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死亡時刻表――新静岡駅、次の発車はあなたです

※本作の人物・事件・時刻表はすべて架空です。

1 始発前の遺体

新静岡駅の朝は、音から始まる。

改札機が眠りから覚める電子音。清掃員のモップが床を撫でる音。売店のシャッターが、ぎい、と喉を鳴らす音。そして、まだ誰も乗っていないホームに流れる、始発案内の無機質な声。

――まもなく、一番線に、五時四十八分発、新清水行きが到着いたします。

その声が終わった瞬間、改札前の大型時刻表が、ふっと一度だけ暗くなった。

清掃員の老女、滝田フミは顔を上げた。停電ではない。照明は生きている。自動改札も生きている。だが、頭上の電光掲示板だけが黒く沈み、次に点いた時、そこにはあり得ない文字が流れていた。

次の発車は、死亡です。

フミは、冗談だと思った。

駅ビルの広告担当者がまた悪趣味なキャンペーンでも始めたのだろう、と。

だが、その下に置かれていた黒いスーツケースを見た瞬間、彼女の喉は凍りついた。

スーツケースのファスナーは半分開いていた。中から、人間の手が一本、床へだらりと垂れていた。

その手首には、安物の腕時計が巻かれていた。

針は、五時四十八分で止まっていた。

清水署刑事課の望月駿介が新静岡駅に着いた時、すでに構内は封鎖され、駅前の空気は異様に張りつめていた。

望月は四十二歳。短く刈った髪に、睡眠不足の赤い目。熱血という言葉は、若い頃なら褒め言葉だった。今では署内で「燃え残り」と呼ばれている。

それでも、現場に着くと血が騒いだ。

「被害者は?」

県警捜査一課の神谷七海が、手帳を開いた。彼女は若く、声は冷静だったが、眼鏡の奥の瞳だけが鋭かった。

「篠原圭吾、五十六歳。駅ビル広告会社の専務です。死亡推定時刻は、今のところ午前四時半から五時半の間。ただし、犯人は五時四十八分を強調しています」

「時刻表か」

「ええ。遺体の胸ポケットに、これが」

神谷は透明袋に入った紙片を見せた。

それは、静岡鉄道の時刻表を模したカードだった。だが行き先欄には、駅名ではなく人名が並んでいた。

篠原圭吾 五時四十八分発鳥羽誠二 十二時十六分発牧野修  二十一時三分発望月駿介 零時零分発

望月は、最後の自分の名前を見た。

背筋に冷たいものが走った。

その時、神谷のスマートフォンが鳴った。非通知だった。彼女はスピーカーにした。

ノイズの向こうから、若い男の声が聞こえた。

「おはようございます、望月刑事」

望月は目を細めた。

「誰だ」

「時刻表です」

男は笑った。

「いや、あなたたちには、こう名乗ったほうが分かりやすいかな。僕は、玖珂暦人。時刻を愛し、人間の遅延を嫌う者です」

玖珂暦人。

望月はその名を知っていた。二年前まで鉄道系システム会社に勤めていた天才技術者。ダイヤ編成補助システムの開発で知られ、メディアには「時刻表を暗記する怪物」「IQ測定不能」とまで書かれた男。

「篠原を殺したのはお前か」

「殺した、という言葉は雑ですね。僕は発車させたんです」

「ふざけるな」

「ふざけていませんよ。殺人ほど楽しい論理遊戯はない。人間は嘘をつく。時計も狂う。記憶も汚れる。だけど時刻表だけは、約束を守る」

「お前を捕まえる」

「無理です。五時四十八分、僕は電車に乗っていました。新静岡駅から遠ざかっていた。防犯カメラも、IC記録も、乗客の証言もあります」

男は、少し声を低くした。

「刑事さん。次は十二時十六分です。遅れないでください」

通話は切れた。

望月はカードを握りしめた。

駅の外では、朝日がビルの壁を赤く染め始めていた。だが、新静岡駅の構内だけは、まだ夜の底に沈んでいるようだった。

2 十二時十六分発、第二の死

玖珂暦人のアリバイは完璧に見えた。

五時四十六分、彼は新静岡駅の改札を通過している。五時四十七分、ホームのカメラに映っている。五時四十八分、発車直前の車内カメラに、窓際の席で本を読む姿が映っている。五時五十四分、草薙駅付近の車内カメラにも映っている。六時八分、新清水駅で改札を出た記録もある。

