死体はのぞみより速く走る
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 12分

――東海道新幹線・MAXアリバイ連続殺人――
※作中の列車番号・時刻は架空です。
東海道新幹線の時刻表には、空白がある。
東京、品川、新横浜。その先に並ぶ小田原、熱海、三島、新富士、静岡、掛川、浜松――。
停まる列車には時刻がある。停まらない列車には、時刻がない。
けれど、列車はそこを通っている。
人間の目から消された数分。紙の上では存在しない場所。その空白に、犯人は死体を置いた。
最初の遺体は、新富士駅の新幹線改札内にある多目的ロッカーから見つかった。
被害者は元病院長、柴田邦彦。六十九歳。背広の胸ポケットには、折り畳まれた小さな時刻表が差し込まれていた。
赤いペンで囲まれていたのは、架空のように見える一行。
のぞみ404号 東京18:21発 名古屋19:58着
余白には、几帳面な文字でこう書かれていた。
死体は、のぞみより速く走れるか?
二人目の遺体は三日後、静岡駅の新幹線構内で見つかった。
被害者は弁護士、鳴海圭吾。五十八歳。掌に握らされていた紙片には、また同じ筆跡があった。
清水署の熱血さんへ。時刻表を信じるな。人間を信じるな。俺のIQはMAXだ。
県警本部が色めき立つ中、清水署強行犯係の刑事、真壁烈は、その紙片を見て舌打ちした。
「ふざけやがって」
真壁は四十一歳。がっしりした肩、短く刈った髪、怒ると目だけが先に燃える男だった。清水署では「火事場の烈」と呼ばれている。理由は単純だ。火の中にも、人の中にも、何も考えず飛び込むからだ。
相棒の風間美澄は、反対に氷のような女だった。県警本部から来た捜査一課の警部補で、眼鏡の奥の目は、いつも数字を読んでいるように冷静だった。
「真壁さん、犯人は自分を“MAX”と名乗っています」
「マックスだかミックスだか知らねえ。人を殺して笑う奴は、俺が捕まえる」
「問題は、捕まえる相手が人間らしい動きをしていないことです」
美澄は捜査本部の白板に、二本の線を引いた。
一本は、被疑者として浮上した男の移動経路。男の名は、三枝暁人。三十三歳。交通データ解析会社の社長。鉄道ダイヤの最適化ソフトで特許を持つ天才だった。
もう一本は、犯行時刻だった。
三枝は第一の殺人が起きた時、東京駅の新幹線改札を通過している。その後、名古屋駅の改札を出た記録もある。東京から名古屋へ。のぞみ404号に乗っていれば、確かに辻褄が合う。
第二の殺人の時も同じだった。三枝のスマートフォンは東海道新幹線車内の通信網を拾っていた。名古屋のホテルの防犯カメラにも、犯行直後の三枝の姿が映っていた。
「つまり三枝は、東京から名古屋へ移動していた。静岡にも新富士にも降りていない」
美澄が言う。
「だから殺せない、ってか」
真壁は白板を睨んだ。
「でも死体は静岡にある。だったら、どっちかが嘘だ」
「ええ。そして犯人は、その嘘を楽しんでいます」
その瞬間、捜査本部の電話が鳴った。
係員が受話器を取った。顔色が変わった。
「真壁刑事宛てです」
真壁は受話器を奪った。
「誰だ」
受話器の向こうで、男が笑った。
若い。柔らかい。それでいて、背筋に氷を滑り込ませるような声だった。
『清水署の熱血さん?』
「三枝暁人か」
『名前で呼ぶなんて、もう友達気取り?』
「てめえ、どこにいる」
『時刻表の中』
「ふざけるな」
『ふざけてるのは警察だよ。人間が死んでも、まずアリバイを見る。涙より数字、叫びより時刻。だから俺は教えてやってる。数字は人を殺すんだって』
真壁は受話器を握り潰しそうになった。
「なぜ殺した」
少しだけ沈黙があった。
『殺した? 違うな。俺は発車させただけだ。あいつらは昔から、死ぬ時刻に向かって走っていた』
「何の話だ」
『三人目は今夜。二十一時十六分。浜松。最後の乗換だ』
「待て!」
『間に合うかな、熱血さん。のぞみより速く走ってごらん』
通話は切れた。
真壁は受話器を置くと、捜査本部の全員を見回した。
「浜松だ。三人目を止める」
美澄が静かに言った。
「その前に、トリックを解かないと同じことになります」
「理屈は後だ」
「理屈が先です。犯人は、理屈で人を殺している」
真壁は怒鳴りかけた。だが、美澄の目を見て、拳を下ろした。
「……言え」
美澄は時刻表を広げた。
「三枝のアリバイは“東京から名古屋へ移動していた”という一点に支えられています。けれど、それは“のぞみ404号に乗り続けていた”ことの証明ではありません」
真壁は眉をひそめた。
「どういう意味だ」
美澄は赤ペンで別の列車を囲んだ。
