top of page

東山線午前零時十三分、死体だけが定刻に笑う

※作中の時刻・運行設定・事件はすべてフィクションです。

東山線の黄色は、名古屋の地下に差す小さな朝日の色だと、中村署の刑事・日比野昇は思っていた。

だが、その夜だけは違った。

黄色は、遺体の胸に貼られた付箋の色だった。

午後九時十七分。中村公園駅に到着した藤が丘行きの三号車で、スーツ姿の男が座ったまま動かなくなっていた。

乗客は最初、眠っていると思った。

誰も声をかけなかった。

終電間際の地下鉄では、疲れた人間が座席で首を折るように眠ることなど珍しくない。スマートフォンを握った手。膝に置かれた鞄。少し開いた口。すべてが「よくある帰宅途中の人」に見えた。

だが、男の胸元には黄色い付箋が貼られていた。

そこには、細い黒字でこう書かれていた。

次は伏見。君たちは時刻表しか読めない。

「どけ!」

日比野は規制線をくぐり、車内に飛び込んだ。

「中村署だ。全員、車両から離れて!」

相棒の椎名凜が、若い駅員を抱えるようにして車外へ下がらせた。駅員は顔面蒼白で、何度も「寝てると思ったんです」と繰り返していた。

日比野は男の首筋に指を当てた。

冷たい。

胸の付箋をはがそうとした瞬間、男のスマートフォンが鳴った。

車内に残っていた者たちが一斉に息を止めた。

日比野はスマートフォンを拾い、通話ボタンを押した。

「誰だ」

受話口の向こうで、若い男の声が笑った。

「熱血中村署。やっぱり君が来た」

「名を言え」

「名乗ったら、時刻表がつまらなくなる」

「ふざけるな」

「ふざけているのは君たちだよ。人間が死んだ時刻なんて、いつも他人が決めている。医者が決める。警察が決める。ニュースが決める。なら、僕が決めてもいいだろう?」

声は愉快そうだった。本当に楽しんでいた。

「次は伏見」と日比野は言った。「どういう意味だ」

「あと六分」

「何が起きる」

「君が走れば、少しは面白くなる」

通話は切れた。

日比野は飛び出した。

「凜、伏見だ!」

「現場保存は!」

「犯人が予告してる!」

日比野は階段を駆け上がり、改札を抜け、連絡通路を走った。中村署の刑事課で「燃え残った導火線」と呼ばれる男だった。怒りに火がつくと止まらない。凜はその背中を追いながら無線を飛ばした。

だが、伏見駅で見つかったのは、新しい遺体ではなかった。

エレベーターの中に、年配の女性弁護士が倒れていた。

胸の付箋にはこう書かれていた。

君たちは間に合った。けれど遅すぎた。

死亡推定時刻は、午後八時から九時半の間。

つまり、電話の時点で彼女はすでに死んでいた。

犯人は、殺人を予告したのではない。

発見を予告していた。

それが、東山線連続時刻表殺人の幕開けだった。

一人目の被害者は広告会社役員・白川涼介。

二人目は弁護士・宮脇佐江子。

三人目は元警察鑑識員・柳田浩一。

いずれも東山線の駅、もしくは車内で発見された。いずれも胸に黄色い付箋が貼られていた。いずれも付箋には、駅名と時刻を思わせる数字が残されていた。

そして、いずれの事件でも、最重要参考人には完璧なアリバイがあった。

神谷律。

三十一歳。地下鉄の乗換案内アプリを開発し、かつて「歩く時刻表」と呼ばれた天才。学生時代の知能検査で測定不能域に入ったという噂があり、ネットでは半ば冗談で「IQ MAX」と呼ばれていた。

