次の電車で、あなたの死亡時刻を訂正します
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 12分

――静岡鉄道音羽町駅・時刻表アリバイ殺人――
※本作はフィクションです。作中の時刻表・運行情報・駅設備・捜査手順は架空の設定です。
静岡鉄道、音羽町駅。
朝のホームは、まだ夜の湿り気を引きずっていた。無人に近い小さな駅の時刻表のガラス面に、赤い油性ペンで一行だけ、あり得ない文字が書き足されていた。
五時十三分発 遠野修 死亡
その下で、遠野修はベンチに座っていた。
背広の襟はきちんと整えられ、膝の上には古びた駅員帽が置かれている。目は閉じていた。眠っているように見えた。けれど、始発を待つ高校生が「おじさん」と肩に触れた瞬間、遠野の体は音もなく横へ崩れた。
そのとき、駅のスピーカーから女とも男ともつかない声が流れた。
「おはようございます。死は定刻通り到着しました」
乗客たちは凍りついた。
声は続けた。
「清水署の火村刑事へ。あなたの熱血で、時刻表を燃やせますか」
最後に、笑い声が聞こえた。
まるで、誰かが殺人を遊園地のアトラクションのように楽しんでいる笑いだった。
清水署強行犯係の火村慎吾は、現場に着くなり、時刻表の前で立ち止まった。
「ふざけやがって」
低い声だったが、隣にいた若い刑事・水瀬葵は、火村の拳が震えているのを見た。
「火村さん、犯人はあなたを指名しています」
「だから来た」
「県警本部は、挑発に乗るなと」
火村は振り返らなかった。
「人を殺して笑う奴に、こっちが冷静な顔して何になる」
遠野修、六十二歳。元・静鉄関係者。十五年前、音羽町駅で起きた少女転落事故の当直責任者だった。
十五年前。
火村の胸に、父の声がよみがえった。
――あの事故だけは、思い出したくない。
火村の父・誠もまた、当時その事故を担当した警察官だった。数年前に病で倒れ、いまは清水の病院で、ほとんど言葉を発しない。
音羽町駅。少女。事故。そして今、殺人。
点と点が、まだ線にならない。
だが火村は知っていた。犯人は必ず線を引いている。しかも、こちらに見せびらかすための線を。
第二の殺人は、その日の夕方に起きた。
十八時二十八分。
音羽町駅近くの駐輪場で、防犯カメラ業者だった坂巻廉が死体で発見された。第一発見者は、仕事帰りの会社員だった。坂巻の胸ポケットには、また紙片が入っていた。
十八時二十八分発 坂巻廉 死亡
火村は駅前の通りで黒いパーカーの男を見つけた。
「止まれ!」
男は振り向いた。フードの奥で、口だけが笑っていた。
次の瞬間、男は狭い路地へ走った。火村は追った。雨上がりのアスファルトを蹴り、商店街の軒先を抜け、自転車を倒しながら逃げる男の背に迫る。
男は踏切の手前で一瞬だけ立ち止まり、こちらを見た。
「遅いよ、清水署」
若い声だった。
火村は飛びかかった。だが、男は身を翻し、駅へ駆け込んだ。ホームに滑り込んできた電車のドアが開く。男は乗客の波に紛れた。
火村も乗り込もうとした。
そのとき、携帯が鳴った。
葵からだった。
「火村さん、待ってください! いま確認が取れました。最有力容疑者の黒瀬旭は、十八時二十八分、県警本部の会議室にいます」
「何だと?」
「監視カメラにも映っています。間違いありません」
ホームの向こうで、電車のドアが閉まった。
黒いパーカーの男は、窓越しに火村を見ていた。
そして、唇だけで言った。
――定刻通り。
電車は走り去った。
火村はホームに残された。拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。
黒瀬旭。
三十五歳。鉄道ダイヤ解析システムの開発者。大学時代に国際数理コンテストで優勝し、マスコミから「IQが測定不能の天才」と呼ばれた男。
本人はその呼び名を嫌っていなかった。
むしろ、名刺の裏にこう印刷していた。
MAX
火村が初めて黒瀬と対面したのは、県警本部の取調室だった。
