桜に積もる雪
- 山崎行政書士事務所
- 2025年4月3日
- 読了時間: 33分

第一章 花冷えの朝に
幹夫が目を覚ましたのは、いつもより少しだけ早い春の夜明けだった。まだ薄暗い部屋の天井を見つめながら、彼は肌寒さに身を丸める。窓の外から鳥たちの囀(さえず)りが微かに聞こえてくるが、どこかいつもと違う静けさが村全体を包んでいるように感じられた。布団の中から顔だけを出し、彼はふと窓越しに外を窺う。早春とはいえ、今朝の冷え込みは格別で、まるで冬が名残を惜しんで舞い戻ってきたかのようだった。
「春は名のみの風の寒さや」という古い歌の一節が、幹夫の頭をよぎった。花冷えとはよく言ったもので、春先に咲く花々もこの冷え込みには震えているに違いない。幹夫は布団から抜け出すと、押し入れから綿入れの半纏(はんてん)を引っ張り出して羽織った。袖を通すとひんやりした木綿の感触。しかし次第に自分の体温で温まっていくのが心地よい。家族が起き出す前の静かな時間は、幹夫のお気に入りのひとときだ。大勢の兄弟たちが目覚めれば、途端に家中がてんやわんやの大騒ぎになる。十三歳の彼は、騒がしい家族の中にあって時折自分だけ別の世界にいるような、不思議な距離感を覚えることがあった。だがそれは決して嫌いな感覚ではなく、むしろ賑やかな日常の裏にある静けさを愛おしく思っているからかもしれない。
幹夫は音を立てないよう注意しながら座敷を出て、土間へと下りていった。母屋の土間には昨夜、父が焚いた薪ストーブの灰がほのかに赤みを残している。彼は火かき棒で灰をそっとかき寄せ、残り火に薪を一つくべてみた。ぱちぱちと小さな火の粉が弾け、ほんのり橙色の光が蘇る。部屋にわずかな暖色が差し込み、幹夫の吐く息が白く霞んだ。外の空気がどれほど冷たいかを物語っている。その時、入口の戸の隙間からひやっとした風が吹き込んできて、幹夫の足首を撫でた。彼は思わず肩をすくめて半纏をもう一度しっかりと体に巻き付ける。
「こんなに冷えるなんて……」と、独り言のように呟きながら、幹夫は戸口に手をかけた。重たい木戸を引き開けると、朝の淡い光が土間に滑り込んでくる。その光は青みがかって冴え冴えとしており、そして視界に飛び込んできたのは一面の銀世界だった。
庭先の畑や農具小屋の屋根、遠くの茶畑まで、うっすらと白く染まっている。夜のうちに雪が降ったのだ。春先の雪とは思えぬほどしっかりと積もっており、畦道(あぜみち)も屋根瓦も水墨画のような趣を帯びている。幹夫は思わず裸足のまま外に一歩踏み出した。ひやりとした土の感触に驚きつつも、頬に当たる冷気が心地よい。吐く息が白く立ちのぼり、朝日に照らされてキラキラと光る。
「雪だ……」幹夫は声にならない声でつぶやいた。3月も終わりに近いこの時期に、静岡で雪が積もるなど誰が想像しただろう。春に舞い戻った雪の精が、最後の贈り物として地上を白く彩ったかのようだ。茶畑の向こう、低い山並みも白く煙っている。東の空が次第に明るみを帯び、雲の切れ間から淡い朝焼けが顔を出した。薄紅色の空と、白い大地。その対比がなんとも言えず幻想的で、幹夫の胸は高鳴る。まるで自分がまだ夢の中にいるのではないか、と錯覚するほどの美しい夜明けだった。
ガラガラ、と背後で戸が開く音がした。振り返ると、母が顔を出し「あんた、寒かろうに何してるだ?」と心配そうに声をかけてきた。幹夫は我に返り、「うん、ちょっと外を見てただけ」と笑って答える。そして足元を見ると、裸足に土と雪がついて真っ赤になっているのに気づいた。慌てて土間に上がり、「冷たっ!」と小さく叫びながら足を拭う。母は呆れたように首を振りつつ、「風邪ひかんようにしなよ」と言ってまた奥へ引っ込んでいった。どうやら台所で朝食の支度を始めるらしい。トントンとまな板の音が聞こえ始め、家の朝が動き出した気配がした。
幹夫は半纏を脱いで掛け直すと、自分も身支度を整えることにした。今日は新学期が始まってまだ数日、彼にとって中学校に上がってから初めての春だ。いつまでも雪景色に見とれて遅刻するわけにはいかない。大勢の兄弟がひしめく部屋に戻ると、下の弟妹たちが布団の中でまだ夢の中。隣で寝ている小学三年の弟が小さく寝言を言ったのを聞き、幹夫はくすっと笑う。自分もついこの間まで小学生だったのに、急に自分だけ大人びてしまったような不思議な気持ちになる。
着替えを済ませ、学生服の詰め襟に手を通すと、幹夫は少しだけ背筋を伸ばして鏡を覗いた。鏡に映る自分の顔は、幼さが残るもののどことなく引き締まって見える。中学生になった誇らしさと、それでも心の奥底にぽつんと灯る不安。大人と子どもの境界に立つ自分が、霧の中にいるようにぼんやりとしている。新しい学校、新しい友だち、これから始まる勉強や将来のこと……。考え始めればきりがないが、今朝見たあの雪景色が、そんな幹夫の心のざわめきを不思議と落ち着かせてくれるようだった。「まぁなるようになるさ」と小さく呟いてみる。口に出してみると、その言葉は白い息とともに消えていき、代わりに静かな決意のようなものが胸に残った。
第二章 登校路の不思議な光景
