柚木駅0分発、死体行き――時刻表は犯人の顔で笑う
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 13分
※作中の列車時刻・設備・捜査体制は物語上のフィクションです。

静岡鉄道柚木駅のホームに、雨はまっすぐ降らない。
夜の灯りに斜めに切られ、線路の銀を叩き、券売機のガラスを震わせ、ホーム端の時刻表を濡らしていく。 その時刻表の前に、女が立っていた。
彼女の名は桐島恵子。四十二歳。地元の不動産会社に勤める事務員だった。
彼女はスマートフォンを握ったまま、震える指で画面を見つめていた。
『次の新静岡行きに乗れ。乗らなければ、君の秘密を全員に送る』
差出人は不明。 ただ、文末に奇妙な署名があった。
――IQ MAX
ホームの向こうから、列車の前照灯が雨を裂いて近づいてくる。
桐島は息を呑んだ。 背後で、誰かが笑った。
「時刻表って、すごいだろう?」
男の声だった。若く、静かで、ぞっとするほど楽しそうだった。
「人間は嘘をつく。時計も狂う。だが時刻表は、人を殺しても黙っている」
列車が柚木駅へ滑り込む。 ドアが開く。 雨の匂い、ブレーキの焦げた匂い、濡れた鉄の匂い。
次の瞬間、ホームの監視カメラが白く乱れた。
午後九時十七分。
列車が去ったあと、時刻表の足元に桐島恵子は倒れていた。 胸には、赤いマジックで丸をつけられた時刻表の切れ端が置かれていた。
そこにはこう書かれていた。
二十一時十七分 柚木発
そして、裏面には一行。
一人目。刑事さん、乗り遅れるな。
*
清水署刑事課の朝比奈烈は、雨の中、規制線をくぐった。
名の通り、燃えるような男だった。四十六歳。短く刈った髪、太い首、いつも少し乱れたネクタイ。取り調べより張り込み、会議より現場を信じる刑事で、上からは煙たがられ、下からはなぜか慕われていた。
「清水署の朝比奈です」
所轄の若い警官が顔を上げる。
「朝比奈さん、今回は静岡中央の管轄じゃ……」
「二人目が清水で出ると予告された。合同だ。細けえことはあとでいい」
朝比奈はホームに膝をつき、濡れた時刻表の切れ端を見た。
丸のついた二十一時十七分。 その時刻に列車は確かに柚木駅を出ていた。
そして、容疑者として真っ先に名前が浮かんだ男には、完璧なアリバイがあった。
白神零士。
天才的な交通予測AIを開発した若き実業家。県内の鉄道イベントにも顔を出し、最近では「IQ MAX」という学習アプリの広告で、静鉄の一編成を丸ごとラッピングしていた。車体には、白神自身の涼しい顔と、挑発的なコピーが大きく描かれている。
凡人の時間を、天才が支配する。IQ MAX
事件の直前、桐島恵子は白神と揉めていた。 過去の再開発事業をめぐる資料を、彼女が持っていたらしい。
だが午後九時十七分、白神零士は柚木駅を発車した列車の中にいた。
防犯カメラに映っていた。 車窓の向こう、彼の顔がこちらを向いていた。 スマートフォンの位置情報も、列車とともに移動していた。 ICカードの記録も、新静岡方面へ乗車したことを示していた。
朝比奈の隣に、若い女性刑事が立った。
三枝由梨。清水署刑事課。朝比奈の相棒で、冷静で、よく気がつき、朝比奈の暴走を止める係でもあった。
「白神零士、頭がよすぎますね」
「頭がよすぎる奴は、だいたい心が足りねえ」
「偏見です」
「経験だ」
由梨は小さく笑った。だが、その笑みはすぐ消えた。
「朝比奈さん。被害者の手、見ました?」
「ああ」
桐島恵子の右手は、最後まで何かを握ろうとしていた。 指の中には、ちぎれた小さな紙片があった。
そこには、ひらがなで一文字だけ書かれていた。
ひ
「ひ……?」
由梨が呟く。
朝比奈は雨に濡れたホームを見渡した。
誰かがここで殺した。 誰かがここで笑った。 そして、その誰かは時刻表を盾に、列車の中から警察を見下ろしている。
朝比奈は立ち上がった。
「白神を引っ張る」
「でもアリバイが」
「時刻表にアリバイを作らせる奴なんざ、人間の目で崩すしかねえ」
*
二人目は、三日後に出た。
場所は清水区の古い倉庫街。被害者は松浦啓介、五十八歳。かつて鉄道広告の制作会社を経営していた男だった。
殺害時刻と見られたのは午後十時四分。
