死亡時刻は、次の電車で届く
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 12分

――静鉄ゼロ分アリバイ連続殺人――
※時刻・事件設定は小説用の架空設定です。
新清水駅のホームに、朝の光がまだ届かない時刻だった。
巴川の水面は黒く、清水港のクレーンだけが夜の残り火みたいに赤く瞬いている。始発前の駅には、鉄と潮と、雨に濡れたコンクリートの匂いがあった。
清水署強行犯係の刑事、望月烈は、改札の前で足を止めた。
駅員が青ざめた顔で指さしたのは、コインロッカーだった。
そこに、封筒が貼られていた。
赤いペンで、こう書かれていた。
一人目。死亡時刻は、二十時十二分。桜橋を通過する電車が、彼女の命を運んだ。清水署へ。時刻表ぐらい読め。
烈は封筒を引きはがした。
中には、静岡鉄道静岡清水線の簡易時刻表のコピーが入っていた。新静岡、日吉町、音羽町、春日町、柚木、長沼、古庄、県総合運動場、県立美術館前、草薙、御門台、狐ヶ崎、桜橋、入江岡、新清水。
桜橋の欄だけが、黒い丸で囲まれていた。
「……ふざけやがって」
烈の声は低かった。
その朝、桜橋駅近くの古いマンションで、渡会栞という二十七歳の女性が死んでいるのが見つかった。小学校の臨時教員で、近所の子どもたちからは「しおり先生」と呼ばれていた。
部屋の窓は閉まっていた。鍵も内側からかかっていた。
ただ、電話だけが警察に残っていた。
二十時十二分。
一一〇番への通話記録。
受話器の向こうで女の声が震えていた。
「電車が……桜橋を……今……」
その直後、走行音。
そして、短い悲鳴。
通話は切れた。
検視官は言った。
「死亡推定時刻は、二十時前後から二十一時頃までの幅があります。ただし、この通話が本人のものなら、二十時十二分前後に生きていたことになります」
烈はスマートフォンに残された音声を何度も聞いた。
電車の音。女の吐息。遠くで鳴る踏切の警報音。
そして悲鳴。
まるで犯人が、時刻表の一行をナイフに変えたようだった。
二人目は、その翌日の夜だった。
県立美術館前駅近くの林の中で、安西悟という中年の精神科医が倒れていた。胸元にはまた封筒があった。
二人目。死亡時刻は、二十時二十一分。君たちはまた遅れる。遅れる刑事に、命は救えない。
安西のスマートフォンには、犯人からの動画が送られていた。
画面には、黒いコートの男が映っていた。
男は静鉄の車内に座り、窓の外を流れる夜の駅名標を背にしていた。顔には白い仮面。仮面の額には、黒い字でこう書かれていた。
MAX
動画の中で、男は笑った。
「清水署の皆さん、こんばんは。私はいま、各駅停車に乗っています。人が死ぬ時刻は、美しい。ダイヤは乱れない。人間だけが乱れる」
動画のタイムスタンプは二十時十六分。
その時間、男は県総合運動場駅付近を走る電車内にいたことになる。
安西が死んだとされる二十時二十一分、動画の男は県立美術館前駅のホームを通過する映像を見せていた。
犯人は現場にいたはずがない。
だが死体のそばには、男の靴跡があった。
県警の捜査員は唸った。
「電車に乗っている犯人が、どうやって駅の外で人を殺すんだ」
烈は答えなかった。
かわりに、拳を握りしめた。
犯人は楽しんでいる。
ただ殺しているのではない。
警察が焦り、迷い、時刻表にすがりつく姿を、どこかで眺めている。
その快楽が、烈には許せなかった。
三人目の封筒は、清水署に直接届いた。
差出人の欄には、丁寧な字でこう書かれていた。
IQ MAX
中には一枚の紙。
今夜、二十時三十分。長沼で三人目が死ぬ。止められるなら止めてみろ、望月烈。君の父親なら、もっと速く走っただろうに。
烈の顔色が変わった。