家族と簡単な朝食をとり、慌ただしく支度を済ませた幹夫は、ランドセルを背負って家を出た。普段なら弟や妹たちと連れ立って登校するところだが、今日は幹夫が新一年生として通う中学校、弟妹は小学校と道が別れる。いつも一緒だった弟の健太郎は少し寂しそうに「行ってらっしゃい」と手を振り、幹夫も「うん、行ってきます」と笑顔で応えた。妹のさゆりは幼稚園だが今日は風邪気味で休むらしく、縁側から「お兄ちゃん、雪合戦してきたの?」と無邪気に声をかけてきて、幹夫は苦笑する。「違うよ、学校行くんだよ」と返事をして、振り返らずに歩き出した。
昨夜の雪は太陽が昇るにつれ、早くも路肩から溶け始めていた。空はすっかり明るくなり、清々しい青空が広がっている。白と青のコントラストが眩しく、幹夫は手をかざして空を見上げた。空気は冷たいが澄み切っており、吸い込むと肺の奥まで染み渡る気がする。背後の遠くには、雄大な富士山が姿を現していた。真っ白な雪化粧の富士山が朝日に輝き、青空にくっきりと浮かび上がっている。幹夫は立ち止まってしばし富士の山容を眺めた。「きれいだな……」。小さい頃から何度も見ているはずの富士山だが、今日は特別に美しく思えた。空気が冴えているせいか、あるいは自分の心持ちがいつもと違うせいか――。
足元の道にはまだ薄く雪が残っている。ぬかるんだ土を踏みしめながら、田んぼ脇の通学路を歩いていくと、ふと前方に人影が見えた。クラスメートの秋山が制服姿で先を歩いているのだ。秋山は同じ集落に住む幼なじみで、幹夫より体が大きく活発な少年だった。彼もこちらに気づいたのか、振り返って手をあげる。「おーい、幹夫!」と大きな声が雪の残る道に響いた。幹夫は「おはよう!」と声を返し、小走りで駆け寄る。二人は並んで歩き始めた。
「すごい雪だったなぁ。びっくりしたよ」と秋山が興奮気味に話す。「本当だよね。静岡でこんな雪、何年ぶりだろ」と幹夫も頷く。秋山は持っていた通学カバンをぽんぽんと叩きながら、「ちょっと嬉しくなってさ、朝からうちの畑で雪だるま作っちゃったよ。親父にも呆れられたけど」と笑った。その笑顔に釣られて、幹夫も声を立てて笑う。「雪だるまかあ。そりゃ冷たかったろ」と言うと、「平気平気! もう溶けちゃったかな、帰ったら見るんだ」と秋山は屈託なく答えた。秋山の屈託のなさに比べ、自分は朝から哲学じみたことを考えていたなと幹夫は内心おかしくなる。けれど、それぞれの雪の楽しみ方があるのだろう。雪という非日常の贈り物は、少年たちに様々な表情を見せている。
二人が歩いていく途中、小さな橋で用水路を渡る。その用水路に沿って何本かの桜の木が植わっていた。普段は学校帰りにその桜並木で遊んだり花びらを集めたりするのだが、今年はまだつぼみの固い時期だ。幹夫は何気なく川沿いの桜に目を向け、そして思わず足を止めた。
幹夫の目に飛び込んできたのは、桜の枝々に白い雪が薄く積もった、信じられないような光景だった。淡い緑色の桜のつぼみが顔を覗かせ始めた枝先に、白い綿帽子のような雪が載っている。幹夫は息を呑んだ。朝日に照らされた雪はキラキラと輝き、まるで桜の蕾一つひとつが小さな雪の宝石を戴いているようだ。青い空を背景に、白と薄桃色が織りなす景色は、この世のものとも思えない静謐さでそこに佇んでいる。水路には解けた雪が流れ込み、細い流れとなって音を立てていたが、その音さえも遠く感じられるほど、幹夫は目の前の情景に心を奪われた。
「おい、どうしたんだよ?」少し先を歩いていた秋山が不思議そうに振り返る。幹夫はハッとして、「見てよ、これ…桜に雪が積もってる」と木を指さした。秋山も「おお、本当だ!」と目を丸くする。「なんだか変な感じだなぁ。桜と雪って、季節がごっちゃになったみたいじゃないか?」秋山は首をかしげている。彼にとってその光景は珍しくはあっても、深い意味を感じるものではないのかもしれない。だが幹夫には、その季節はずれの取り合わせが不思議な縁(えにし)で結ばれているように思えてならなかった。
「行かないと遅れるぜ」と秋山が先を急かす。しかし幹夫はもう一瞬だけ、と雪を抱いた桜に近づいた。手を伸ばしてそっと一枝を掴み、小さな蕾と雪の粒を間近に見る。白い雪の冷たさと、蕾の薄紅色が、幹夫の心に静かに染み込んできた。彼はその冷たさを掌で感じながら、なぜだかとても懐かしい気持ちになった。遠い昔、幼い頃に見た夢の光景のような――そんな錯覚を覚える。
「幹夫!」秋山の呼ぶ声に我に返り、「今行く!」と返事をして枝を離した。そっと離した枝がふるりと揺れ、載っていた雪がはらはらと川面へ落ちる。朝の光に舞うその雪片を、幹夫は最後まで見届けてから、駆け足で秋山に追いついた。
「そんなに珍しかったか?」と秋山が笑う。「うん…」と幹夫は言葉を探しながら答える。「なんていうか、絵みたいだった。冬と春が一緒になったみたいな」。そう言いながらも、自分の語彙では到底あの美しさを表現しきれないもどかしさを感じた。秋山は「ふーん、よく分かんないけど幹夫らしいな」と肩をすくめて笑う。幹夫は少し恥ずかしくなり、「早く行こう、遅刻する」と話を切り上げた。
二人は再び歩き出したが、幹夫の心は先ほどの光景にまだ強く囚われていた。胸の奥が妙にざわめき、鼓動が早鐘のように響いている。あの桜につもった雪は、いったい自分に何を訴えかけていたのだろう? 幹夫は歩きながらそっと振り返った。川沿いの桜並木はもう遠く、小さな点々にしか見えない。その中の一本だけが静かに輝いて手を振っているような気がして、彼は小さく息を吐いた。