現場の壁には、また時刻表の切れ端が貼られていた。
二十二時〇四分 柚木発
その時刻、白神零士はまたも列車の中にいた。
柚木駅の防犯カメラには、列車の窓越しに白神の顔が映っていた。 しかも今度は、車内の乗客二名が証言した。
「白神さんらしい人が乗っていました」「黒いコートで、窓際に立っていたと思います」「雨でよく見えなかったけど、顔は見ました」
メディアは騒いだ。
時刻表連続殺人 天才実業家に完璧アリバイ 警察を嘲笑う“IQ MAX”
その夜、清水署にメールが届いた。
件名は、乗車案内。
本文は短かった。
刑事さん、あなたはまだホームにいる。私はもう次の駅だ。
朝比奈はパソコンの画面を叩き割りそうな顔をした。
「ふざけやがって」
由梨が缶コーヒーを差し出す。
「机を壊すと始末書です」
「始末書よりこいつを捕まえる」
「両方やる羽目になりますよ」
朝比奈は缶コーヒーを受け取り、黙って飲んだ。
熱い。 苦い。 少しだけ、落ち着いた。
「由梨」
「はい」
「お前、白神をどう見る」
「頭がいいです。自信過剰です。でも……楽しんでいるように見えます」
「ああ」
朝比奈は唇を噛んだ。
「恨みで殺す奴の目じゃねえ。ゲームだ。自分の作ったルールで、人が死ぬのを見てる」
「でも被害者には共通点があります。十七年前の柚木駅前再開発。桐島は事務、松浦は広告、そして次に狙われるかもしれない人物がいます」
「長尾辰夫」
由梨が頷く。
長尾辰夫。元市議。柚木駅周辺の再開発に関わった男。 十七年前、その事業のさなかに、一人の少女が行方不明になっていた。
白神ひかり。九歳。
白神零士の妹。
朝比奈は古い捜査資料の写真を見た。 ランドセルを背負った少女が、駅前の桜の下で笑っている。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
「十七年前、俺は交番勤務だった」
由梨が顔を上げた。
「え?」
「柚木の近くに応援で出た。行方不明の第一報も聞いた。だが、別の交通事故の処理で手一杯だった。あの子を探すのは、あと回しになった」
「朝比奈さんのせいじゃありません」
「そういう慰めはいらねえ」
朝比奈は資料を閉じた。
「ただ、白神が俺を選んだ理由は分かった」
*
三人目の予告は、朝比奈の携帯に直接届いた。
長尾辰夫。午前六時三十一分。柚木発。 刑事さん、朝日を見たいなら急げ。
夜明け前、朝比奈と由梨は柚木駅へ向かった。
空はまだ群青色だった。 ホームには冷たい風が流れていた。 遠くで列車の接近音が鳴る。
長尾辰夫は、自宅から姿を消していた。 白神零士の姿はない。
「朝比奈さん」
由梨がホームの端を指した。
そこに、小さな男の子がいた。 ランドセルを背負い、傘を持って、時刻表の前に立っている。
「こんな時間に子どもが……?」
朝比奈は近づいた。
「おい、坊主。どうした」
男の子は振り向いた。顔は青ざめている。
「おじさん、刑事さん?」
「そうだ」
「これ、渡せって」
男の子は封筒を差し出した。
中には写真が一枚。 長尾辰夫が縛られたまま、どこかの暗い部屋に座らされている写真だった。
裏にはこう書かれていた。
六時三十一分。列車が来たら、彼は死ぬ。
朝比奈は男の子の肩を掴んだ。
「誰に渡された」
「黒いコートの人。でも……変だった」
「何が」
「顔が、動かなかった」
由梨が眉をひそめる。
「動かなかった?」
「窓の中にいた人も、駅にいた人も、同じ顔だった。でも、窓の中の人は、まばたきしなかった」
その瞬間、朝比奈の中で何かが噛み合った。
まばたきしない顔。 列車の窓越しに映る白神零士。 IQ MAXの広告ラッピング。 車体に大きく描かれた、白神自身の顔。
朝比奈はホームに入ってくる列車を見た。
雨上がりの薄明かりの中、車体側面に白神零士の巨大な顔が貼られている。 窓の位置と広告の顔が重なり、一瞬、まるで白神が車内からこちらを見ているように見えた。
朝比奈は叫んだ。
「由梨! 防犯カメラの映像、全部見直せ! 顔は車内じゃねえ、車体の外だ!」
「まさか……」
「白神は列車に乗ってねえ。乗ってたのは、白神の顔だけだ!」
列車が止まる。 ドアが開く。
朝比奈は車内へ飛び込んだ。 床に黒いバッグが置かれていた。