その間、篠原圭吾の遺体は新静岡駅で発見された。

「二人いるのか」

望月が言うと、神谷は首を振った。

「顔認証は一致しています。歩き方も、耳の形も同じ。映像上は玖珂本人です」

「映像上は、か」

望月は防犯カメラの静止画を睨んだ。

玖珂暦人は、黒いコートに白い手袋をしていた。こちらを見ていない。窓の外を眺めている。まるで、これから起きる惨劇を、退屈な車窓風景の一部として眺めているようだった。

その時、望月の脳裏に、古い記憶がよみがえった。

十五年前。新静岡駅で、小さな女の子が転落事故に巻き込まれて亡くなった。名は玖珂日菜。七歳。事件性なし。事故処理。担当した若手警官の一人が、望月だった。

彼はあの時、泣き崩れる母親の顔を見た。そして、その母親の横で、何も言わずに立っていた少年を見た。痩せた肩。異様に冷たい目。

――兄の、玖珂暦人。

望月は唇を噛んだ。

「復讐か」

「それにしては、楽しみすぎています」

神谷が言った。

「玖珂は通話で笑っていました。単なる復讐犯なら、もっと怒りが前に出る。でも彼は、怒りを材料にしてゲームを作っている」

「ゲームだと?」

「ええ。私たちに時刻表を読ませようとしている」

正午前、新静岡駅は再び緊張に包まれた。

カードに記された第二の名前、鳥羽誠二。元医師。現在は医療法人の理事。十五年前、玖珂日菜の死亡確認を行った医師だった。

鳥羽は保護対象となり、警察車両で移送される予定だった。だが十一時五十八分、鳥羽は自宅から消えた。

そして十二時十六分。

新静岡駅の地下連絡通路にある古い倉庫から、鳥羽誠二の遺体が見つかった。

胸ポケットには、また時刻表カード。

鳥羽誠二 十二時十六分発。

望月は現場で叫んだ。

「玖珂はどこだ!」

神谷が青い顔で答えた。

「十二時十六分、玖珂は新清水駅前のカフェにいました。監視員が見ています。防犯カメラにも映っています。店員の証言もあります」

「新清水から新静岡まで、瞬間移動でもしたってのか!」

その時、駅構内のスピーカーが突然、割れるようなノイズを吐いた。

そして、玖珂暦人の声が流れた。

「望月刑事。人は時刻表に勝てない。あなたたちは、線路の上を走る虫です。次は、二十一時三分。牧野修」

乗客たちが悲鳴を上げた。

望月はスピーカーを睨みつけた。

「玖珂ァ!」

声だけが、駅に笑い声を残した。

3 時刻表は嘘をつかない、だから人間が嘘をつく

午後、捜査本部は混乱した。

犯人は玖珂暦人。動機もある。犯行声明もある。だが、すべての犯行時刻にアリバイがある。

「遠隔操作の仕掛けか」

「共犯者か」

「映像の改ざんか」

あらゆる仮説が並べられたが、決定打はなかった。

望月は、現場に戻った。

新静岡駅。

駅という場所は不思議だ。人々は急いでいるのに、どこか無防備になる。会社へ行く人。学校へ行く子供。荷物を抱えた老夫婦。泣きながら電話をする若い女。全員が、それぞれの人生を持っているのに、時刻表の前では同じ方向を向く。

次は何時か。どこへ行けるか。間に合うか。

その単純な問いに、人間は支配される。

望月は、始発前に遺体を見つけた清掃員、滝田フミにもう一度話を聞いた。

「怖かったでしょう」

フミは小さく笑った。

「怖かったですよ。でもね、刑事さん。もっと怖いのは、あの男の声じゃありません」

「何です」

「駅のみんなが、時刻表を見上げたまま黙ってしまったことです。人が死んだのに、次の電車の時刻を気にしていた。もちろん仕方ないんです。仕事も学校もある。でも……なんだか、死んだ人より時計のほうが偉いみたいで」