黒瀬は細身の男だった。色の薄い目をしている。まるで、人間ではなく時計の針を見ているような目だった。
「火村慎吾さんですね。清水署の熱血刑事」
「お前がやったのか」
「その質問、刑事ドラマみたいでいいですね」
黒瀬は笑った。
「でも、残念。遠野さんが死んだ五時十三分、僕は新静岡方面の電車内にいました。坂巻さんが死んだ十八時二十八分、僕は県警本部にいました。証拠もある。映像もある。時刻表もある」
「時刻表?」
「時刻表は美しいんです。人間の願望が、分単位で整列している。誰がどこへ行き、誰がどこで待ち、誰がどこで間に合わないか。全部、書いてある」
火村は机を叩いた。
「人間は時刻表じゃねえ」
黒瀬は、心底おかしそうに笑った。
「だから殺しやすいんですよ。人間は、時計を信じる。けれど本当に信じているのは、時計じゃない。時刻表です」
その直後だった。
取調室のモニターに、音羽町駅のライブ映像が映った。
二十時四十三分。
ホームの端に、人影が倒れていた。
葵が叫んだ。
「第三の被害者です!」
火村は黒瀬を見た。
黒瀬は椅子に座ったまま、両手を広げていた。
「見ての通り、僕はここにいます」
モニターの中、駅の電光掲示板に文字が浮かんでいた。
二十時四十三分発 白井篤 死亡
白井篤。元警察官。十五年前の音羽町駅の事故で、火村の父と一緒に現場へ入った男だった。
黒瀬は囁いた。
「警察って、いつも遅れますね」
その声は、氷のように冷たかった。
火村はその夜、清水の病院へ向かった。
父・誠は病室で痩せた体を横たえていた。窓の外には港の灯りが滲んでいる。
「親父」
返事はなかった。
「十五年前の音羽町駅で、何があった」
父の指が、わずかに動いた。
火村はベッド脇に膝をついた。
「遠野が死んだ。坂巻も、白井さんもだ。全員、あの事故に関係してる。犯人は黒瀬旭かもしれない」
父の目が開いた。
乾いた唇が震えた。
「……陽」
「ひなた?」
「朝倉、陽……ちゃん」
火村は息を止めた。
十五年前、音羽町駅で亡くなった少女の名前。
朝倉陽。十歳。
父は、かすれた声で続けた。
「……あの子は……落ちたんじゃない」
「何?」
「手を……離された」
火村の背筋に冷たいものが走った。
「誰に」
父は答えなかった。だが、涙が一筋、こめかみへ流れた。
「……六時十三分……本当は……」
そこまで言って、父は激しく咳き込んだ。
火村はナースコールを押した。看護師が駆け込んでくる。
父の手が、火村の袖を掴んだ。
「十五分……消した……」
その言葉だけが、病室に残った。
十五分。
五時十三分。十八時二十八分。二十時四十三分。
すべて、十五分ずつずれている。
火村はその瞬間、黒瀬の声を思い出した。
――人間は、時計を信じる。けれど本当に信じているのは、時刻表です。
翌朝、火村は音羽町駅に戻った。
ホームには、花束が三つ置かれていた。駅員の矢野ユリが、黙ってそれを整えていた。五十代半ばの女性で、温かい目をした人だった。
「刑事さん、ひどいことになりましたね」
「十五年前の朝倉陽を知っていますか」
矢野の手が止まった。
「……知っています。あの子、よくこの駅に来ていました。電車が好きでね。ホームの端に立って、朝日が線路に当たるのを見るのが好きだった」
「陽はまた昇る、ですか」
矢野は驚いたように火村を見た。
「それ、陽ちゃんの口癖でした」
そのとき、小さな男の子が駅員室から出てきた。矢野の孫の湊だった。手には壊れたおもちゃの電車を握っている。
「おばあちゃん、昨日の夜のニュース、うそだよ」
湊が言った。
火村はしゃがんだ。
「どういうことだ?」
「テレビで、八時四十三分に駅が雨だって言ってた。でも、その時間、雨やんでたよ。ぼく、おばあちゃんを迎えに来て、空に月が出てたもん」
葵が火村を見る。
火村は静かに立ち上がった。
「モニターの映像は、ライブじゃなかった」
葵の顔色が変わった。
「遅延映像?」
「十五分だ」
