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時刻表の余白――幹夫青年、時間に「息をさせる」話――

 幹夫(みきお)は、紙を貼り替える作業が苦手だった。 古い紙を剥がすとき、そこに残っていた“誰かの毎日”まで一緒に剥がしてしまう気がしてしまう。

 たとえば、擦れた角。 雨で少し波打った端。 指の脂で薄く曇った透明カバー。 それらは全部、だれかがその場所で何度も立ち止まり、確かめ、迷い、決めた痕跡だった。

 朝の静岡は、まだ人の声が少ない。 遠くでバスが低く唸り、青葉通りのほうから、パンを焼く匂いが薄く流れてくる。空は曇っていて、光が平らだ。 幹夫は腕に抱えた透明ファイルの中の紙を、無意識に指で押さえた。

 今日の仕事は、路線再編に伴うバス停の時刻表差し替え。 たった一枚。されど一枚。 その一枚が変わるだけで、だれかの生活が少しずつずれていく。

 幹夫はそれを、知りすぎていた。

1 剥がす前に、見てしまう

 目的のバス停は、坂道の途中にあった。 屋根の下に、青いベンチ。 濡れたアスファルトが、空の灰色をそのまま映している。

 掲示板の透明カバーを開くと、古い時刻表が現れた。 紙は黄ばんでいて、印刷の黒が少し薄い。 ――そして、余白に、細いボールペンの字があった。

 「9:12 病院」 「木 買い物」 「雨の日は一本前」

 幹夫の胸の奥が、きゅっと縮んだ。 こういうのを見てしまうと、もう“ただの差し替え”には戻れない。

 余白の字は、上手ではない。 急いで書いた字だ。 でも、急いでいる字ほど、正直だ。 誰かがここで、時間に追いつこうとしていた。 誰かがここで、“間に合う”ということを必死に守っていた。

 幹夫は一瞬、作業を止めた。 透明カバーの内側に映る自分の顔が、妙に青白く見える。 ――これを剥がすのは、許されることなんだろうか。 正しい仕事なのに、胸のどこかが「乱暴だ」と言う。

 幹夫はスマホを取り出し、そっと写真を撮った。 誰にも頼まれていない行為。 でも幹夫にとっては、祈りに近かった。 「ちゃんと見たよ」と、心の中で言うための。

 そのとき、背後で杖の音がした。

2 困る人の顔は、紙より先に来る

 振り向くと、小柄な女性が立っていた。 髪は短く、首元に薄いストールを巻いている。 手には布の買い物袋。 目は、掲示板を見ようとして、少し眇(すが)められている。

 「……あの、時刻表、変わるの?」

 幹夫は、喉の奥が乾くのを感じた。 “変わる”という言葉は、いつも簡単に言えない。 変わるのは紙だけではないから。

 「はい。今日、差し替えで……」 幹夫はできるだけゆっくり、言葉を置くように話した。 女性の目が、古い時刻表の余白に落ちた。 まるで自分の手帳を見るみたいに、視線がそこに吸い寄せられる。

 「……これね」 女性は、余白の字を指さした。 「わたしが書いたの。忘れちゃうから」

 幹夫は、胸が痛くなるのを感じた。 自分が今から剥がそうとしているのは、ただの紙じゃない。 この人の、毎日の“手すり”だ。

 「……新しい時刻表にも、書けます。余白はありますから」 言ってから、幹夫は自分の言葉が頼りないことに気づいた。 余白があっても、同じ余白ではない。 同じ線の上に書いた字には、同じ安心が宿る。人はそういう生き物だ。

 女性は小さく笑った。 でも、その笑いは嬉しさではなく、少し困った笑いだった。

 「このバスね、今まで一本で行けたのよ。病院まで。 ……今度は、乗り換えって書いてあるでしょう?」

 幹夫は、肩の内側が固くなるのを感じた。 変更の説明文を、彼は何度も読んだ。 乗り換えが必要になる人がいることも、もちろん知っていた。 でも、“目の前の顔”は、紙面の文字より重い。