望月は黙った。

フミは続けた。

「でも、駅員さんが一人だけ、泣いていた子供を抱きしめていました。電車が遅れるって分かっていても、その子の靴を探していたんです」

「靴?」

「ええ。今日の朝、五時四十八分発の電車。発車が一分ほど遅れたんですよ。小さな男の子の靴がホームとベンチの隙間に落ちて」

望月の目が変わった。

「今、何て言いました?」

「五時四十八分発が、一分ほど遅れたって」

望月は神谷を呼び出した。

「五時四十八分の電車、定刻発車だったか?」

「記録上は定刻です」

「駅員に確認しろ。ホームの現場記録、車両運行ログ、乗務員の証言。全部だ」

十数分後、神谷から折り返しが来た。

声が震えていた。

「望月さん。ありました。運行管理上、五時四十八分発は一分二十二秒遅れています。理由は乗客対応」

望月は、カメラ映像の玖珂を思い出した。

五時四十八分。車内で窓際に座る玖珂。定刻どおり、電車が発車している映像。

「映像が嘘だ」

望月は呟いた。

「いや、違う。映像だけじゃない。時刻そのものが嘘なんだ」

神谷が息をのんだ。

「玖珂は、防犯カメラ映像を差し替えた?」

「たぶん一部だけだ。全部じゃない。全部ならバレる。あいつは人間の記憶と時刻表を利用した」

望月は、駅構内の大型時刻表を見上げた。

「人は実際の時計を見ていない。時刻表を見る。『五時四十八分発に乗った』という記憶は、『五時四十八分にそこにいた』という証言にすり替わる」

神谷が続けた。

「つまり、玖珂のアリバイは、時刻表の上にだけ存在する」

「そうだ」

望月は拳を握った。

「殺害は、表示された時刻より前に終わっていた。遺体を発見させるタイミングだけを、時刻表に合わせたんだ。あいつは電車に乗って逃げたんじゃない。犯行時刻を、電車の発車時刻まで遅らせた」

「でも、鳥羽の件は?」

「同じだ。鳥羽は十二時十六分に殺されたんじゃない。十二時十六分に、俺たちが『殺されたと思わされた』だけだ」

神谷はカードを見直した。

「篠原、鳥羽、牧野、望月……この順番、十五年前の事故資料に載っていた関係者ですね」

望月は目を閉じた。

篠原。駅ビルの広告責任者。鳥羽。搬送先の医師。牧野。警備会社の現場責任者。そして、望月。事故処理に関わった若い警官。

十五年前、玖珂日菜は死んだ。

だが、捜査はあまりに早く終わった。目撃証言は曖昧。監視カメラの一部は故障。警備記録は欠落。望月は違和感を覚えたが、上司に言われるまま事故報告書に署名した。

あの署名が、玖珂暦人にとっては、妹を二度殺した判子だったのかもしれない。

その時、望月の携帯が鳴った。

非通知。

「望月刑事」

玖珂の声だった。

「素晴らしい。やはりあなたは、他の虫より少し速い」

「玖珂。お前のアリバイは崩れた」

「崩れていませんよ。時刻表はまだ立っている」

「人間は時刻表じゃない」

沈黙。

そして、玖珂は小さく笑った。

「だから嫌いなんです。人間は遅れる。泣く。迷う。約束を破る。妹は、誰かの遅れのせいで死んだ。なのに、誰も遅れを罰されなかった」

「それで人を殺すのか」

「いいえ」

玖珂の声が、氷のように澄んだ。

「楽しいから殺すんです。理由は、後から時刻表に書けばいい」

望月の血が沸いた。

「お前は、ただの化け物だ」

「違います。僕は正確な化け物です」

通話の向こうで、発車メロディのような音が鳴った。

「二十一時三分。牧野修。新静岡駅、最終章の入口でお待ちしています」

電話は切れた。

4 夜のホーム、第三の発車

牧野修は、十五年前の事故現場を担当していた警備会社の責任者だった。

警察は牧野を保護した。新静岡駅へ近づけるな。誰もがそう考えた。

だが、二十時五十分。

牧野は護送車内で突然暴れ出し、胸ポケットから小型端末を取り出した。端末の画面には、玖珂からのメッセージが表示されていた。

お前が隠したものを、娘に送った。止めたければ、新静岡駅へ来い。

牧野には娘がいた。高校生だった。

彼は警察官を振り切り、車から逃走した。

望月は叫んだ。

「玖珂の狙いは牧野じゃない! 牧野を駅に走らせることだ!」

二十一時前、新静岡駅は人波でごった返していた。

帰宅客。学生。買い物帰りの親子。その中に、怯えた顔の牧野がいた。

「牧野!」

望月が声を張り上げた瞬間、駅の大型時刻表がまた暗転した。

二十一時三分発 牧野修

発車メロディが流れた。

だが、それは本物のメロディではなかった。人間の笑い声を、音階に加工したものだった。

乗客が悲鳴を上げる。

牧野は改札前で立ち止まり、頭を抱えた。

「すまない……俺は……俺は見たんだ……あの日、日菜ちゃんはまだ息をしていた……でも篠原が、騒ぎになるから動かすなって……鳥羽が、もう無理だって……俺は……俺は……」

