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死亡時刻は、次の電車で届く

――静鉄ゼロ分アリバイ連続殺人――

※時刻・事件設定は小説用の架空設定です。

新清水駅のホームに、朝の光がまだ届かない時刻だった。

巴川の水面は黒く、清水港のクレーンだけが夜の残り火みたいに赤く瞬いている。始発前の駅には、鉄と潮と、雨に濡れたコンクリートの匂いがあった。

清水署強行犯係の刑事、望月烈は、改札の前で足を止めた。

駅員が青ざめた顔で指さしたのは、コインロッカーだった。

そこに、封筒が貼られていた。

赤いペンで、こう書かれていた。

一人目。死亡時刻は、二十時十二分。桜橋を通過する電車が、彼女の命を運んだ。清水署へ。時刻表ぐらい読め。

烈は封筒を引きはがした。

中には、静岡鉄道静岡清水線の簡易時刻表のコピーが入っていた。新静岡、日吉町、音羽町、春日町、柚木、長沼、古庄、県総合運動場、県立美術館前、草薙、御門台、狐ヶ崎、桜橋、入江岡、新清水。

桜橋の欄だけが、黒い丸で囲まれていた。

「……ふざけやがって」

烈の声は低かった。

その朝、桜橋駅近くの古いマンションで、渡会栞という二十七歳の女性が死んでいるのが見つかった。小学校の臨時教員で、近所の子どもたちからは「しおり先生」と呼ばれていた。