火村は駅の電光掲示板を見上げた。
「犯人は時計をいじったんじゃない。俺たちが時刻を判断する材料を、全部“時刻表”に寄せたんだ」
防犯カメラの映像には、時刻の焼き込みがなかった。最近、保守点検のため一部システムが更新されていた。解析担当者は、画面に映り込んだ電光掲示板と列車の到着時刻から、映像時刻を割り出していた。
その電光掲示板の表示を制御していたのが、黒瀬旭の会社だった。
「十五分進んだ時刻表を見せられた。駅の映像も、十五分遅れで見せられた。死体が発見された時刻を、殺された時刻だと思い込まされた」
葵が息を呑む。
「じゃあ、白井さんは……」
「黒瀬が取調室に入る前に殺されていた」
「でも、黒瀬は五時十三分も、十八時二十八分もアリバイが」
「それも同じだ」
火村は時刻表のガラス面に指を置いた。
「犯人が作ったのは、殺人のアリバイじゃない。死亡時刻のアリバイだ。俺たちは、死体が見つかった時刻を、殺人の時刻だと思わされた。黒瀬はその十五分後、堂々と別の場所に立っていた。カメラに映り、記録を残し、自分の無実を完成させた」
葵は唇を噛んだ。
「時刻表が嘘をついた」
「違う」
火村は首を振った。
「嘘をついたのは、時刻表を神様みたいに信じた俺たちだ」
そのとき、湊が壊れた電車を差し出した。
「刑事さん、これ直る?」
火村は受け取った。車体の底に、小さく文字が彫られていた。
MAX
火村の目が鋭くなった。
「これ、どこで拾った」
「駅の古い倉庫。おばあちゃんが、昔の落とし物だって」
矢野が青ざめた。
「それ……陽ちゃんが大事にしていたおもちゃです。男の子の友達に貸したまま、返ってこなかったって」
火村は、壊れた電車を握りしめた。
黒瀬旭。十五年前、朝倉陽と同じ小学校に通っていた少年。
事件のあと、別の町へ引っ越し、母方の姓に変わった。
火村はつぶやいた。
「MAXって、IQのことじゃなかったのか」
それは、黒瀬が幼い日に陽から奪った、玩具の名前だった。
十五年前の真相は、遠野修の自宅から見つかった古い封筒に残されていた。
中には、破られた報告書のコピーと、遠野の震える字で書かれた手紙があった。
朝倉陽は、転落事故で死んだのではない。
当時、陽と黒瀬旭は駅の裏手にある立入禁止の古い待機室に入り込んだ。些細な喧嘩だった。陽は旭が持っていた玩具の電車を返してほしいと言った。旭は怒り、扉を閉めた。
鍵は古く、内側から開かなかった。
陽は助けを呼んだ。
その声を、遠野も、坂巻も、白井も聞いた。
だが、その朝、駅では遅延が起きていた。事故が明るみに出れば、点検不備も、監視カメラの死角も、当時のずさんな対応も露見する。
救助は遅れた。十五分、遅れた。
本当の通報時刻は、六時十三分。記録に残された時刻は、六時二十八分。
消された十五分の中で、陽は死んだ。
そして旭は、守られた。
大人たちは自分たちを守るために、少年を守った。少年は大人たちに守られたことで、自分の罪から逃げた。
だが、逃げた罪は、化け物になった。
黒瀬旭は、十五年かけて、その化け物に知性という服を着せた。そして、殺人を時刻表に変えた。
「次は五時十三分です」
黒瀬からの電話は、夜明け前にかかってきた。
「場所は音羽町駅。最後の死亡時刻を訂正しましょう、火村さん」
「誰を殺す」
「あなたが選ぶんです」
音羽町駅は、まだ薄闇の中にあった。
火村と葵が到着すると、駅の照明が一斉に落ちた。ホームの向こう、黒瀬旭が立っていた。黒いコートを着て、手には古い玩具の電車を持っている。
「返せ」
火村が言った。
黒瀬は笑った。
「これは僕のものです。陽は死んだ。持ち主がいない」
「違う」
火村は一歩進んだ。
「お前が返さなかったから、陽は泣いた。お前が扉を閉めた。お前が手を離した」
黒瀬の笑みが、初めて歪んだ。
「大人たちが殺したんです」
「大人たちも罪を犯した。だが、最初に陽を時刻表の外へ追い出したのは、お前だ」
「黙れ」
黒瀬の声が低くなった。