 「はい。途中の停留所で、便が分かれて……」 「わたしね、乗り換えが苦手なの」

 その一言に、幹夫の胸の奥が、すとんと落ちた。 苦手。 その言葉は、言い訳じゃない。 生きてきた時間が作った、正直な壁だ。

 幹夫は、咄嗟に言っていた。 「……一回だけ、よければ。今日、乗り換え、いっしょに確認しますか」

 言った瞬間、幹夫の心臓が速くなった。 自分の仕事は、まだ他にもある。 段取りもある。 でも、それより先に、女性の目が少しだけ明るくなった。

 「いいの?」 「はい……大丈夫です。少し遅れても、連絡します」

 “遅れても”と言えたことが、幹夫には小さな驚きだった。 彼はいつも、遅れることを自分に許せない。 遅れる=迷惑、遅れる=失格、そう刷り込まれている。 でも、今日だけは違った。 目の前の困り顔が、時間割より大事に思えた。

3 バスの揺れが、心を整える

 バスは、少し湿った匂いがした。 濡れた傘と、制服の布と、消毒液。 エンジンの低い振動が床から伝わって、幹夫の胸の奥のざわざわを、一定のリズムに揃えていく。

 女性は窓側に座り、買い物袋を膝に置いた。 袋の口から、飴の包み紙が少し覗いている。 幹夫はそれを見て、なぜだか安心した。 飴を持ち歩く人は、たいてい“待つ時間”を知っている。

 「お名前、聞いてもいいですか」 「栄子(えいこ)。……あなたは?」 「幹夫です」

 名乗ったあと、幹夫は少し恥ずかしくなった。 名乗るのは、相手に自分の存在を渡すことだ。 渡したぶんだけ、失敗したときの痛みも増える。 でも栄子さんは、幹夫の名前を口の中で一度転がしてから、ゆっくり頷いた。

 「幹夫さん、若いのに、落ち着いてるね」 幹夫は笑いかけて、すぐに笑いが引っ込んだ。 落ち着いているんじゃない。 怖がっているから、慎重なだけだ。 でも、そういう説明をするのも違う気がして、黙って頷いた。

 乗り換えの停留所が近づくにつれて、栄子さんの肩が少し上がっていく。 呼吸が浅くなるのが分かる。 幹夫は、自分の呼吸もつられて浅くなりそうなのを、わざとゆっくり吸った。 ゆっくり吸うと、相手の呼吸も少しだけ落ち着くことがある。 幹夫はそれを、いつのまにか覚えてしまっていた。

4 “待つ”という余白

 停留所で降りると、雨が霧みたいに細かく降っていた。 空は低い。 駅のほうへ向かう道に、車のライトがにじむ。

 乗り換えのバスは、少し遅れていた。 時刻表には、もう過ぎた時間が印刷されているのに、バスは来ない。 幹夫は時計を見て、胸の中がざわっとした。 遅延は仕方ない。天候もある。交通量もある。 分かっているのに、身体が先に「焦れ」と言う。

 栄子さんは、ベンチにゆっくり腰を下ろした。 「……こういうの、苦手なのよね。待つの」 幹夫は、反射的に「すみません」と言いそうになって飲み込んだ。 謝っても、バスは早くならない。 謝ることで、栄子さんに“許す役”を渡してしまう。

 代わりに幹夫は言った。 「……待ってる間、寒くないですか」

 栄子さんは買い物袋から飴を一つ出した。 「これ、どうぞ」 幹夫の胸が、またきゅっとした。 受け取るのが、昔から苦手だ。 受け取ると、何か返さなきゃいけない気がする。 返せない自分が怖い。

