
「死亡推定時刻は、少なくとも一時間前です」
火野は夜の道路に立ち尽くした。
ならば、さっきの男は何だったのか。
犯人か。囮か。それとも、時刻表に書かれた、ただの記号か。
三人目の被害者は、元地下鉄職員の倉田だった。
彼は退職後、星ヶ丘駅近くの小さなアパートで暮らしていた。
犯行予告はなかった。
代わりに、星ヶ丘駅のホームにある広告モニターが、数秒だけ真っ黒になり、白い文字を映した。
三本目は予告しない。時刻表を信じる者ほど、時刻に殺される。――MAX
その夜、倉田は自宅で発見された。
室内には争った形跡がなく、机の上には古い紙の時刻表が置かれていた。東山線の、十五年前のものだった。
火野はその紙を見て、胸の奥がざわついた。
十五年前。
星ヶ丘駅で、女子中学生がホームから転落した事件があった。名は篠宮陽菜。灯の姉だった。
当時は事故として処理された。だが後に、彼女が誰かに突き落とされた可能性が浮上した。容疑者として逮捕されたのは、陽菜の父親、篠宮誠。
決め手は、時刻表だった。
誠は「事件時刻には星ヶ丘駅にいなかった」と主張した。しかし、証言と列車時刻を照合すると、その主張は崩れた。彼は有罪となり、獄中で亡くなった。
火野はその事件を覚えていた。
若手刑事だった自分は、捜査本部の端で黙って資料を運んでいた。何かがおかしいと感じながら、声を上げる力がなかった。
灯は当時、十三歳だった。
火野は古い時刻表を握りしめた。
「まさか……」
灯が隣で言った。
「火野さん。私情を挟まないでください」
「お前の事件だぞ」
「だからです」
彼女はまっすぐ火野を見た。
「十五年前に父は死にました。姉も死にました。でも、今起きている殺人とは別です。犯人は、それを利用している」
その声は揺れていなかった。
揺れていないことが、火野には怖かった。
突破口は、星ヶ丘駅で清掃員をしている老婆、春野キヨの一言だった。
キヨは毎朝四時半に駅へ来る。誰よりも駅の匂いを知り、誰よりもホームの傷を覚えている。
彼女は火野に缶コーヒーを差し出した。
「あんた、顔が怖いよ。刑事さんは太陽みたいに笑っとらんと、地下は余計に暗くなる」
火野は苦笑した。
「太陽みたいな顔ってのは、暑苦しいって意味か?」
「そうとも言うね」
キヨは笑い、それからふと表情を曇らせた。
「でも、あの子は昔から笑わんかった」
「あの子?」
「灯ちゃんだよ」
火野は顔を上げた。
キヨはホームの奥を見た。
「十五年前、陽菜ちゃんが落ちたあと、灯ちゃんは毎朝ここに来とった。始発前にね。時刻表を見上げて、ずっと立っとった。『お父さんは嘘をついてない』って、何度も何度も言っとったよ」
火野の喉が乾いた。
「それを知ってる人間は?」
「駅の人間なら何人かは。倉田さんも、長谷部先生も、最初の塾の先生もね。あの子をかわいそうな子だって、みんな言っとった」
被害者三人。
全員、十五年前の事件の関係者だった。
火野は走った。
署に戻り、十五年前の資料をひっくり返した。証言。時刻表。乗車記録。現場写真。
そして見つけた。
当時、篠宮誠を有罪に追い込んだ時刻表には、一本だけ存在しない電車が載っていた。
印刷ミスではなかった。
誰かが、捜査資料の時刻表だけを差し替えていた。
その偽の一本があったから、誠のアリバイは崩れた。その偽の一本があったから、真犯人たちは逃げた。
火野は震える指で資料をめくった。
偽時刻表を提出したのは、元職員の倉田。証言したのは、塾講師。精神鑑定で誠を追い詰めたのは、長谷部。
三人とも、死んでいる。
火野の背中に冷たい汗が流れた。
そのとき、灯が部屋に入ってきた。
「見つけましたか」
火野はゆっくり振り返った。
灯はいつも通り無表情だった。
だが、その手には拳銃があった。
「灯」
「火野さんは、やっぱり優秀ですね。暑苦しいけれど」
「お前なのか」
灯は少しだけ首を傾げた。
「“お前”とは誰のことですか。篠宮灯ですか。それとも、MAXですか」
火野は立ち上がった。
「殺したのか」
「はい」
「楽しんだのか」
灯はしばらく黙っていた。
それから、静かに笑った。
「一人目は復讐でした。二人目は確認。三人目で、分かりました」
「何が」
「私は、警察が時刻表にひれ伏す姿を見るのが好きなんです」
火野は胸の奥が凍るのを感じた。
「灯……」
「火野さん。時刻表アリバイトリックの本質は、電車ではありません」
灯は拳銃を下ろさずに言った。
「人間は“書かれた時刻”を信じる。死体がその時刻に見つかれば、その時刻に死んだと思う。犯人がその時刻に電車に乗っていれば、犯人ではないと思う。でも本当は違う」
「死んだ時刻じゃない」
「そう。私が作ったのはアリバイではありません。警察の頭の中に、間違った時刻表を差し込んだだけです」
第一の被害者は、二十時十七分より前に殺されていた。第二の被害者も、九時五分より前に殺されていた。第三の被害者も同じ。
死体を発見させる仕掛け、音、照明、予告、駅の発車時刻。すべては、警察に「その時刻が事件の中心だ」と思わせるための舞台装置だった。
そして灯は、捜査員としてその中心に立ち、誰よりも自然に現場を動かせた。
火野はかすれた声で言った。
「じゃあ、東山公園まで逃げた男は」