「僕は、あの十五分を取り戻しただけだ。遠野も、坂巻も、白井も、定刻通りに死んだ。警察は遅れた。世界はやっと正しくなった」
「殺しで正しくなる世界なんかねえ」
黒瀬は突然走り出した。
火村も走った。
ホームから階段へ。階段から連絡通路へ。黒瀬は手すりを越え、火村は肩から壁にぶつかりながら追った。葵の声が背後で響く。駅員たちが避難誘導を始める。夜明け前の駅が、緊張で軋んだ。
黒瀬はホーム端で振り返った。
「あなたの死亡時刻です、火村さん」
彼は火村へ飛びかかった。
二人は激しくもつれた。火村の頬に拳が入る。黒瀬の爪が首筋を裂く。火村は倒れかけながらも、黒瀬の腕を掴んだ。
黒瀬は笑っていた。
「怒れよ。僕を殺せ。そうすれば、あなたも時刻表に入る」
火村の脳裏に、父の涙が浮かんだ。遠野の手紙が浮かんだ。陽という少女が、閉ざされた扉の向こうで叫ぶ声が浮かんだ。
拳を振り上げた。
黒瀬の笑みが深くなった。
その瞬間、湊の声が聞こえた。
「刑事さん!」
ホームの柱の陰で、湊が泣いていた。矢野が必死に抱きしめている。避難の途中で、おもちゃの電車を追って戻ってきてしまったのだ。
火村は拳を止めた。
黒瀬が囁いた。
「また遅れる」
火村は黒瀬を殴らなかった。
代わりに、全身で黒瀬を押さえ込み、叫んだ。
「葵!」
葵が駆け込んだ。駅員たちも来た。黒瀬は暴れたが、火村は離さなかった。
「人間はな」
火村は血の混じった息で言った。
「時刻表から外れるんだよ。誰かを助けるためにな」
黒瀬の顔から、笑みが消えた。
夜明けの電車は、安全確認のため、駅の手前で止まっていた。
黒瀬の完璧な時刻表は、初めて狂った。
黒瀬旭は逮捕された。
彼は最後まで反省の言葉を口にしなかった。ただ、取調室で一度だけ、火村にこう言った。
「陽は戻らない」
「分かってる」
「なら、何の意味があるんです」
火村は答えられなかった。
遠野も、坂巻も、白井も戻らない。十五年前に消された十五分も戻らない。朝倉陽という少女の朝も戻らない。
正義は、死者を起こさない。逮捕状は、誰の涙もなかったことにはできない。
それでも、火村は言った。
「意味がないからって、また誰かを殺していいわけじゃない」
黒瀬は窓の外を見た。
「陽はまた昇る、か」
「お前が笑っても、泣いても、朝は来る」
「残酷ですね」
「ああ」
火村は静かに言った。
「だから生きてる人間が、残った朝を引き受けるんだ」
数日後。
音羽町駅の時刻表は、新しいガラスに替えられていた。
赤い文字はもうない。
けれど、ホームの片隅には小さな花が置かれている。陽のために。遠野のために。坂巻のために。白井のために。そして、十五分の沈黙の中で失われたすべてのもののために。
火村は駅のベンチに座り、湊のおもちゃの電車を直していた。
「ほんとに直る?」
湊が不安そうに覗き込む。
「刑事をなめるな。壊れたものを見るのは仕事だ」
「直すのも?」
火村は少し考えた。
「直せないものもある。でも、放っておかないことはできる」
湊は分かったような、分からないような顔で頷いた。
東の空が白み始めた。
線路の向こうに、朝日が昇る。
その光は、冷たい鉄のレールを金色に変えた。まるで、夜のあいだ凍っていた世界が、ゆっくり呼吸を取り戻すようだった。
火村は、壊れた玩具の電車を湊に返した。
「ほら。走るぞ」
湊はホームのベンチの上で、小さな電車をそっと押した。
電車は一度だけつまずき、それからまっすぐ進んだ。
火村は目を細めた。
むなしさは消えない。絶望も、簡単には終わらない。それでも、陽はまた昇る。
音羽町駅に、朝のアナウンスが流れた。
今度の声は、誰かを嘲笑う声ではなかった。人が今日を始めるための、ありふれた、温かい声だった。
そして火村慎吾は、その声を聞きながら、次の事件へ向かうために立ち上がった。
完





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