第三章 教室に差し込む光
中学校に着くと、校門の前で雪かきをする教師たちの姿が見えた。さすがに校庭や校舎の前では危ないからと、朝早くから雪を脇に寄せているようだ。幹夫と秋山は元気よく「おはようございます!」と頭を下げて校門をくぐる。教師の一人が「いやあ、参ったな。春の雪とはね」と笑って応えた。
校舎の玄関で下駄箱から上履きに履き替え、幹夫は自分の教室へ向かった。新一年生の教室は木造校舎の二階にある。廊下には窓がずらりと並び、外の眩しい光が差し込んできていた。廊下を歩く生徒たちも皆どこか浮き立っている。雪のせいで少し非日常な朝となったからか、あちこちで「雪合戦した」「写真を撮った」などと話に花が咲いている。幹夫も友人たちに呼び止められ、「お前の家の方も積もった?」「ああ、畑まっしろ」「すげえな!」としばし雪談義に加わった。けれども話しながらも、心のどこかで先ほど見た雪桜の情景がちらついている。
教室に入ると、新しい木の机と椅子の匂いが鼻をくすぐった。まだ入学したてでピカピカの教室だ。幹夫は自分の席に鞄を置き、窓際の席だったので外を眺める。すると、校庭の片隅にも桜の木があり、その枝にもやはり雪が残っているのが見えた。幹夫の胸はまたドキリとした。まるで、先ほど出会った桜の木がここにも自分を追って来たかのような錯覚にとらわれる。
始業のチャイムが鳴り、担任の藤田先生が入ってきた。藤田先生は四十代半ばくらいの国語教師で、温和な笑みをたたえた男性だ。入学式の日に朗らかな歓迎の言葉を述べてくれたのを、幹夫は思い出す。「皆さん、おはようございます」と藤田先生が黒板の前に立つ。生徒たちも「おはようございます!」と元気よく応え、朝の会が始まった。
連絡事項がいくつか伝えられ、そして一時間目の国語の授業へと移っていく。藤田先生は出席をとったあと、「今日は国語の授業ですが、少しだけ予定を変えましょう」と微笑んだ。生徒たちが「え?」とざわつく中、先生は続ける。「皆さんも驚いたでしょう。春なのに雪が降りました。せっかくですから、この春の雪のことを題材に感じたことを書いてみませんか」。思わぬ提案に、教室が途端にざわめいた。「作文ってこと?」「やったー、おれ雪だるまのこと書こう!」と口々に声が上がる。幹夫の心も大きく揺れた。春の雪について感じたこと――まさに今、自分の胸を占めて離れないあの光景を書けと言われているようだった。
藤田先生はチョークを手に黒板にさらさらと文字を書いた。「題:花雪(はなゆき)」と大きく書かれたその板書を見て、幹夫の心臓はさらに高鳴った。花雪…桜に降る雪のことを先生はそう表現したのだろうか。まさに自分が今朝見た情景そのものではないか。藤田先生は続けて言った。「季節外れの雪と春の花について、自由に思ったことを書いてみてください。長さは原稿用紙二枚程度で構いません」。そして生徒たちに用紙を配り始めた。
幹夫は配られた原稿用紙を前に、胸の中に渦巻く思いをどう綴ればよいのか考え始めた。他の生徒たちは楽しげに筆を走らせ始めている。秋山などは「よーし、雪だるま大作戦だ!」などと言いながらさっそく書き始めていた。幹夫は窓の外の桜にもう一度目をやった。枝に積もった雪は少しずつ陽に溶け、しずくとなって滴り落ちている。その雫が光にきらめき、まるで桜の涙のようにも見えた。
彼は深呼吸をひとつすると、ペンを手に取った。白い原稿用紙に向かい合うと、頭の中にあの川辺の雪桜がありありと蘇る。目を閉じれば、冷たい空気の中に立ち尽くした自分と、静かに語りかけてきた桜の姿が浮かんでくるようだった。幹夫はその心象風景を、ゆっくりと言葉に紡ぎ始めた。
「今朝、桜の蕾に雪が降り積もっているのを見た――」
一文字一文字書き出すごとに、不思議と言葉が湧いてくる。あの時感じた胸の高鳴り、静寂の中で聞こえた雪解け水の音、蕾の色と雪の色。幹夫はまるで夢中で絵を描く画家のように、感覚のまま筆を走らせた。時折、桜の木が自分に語りかけてきたような幻想も交えながら、心に浮かぶまま書き綴る。彼にとってそれは作文というより、内なる声を映しとる作業のようだった。
気がつけば、教室はしんとしていた。他の生徒たちはとっくに書き終わって暇を持て余している者もいるのだろう。だが幹夫は止まらないペンに自分でも驚きつつ、原稿用紙の最後の行まで書ききった。「…雪はすぐに溶けてしまったけれど、その一瞬の美しさは僕の心に春の永遠を灯しました。」そう書いて、ペンを置いた。原稿用紙二枚の指定だったが、幹夫の作文は三枚目の半ばまで達していた。
藤田先生が「はい、そこまで。書き終わっていない人は提出は昼休みにしてもらいます」と声をかける。幹夫はハッとして顔を上げた。見るとクラスメートの何人かがこちらを見てひそひそと笑っていた。どうやら自分だけがまだ書いていたことに今さら気づき、幹夫は赤面した。慌てて原稿用紙を揃え、名前を書いて提出の準備をする。秋山が隣の席から小声で「幹夫、何書いたんだよ?ずいぶんいっぱい書いてたな」と訊いてきた。幹夫は「うーん…ちょっと恥ずかしいけど、見せられるようなもんじゃないよ」と照れ笑いした。秋山は「なんだよ、気になるなぁ」と笑ったが、先生が近づいてきたので口をつぐんだ。