部屋の窓は閉まっていた。鍵も内側からかかっていた。

ただ、電話だけが警察に残っていた。

二十時十二分。

一一〇番への通話記録。

受話器の向こうで女の声が震えていた。

「電車が……桜橋を……今……」

その直後、走行音。

そして、短い悲鳴。

通話は切れた。

検視官は言った。

「死亡推定時刻は、二十時前後から二十一時頃までの幅があります。ただし、この通話が本人のものなら、二十時十二分前後に生きていたことになります」

烈はスマートフォンに残された音声を何度も聞いた。

電車の音。女の吐息。遠くで鳴る踏切の警報音。

そして悲鳴。

まるで犯人が、時刻表の一行をナイフに変えたようだった。

二人目は、その翌日の夜だった。

県立美術館前駅近くの林の中で、安西悟という中年の精神科医が倒れていた。胸元にはまた封筒があった。

二人目。死亡時刻は、二十時二十一分。君たちはまた遅れる。遅れる刑事に、命は救えない。

安西のスマートフォンには、犯人からの動画が送られていた。

画面には、黒いコートの男が映っていた。

男は静鉄の車内に座り、窓の外を流れる夜の駅名標を背にしていた。顔には白い仮面。仮面の額には、黒い字でこう書かれていた。

MAX

動画の中で、男は笑った。

「清水署の皆さん、こんばんは。私はいま、各駅停車に乗っています。人が死ぬ時刻は、美しい。ダイヤは乱れない。人間だけが乱れる」

動画のタイムスタンプは二十時十六分。

その時間、男は県総合運動場駅付近を走る電車内にいたことになる。

安西が死んだとされる二十時二十一分、動画の男は県立美術館前駅のホームを通過する映像を見せていた。

犯人は現場にいたはずがない。

だが死体のそばには、男の靴跡があった。

県警の捜査員は唸った。

「電車に乗っている犯人が、どうやって駅の外で人を殺すんだ」

烈は答えなかった。

かわりに、拳を握りしめた。

犯人は楽しんでいる。

ただ殺しているのではない。

警察が焦り、迷い、時刻表にすがりつく姿を、どこかで眺めている。

その快楽が、烈には許せなかった。

三人目の封筒は、清水署に直接届いた。

差出人の欄には、丁寧な字でこう書かれていた。

IQ MAX

中には一枚の紙。

今夜、二十時三十分。長沼で三人目が死ぬ。止められるなら止めてみろ、望月烈。君の父親なら、もっと速く走っただろうに。

烈の顔色が変わった。

父の名を、犯人が知っている。

望月烈の父、望月宗一郎は、かつて静鉄の運転士だった。十六年前、踏切内に取り残された老人を救おうとして殉職した。

幼い烈は、葬儀の日に聞いた。

「お父さんは最後までブレーキを握っていた」

その言葉が、烈を刑事にした。

人の命を奪う者を、絶対に許さない。

時刻表を人殺しの玩具にする者など、なおさらだ。

「長沼に張れ!」

烈は叫んだ。

「駅、車庫、周辺道路、全部だ。犯人は自分を天才だと思ってる。なら必ず、こっちが見ている場所で笑う!」

若手刑事の由比紗季が横に並んだ。

「望月さん、犯人の動画、解析結果が出ました。映像は本物です。合成の痕跡はありません。車内放送も駅名標も時刻表と一致しています」

「つまり?」

「犯人は本当に、あの時間に電車に乗っていました」

烈は歯を食いしばった。

「じゃあ死体のほうが嘘をついてる」

紗季が目を上げた。

「死体が?」

「いや」

烈はスマートフォンの音声を再生した。

一人目の通話。

電車の音。

踏切。

女の声。

「嘘をついてるのは、俺たちの耳だ」

その夜、長沼駅周辺は警察で埋まった。

二十時二十七分。

犯人からライブ動画が配信された。

白い仮面の男が、また静鉄の車内にいた。

「望月刑事。君は今、長沼にいるね」

烈の無線に、怒号が混じった。

「どうして分かる……!」

画面の男は笑った。

「私は何でも分かる。人間は時刻表より単純だ」

車内の窓に、駅の灯りが流れる。

古庄。

次は長沼。

配信のコメント欄には、異様なほど整った文章が流れていた。

《MAX最高》《警察また負けた》《二十時三十分まであと三分》

二十時二十九分。

烈はホームで息を殺していた。

電車が近づく。

ライトが闇を割った。

その瞬間、紗季から無線が入った。

「望月さん! 長沼車庫の裏で男性が倒れています!」

「何だと!」

烈はホームを蹴った。

電車が滑り込む。

ドアが開く。

乗客が降りる。

その中に、白い仮面の男はいない。

動画の中では、仮面の男が同じ電車内で笑っている。

現実の電車には、いない。

烈の背筋に冷たいものが走った。

「……録画だ」

「え?」

紗季が聞き返す。

烈は走りながら叫んだ。

「ライブじゃない! あいつは昨日撮った映像を流してる!」

「でも、コメントに反応していました!」

「音声だけ生だ! 映像は過去だ!」

烈は車庫裏へ駆け込んだ。

倒れていたのは村松公平、元交通事故調査官だった。

胸元には封筒。

三人目。死亡時刻は、二十時三十分。そして最終問題。次に死ぬのは、子どもだ。

烈の頭の中で、何かが折れた。

そのとき、背後で拍手が聞こえた。

ぱち、ぱち、ぱち。

「正解。やっと気づいた」

暗がりの中から、黒いコートの男が現れた。

白い仮面を外す。

若い男だった。

涼しい目。薄い唇。整いすぎた顔。

瀬名真冬。

清水区出身の天才プログラマー。交通系アプリの開発で有名になり、テレビでは「IQ測定不能の男」と持ち上げられていた。

烈は一歩踏み出した。

「瀬名……」

瀬名は微笑んだ。

「MAXと呼んでください。子どもの頃から、そう呼ばれていたので。テストも、知能指数も、ゲームも、全部最大値。つまらない人生でしたよ」

「渡会栞を殺したのはお前か」

「はい」

「安西悟も、村松公平も」

「はい」

「なぜだ」

瀬名は首を傾けた。

「楽しいから」

烈の拳が震えた。

「人を殺すのがか」

「違います。人が“正確さ”に負けるところを見るのがです。警察は死亡時刻を欲しがる。証人は時計を見る。記者は分単位の見出しを作る。みんな、時刻表みたいな世界を信じたがる」