父の名を、犯人が知っている。
望月烈の父、望月宗一郎は、かつて静鉄の運転士だった。十六年前、踏切内に取り残された老人を救おうとして殉職した。
幼い烈は、葬儀の日に聞いた。
「お父さんは最後までブレーキを握っていた」
その言葉が、烈を刑事にした。
人の命を奪う者を、絶対に許さない。
時刻表を人殺しの玩具にする者など、なおさらだ。
「長沼に張れ!」
烈は叫んだ。
「駅、車庫、周辺道路、全部だ。犯人は自分を天才だと思ってる。なら必ず、こっちが見ている場所で笑う!」
若手刑事の由比紗季が横に並んだ。
「望月さん、犯人の動画、解析結果が出ました。映像は本物です。合成の痕跡はありません。車内放送も駅名標も時刻表と一致しています」
「つまり?」
「犯人は本当に、あの時間に電車に乗っていました」
烈は歯を食いしばった。
「じゃあ死体のほうが嘘をついてる」
紗季が目を上げた。
「死体が?」
「いや」
烈はスマートフォンの音声を再生した。
一人目の通話。
電車の音。
踏切。
女の声。
「嘘をついてるのは、俺たちの耳だ」
その夜、長沼駅周辺は警察で埋まった。
二十時二十七分。
犯人からライブ動画が配信された。
白い仮面の男が、また静鉄の車内にいた。
「望月刑事。君は今、長沼にいるね」
烈の無線に、怒号が混じった。
「どうして分かる……!」
画面の男は笑った。
「私は何でも分かる。人間は時刻表より単純だ」
車内の窓に、駅の灯りが流れる。
古庄。
次は長沼。
配信のコメント欄には、異様なほど整った文章が流れていた。
《MAX最高》《警察また負けた》《二十時三十分まであと三分》
二十時二十九分。
烈はホームで息を殺していた。
電車が近づく。
ライトが闇を割った。
その瞬間、紗季から無線が入った。
「望月さん! 長沼車庫の裏で男性が倒れています!」
「何だと!」
烈はホームを蹴った。
電車が滑り込む。
ドアが開く。
乗客が降りる。
その中に、白い仮面の男はいない。
動画の中では、仮面の男が同じ電車内で笑っている。
現実の電車には、いない。
烈の背筋に冷たいものが走った。
「……録画だ」
「え?」
紗季が聞き返す。
烈は走りながら叫んだ。
「ライブじゃない! あいつは昨日撮った映像を流してる!」
「でも、コメントに反応していました!」
「音声だけ生だ! 映像は過去だ!」
烈は車庫裏へ駆け込んだ。
倒れていたのは村松公平、元交通事故調査官だった。
胸元には封筒。
三人目。死亡時刻は、二十時三十分。そして最終問題。次に死ぬのは、子どもだ。
烈の頭の中で、何かが折れた。
そのとき、背後で拍手が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
「正解。やっと気づいた」
暗がりの中から、黒いコートの男が現れた。
白い仮面を外す。
若い男だった。
涼しい目。薄い唇。整いすぎた顔。
瀬名真冬。
清水区出身の天才プログラマー。交通系アプリの開発で有名になり、テレビでは「IQ測定不能の男」と持ち上げられていた。
烈は一歩踏み出した。
「瀬名……」
瀬名は微笑んだ。
「MAXと呼んでください。子どもの頃から、そう呼ばれていたので。テストも、知能指数も、ゲームも、全部最大値。つまらない人生でしたよ」
「渡会栞を殺したのはお前か」
「はい」
「安西悟も、村松公平も」
「はい」
「なぜだ」
瀬名は首を傾けた。
「楽しいから」
烈の拳が震えた。
「人を殺すのがか」
「違います。人が“正確さ”に負けるところを見るのがです。警察は死亡時刻を欲しがる。証人は時計を見る。記者は分単位の見出しを作る。みんな、時刻表みたいな世界を信じたがる」
瀬名は封筒を指先でひらひらさせた。
「だから私は、時刻表で人を殺した」