藤田先生は各自の作文を集めながら、「みなさん、書いてみてどうでしたか?」と尋ねた。「雪のこと書くの面白かった!」「絵日記みたいでした」といった素朴な感想が飛ぶ中、先生は幹夫の机の前で立ち止まり、原稿用紙の枚数を見て少し驚いたように目を丸くした。しかし何も言わず微笑んで集めていく。その微笑みはどこか意味ありげで、幹夫はますます恥ずかしくなり顔を伏せた。
第四章 春の幻影
午前の授業が終わり、昼休みになると、幹夫は弁当箱を持って校庭に出た。今日は天気も良く空気は冷たいが陽射しは暖かい。せっかくの青空だから外で食べようというクラスメートの誘いもあり、何人かで校庭の隅にある桜の木の下へ陣取った。雪は日当たりの良い場所ではすでにほとんど融けており、校庭の土はところどころ黒く顔を出している。桜の根元にも雪解け水が染み込み、土がぬかるんでいたが、下敷きを敷いて腰かければ問題なかった。
秋山や他の男子たちと賑やかに弁当を広げながらも、幹夫の視線は桜の枝に注がれる。蕾を抱いた枝先にはまだ少しだけ雪が残っており、雫が滴っている。友人の一人が「変な天気だよなあ、もうすぐ春休み終わるってのに。まあ休み中じゃなくてよかったけど」と言って頬張ったおにぎりを飲み込んだ。秋山が「おまえ休みだったら朝から晩まで雪合戦してただろ」と茶化すと、一同は笑った。幹夫も笑みを浮かべつつ、「…ほんと、変な天気だよね」と呟いた。その声は小さく、笑い声にかき消された。
食べ終わると、男子たちは雪の残った日陰の隅で雪玉を作って遊び始めた。「冷てぇ!」とか「待てー!」などと騒ぎながら追いかけっこをする。幹夫も誘われたが、「ちょっと手を洗ってくるよ」と言って水道に向かった。実際には手はそれほど汚れていなかったが、一人になって少し静かに考えたかった。
水道の蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく出てきた。幹夫は手を差し出し、冷水に当てる。氷のように冷たいが、その冷たさがかえって心地よい。朝、桜の枝に触れたときの感触を思い出していた。雪を載せたあの枝を握ったとき、確かに何かが心に語りかけてきた。それは言葉にはならないものの、自分に何かを教えようとしているようだった。あれは一体なんだったのだろう?
手を洗い終えて顔を上げると、水道脇の植え込みに小さな花が咲いているのが目に留まった。白い**二輪草(二りんそう)**だ。こんな寒さの中でも春を忘れずに咲いている花がある。幹夫はしゃがみこんでその可憐な花を眺めた。二輪草は二つの花が寄り添うように咲く。まるで姉妹のように、雪解けの土からひょっこり顔を出している姿に幹夫は微笑んだ。「寒くなかったかい?」と花に問いかけてみる。もちろん返事はない。ただ風が吹き、花びらが小さく揺れた。
「おーい、幹夫!」遠くから秋山たちが手を振っている。「そろそろ次の授業だぞー!」どうやら昼休みが終わるらしい。幹夫は「今行く!」と声を上げて立ち上がった。そしてもう一度二輪草に目をやり、「またね」と心の中で別れを告げて駆け出した。
午後の授業は淡々と過ぎていった。数学の授業では黒板いっぱいの方程式を解き、生物の授業では春に見られる昆虫の話を聞いた。だが幹夫の心はどこか上の空で、先程までの出来事が夢の中のように感じられていた。ノートに筆記しながらも、脳裏には雪をいただいた桜の枝や、教室で書いた作文のことが浮かぶ。自分は一体あの作文に何を書いたのだろう? 書いているときは半ば無我夢中だったので、細部をよく覚えていない。ただ、自分の心の奥底をさらけ出してしまったようで少し恥ずかしかった。
放課後になり、生徒たちはぞろぞろと教室を出ていく。幹夫も帰り支度を始めた。ふと見ると、藤田先生が職員室から出てきて廊下で待っているのが見えた。何人か名前を呼ばれた生徒が立ち止まって先生と話している。その中に、自分の名前「佐々木幹夫」が呼ばれるのを聞いてどきりとした。幹夫はランドセルを背負い直し、藤田先生のもとへ駆け寄った。
「佐々木君、今朝書いてもらった作文だけど…」と先生は柔らかく切り出した。幹夫の心臓は高鳴る。「君の書いた『花雪』、とても良かったよ。皆にも紹介したいくらいだった」と微笑む。幹夫は途端に顔が熱くなるのを感じ、「い、いえ、そんな…」と言葉を詰まらせた。先生は「本当にね、桜に雪が積もった情景が目に浮かぶようだった。君は感受性が豊かなんだね」と褒めてくれた。幹夫はもじもじと足元を見る。褒められた嬉しさと、照れくささと、色々な感情が渦巻いて何も言えない。
「ところで…」と先生は少し声のトーンを変えた。「作文の中で、桜の精が君に話しかけてくるくだりがあったね。あれは君の想像かい?」幹夫ははっとして顔を上げた。自分は確かに作文の中で、桜の木の声を聞いたと書いたのだ。朝、枝を掴んだとき胸に湧いた感覚を、桜の精霊が語りかけてきたと表現したのだった。「…はい。想像です」と幹夫は小さな声で答えた。先生は目を細めて微笑んだ。「宮沢賢治の作品に『雪渡り』というお話があるのは知っているかな?雪の夜に動物たちの声を聞く兄弟の物語なんだけれど、君の作文を読んで少し思い出したんだよ」先生は楽しそうに語る。