中には白神零士のスマートフォン、ICカード、黒いコート。 そして、録音機。
録音機から、白神の声が流れた。
「気づいたか、朝比奈刑事。すばらしい。凡人にしては、最高の途中駅だ」
朝比奈はバッグを蹴り飛ばした。
「長尾はどこだ!」
録音の声は笑った。
「時刻表を読め。発車時刻ではない。到着時刻でもない。君たちが見落とした、もう一つの時刻だ」
由梨が青ざめた顔でホームの時刻表を見た。
「六時三十一分……柚木発じゃない」
「何?」
「これは公式時刻表じゃありません。切り貼りされています。六時三十一分は、広告ラッピング車両が柚木駅のカメラ前を通過する運用時刻です」
朝比奈は目を見開いた。
時刻表ではない。 運用表だ。
犯人は列車の発着時刻を使っていたのではない。 自分の顔が駅のカメラに映る時刻を使っていた。
つまり、時刻表アリバイの正体は――
犯人本人の移動ではなく、犯人の顔の移動だった。
警察は、顔を見た。 位置情報を見た。 ICカードを見た。 時刻表を見た。
だが、人間を見ていなかった。
朝比奈は奥歯を噛みしめた。
「白神……!」
そのとき、由梨の携帯が鳴った。
非通知。 彼女が出る前に、スピーカーから白神の声が響いた。
「三枝由梨刑事。君は本当に何も覚えていないんだね」
由梨の顔から血の気が引いた。
「どういう意味」
「柚木駅。十七年前。雨。赤い傘。白いランドセル。君は、ホームの下で泣いていた」
朝比奈は由梨を見た。
「由梨?」
電話の向こうで、白神が囁いた。
「迎えに来たよ、ひかり」
*
由梨は膝をつきそうになった。
頭の奥で、何かが割れた。
雨の匂い。 線路の音。 誰かが叫ぶ声。 小さな手を引く兄の手。 赤い傘。 暗い場所。 そして、自分の名前。
ひかり。
「違う……私は三枝由梨……」
朝比奈が肩を支えた。
「今はそれでいい。立てるか」
由梨は震えながら頷いた。
十七年前、白神ひかりは死んだとされた。 だが本当は、駅前再開発をめぐる大人たちの争いに巻き込まれ、事故で記憶を失い、別名で保護されていた。書類は混乱し、関係者は責任を恐れて沈黙した。
白神零士は、妹が死んだと信じた。 信じたまま、十七年を憎しみで生きた。 そして、その憎しみはいつしか、殺人を楽しむ怪物へ変わった。
由梨の携帯に、位置情報が送られてきた。
柚木駅近くの廃ビル。 かつて再開発事務所だった場所。
朝比奈は走った。 由梨も走った。
駅前の道は朝焼け前の薄い光に包まれていた。 自転車の高校生、犬を散歩させる老人、パン屋のシャッターを開ける女性。 日常が始まろうとしている。
その日常の裏で、人が殺されようとしている。
廃ビルの三階に長尾辰夫はいた。 椅子に縛られ、口を塞がれている。 その横に白神零士が立っていた。
黒いコート。 整った顔。 冷たい目。
写真や広告で何度も見た顔だった。 だが本物は、車体に貼られた顔よりもずっと空っぽだった。
「朝比奈刑事。ようやく到着か」
白神は腕時計を見た。
「遅延だね」
朝比奈は拳を握った。
「長尾を離せ」
「命令する立場か? 君たちは十七年前、僕の妹を見捨てた。大人たちは隠した。警察は忘れた。時刻表だけが正確だった。あの日、ひかりが最後に見られたのは、柚木発十七時四十二分。その列車が出たあと、世界は妹を消した」
由梨が一歩前に出た。
「零士……さん」
白神の目が揺れた。
「その声で呼ぶな」
「私、本当に……?」
「そうだよ。君は白神ひかりだ。僕の妹だ」
由梨は胸を押さえた。
「じゃあ、あなたは私のために……」
「そうだ。君を殺した連中を、時刻表に乗せて処分した」
「私は生きてる」
白神の表情が、初めて歪んだ。
「黙れ」
「私は生きてる。だったら、あなたが殺した人たちは何のために死んだの」
「黙れ!」
白神は長尾の首元に刃物を当てた。
朝比奈が低く言った。
「白神。お前は妹のために殺したんじゃねえ」
白神が朝比奈を睨む。
「何?」
「お前は、妹の死を理由にしただけだ。時刻表を組み、警察を騙し、人が怯えるのを見て、楽しかったんだろ」
白神の口元が震えた。
そして、笑った。
「そうだよ」
その笑いは、人間のものではなかった。
