梶原山の尾根扇

　朝の梶原山公園は、尾根の背にうすい風の糸を何本も張って、町の上にそっと垂らしていました。ベンチの板は夜の冷たさを指で一度だけ返し、草の露は駿河湾の青を小さな丸い鏡にして抱えています。八歳の幹夫は、見晴らし台の欄干のかげで、どんぐりを三つ拾って、小さな星座をこしらえていました。下のほうでは巴川（ともえがわ）がひとたび曲がり、静鉄の細い体が、銀の糸の上を一息だけすべっていきます。遠くには清水港のクレーンが、ねむい恐竜の首みたいに並んでいました。

　そのとき、笹むらの上をすべった風が、薄い草色の封書をひらりと幹夫の足もとへ置いていきました。紙は笹の葉の手ざわりで、極細の金いろの字が葉脈みたいに走っています。

　—　至急　見晴（みはらし）調律所　梶原山支局

　　昨夜の山颪（やまおろし）により、「尾根扇（おねおうぎ）」の骨ひと本脱落。

　　このままでは正午の風が折れ、

　　町の匂いと海の青が通り抜けられません。

　　正午までに新しい骨を撚（よ）り、見晴らし台の扇座（おうぎざ）へ装着のこと。

　　採取物：

　　　① 巴川の大きな曲がりで生まれる「水の輪（りん）」ひとつ

　　　② 送電線のあいだを渡る風の「鳴らない弦（げん）」ひとすじ

　　　③ ベンチの板が朝いちどだけ返す「座のぬくもり」ひとかけ

　　提出先：梶原山公園　見晴らし台・扇座

「読み書き、上手だね」

　欄干の上空で輪を描いていた鳶（とび）が、茶色の翼をすこしだけ折って降りてきました。目は琥珀（こはく）の粒、嘴（くちばし）は黒い針。胸には小さな布の名札が結ばれていて、「梶原山見張り係」と書いてあります。

「案内係のトビです。梶原の尾根はね、ほんとうは大きな扇（おうぎ）なんだ。骨が一本抜けると、風は折れて、見晴らしがたたまれてしまう。きみ、手伝ってくれる？」

　幹夫はうなずき、ポケットの白いハンカチと、ランドセルの余りひもを確かめました。

　　　＊

　まずは巴川へ。尾根道をすこし下ると、川は町の背中で大きく曲がり、曲がり角には薄い平らがうまれていました。水は青と金を小さじでまぜたみたいにきらめき、その真ん中で、見えない輪がいちどだけ固まります。幹夫は息をとめ、白いハンカチの角で、その輪をそっと受けとめました。布はひやりとして、糸目のあいだから水の輪がひとつ、居場所を見つけました。

「一本め、輪」

　トビは尾を上下に一度ふるわせ、山の肩のほうを顎でさしました。

「つぎは、送電線。あの二本のあいだには、風の楽器がある」

　鉄塔の間をぬけると、風は目に見えない弦になって、谷へ音のない橋をかけています。耳を澄ますと、鳴らないのに、確かに張りつめた筋が一本、空に立っていました。幹夫は余りひもで小さな輪を作り、その鳴らない弦をひとすじ、輪の中にやさしくすくい入れます。ひもはかるくふくらみ、指先に、まっすぐの確信が宿りました。

「二本め、弦」

　トビは見晴らし台のほうへ滑空して、ベンチの背で軽くとまりました。

「最後は、座のぬくもり。だれかが『おはよう』って腰かけたあと、板の中にひと匙だけ残る、やわらかなあたたかさだ」

　幹夫はベンチの影に手を当てました。板の木目は静かに息をしていて、朝の重みをひと度だけ覚えています。幹夫はハンカチの端で、そのぬくもりをひとかけすくい、水の輪と弦のそばにそっと重ねました。布は一瞬、日なたと木陰のちょうどまんなかの温度になりました。

　　　＊

　見晴らし台の中央には、小さな金の受け座——扇座（おうぎざ）があり、そこに骨を差し込む細い口が、一つだけ空（あ）いていました。空は澄み、港の白い点はめざめかけ、富士の裾（すそ）は遠くで薄く息をしています。