宮沢賢治――幹夫も名前くらいは知っている。童話や詩を書く人だと聞いたことがあった。だが作品はまだ読んだことがない。幹夫が首を横に振ると、先生は「機会があれば読んでごらん。君はきっと気に入ると思うな」と優しく肩に手を置いた。そして「作文、ありがとう。これからもその感性を大事にしてね」と言い、他の生徒の方へ歩いていった。
幹夫はしばらくその場に立ち尽くしていた。自分の書いたものが先生の心に何かを呼び起こした――そんな経験は初めてだった。作文という形ではあるけれど、自分が感じたことを誰かに伝え、それが相手の心を動かすというのは不思議な喜びだ。幹夫の胸にぽっと灯がともったように温かくなった。
下校時刻になり、幹夫は昇降口を出て校門へ向かった。朝とは打って変わって暖かな日差しが降り注ぎ、雪はほとんど姿を消している。空は一面の薄水色で、遠く西の方には淡い雲がたなびいていた。明日にはもう雪の欠片すら残っていないだろう。そう思うと、朝の出来事がなんだか遠い幻のように感じられる。
校門を出たところで、秋山が待っていてくれた。「おそいぞー、何話してたんだ?」と不思議そうに訊く。幹夫は「うん、ちょっと作文のことで先生に捕まってさ」と正直に答えた。秋山は「お前だけズルいなー。オレの雪だるま作戦も見せてやりたかったぜ」と冗談めかして笑った。幹夫は「先生、秋山のもちゃんと読んでくれたよ。きっと笑ってたんじゃないかな」と言って二人で笑い合った。
連れ立って家路につく。朝と同じ道、同じ川沿いの桜並木まで戻ってきた頃には、もう日がだいぶ西に傾いていた。桜の蕾にはもう雪はなく、濡れた枝が夕日に照らされて薄紅色に輝いている。朝見たあの白い雪の幻は、何処にもない。しかし、幹夫の心の中にははっきりと焼きついていた。
幹夫はその中の一本の桜の木の前で立ち止まった。秋山も一緒に止まり、「朝の桜か?」と声をかける。幹夫は頷き、「うん…朝はありがとうって言えなかったから」と言ってぺこりと木に向かってお辞儀をした。秋山はキョトンとして「桜にお礼?変なやつだなあ」と笑ったが、幹夫は気にしなかった。幹夫には聞こえていたのだ――木々がささやく声が。ありがとう、と返してくれる声が。
「行こう」と幹夫は言って歩き出した。秋山は首をひねりながらも「おう」とついてくる。振り返らずに歩き出した幹夫の背中を、夕方の柔らかな風が押した。どこからか、遠く鶯(うぐいす)の鳴く声が聞こえてくる。春は確かにここに来ている。そして冬の名残の雪は、その春をいっそう輝かせるために舞い降りたのだ――そんな風に幹夫は思った。
第五章 星空とともに
家に帰り着くと、雪の名残でぬかるんだ玄関先に母が出てきて「靴ドロドロじゃないの、ちゃんと洗いなさい」と声をかけられた。幹夫は「あ、わかった」と答え、井戸端で靴底についた泥を落とした。朝は真っ白だった庭も、夕方にはすっかり元の土の色を取り戻している。陽当たりの悪い隅にだけ、名残惜しそうに小さな雪の斑点が残っていた。
家の中では弟妹たちが騒いでいた。どうやら雪が降った興奮で、みんな家で雪遊びの真似事をしているらしい。幼い妹は新聞紙を細かく裂いて「雪だー!」と撒き散らし、母に叱られてしゅんとしていた。幹夫はそれを微笑ましく眺めつつ、散らばった新聞紙をいっしょに拾って集めてやった。妹は「ありがと、お兄ちゃん!」と笑顔を向け、幹夫は「外にはもう雪ないけど、明日の朝あったら一緒に遊ぼうな」と頭を撫でた。妹は嬉しそうに「うん!」と返事をした。
夕飯の時間、食卓では今日の雪の話でもちきりだった。父は畑の様子を心配していたが、「まあ一日で溶けちまったし大丈夫だろう」と豪快に笑った。母は「洗濯物が冷たくなって乾かなくて困っちゃうよ」と愚痴をこぼす。弟たちはそれぞれ自慢げに今日やった雪遊びについて語った。幹夫は笑ってそれを聞きながら、自分の一日を胸にそっとしまいこんでいた。自分だけの大切な経験を、何でもない顔をして抱えていることが、なぜか誇らしかった。
食事を終え、夜になった。空には星が瞬いている。雪雲はすっかり去ったのだろう、澄み切った漆黒のキャンバスに無数の星が散りばめられていた。幹夫は縁側に出て、ひとり夜空を仰いだ。吐く息が白く浮かび上がり、夜の冷気が肌を刺す。しかしその寒さも心地よい。昼間の賑やかさが嘘のように静まり返った庭先で、幹夫は上着をぎゅっと掻き合わせた。
見上げると、天の川が薄く帯のように見える。満天の星を眺めていると、自分が宇宙の中の小さな存在であることを感じる。しかし同時に、不思議な一体感も覚えた。自分という存在も、あの星たちや桜の木や雪の一片と同じように、広大な世界の一部なのだと。そう考えると、昼間感じていた孤独や不安がすっと消えていくようだった。
「おーい、幹夫。お前も風邪ひくぞ、早くお入り」と父の太い声が背後からした。幹夫は振り返り、「はーい、今行く」と返事をする。星空に別れを告げ、そっと襖(ふすま)を閉めた。
布団に入って目を閉じると、今日一日の情景がまぶたの裏に浮かんできた。朝日に輝く雪景色、川辺の雪桜、教室に差し込む光、夕暮れの桜並木、そして星降る夜空。すべてが美しく、すべてが儚い。あっという間に過ぎ去ってしまったけれど、確かに心に焼き付いた一日だった。