望月が駆け寄る。

「牧野、伏せろ!」

その瞬間、天井から吊るされた広告パネルが外れた。

望月は牧野に体当たりした。

重いパネルが床に叩きつけられ、破片が飛んだ。望月の肩に鋭い痛みが走る。だが牧野は生きていた。

「玖珂!」

望月は振り返った。

人波の向こう、黒いコートの男が立っていた。

玖珂暦人。

白い手袋。無表情な顔。その目だけが、子供のように輝いていた。

「素晴らしい、望月刑事。予定外です。予定外は嫌いですが、あなたの遅延は美しい」

「待て!」

玖珂は走った。

望月も走った。

新静岡駅の構内を、二人の足音が切り裂いた。

玖珂は迷いなく階段を駆け上がり、駅ビルの関係者通路へ飛び込んだ。望月は肩の痛みを無視して追う。神谷が無線で叫ぶ。

「望月さん、応援が向かっています!」

「遅い!」

狭い通路。非常灯の赤。玖珂はドアを蹴破り、閉鎖中の連絡デッキへ出た。

夜風が吹きつける。

下には、駅前の光。上には、黒い空。遠くに、静岡の街の灯りが散らばっている。

玖珂は振り返った。

「望月刑事。あなたの発車時刻は、零時零分です」

「俺を殺す気か」

「違います」

玖珂は微笑んだ。

「あなたに、僕を殺してもらうんです」

望月は一瞬、動きを止めた。

「何だと」

「僕は三人を発車させた。最後に僕自身が発車する。あなたの手で。妹を事故として処理した警察官が、今度は犯人を怒りで殺す。美しいでしょう?」

「くだらねえ」

「くだらなくない。あなたは怒っている。自分にも、僕にも、十五年前にも。だから撃てる。殴れる。突き落とせる」

玖珂は懐からナイフを取り出した。

細身の刃が、街の光を拾った。

「あなたが僕を殺せば、時刻表は完成する」

望月は拳を構えた。

「お前の時刻表に、俺は乗らない」

玖珂が襲いかかった。

速かった。

刃が望月の頬をかすめる。望月は腕を払い、玖珂の腹へ拳を叩き込む。玖珂は笑いながら後退し、足元の配管を踏み台にして跳ねた。まるで、駅の構造すべてを暗記している獣だった。