 でも、片方だけの手袋の冬を思い出した。 受け取らないと、相手のやさしさが行き場をなくすことがある。 それは、相手を寂しくする。 だから、今日は受け取る。

 「……ありがとうございます」 飴の甘さが舌に広がり、喉の奥が少しあたたまった。 その温度が、幹夫の焦りを少しだけ丸くする。

 栄子さんは、雨の線を見ながらぽつりと言った。 「昔はね、待つの、平気だったの。 夫が生きてた頃は。待ってる間に話すことがあったから」

 幹夫は、聞いた。 無理に掘り返さないように、でも逃げないように。 ただ、聞けるだけ聞く。 彼が最近いちばん大事にしている態度だった。

 「……いまは、待ってる間、頭の中がうるさくなるの。 来るのかな、間に合うのかな、今日行けないかも、って」

 幹夫は、飴を舐めながら思った。 待つ時間が怖いのは、時間が空っぽだからじゃない。 空っぽの場所に、不安が勝手に入り込むからだ。 ――余白は、放っておくと痛くなる。 だから人は、余白に字を書く。メモをする。飴を舐める。誰かを思い出す。

 遠くで、バスのエンジン音がした。 遅れてきたバスが、雨の中にライトをにじませながら曲がってくる。

 栄子さんが、ほんの少しだけ笑った。 「来た」 その笑顔が、幹夫の胸を静かに刺した。 遅れても、来る。 来ると分かった瞬間、人はちゃんと息ができる。

5 貼り替えたのは、紙だけじゃない

 病院の最寄りで栄子さんを見送り、幹夫は来た道を戻った。 戻る途中、彼は何度も思った。 ――自分は、何をしたんだろう。 案内しただけ。たった一回同行しただけ。 でも、栄子さんの「来た」の笑顔が頭から離れない。 たぶん彼は、あの笑顔のために今日の仕事をしたのだ、とさえ思った。

 元のバス停に戻ると、空気が少し乾いていた。 幹夫は差し替え作業を再開した。 古い時刻表を剥がすとき、余白の字が最後にふっと見えた。 幹夫は胸の中で小さく言った。 ――ありがとう。ちゃんと見た。

 新しい時刻表を貼り、透明カバーを閉じる。 でも、それだけで終わらせたくなかった。 幹夫は、カバーの隅に小さな紙を追加で挟んだ。 公式なものではない。目立たない。 けれど、余白のための小さな場所。

 「メモ欄(ご自由に)」 「困ったら 〇〇案内 連絡先」

 勝手かもしれない。 でも幹夫は、こういう“勝手”を、少しずつ自分に許せるようになってきた。 正しさの中に、やわらかい隙間を作ること。 角を少しでも丸くすること。 それが彼の、いまの仕事の仕方だった。

 作業が終わるころ、携帯が震えた。 姉からの返事。

 ――「怖いって言ってくれてよかった。   じゃあ、今度一緒に行こう。見てから決めよう」

 幹夫は、画面を見たまま動けなかった。 胸の奥で、何かが小さく渦を巻く。 溜まっていた言葉が、少しだけ流れる。 それは痛いのに、息ができる痛みだった。

 幹夫は、返信を打った。

 ――「ありがとう。   俺も、ちゃんと見て決めたい」

 送信して、顔を上げると、バス停の青いベンチに一人の学生が座っていた。 時刻表を見て、バッグからペンを出し、余白に何かを書いた。 その姿を見て、幹夫の胸が静かにあたたまった。

 余白は、人の弱さの証じゃない。 余白は、人が呼吸する場所だ。 時間に追いつくためじゃなく、時間と一緒に生きるための場所だ。

 幹夫は、雨上がりの匂いを吸い込み、ゆっくり息を吐いた。 今日の空はまだ灰色だ。 でも、灰色の中にも、ちゃんと余白がある。 その余白に、だれかの小さな字が、また増えていく。

 幹夫はそれを想像して、ほんの少しだけ笑った。

 
 
 

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