半分まどろみ始めた意識の中で、幹夫は今日先生が言っていた宮沢賢治のことを思い出していた。どんな物語を書く人なのだろう。雪の夜に動物の声を聞く話…自分の体験とどこか似ているだろうか。読んでみたいな、とぼんやり考える。そして、自分も将来あんな風に、自分の感じたことを物語に紡ぐことができるだろうか、と。
「将来…」幹夫はその言葉を頭の中で反芻した。将来への不安と希望――それは彼の中で漠然とした影のように存在している。農家の長男として家を継ぐのか、もっと違う世界を見に行くのか。中学生になったばかりとはいえ、時折そうした進路のことを考える瞬間がある。でも今はまだ答えは出ない。ただ、今日心に感じたこの感覚を、大事に持ち続けていけたら…そんな思いが浮かんでは消える。
遠くでフクロウがホーホーと鳴いた。夜の静寂に溶け込むようなその声を聞きながら、幹夫はゆっくりと眠りに落ちていった。
第六章 芽吹きの朝
次の日の朝、幹夫が目を覚ますと、襖の向こうから母と妹の話し声が聞こえてきた。「あんな雪もすぐ溶けて、今日はぽかぽか陽気だよ。変なお天気だったねぇ」「さくらさん(妹の名前)、熱はもう下がったかい?」――どうやら妹の風邪も良くなったらしい。幹夫は布団から這い出すと、障子越しに差し込む朝日が眩しかった。時計を見るといつも通りの時間。どうやらぐっすり眠ってしまったようだ。
座敷から出てみると、妹のさゆりが廊下を元気に走っていた。「お兄ちゃん、おはよう!」と笑顔で駆け寄ってくる。「おはよう、もう元気になったのか?」と幹夫が頭を撫でると、「うん! 今日は幼稚園行けるもん」と嬉しそうだ。母が台所から顔を出し、「まったく昨夜までぐったりしてたのに、雪遊びするって言ったら治っちゃったわ。この子は」と呆れ半分に笑った。幹夫も微笑んで「子どもは風の子ってね」と茶化した。
朝食を済ませ、今日は弟妹たちと家を出た。雪は影も形もなくなり、まるで嘘のように春の景色が戻っている。土手には昨日まで固く閉ざしていた土筆(つくし)がにょきにょきと顔を出し、野の草花も陽を受けて輝いていた。農家の人々は田んぼに肥料を撒く作業を始め、畦道にはトラクターの音が響いている。幹夫は弟妹と途中まで一緒に歩き、小学校への分かれ道で「じゃあな!」と手を振って別れた。健太郎が「雪もう降らないかなぁ」と残念そうに言うので、「さあ…でもまた降ったら今度こそ雪合戦しような」と約束すると、弟は笑顔で頷いた。
一人になって中学校への道を歩きながら、幹夫は川沿いの桜並木にまた目をやった。もう雪の白はどこにもなく、淡紅色の蕾がさらにふくらんでいるのが見て取れる。あの雪を戴いた神々しい姿は消えてしまったが、今度は確かな命の息吹がそこにあった。幹夫は足を止めず、立ち止まって眺める代わりにゆっくりと歩きながら桜たちに挨拶をする。「おはよう。また会えたね」と心の中で語りかけると、風が一筋吹いて枝が揺れた。おはよう、と返事をしてくれたように感じ、幹夫は思わず笑みを漏らした。
学校に着くと、教室では昨日提出した作文が貼り出されていた。藤田先生の計らいだろうか、「春の雪」と題してみんなの文章が廊下の掲示板に並んでいる。生徒たちが自分のや友人の作文を読んでは、笑ったり感心したりしていた。幹夫は恥ずかしさから自分のを探すのをためらったが、秋山が「お、幹夫のこれじゃないか?」と見つけてしまった。そこには**「桜に降る雪」佐々木幹夫**と題された幹夫の作文が掲載されていた。他の生徒のは一枚か一枚半なのに、幹夫のだけ二枚以上にわたっているので目立っている。
秋山が読み上げようとするのを「やめろって!」と止めつつ、幹夫もちらりと自分の文面を読み返した。「……桜の木は黙って雪を受け止め、やがて訪れる春をじっと待っているようでした。その姿はまるで、大人になる日を前にした僕たちのようで――」自分で書いたとは思えないほど気恥ずかしく、幹夫は耳まで赤くなった。しかし同時に、心のどこかで誇らしさも感じていた。これが自分の感じたこと、自分だけの物語。誰にどう思われようと、これが自分なのだと胸を張れる気がした。
藤田先生がニコニコしながら近づいてきて、「佐々木君、素敵な文章だったよ。皆にも読んでもらいたくてね」と声をかけた。幹夫は「ありがとうございます」と精一杯の声で答えた。友人たちも「すごいじゃん幹夫!」「詩人だなあ」などと冷やかす者もいたが、幹夫はもう恥ずかしがらずに「そうかな?」と笑って受け流すことができた。それもこれも、あの桜の雪のおかげだと思うと不思議だった。あの一瞬の出会いが、こんなにも自分に力を与えてくれるとは。
第七章 桜の宴
それから幾日かが過ぎ、四月も中旬を迎えた。静岡にも本格的な春が訪れ、桜の蕾は次々と花開いていった。雪の日の寒さが嘘のように暖かな陽気が続き、校庭の桜も川沿いの桜並木も、見事な花を咲かせている。学校では新入生歓迎の行事や部活動の勧誘などもあり、幹夫は少しずつ中学生としての生活に慣れていった。
春のある日曜日、村の鎮守の神社で春祭りが行われることになった。境内には立派な桜の古木が何本もあり、満開の花がひらひらと舞い散っている。幹夫は家族とともに祭りに出かけた。父と母は知り合いと世間話に興じ、弟妹たちは屋台で綿あめや焼きそばをねだって走り回っている。幹夫は一人、本殿の近くに立つ大きな桜の木の下に佇んでいた。