神谷は一人目の死亡推定時刻、栄のカフェで防犯カメラに映っていた。

二人目の遺体が発見された時刻、彼は中村署の取調室にいた。

三人目の付箋に書かれた時刻、彼は東山公園駅近くの公開講座で、地下鉄ダイヤについて講演していた。

しかも彼は、日比野の前で隠す気もなく笑った。

「僕を疑うんですか、日比野刑事」

取調室の蛍光灯の下で、神谷律は長い指を組んだ。目の奥が冷たかった。だが口元だけは、遊園地に来た子どものように弾んでいる。

「お前がやった」

日比野は言った。

神谷は肩をすくめた。

「証明してください。時刻表を使って」

日比野は机を叩いた。

「人が三人死んでるんだぞ!」

「三人? 違いますよ」

神谷は楽しそうに首を傾げた。

「地下鉄では、毎日もっとたくさんの人が死んでいます。立ったまま。座ったまま。誰にも見られないまま。心だけ先に」

「黙れ」

「日比野刑事、あなたも見たことがあるでしょう? 座席で眠る誰かを。助けるべきか迷って、結局、何もしなかった誰かを」

その瞬間、日比野の右手がわずかに震えた。

凜は気づいた。

神谷も気づいた。

「やっぱり覚えているんですね」

神谷は微笑んだ。

「十三年前の、あの東山線を」

十三年前。

日比野はまだ交番勤務の若い巡査だった。

深夜の東山線。今池を過ぎたあたりで、向かいの座席に座る少女が、ひどく青い顔をしているのに気づいた。

中学生くらいだった。膝の上で両手を握りしめ、何かをこらえていた。

日比野は声をかけようとした。

しかし、隣にいた酔客が大声で笑い、車内は混んでいて、少女は次の駅で降りるようにも見えた。

大丈夫だろう。

誰かが見ているだろう。

そう思った。

いや、そう思うことにした。

少女は藤が丘で動かなくなった。

のちに、急病と発表された。新聞の片隅にも載らなかった。

少女の名前は、神谷雫。

神谷律の妹だった。

「だから復讐か」

日比野は低く言った。

神谷の表情から笑みが消えた。

「復讐? そんな安い言葉で片づけないでください。これは実験です」

「実験?」

「人は、いつ死体に気づくのか」

神谷は机に指で時刻表のような線を描いた。

「眠っている人間と、死んでいる人間。地下鉄の中では、ほとんど同じです。視線を向けなければ、同じなんですよ」

凜が言った。

「被害者三人は、十三年前の車両にいた人間ですね」

「さあ」

「白川は当時、車内で動画を撮っていた。宮脇は事故後、遺族側の証言を潰した弁護士。柳田は鑑識として報告書を書き換えた」

神谷は拍手した。

「優秀だ。けれど足りない」

「何が」

「四人目です」

取調室の空気が凍った。

神谷は日比野を見た。

「十三年前、制服を着ていた若いお巡りさん。君は妹を見た。見たのに、見なかった」

日比野は反論できなかった。

凜が声を荒げた。

「それで人を殺していい理由にはならない!」

「もちろん」

神谷は穏やかに言った。

「だから、僕は理由を探していません。楽しんでいるだけです」

その言葉は、どんな怒号より恐ろしかった。

捜査本部は混乱した。

神谷にはアリバイがある。だが、神谷以外にこの事件を設計できる人間はいない。

日比野は三件の資料を何度も見返した。

付箋。発見時刻。駅名。車両番号。防犯カメラ。乗客の証言。

そこに、奇妙な共通点があった。

三人の被害者はいずれも「死んだ瞬間」を誰にも見られていない。

見られていたのは、座っている姿だけ。

眠っているように見える姿だけ。

「凜」

「はい」

「俺たちは、犯人の言葉に引っ張られていた」

日比野は資料を机に並べた。

「こいつは殺した時刻を示していない。発見させたい時刻を示していたんだ」

凜の目が細くなる。

「つまり、遺体はかなり前から車内か駅にあった」

「そうだ」

「でも、そんなことが可能ですか。乗客も駅員もいる」

「可能なんだよ」

日比野は唇を噛んだ。

「俺たちが、眠っている人間を見ないなら」

凜は黙った。

日比野は続けた。

「神谷のアリバイは、殺人時刻のアリバイじゃない。発見時刻のアリバイだ。あいつは殺した後、時刻表どおりに死体を“見つけさせた”」

「でも、どうやって発見タイミングを操ったんです」

「電話、通知、座席の位置、駅員の巡回、終電前の混雑。あいつは全部読んでいた。人間を時刻表の部品みたいに扱った」

凜は資料の端を指差した。

「この数字、変です」

三枚の付箋には、いずれも時刻らしき数字の横に、小さな擦れがあった。

H04。H09。H17。

駅番号だった。

高畑から始まる東山線の駅番号。

中村公園はH04。伏見はH09。東山公園はH17。

そして、三件目の柳田の胸に貼られていた付箋には、こうあった。

00:13

凜が言った。

「午前零時十三分……次の予告ですね」

日比野は答えなかった。

彼は十三年前の車内を思い出していた。

あの少女は、今池を過ぎたところで顔色を失っていた。

今池。東山線の駅番号。

H13。

日比野は立ち上がった。

「違う」

「え?」

「零時十三分じゃない」

日比野は付箋をつかんだ。

「これは時刻じゃない。H13だ。縦棒を消して、ゼロに見せかけている」

凜の顔色が変わった。

「今池駅」

その瞬間、日比野のスマートフォンが震えた。

非通知。

日比野は通話を取った。

神谷の声がした。

「正解。けれど遅い」

背後で、小さな子どもの声が聞こえた。

「パパ?」

日比野の血が逆流した。

「朝陽!」

七歳の息子だった。

「お前……!」