「雇っただけです。顔も名前も知りません。あの人は自分が何のために走っているのかも知らなかった」
「MAXは」
「私です。父が昔、私をそう呼んでいました。テストの点を取ると、いつも言ったんです。“灯、お前の頭はMAXだな”って」
灯の目に、初めて涙が浮かんだ。
だが、その涙は一瞬で消えた。
「でも父は馬鹿でした。正直で、やさしくて、時刻表を偽造するような人間に勝てなかった」
「だから殺したのか」
「はい」
「俺を撃つのか」
灯は首を横に振った。
「いいえ。火野さんには、最後の電車に乗ってもらいます」
署内のスピーカーが鳴った。
いや、署内ではない。火野の携帯だった。
画面には、星ヶ丘駅のライブ映像が映っていた。
ホームに人がいる。帰宅客、学生、老人。そして、ホーム端の非常扉付近に、小さな黒いバッグが置かれていた。
灯が言った。
「午前零時三分。星ヶ丘駅、最終一本前。火野さんが私を捕まえるか、あのバッグを処理するか」
「何を入れた」
「人が死ぬものです」
「灯!」
「時刻表を読み間違えないでください」
灯は走った。
火野も走った。
星ヶ丘駅は、夜の底に沈んでいた。
改札を飛び越え、火野はホームへ駆け下りた。膝が痛む。息が焼ける。それでも止まれない。
灯はホームの端にいた。
黒いバッグのそばではない。反対側。線路へ降りる非常階段の前。
つまりバッグは囮か。いや、囮だとしても放置できない。
火野は叫んだ。
「乗客を下がらせろ!」
駅員が動く。警官が人を押し戻す。ホームが混乱する。
灯は非常扉を開け、線路脇の通路へ消えた。
火野はバッグへ走った。中身を確認する。危険物処理班を待つ時間はない。だが、バッグの中にあったのは、古い目覚まし時計と、十五年前の時刻表だけだった。
紙には赤い線が引かれていた。
最後の被害者火野丈一の正義
火野は顔を上げた。
「灯!」
彼は非常扉へ飛び込んだ。
線路脇の通路は狭く、暗く、湿っていた。遠くから電車の走行音が迫ってくる。
灯は数十メートル先にいた。手すりを越え、線路へ降りようとしている。
「やめろ!」
「父はここで死にました」
「違う。お前の父親は、ここでは死んでない」
灯が振り返った。
「何を――」
「お前の父親は、時刻表に殺されたんじゃない。嘘をついた人間に殺されたんだ。お前はいま、その人間たちと同じことをしてる」
灯の顔が歪んだ。
「黙れ!」
彼女は火野へ飛びかかった。小柄な体からは想像できない速さだった。火野の腹に膝が入り、息が詰まる。灯は警察学校で常に首席だった。格闘も射撃も、火野の教えをすべて吸収していた。
火野は殴られ、壁に叩きつけられた。
電車のライトが、トンネルの奥に見えた。
灯は線路へ下りた。
「私は父を救えなかった。姉も救えなかった。だから、せめて世界に証明したかった。警察がどれほど愚かか。正義がどれほど遅れて来るか」
火野は血の味を飲み込み、立ち上がった。
「正義は遅れることがある」
灯が笑った。
「認めるんですね」
「ああ。遅れる。間違える。取り返しがつかないこともある」
火野は線路へ飛び降りた。
「でも、それでも追いつこうとする人間まで殺していい理由にはならねえ!」
電車の警笛が鳴った。
火野は灯へ突進した。灯は避けようとしたが、火野は彼女の腕をつかんだ。二人はもつれ、線路脇へ転がった。
轟音。
電車が目前を通過した。
風が全身を殴った。火花の匂い。鉄の悲鳴。灯の髪が舞い、火野の腕に爪が食い込む。
電車が止まったとき、火野は灯を抱えたまま、線路脇のわずかな空間に倒れていた。
灯は泣いていた。
今度は、消えない涙だった。
「どうして助けたんですか」
火野は荒い息の中で言った。
「刑事だからだ」
「私は殺人犯です」
「ああ」
「あなたを騙しました」
「ああ」
「警察を笑いました」
「ああ」
「それでも?」
火野は灯の手首に手錠をかけた。
金属音が、地下に小さく響いた。
「それでも、朝は来るんだよ」
翌朝、星ヶ丘駅は何事もなかったように人を迎えた。
通勤客は眠そうな顔で改札を通り、学生たちはイヤホンをつけ、誰かがパン屋の袋を抱えて階段を上がっていく。
時刻表は新しいものに差し替えられていた。
火野はホームの端に立っていた。
灯は逮捕された。十五年前の事件は再捜査されることになった。死んだ三人の罪は明らかになるだろう。だが、彼らはもう裁けない。灯が殺した命も戻らない。篠宮誠の失われた年月も、陽菜の未来も戻らない。
正義は、あまりにも遅かった。
春野キヨが隣に来て、缶コーヒーを差し出した。
「また怖い顔しとる」
火野は受け取った。
「太陽みたいに笑えってか」
「そう。地下鉄にも朝は必要だからね」
そのとき、階段の上から朝日が差し込んだ。
地下の駅に、ほんのわずか、金色の光が落ちた。
火野はそれを見た。
星ヶ丘駅は、今日も時刻通りに電車を走らせる。人々は乗り、降り、またどこかへ向かう。時刻表は嘘をつくことがある。人間も嘘をつく。正義も遅れる。
それでも。
火野は缶コーヒーを握りしめ、ホームに入ってくる電車を見つめた。
陽はまた昇る。
たとえ、その光が地下の底まで届くのに、少し時間がかかるとしても。





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