瀬名は封筒を指先でひらひらさせた。

「だから私は、時刻表で人を殺した」

烈は低く言った。

「お前は電車に乗っていなかった。録画を流していただけだ」

「そう。前日に同じ区間を撮りました。静鉄は律儀だ。駅名標、車内放送、窓の外の光。すべてが時刻表に従って再現される。そこに今夜の音声を重ねただけで、警察は“現在”だと思い込む」

紗季が追いつき、銃を構えた。

「一人目の通話は?」

瀬名は嬉しそうに笑った。

「渡会さんは、二十時十二分にはもう死んでいました。彼女の声は、その前に録ったものです。部屋に置いた小さな再生機が、桜橋を通る電車の音と一緒に通話を始めた。君たちは悲鳴を聞いた。だから生きていると思った」

烈の脳裏に、最初の音声が蘇る。

電車の音。

踏切。

悲鳴。

そうだ。

あの踏切の音には、違和感があった。

桜橋で聞こえる警報音より、半拍だけ間が長い。

「……あれは桜橋の音じゃない」

烈が言った。

「狐ヶ崎の踏切音だ。お前は音まで時刻表に合わせたが、土地の匂いまでは知らなかった」

瀬名の笑みが、ほんの少しだけ固まった。

烈は続けた。

「二人目の動画にもミスがあった。県立美術館前を通る映像の窓に、昨日撤去されたポスターが映っていた。俺は気づけなかった。けど、十歳の女の子が気づいた。“そのポスター、昨日までだったよ”ってな」