烈は低く言った。
「お前は電車に乗っていなかった。録画を流していただけだ」
「そう。前日に同じ区間を撮りました。静鉄は律儀だ。駅名標、車内放送、窓の外の光。すべてが時刻表に従って再現される。そこに今夜の音声を重ねただけで、警察は“現在”だと思い込む」
紗季が追いつき、銃を構えた。
「一人目の通話は?」
瀬名は嬉しそうに笑った。
「渡会さんは、二十時十二分にはもう死んでいました。彼女の声は、その前に録ったものです。部屋に置いた小さな再生機が、桜橋を通る電車の音と一緒に通話を始めた。君たちは悲鳴を聞いた。だから生きていると思った」
烈の脳裏に、最初の音声が蘇る。
電車の音。
踏切。
悲鳴。
そうだ。
あの踏切の音には、違和感があった。
桜橋で聞こえる警報音より、半拍だけ間が長い。
「……あれは桜橋の音じゃない」
烈が言った。
「狐ヶ崎の踏切音だ。お前は音まで時刻表に合わせたが、土地の匂いまでは知らなかった」
瀬名の笑みが、ほんの少しだけ固まった。
烈は続けた。
「二人目の動画にもミスがあった。県立美術館前を通る映像の窓に、昨日撤去されたポスターが映っていた。俺は気づけなかった。けど、十歳の女の子が気づいた。“そのポスター、昨日までだったよ”ってな」
瀬名の目が細くなる。
「子どもは嫌いです。予定外のことを言う」
「その子を狙うつもりか」
瀬名は腕時計を見た。
「二十時三十四分。次の問題です」
車庫の奥で、スマートフォンが鳴った。
紗季が拾うと、画面に映ったのは一人の少女だった。
一人目の被害者、渡会栞の教え子。
佐野千尋。
口を布で塞がれ、涙を浮かべている。背後には、古い車両の影。
瀬名が言った。
「長沼車庫の奥にいます。二十時三十八分までに見つけなければ、終わりです。ただし私を追えば、間に合わない。子どもを救えば、私は逃げる」
烈は瀬名を睨んだ。
「人間を駒にするな」
「人間は駒です。動ける範囲が決まっている。将棋も、時刻表も、人生も同じだ」
「違う」
烈は駆け出した。
瀬名ではなく、車庫の奥へ。
瀬名の表情から笑みが消えた。
「望月烈!」
烈は振り返らない。
「俺は刑事だ。犯人より先に、命を追う」
瀬名が舌打ちし、逃げようとした。
その前に紗季が立ちはだかる。
瀬名は素早く身を翻し、整備用通路へ走った。
烈は無線に怒鳴った。
「紗季、そいつを一人で追うな! 足を止めさせろ、殺すな!」
「了解!」
烈は暗い車庫を走った。
鉄骨の隙間。
眠る車両。
油の匂い。
遠くで千尋のくぐもった声が聞こえる。
「千尋!」
返事はない。
烈は足元の工具箱につまずき、膝を打った。それでも立ち上がる。
父の声が聞こえた気がした。
――最後までブレーキを握れ。
烈は車両の陰に飛び込んだ。
そこに、千尋がいた。
泣きながら震えている。
烈は駆け寄り、布を外した。
「もう大丈夫だ」
千尋は烈の胸にしがみついた。
「先生が……しおり先生が……私に、宿題見てくれるって……」
烈は言葉を失った。
殺された人間には、死体になる前の時間がある。
誰かに優しくした時間。
誰かの朝を支えた時間。
犯人は、それを全部、時刻表の数字に変えた。
烈は千尋を抱えて戻った。
その頃、紗季は整備通路で瀬名と対峙していた。
瀬名は細身だが、動きに迷いがなかった。紗季の腕を弾き、手すりを越えて下へ飛び降りる。
烈は千尋を駅員に預け、瀬名を追った。
長沼駅のホームに、回送表示の車両が停まっていた。
瀬名はその横を走る。
烈は追いつき、肩からぶつかった。
二人はホームに転がった。
瀬名が笑った。
「撃てばいい。君の怒りは、もう時刻表どおりだ」
烈は瀬名の胸ぐらを掴んだ。
「俺を試すな」
「試しているんじゃない。完成させているんです」
瀬名は囁いた。