「楽しかった。最高だった。警察が顔と数字に踊らされる。被害者が自分の死ぬ時刻を知って震える。列車が一分も遅れず僕のアリバイを運んでくる。こんな美しいゲームがあるか?」
由梨の目に涙が浮かんだ。
「お兄ちゃん……」
白神は一瞬、凍りついた。
その隙に、朝比奈は床を蹴った。
白神が反応する。 長尾を突き飛ばし、窓際へ逃げる。 朝比奈が追う。 白神は廃ビルの非常階段へ飛び出した。
朝の風が吹き込む。 階段の鉄板が鳴る。 下には線路。柚木駅のホーム。 ちょうど列車が近づいてくる音がした。
白神は笑いながら階段を駆け下りた。
「朝比奈刑事! 最後の問題だ!」
彼は駅へ向かって走る。 朝比奈も追う。
ホームにはまだ人が少ない。 接近メロディが流れる。 列車の前照灯が近づく。
白神はホーム端の柵を越えようとした。
「捕まえられるか? 時刻表は待ってくれないぞ!」
「時刻表はな」
朝比奈は全身で飛びかかった。
「人間は待たせるんだよ!」
二人はホームに転がった。 白神の肘が朝比奈の頬を打つ。 朝比奈の拳が白神の腹に入る。 白神は細い体に似合わぬ力で暴れ、朝比奈の胸ぐらを掴んだ。
「君みたいな熱血馬鹿に、僕の計算が崩せるわけがない!」
「崩れてんだろうが!」
朝比奈は白神を床に押さえつけた。
「お前の妹は生きてた! お前のアリバイは広告だった! お前の時刻表は、人の涙ひとつ読めなかった!」
白神の顔が真っ赤に染まった。
その瞬間、由梨が駆けつけ、手錠を取り出した。
白神は彼女を見た。
「ひかり……僕を捕まえるのか」
由梨は泣いていた。
「私は三枝由梨。刑事です」
手錠が白神の手首にかかった。
カチリ、という音が、朝のホームに響いた。
「あなたを、殺人容疑で逮捕します」
白神はしばらく黙っていた。 やがて、低く笑った。
「陽はまた昇る、か」
彼はホームの向こう、白み始めた空を見た。
「嫌な世界だ。僕がどれだけ完璧な夜を作っても、朝が来る」
*
事件後、柚木駅の時刻表は新しく貼り替えられた。
IQ MAXのラッピング車両は運用を外され、白神零士の顔は車体から剥がされた。 剥がした跡には、しばらく薄い影が残った。
桐島恵子も、松浦啓介も、長尾辰夫も、完全な善人ではなかった。 十七年前の事件で、彼らは沈黙し、責任から逃げた。
だが、殺されていい人間ではなかった。
白神ひかり――三枝由梨は、正式な戸籍調査と記憶の治療を受けることになった。 彼女は清水署の机に、自分の名前を書いた紙を二枚置いた。
一枚には、三枝由梨。 もう一枚には、白神ひかり。
「どっちが本当なんでしょうね」
由梨が言った。
朝比奈は弁当の蓋を開けながら答えた。
「どっちも本当でいいんじゃねえか」
「雑ですね」
「人間は時刻表じゃねえ。一本の線で決まらねえんだよ」
由梨は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、朝比奈は胸の奥が静かに痛むのを感じた。
救えなかった人間がいる。 止められなかった死がある。 正義が勝ったなどと、簡単には言えない。
白神零士は取調室で、最後まで笑っていたという。 自分の敗北すら、どこか楽しんでいるように。
怪物は捕まった。 だが、怪物を生んだ沈黙は、まだ街のどこかに残っている。
数日後の朝、朝比奈は柚木駅のホームに立った。
始発後の空は澄んでいた。 線路の向こうから、柔らかい陽が差し込んでくる。
駅員が時刻表を拭いていた。 小学生が眠そうにあくびをしていた。 パン屋の袋を抱えた老人が、ベンチで列車を待っていた。
何もなかったように、街は動き出す。
それが残酷だと思った。 それでも、ありがたいとも思った。
由梨が隣に立った。
「朝比奈さん」
「ん?」
「次の列車、乗りますか」
朝比奈は時刻表を見た。
新清水行き。 六時五十七分。
「乗るさ」
列車が近づいてくる。
もう、白神の顔はそこにない。 窓にはただ、朝日に照らされた街が映っていた。
むなしさも、絶望も、消えるわけではない。 死者は戻らない。 壊れたものは、元通りにはならない。
それでも列車は来る。 人は乗る。 朝は来る。
柚木駅のホームに、陽が昇った。





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