「怒らないでください。朝陽くんは無事です。今のところは」

神谷の声は甘かった。

「今池駅、下りホーム。最終実験を始めます。君が十三年前にできなかったことを、今度はできるかな」

通話は切れた。

日比野は走った。

今池駅へ向かう車内で、日比野は息子の写真を握りしめていた。

妻は三年前に病で亡くなった。朝陽は、日比野が夜中に事件で飛び出すたび、玄関で笑って言った。

「パパ、悪い人つかまえてね。でも帰ってきてね」

帰る。

その約束だけで、日比野は刑事を続けてきた。

凜が隣で無線を飛ばす。

「今池駅、全ホーム封鎖! 子ども一名の保護を最優先!」

列車が今池に滑り込む。

ドアが開いた瞬間、日比野は飛び出した。

ホームの端に、神谷律が立っていた。

その横に、朝陽がいた。

だが、朝陽は泣いていなかった。

見知らぬ老婆が、朝陽の手を握っていた。さらに高校生らしい少年が、駅員に向かって叫んでいた。

「この子、迷子です! 変な男が連れてた!」

神谷の顔から、初めて笑みが消えていた。

「なぜだ」

彼は呟いた。

「なぜ、声をかけた」

老婆が震えながら言った。

「子どもが一人で立ってたら、声くらいかけるわ」

その一言が、神谷の完璧な時刻表を破壊した。

神谷は朝陽を殺すつもりではなかった。

朝陽を「誰にも助けられない子ども」としてホームに置き、日比野に十三年前の自分を見せつけるつもりだった。

そして最後に、自分自身が線路へ落ちる。

四人目の死体。

それが、神谷の最終ページだった。

「違う……」

神谷は後ずさった。

「人間は見ないはずだ。誰も助けないはずだ。妹の時は、誰も……!」

日比野は叫んだ。

「神谷!」

神谷がホーム端に足をかけた。

凜が走る。駅員が非常停止を叫ぶ。朝陽が泣き出す。

日比野は全身で飛び込んだ。

神谷の身体がホームから傾く。日比野はその腕をつかんだ。

二人の身体が黄色い線の内側で倒れ込む。

神谷は暴れた。

「離せ! 僕は死ぬんだ!」

「死なせるか!」

「僕を助けるな!」

「お前のためじゃない!」

日比野は神谷の襟をつかみ、床に押さえつけた。

「朝陽に見せたくないんだよ! 人が憎しみだけで終わるところを!」

神谷の目が揺れた。

日比野は息を切らしながら言った。

「俺は十三年前、助けなかった。見て見ぬふりをした。お前の妹を死なせた一人だ」

凜が「日比野さん」と小さく呼んだ。

日比野は続けた。

「だから俺は、今日だけは目を逸らさない。お前が殺人犯でも、お前が俺を憎んでいても、俺はお前を死なせない」

神谷の抵抗が弱まった。

ホームに、朝陽の泣き声が響いた。

「パパ!」

日比野は神谷を押さえたまま、朝陽を見た。

「大丈夫だ。パパは帰る」

その言葉を聞いた瞬間、神谷律は初めて子どものように泣いた。

笑いながら人を殺した男が、地下鉄のホームで、壊れた時刻表みたいに泣いた。

事件は終わった。

神谷律は逮捕された。三件の殺人と、一件の未遂、そして十三年前の事件に関わる証拠隠蔽の再捜査が始まった。

だが、終わったからといって、救われるわけではなかった。

白川も、宮脇も、柳田も戻らない。神谷雫も戻らない。神谷律の心も、たぶん完全には戻らない。

そして日比野の罪も、消えない。

記者会見で、日比野は十三年前のことを話した。

若い巡査だった自分が、具合の悪そうな少女に声をかけなかったこと。それが法的な罪でなくても、人として背負うべき罪であること。

会見場はざわついた。

処分もあるだろう。刑事を続けられないかもしれない。

それでも、日比野は言った。

「人は、時刻表ではありません。遅れることも、立ち止まることも、間違えることもある。だからこそ、隣の人間を見なければならないんです」

その夜、凜は中村署の屋上で日比野に缶コーヒーを渡した。

「刑事、辞めるんですか」

「わからん」

「似合いませんよ。普通の仕事」

「ひどいな」

「でも、今日の会見はよかったです」

日比野は苦笑した。

「俺はただ、本当のことを言っただけだ」

「それが一番難しいんです」

遠くで、地下鉄の走る低い音がした。

街は眠らない。悲しみがあっても、憎しみがあっても、列車は走る。

翌朝、日比野は朝陽と一緒に東山線に乗った。

朝陽は父の手を強く握っていた。

「パパ、地下鉄こわい?」

日比野は少し考えた。

「怖いな」

「じゃあ、乗らない?」

「乗るよ」

「なんで?」

日比野は車内を見回した。

眠そうな会社員。参考書を開く学生。ベビーカーを押す母親。杖をついた老人。

それぞれが、それぞれの朝へ向かっている。

「怖くても、ちゃんと見るためだ」

朝陽はよくわからない顔をしたが、やがて小さく頷いた。

東山公園駅で降り、地上へ出ると、空が薄い金色に変わり始めていた。

朝陽が指を差した。

「パパ、朝だよ」

日比野は目を細めた。

地下の暗闇から出たばかりの光は、少しまぶしすぎた。

むなしさは残る。絶望も消えない。取り返しのつかない夜は、どれだけ朝が来ても夜のままだ。

それでも。

誰かが隣の人間に声をかけるなら。誰かが倒れた人に手を伸ばすなら。誰かが「大丈夫ですか」と言えるなら。

世界はまだ、完全には終わっていない。

東の空で、陽が昇った。

日比野昇は、息子の手を握り返した。

そして初めて、十三年前の少女に向かって、心の中で言った。

――今度は、見ている。

黄色い地下鉄が、また朝の街へ走り出した。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page