その桜は村でも有名な老木で、樹齢何百年とも言われている。太い幹には年月の刻んだ皺が走り、しかしそこから伸びる枝々は生命力に満ちている。空いっぱいに広げた枝に咲く花は、まさに見事としか言いようがない。幹夫はその木の根元に腰を下ろし、舞い降る花びらを眺めた。
桜の花びらは風に乗ってくるくると舞い、時に幹夫の頬や手に触れた。ひんやりとしたその感触に、彼はあの日の雪を思い出す。雪が桜に触れた朝、そして今、桜の花びらが自分に触れる午後。形は違えど、どちらも儚く美しいものだ。雪も花も、一瞬の輝きを見せては消えていく。しかしその一瞬だからこそ、人の心に永遠の印象を残すのかもしれない、と幹夫は思った。
ふと、誰かが隣に座る気配がした。見ると、藤田先生だった。先生も祭りに来ていたようで、私服姿でビールの入った紙コップを手にしている。「やあ」と先生は微笑んだ。「お祭り、楽しんでいますか?」幹夫は少し驚きつつも「先生も来てたんですか」と嬉しくなった。「ええ、毎年この桜を見に来るのが楽しみでね」と先生は桜を見上げた。「本当に見事ですね」と幹夫も空を見上げる。青空に薄紅の花びらが散る様は、なんとも言えない幸福な景色だ。
「佐々木君、桜を見ると例の雪の日を思い出すでしょう?」と先生が訊ねた。幹夫は「はい」と笑顔になった。「今日の桜も綺麗ですけど、あの日の桜は特別でした」。先生は頷き、「君の書いたものを読んでから、私も次の朝にあの川沿いの桜を見に行ったんですよ」と語った。「え、本当ですか?」幹夫は驚く。先生は「ええ。もう雪は残っていなかったけれど、蕾がたくさんついてね。蕾の中に雪が入り込んで、それが滋養になったのかな、なんて思ったりして」と笑った。「先生…」幹夫は言葉を失った。自分の感じたことに、こんな風に耳を傾けて共感してくれる大人がいることが、ただただ嬉しかった。
「ところで佐々木君」と先生は腰を下ろしたままポケットから一冊の文庫本を取り出した。「はい、これ。貸してあげる」と幹夫に手渡す。それは宮沢賢治の**『春と修羅』**という詩集だった。表紙には夜空と草原のような絵が描かれている。「宮沢賢治の作品は詩も童話も素晴らしいものばかりです。この詩集には春の情景を歌ったものが多い。きっと君の心に響くと思うよ」と先生は優しく言った。幹夫は「ありがとうございます」と本を受け取り、大切そうに両手で包んだ。
「いつか君も、自分の言葉で世界を描いてごらん」と先生は言葉を続けた。「君にはそれができる。そしてそれはとても素敵なことだ」。幹夫はその言葉を胸に刻み込むように頷いた。桜の花びらがはらりと二人の肩に落ちてきた。先生はそれを摘まんで手のひらに乗せ、「この美しさを、賢治さんならどう表現するかな」と呟いた。「幹夫君なら、どう書く?」と茶目っ気たっぷりに問いかけてくる。幹夫は「え…僕なら…」と言いかけ、言葉に詰まった。考えてみたこともない問いだった。
先生は笑って「今はまだ難しいかな。でも、感じたままを書けばいいんですよ」と言った。「賢治さんの作品にもね、こういう一節があるんだ。**『雨ニモマケズ』**っていう有名な詩だけど…」そう前置きして、先生は静かに暗唱し始めた。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ…」
静かな語り口で紡がれる詩に、幹夫は聞き入った。桜の花吹雪の中、先生の声が不思議によく通り、言葉一つひとつが胸に沁みた。幹夫も小さな声で後について復唱してみる。「…イツモシズカニワラッテイル」。そのフレーズが特に好きだと思った。いつも静かに笑っている――そんな大人になれたら、とぼんやり考える。
詩の朗読が終わると、先生と幹夫は顔を見合わせて笑った。「いい詩でしょう?」と先生が言う。「はい。なんだか勇気が湧いてきます」と幹夫は素直に答えた。先生は「賢治さんは農学校の先生もしていてね、君くらいの年頃の生徒たちにも詩や物語を教えていたんだよ」と教えてくれた。「そうなんですか」と幹夫は驚く。「ええ。だから君も彼の作品に親しみを感じるのかもしれないね」と先生は立ち上がった。「さて、私はそろそろ行きます。また学校で」と言って手を振る。幹夫も立ち上がり深く頭を下げた。「今日はありがとうございました!」先生はにっこり笑って、人混みの方へ去って行った。
幹夫は手に持った文庫本を見つめた。『春と修羅』――どんな詩が書かれているのだろう。桜の花の下で一頁めくってみると、少し難しそうな文語調の詩が目に入った。だが今の幹夫には不思議とその言葉の一節一節が映像となって想像できる気がした。春と修羅、春の中にある荒ぶるもの、そして静かな祈り…。ゆっくり読んでみよう、そう決心して本をそっと鞄にしまった。
祭りの喧騒に戻ると、弟妹たちが射的に夢中になっていた。幹夫は「お兄ちゃんもやる!」とせがまれて、一緒に的を狙った。命中はしなかったが、わいわい笑い合う時間は心から楽しかった。ふと、朝感じた家族との距離感などどこへやら、自分もその輪の中心で笑っている。自分にはこんなかけがえのない家族や友人がいるのだということが、改めて胸に染みた。
第八章 新たな季節へ
桜の季節が過ぎ、新緑まぶしい初夏が訪れようとしていた。あの春先の雪の日から、幹夫の心には一つの芯のようなものが生まれた気がする。それは、自分の感じたことを大切にしようという芯だった。周囲の喧騒に流されそうになるときも、自分だけの静かな世界に立ち返り、そこで得た気づきを言葉にしてみる。そんな小さな習慣が、幹夫の日々の中に芽生え始めていた。