「撚（よ）ろう」

　トビが欄干の先で小さく拍（はく）をとりました。

　幹夫はひざにハンカチを広げ、水の輪、鳴らない弦、座のぬくもりを指先でゆっくり合わせました。最初はそれぞれが別々の場所へ帰りたがりましたが、撚るたびに、小さく「り」「ん」「り」と鳴って、やがて一本の細い骨になっていきます。よく見ると、骨の中を、水の円（えん）、風の筋、木の温度が、三つ綾（あや）になって流れていました。冷たすぎず、熱すぎず、折ろうとしてもやさしく跳（は）ね返す、そんな手ざわりの骨です。

「さ、装着。固すぎず、ゆるすぎず」

　幹夫は深呼吸をして、骨を扇座へそっと差し込みました。骨はひと呼吸して、短く「り」と鳴り、尾根と風と見晴らしにすっとなじみます。次の瞬間、梶原の尾根扇はひらき直し、風は折れずに町へ降りました。港の旗は同じ方角を思い出し、清水のクレーンは首を少しまっすぐにして、巴川の曲がりは自分の円を誇らしげに光らせます。静鉄の窓は、ほんの一秒だけこちらを丸く見あげ、屋根の上の影は、自分の背丈で静かに座りました。

　遠くの日本平（にほんだいら）はひたいの白を一枚増やし、三保の松原は緑の扇を半分だけひらきます。送電線は音をたてずに、しかし確かに風を渡し、ベンチの板は、次の「おはよう」を待つ姿勢に戻りました。

「できた」

　幹夫が息をはくと、トビは空で小さな円を描いて戻りました。

「ありがとう、幹夫くん。扇がひらけば、見晴らしは迷わない。お礼に、切手を一枚」

　トビが嘴（くちばし）で差し出した切手は、透明で、小さな扇の形をしていました。光にかざすと、扇の一本の骨に水の輪、一本に弦、要（かなめ）のところに座のぬくもりが、うすく描かれて見えます。

「『扇』の切手。きみの一日の風が折れたり、見晴らしがたたまれそうになったら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』が、ちゃんとひらいた風で出てくる」

　　　＊

　幹夫はベンチに腰をおろし、お弁当のしらすおにぎりをひとつ食べました。口の中で海が小さく笑い、舌の上でさっきの水の輪が、氷砂糖の角（かど）みたいにいちどだけきらりとしました。尾根の扇は見えないまま、短く「り」と鳴り、港の白い点は、昼に向かってやさしく身支度をはじめます。

　山を下り、家の門をくぐると、幹夫は声を丸くして言いました。

「ただいま」

　その「ただいま」は、いましがた尾根扇の骨をいちど通ってきたみたいに、風がちゃんとひらいていました。台所からの「おかえり」は今日の明るさで返ってきて、味噌汁の湯気は柱の木目をすなおにのぼります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない細い骨が、心の前でそっと立った気がしました。

　正午。梶原の風はしばらく座り、通りの影は自分の椅子を確かめました。洗濯ものは角を一つ丸め、犬はあくびを半分だけにしました。巴川の面（おもて）は薄い円をいくつも重ね、送電線は鳴らずに、しかし拍子だけを町へ配りました。

　夕方。尾根の草は昼の話をやわらかくたたみ、扇はそっと半分だけ閉じました。見晴らし台の扇座は、最後の風をやさしく受けて、短く「り」と鳴ります。港の白は夜の入口で小さく点（とも）り、富士の裾は茜（あかね）の下で、線を一本だけ残しました。

　夜。梶原山の空は、葉の影で星をとめ、遠い道のライトは、尾根の扇の骨のあいだから静かに行き来します。トビは送電線の隣で丸くなり、ベンチの板は、木の中でひとつ息をしました。幹夫が枕に頭をのせると、胸の扇が小さく呼吸し、夢の端で巴川の水の輪が、音もなくひとつ広がりました。

　—　川の輪

　　風の弦

　　座のぬくもり

　　それらを撚って一本の骨にすれば、

　　今日の見晴らしは、

　　ちゃんとひらいて君の胸を通る。

　朝。梶原山公園はまた、新しい風の糸を尾根に張りました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな尾根扇が、きょう最初の「ひらく風」を静かに指していました。