望月は肩でぶつかり、玖珂を壁に押しつけた。

「終わりだ!」

「まだです」

玖珂は白い手袋の指で、胸元の小型端末を押した。

駅構内から、悲鳴が聞こえた。

神谷の無線が割れた。

「望月さん! ホームに子供がいます! 清掃員の滝田さんの孫、陽太くんです! 玖珂が閉鎖エリアに誘導して――」

玖珂は囁いた。

「選んでください。僕を捕まえるか、子供を救うか。時刻表では、零時前に両方は不可能です」

望月は玖珂の胸ぐらをつかんだ。

「てめえ……!」

「どうします? 刑事さん。今度は、署名では済みませんよ」

望月の脳裏に、十五年前の少女の顔がよぎった。

玖珂日菜。泣き叫ぶ母親。報告書。自分の署名。

そして今、ホームで泣いている子供。

望月は、玖珂を突き飛ばした。

「神谷、ホームを止めろ! 駅員に言え! 電車を出すな!」

「でも、最終電車が――」

「遅らせろ!」

望月は叫んだ。

「人間を救うために、時刻表を破れ!」

5 時刻表にない一分

駅員たちは動いた。

誰かが非常停止ボタンを押した。誰かが乗客を誘導した。誰かが泣いている陽太を抱き上げた。誰かが「申し訳ありません、発車が遅れます」と頭を下げた。

たった一分。

時刻表から見れば、ただの遅延。だが、その一分が、玖珂暦人の完全犯罪を壊した。

玖珂は連絡デッキの上で、初めて表情を失った。

「遅延……?」

望月は荒い息を吐きながら言った。

「そうだ。人間は遅れる。迷う。泣く。間違える。でもな、そのせいで助かる命もある」

「違う……違う。遅れは罪だ。遅れが妹を殺した」

「違う」

望月は静かに言った。

「日菜ちゃんを殺したのは、遅れじゃない。見て見ぬふりをした大人たちだ。篠原も、鳥羽も、牧野も。そして、俺もだ」

玖珂の目が揺れた。

望月は続けた。

「俺はあの時、もっと調べるべきだった。報告書に署名すべきじゃなかった。お前が俺を恨む理由はある」

「なら死ね」

「死なない」

望月は一歩近づいた。

「死んで楽になる資格も、お前にはない。お前は生きて裁かれろ。お前が殺した人間の名前を、一人ずつ背負え」

玖珂は笑おうとした。

だが、笑いは喉で壊れた。

彼はナイフを自分の喉元へ向けた。

「僕の発車を止めるな」

望月は飛び込んだ。

刃が床に落ちる。二人はもつれ合い、デッキの柵に激突した。

玖珂の体が柵の外へ傾いた。

下は夜の駅前。落ちれば助からない。

玖珂は望月を見上げた。

「離せば、完成しますよ」

望月は片手で玖珂の腕をつかんでいた。肩の傷が裂け、激痛が走った。

「完成なんかさせるか」

「なぜです。僕はあなたを殺そうとした」

「刑事だからだ」

望月は歯を食いしばった。

「それと……もう、誰も駅で死なせたくない」

神谷と駅員たちが駆けつけ、玖珂を引き上げた。

玖珂暦人は床に倒れ、初めて声を上げて泣いた。

それは後悔の涙ではなかったかもしれない。敗北の涙かもしれない。あるいは、自分の時刻表が破られたことへの怒りかもしれない。

それでも、望月には一瞬だけ、十五年前の駅で立ち尽くしていた少年が戻ってきたように見えた。

6 零時零分発

玖珂暦人は逮捕された。

篠原、鳥羽の死亡については殺人。牧野については殺人未遂。駅システムへの不正侵入、威力業務妨害、脅迫、その他数えきれない罪。

だが、事件はそこで終わらなかった。

玖珂の部屋から、十五年前の事故資料が見つかった。そこには、警察が紛失したはずの防犯カメラ記録の一部が保存されていた。

映像には、幼い玖珂日菜が映っていた。

彼女は事故の直前、ホームで倒れていた老人を助けようとしていた。その老人を避けるために人波が乱れ、彼女は転倒した。篠原は駅の混乱を恐れて通報を遅らせた。牧野は警備会社の責任を避けるため、記録を書き換えた。鳥羽は搬送時刻をごまかした。

そして、望月の署名が、そのすべてを事故として閉じた。

望月は資料を見つめたまま、長い間動けなかった。

神谷が言った。

「望月さんだけの責任じゃありません」

「そう言ってもらう資格はない」

「でも、今度は閉じないんでしょう」

望月は顔を上げた。

「閉じない。全部、掘り返す」

夜明け前。

新静岡駅は、事件の痕跡をまだ残していた。割れた広告パネル。規制線。報道陣のカメラ。疲れきった駅員たち。

それでも、駅は開く準備をしていた。

滝田フミが、孫の陽太を連れて望月に近づいてきた。

「刑事さん」

陽太は小さな手で、望月に絆創膏を差し出した。

「けが、いたい?」

望月は一瞬、言葉を失った。

「……少しな」

「じゃあ、これ」

絆創膏には、下手な字で太陽の絵が描かれていた。

望月はそれを受け取り、笑った。

「ありがとう」

陽太は駅のホームを見た。

「でんしゃ、またはしる?」

望月は頷いた。

「走るよ」

「こわくない?」

望月は少し考えた。

事件は終わった。だが、死んだ者は戻らない。玖珂日菜も、篠原も、鳥羽も、そして玖珂暦人が壊した多くの人生も。

正義は遅れて来る。時には、来ても何も救えない。人は間違える。遅れる。見捨てる。その事実は、どんな朝日にも消せない。

それでも。

ホームの向こうから、始発電車のライトが近づいてきた。

新しい一日が、線路の上に白く伸びていく。

望月は陽太の頭を撫でた。

「怖くても、走るんだ」

駅のアナウンスが流れた。

――まもなく、一番線に、新清水行きが到着いたします。

大型時刻表には、もう不気味な文字はなかった。ただ、いつもの発車時刻が並んでいる。

だが望月には、その数字の隙間に、見えない一行が刻まれているように思えた。

人間は、時刻表どおりには生きられない。

陽が昇る。

むなしさも、絶望も、消えはしない。それでも光は、線路を照らす。

望月駿介は、血のにじむ肩に陽太の絆創膏を貼り、静かに改札の向こうを見つめた。

新静岡駅の朝は、また音から始まる。

そしてその朝だけは、誰もが少しだけ、時計ではなく人の顔を見ていた。

 
 
 

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