学校では、藤田先生の国語の授業がいつも楽しみになった。文学作品を読み解く時間に、自分なりの感想をノートに書くことが面白くなった。先生はときどき幹夫の感想をクラスに紹介してくれることもあり、その度に幹夫は少し誇らしく、少し照れくさかった。秋山は「またお前かー!」と茶化したが、心なしか友人たちも幹夫の意見に耳を傾けてくれるようになった。
春から夏へと移ろう中で、幹夫の内面もまた少しずつ成長していくのが自分でも分かった。以前はただ漠然と不安だった「将来」についても、焦らず自分の道を探していこうと思えるようになった。それは桜の蕾がゆっくりと花開くように、自分もゆっくりと時間をかけていいのだということを知ったからだ。
家では、相変わらず賑やかな日常が繰り広げられていたが、幹夫はそんな家族の姿を以前にも増して愛おしく感じた。自分の居場所はちゃんとここにある。時折感じた孤独も、実は自分自身が作り出していただけかもしれない。皆と笑い合い、時に一人静かに考える。どちらも自分にとって大切な時間であり、その両方があるからこそ心は豊かになるのだと知った。
夏休みが近づく頃、学校の図書室から一冊の本を借りた。藤田先生に借りた詩集を読み終えた幹夫は、次に宮沢賢治の童話集を読んでみたいと思ったのだ。図書室の棚から『銀河鉄道の夜』という題名の本を見つけ、胸を躍らせながら借りた。夜、家族が寝静まった後にこっそり懐中電灯を片手に布団の中で読む物語の面白さに、幹夫はすっかり夢中になった。賢治の描く幻想的な世界は、幹夫の心に新たな扉を開いた。いつか自分もこんな物語を書いてみたい――小さな灯火の下で幹夫は何度もそう思った。
季節は巡り、あの雪桜の日から一年が経とうとしていた。二年生になった幹夫は、後輩たちに「桜に雪が降った年があったんだよ」と誇らしげに語ることがある。後輩たちは「えーっ!本当ですか?」と驚き、大げさに伝説のように面白がった。幹夫は微笑む。その光景はいまだに昨日のことのように思い出せるし、自分にとって何より大切な思い出だからだ。
春先に雪が降り、桜のつぼみに雪が積もる――そんな不思議な自然現象は滅多に起こるものではない。だが幹夫は知っている。その希有な出来事が、自分にとってどれほど大きな意味を持ったかを。あの日以来、彼は自然の語る声に耳を澄ませることを覚え、自分自身の内なる声にも正直でいようと心に決めた。それは思春期の揺れ動く心を支える確かな羅針盤のように感じられた。
昭和三十一年の春、静岡の地に降った一日限りの春雪は、幹夫という一人の少年の胸に、小さな灯火をともした。雪解けとともに芽吹いた桜のように、彼の心にも新たな芽吹きが生まれ、やがて大きな花を咲かせるだろう。それは未来の話であり、今はまだ蕾のままだけれど、確かな手応えとしてそこにある。
夕暮れ時、幹夫はふと川沿いのあの桜並木に立ち寄った。季節は巡り、桜の木々は再び蕾をつけ始めている。あの日と同じ場所に立ち、彼はそっと目を閉じた。微かな風の音、川のせせらぎ、遠くの子供たちの笑い声…。静寂の中に耳を澄ませると、あの日の桜のささやきが聞こえる気がした。
「ありがとう」幹夫は心の中でそう呟いた。何に対しての感謝なのか、自分でもはっきりとは分からない。ただ、胸の内側から溢れてくる温かな思いを、その一言に込めた。
そろそろ帰ろう、と幹夫は歩き出す。西の空には茜色の残照が広がり、東の空には一番星が瞬き始めていた。見上げれば、富士の稜線が夕闇に溶け込むように静かに佇んでいる。あの頂上には今も雪があるのだろうか、と彼は思った。しかしもう寒さに震える心配はない。季節は確実に次の扉を開き、少年は確かな一歩を踏み出していた。
幹夫はランドセルの中に大切にしまってあるノートを抱きしめるように背負い直した。そのノートには、彼が綴り始めた詩や物語の断片が記されている。誰に見せるでもなく、自分だけの宝物として書き留めた言葉たちだ。いつの日か、この言葉が誰かの心に灯をともすことがあるだろうか。そんなことを想像しながら、彼は家路を急いだ。
薄暮の静かな道、足早に帰る少年の背中には、新しい季節の風が優しく吹いていた。春の終わりと初夏の始まりを告げる風は、野の草花の香りを運び、どこか懐かしい匂いがした。それはきっと、昨年の春先に雪とともに運ばれてきた希望の香りなのだろう。
幹夫の唇に自然と微笑みが浮かぶ。心は充実し、明日への希望に満ちている。彼は小走りになりながら、遠く自宅の明かりを見据えた。そこには温かい家族の笑顔が待っている。そして頭上には、変わらぬ空とめぐる星。自分はなんて豊かな世界に生きているのだろう――胸いっぱいにそれを感じながら、幹夫は家へと駆けていった。
昭和三十一年の春、静岡の里に降った幻のような春の雪。その記憶は、やがて青年へと成長していく幹夫の心に、生涯消えることのない光を投げかけ続けることになるだろう。あの日桜につもった白い雪の輝きは、これからも彼の胸の内でひっそりと、しかし確かに、導きの灯火として燃え続けてゆくのだから。





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