「最終行は、“刑事、犯人を射殺”。それで物語は完璧になる」
烈の拳が振り上がった。
瀬名は目を閉じた。
だが拳は、瀬名の頬の横の床を叩いた。
烈は息を荒げながら言った。
「お前の時刻表には載ってないだろ」
瀬名が目を開ける。
「人間はな」
烈は手錠をかけた。
「遅れても、間違えても、泣きながらでも、違う道を選べるんだよ」
取り調べで、瀬名真冬はすべてを話した。
三人の被害者は、十年前の入江岡付近の踏切事故に関わっていた。
瀬名の母は、その事故で命を落とした。
烈は思った。
復讐か。
だが、真実はもっと冷たかった。
渡会栞は、事故当時まだ高校生で、倒れた瀬名の母に傘を差しかけていた。
安西悟は、通りすがりの医師として救命処置をしていた。
村松公平は、事故原因を正しく記録し、鉄道会社にも遺族にも責任を押しつけなかった。
三人は、瀬名の母を見捨てた者ではなかった。
むしろ、最後までそばにいた者たちだった。
烈は取調室で瀬名を見た。
「知っていたのか」
瀬名は静かに笑った。
「もちろん」
烈の全身が凍った。
「じゃあ、なぜ殺した」
「母の死に意味をつけたかった。けれど調べたら、悪人がいなかった。だから作ったんです」
「作った……?」
「物語には敵が必要だ。復讐には対象が必要だ。世界が優しかったなんて、つまらないじゃないですか」
烈は、怒りより先に、深い虚しさに襲われた。
人は悪意だけで人を殺すのではない。
空白を埋めるために、人を殺す者がいる。
自分の痛みに形を与えるため、他人の人生を切り刻む者がいる。
それが、何より恐ろしかった。
瀬名は言った。
「望月さん。あなたは勝ったと思っていますか」
烈は答えなかった。
「三人は戻らない。子どもは一生、夜の電車の音を怖がる。あなたも一生、私の時刻表を忘れられない」
瀬名は微笑んだ。
「私は負けていない」
烈は立ち上がった。
「違う」
「何が?」
「お前は、誰かに覚えてもらうために殺した」
烈は扉の前で振り返った。
「だが俺は、お前の名前じゃなく、渡会栞の名前を覚える。安西悟の名前を覚える。村松公平の名前を覚える。千尋が泣きながら、それでも明日学校へ行くと言ったことを覚える」
瀬名の笑みが、初めて消えた。
烈は言った。
「お前の物語には、ならない」
事件から三日後。
新清水駅に朝が来た。
ホームには学生がいて、会社員がいて、杖をついた老人がいた。電車はいつものように到着し、いつものようにドアを開けた。
何事もなかったように。
だが烈には分かっていた。
何事もなかった朝など、もう戻らない。
千尋が母親に連れられて駅前に立っていた。
小さな手に、みかん味の飴を握っている。
「刑事さん」
烈がしゃがむと、千尋は飴を差し出した。
「しおり先生が好きだったやつ」
烈は受け取った。
「ありがとう」
千尋は泣きそうな顔で、それでも言った。
「今日、学校に行く」
烈は頷いた。
「うん」
「怖いけど」
「うん」
「でも、行く」
烈は胸の奥が熱くなった。
犯人は時刻表で人を縛ろうとした。
死亡時刻を決め、絶望の到着時刻を決め、人間の選択肢を奪おうとした。
けれど、朝は来た。
奪われた命は戻らない。
悲しみは消えない。
絶望は、簡単には終わらない。
それでも人は、次の一歩を選ぶ。
電車が発車する。
新清水から、新静岡へ。
線路の先に、薄い金色の光が伸びていた。
烈はホームに立ち、静かに目を細めた。
父が愛した線路。
犯人が汚そうとした時刻表。
そして、誰かがまた生きるために乗る電車。
虚しさの底で、朝日が昇る。
陽はまた昇る。
たとえ世界が、昨日と同じではなくても。





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