瀬名の目が細くなる。

「子どもは嫌いです。予定外のことを言う」

「その子を狙うつもりか」

瀬名は腕時計を見た。

「二十時三十四分。次の問題です」

車庫の奥で、スマートフォンが鳴った。

紗季が拾うと、画面に映ったのは一人の少女だった。

一人目の被害者、渡会栞の教え子。

佐野千尋。

口を布で塞がれ、涙を浮かべている。背後には、古い車両の影。

瀬名が言った。

「長沼車庫の奥にいます。二十時三十八分までに見つけなければ、終わりです。ただし私を追えば、間に合わない。子どもを救えば、私は逃げる」

烈は瀬名を睨んだ。

「人間を駒にするな」

「人間は駒です。動ける範囲が決まっている。将棋も、時刻表も、人生も同じだ」

「違う」

烈は駆け出した。

瀬名ではなく、車庫の奥へ。

瀬名の表情から笑みが消えた。

「望月烈!」

烈は振り返らない。

「俺は刑事だ。犯人より先に、命を追う」

瀬名が舌打ちし、逃げようとした。

その前に紗季が立ちはだかる。

瀬名は素早く身を翻し、整備用通路へ走った。

烈は無線に怒鳴った。

「紗季、そいつを一人で追うな! 足を止めさせろ、殺すな!」

「了解!」

烈は暗い車庫を走った。

鉄骨の隙間。

眠る車両。

油の匂い。

遠くで千尋のくぐもった声が聞こえる。

「千尋!」

返事はない。

烈は足元の工具箱につまずき、膝を打った。それでも立ち上がる。

父の声が聞こえた気がした。

――最後までブレーキを握れ。

烈は車両の陰に飛び込んだ。

そこに、千尋がいた。

泣きながら震えている。

烈は駆け寄り、布を外した。

「もう大丈夫だ」

千尋は烈の胸にしがみついた。

「先生が……しおり先生が……私に、宿題見てくれるって……」

烈は言葉を失った。

殺された人間には、死体になる前の時間がある。

誰かに優しくした時間。

誰かの朝を支えた時間。

犯人は、それを全部、時刻表の数字に変えた。

烈は千尋を抱えて戻った。

その頃、紗季は整備通路で瀬名と対峙していた。

瀬名は細身だが、動きに迷いがなかった。紗季の腕を弾き、手すりを越えて下へ飛び降りる。

烈は千尋を駅員に預け、瀬名を追った。

長沼駅のホームに、回送表示の車両が停まっていた。

瀬名はその横を走る。

烈は追いつき、肩からぶつかった。

二人はホームに転がった。

瀬名が笑った。

「撃てばいい。君の怒りは、もう時刻表どおりだ」

烈は瀬名の胸ぐらを掴んだ。

「俺を試すな」

「試しているんじゃない。完成させているんです」

瀬名は囁いた。

「最終行は、“刑事、犯人を射殺”。それで物語は完璧になる」

烈の拳が振り上がった。

瀬名は目を閉じた。

だが拳は、瀬名の頬の横の床を叩いた。

烈は息を荒げながら言った。

「お前の時刻表には載ってないだろ」

瀬名が目を開ける。

「人間はな」

烈は手錠をかけた。

「遅れても、間違えても、泣きながらでも、違う道を選べるんだよ」

取り調べで、瀬名真冬はすべてを話した。

三人の被害者は、十年前の入江岡付近の踏切事故に関わっていた。

瀬名の母は、その事故で命を落とした。

烈は思った。

復讐か。

だが、真実はもっと冷たかった。

渡会栞は、事故当時まだ高校生で、倒れた瀬名の母に傘を差しかけていた。

安西悟は、通りすがりの医師として救命処置をしていた。

村松公平は、事故原因を正しく記録し、鉄道会社にも遺族にも責任を押しつけなかった。

三人は、瀬名の母を見捨てた者ではなかった。

むしろ、最後までそばにいた者たちだった。

烈は取調室で瀬名を見た。

「知っていたのか」

瀬名は静かに笑った。

「もちろん」

烈の全身が凍った。

「じゃあ、なぜ殺した」

「母の死に意味をつけたかった。けれど調べたら、悪人がいなかった。だから作ったんです」

「作った……?」

「物語には敵が必要だ。復讐には対象が必要だ。世界が優しかったなんて、つまらないじゃないですか」

烈は、怒りより先に、深い虚しさに襲われた。

人は悪意だけで人を殺すのではない。

空白を埋めるために、人を殺す者がいる。

自分の痛みに形を与えるため、他人の人生を切り刻む者がいる。

それが、何より恐ろしかった。

瀬名は言った。

「望月さん。あなたは勝ったと思っていますか」

烈は答えなかった。

「三人は戻らない。子どもは一生、夜の電車の音を怖がる。あなたも一生、私の時刻表を忘れられない」

瀬名は微笑んだ。

「私は負けていない」

烈は立ち上がった。

「違う」

「何が?」

「お前は、誰かに覚えてもらうために殺した」

烈は扉の前で振り返った。

「だが俺は、お前の名前じゃなく、渡会栞の名前を覚える。安西悟の名前を覚える。村松公平の名前を覚える。千尋が泣きながら、それでも明日学校へ行くと言ったことを覚える」

瀬名の笑みが、初めて消えた。

烈は言った。

「お前の物語には、ならない」

事件から三日後。

新清水駅に朝が来た。

ホームには学生がいて、会社員がいて、杖をついた老人がいた。電車はいつものように到着し、いつものようにドアを開けた。

何事もなかったように。

だが烈には分かっていた。

何事もなかった朝など、もう戻らない。

千尋が母親に連れられて駅前に立っていた。

小さな手に、みかん味の飴を握っている。

「刑事さん」

烈がしゃがむと、千尋は飴を差し出した。

「しおり先生が好きだったやつ」

烈は受け取った。

「ありがとう」

千尋は泣きそうな顔で、それでも言った。

「今日、学校に行く」

烈は頷いた。

「うん」

「怖いけど」

「うん」

「でも、行く」

烈は胸の奥が熱くなった。

犯人は時刻表で人を縛ろうとした。

死亡時刻を決め、絶望の到着時刻を決め、人間の選択肢を奪おうとした。

けれど、朝は来た。

奪われた命は戻らない。

悲しみは消えない。

絶望は、簡単には終わらない。

それでも人は、次の一歩を選ぶ。

電車が発車する。

新清水から、新静岡へ。

線路の先に、薄い金色の光が伸びていた。

烈はホームに立ち、静かに目を細めた。

父が愛した線路。

犯人が汚そうとした時刻表。

そして、誰かがまた生きるために乗る電車。

虚しさの底で、朝日が昇る。

陽はまた昇る。

たとえ世界が、昨日と同じではなくても。

 
 
 

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