こだま742号 東京17:56発 静岡19:02着/19:10発ひかり886号 静岡19:12発 名古屋19:58着のぞみ404号 東京18:21発 名古屋19:58着
真壁は紙を見た。
最初は何も分からなかった。だが、数字が頭の中で噛み合った瞬間、息が止まった。
「……同じ時刻に名古屋へ着く」
「そうです」
美澄は頷いた。
「三枝は、のぞみに乗っていなくてもいい。東京を二十五分早く出る“こだま”に乗れば、静岡で八分の空白ができます。その間に犯行を行い、静岡に停まる“ひかり”に乗り換えれば、名古屋到着はのぞみ404号と同じ。改札記録だけ見れば、東京から名古屋へ移動したように見える」
「だが、車内の通信記録は」
「スマートフォンをのぞみ404号に乗せておけばいい。本人が乗る必要はありません。鞄でも、協力者でも、あるいは偶然の乗客に預けた荷物でも」
「映像は?」
「帽子、マスク、黒いコート。防犯カメラの粗い映像なら十分です。私たちが“天才はのぞみに乗るはずだ”と思い込めば、あとは犯人の勝ちです」
真壁は奥歯を噛んだ。
「空白の八分か」
「ええ。時刻表に載らない、停車と待避の隙間です」
その時、捜査本部の隅で、小さな声がした。
「でも、その人、静岡で黒はんぺん買ってたよ」
全員が振り向いた。
そこにいたのは、駅弁販売員の少女、前島梢だった。十七歳。二人目の被害者が見つかった日、静岡駅構内で三枝らしき男を見たと証言しに来ていた。
真壁は膝を折り、目線を合わせた。
「今、何て言った?」
「黒はんぺんのおむすび。静岡駅限定の。あの人、黒い帽子で顔はよく見えなかったけど、買った時に笑ったんです。『これ、時刻表よりうまい?』って」
美澄が息を呑んだ。
「のぞみ404号は静岡に停まらない」
真壁は立ち上がった。
「三枝は静岡にいた」
梢は唇を噛んだ。
「刑事さん、あの人、楽しそうでした。人が死んだ日なのに、すごく楽しそうで……怖かった」
真壁の胸の奥で、何かが燃えた。
「大丈夫だ。もう笑わせねえ」
その夜、東海道新幹線は、いつも通り光の帯になって日本を貫いていた。
三枝が予告した二十一時十六分。浜松。最後の標的は、御子柴宗一郎という老人だった。
元裁判官。柴田、鳴海と同じく、十五年前のある事件に関わっていた。
清水の児童養護施設「あさひ園」で起きた少女死亡事故。亡くなったのは、三枝暁人の妹、三枝陽。十一歳。
表向きは事故死。けれど記録は不自然だった。
死亡推定時刻に関わった医師、柴田。施設側を弁護した鳴海。訴えを退けた裁判官、御子柴。
三枝はその三人を、東海道新幹線の時刻表に乗せて殺していた。
「復讐か」
浜松へ向かう車内で、真壁は低く呟いた。
美澄は首を振った。
「最初はそうだったのかもしれません。でも今の三枝は、復讐を楽しんでいます。目的が怒りから快楽に変わっている」
「胸糞悪いな」
「ええ」
列車が静岡を過ぎた。
窓の外は闇。その闇の中に、町の灯りが点々と浮かんでいた。
清水の港。倉庫街。巴川。朝になれば、何事もなかったように陽が昇る場所。
真壁はポケットの中で、古い写真を握っていた。
十五年前の「あさひ園」事件。その初動捜査に関わった一人が、真壁の父だった。
父は五年前に死んだ。無口で、不器用で、酒を飲むといつも同じことを言った。
「烈、人を助ける時はな、正しいかどうか考える前に手を伸ばせ」
その父の名前が、古い捜査資料の片隅にあった。
三枝が狙っているのは、御子柴だけではない。真壁自身もまた、父の罪を背負わされていた。
二十一時七分。浜松駅。
こだま771号がホームに停まっていた。乗客が降り、乗客が乗る。停車時間は九分。その間に、後続ののぞみ二本が通過する。
空白の九分。
真壁と美澄はホームを走った。
「御子柴はどこだ!」
無線から声が返る。
『見つかりません! 待合室にも改札内にもいません!』
その時、真壁の携帯が震えた。
非通知。
出ると、三枝の声がした。
『遅いよ、熱血さん』
「三枝!」
『御子柴はもう乗っている。こだま771号、十三号車。だけど安心して。殺すのは老人じゃない』
真壁の足が止まった。
『老人はもう十分怯えた。次に死ぬのは、御子柴の孫娘だ。名前は結衣。八歳。あさひ園の陽と同じ歳に近い。歴史は美しいね』
真壁の視界が赤く染まった。
「てめえ!」
『怒ると判断が鈍るよ。二十一時十六分、列車は発車する。発車したら、もう誰も止められない』
十三号車。
真壁は走った。美澄が後ろから叫ぶ。
「真壁さん、待って!」
待てるわけがなかった。
発車ベルが鳴った。
十三号車のデッキに、黒いコートの男がいた。三枝暁人。
その腕の中に、小さな女の子がいた。口を塞がれ、涙で顔を濡らしている。
三枝は美しい顔で笑った。
「ようこそ、最後の時刻へ」
真壁は拳を握った。
「その子を離せ」
「命令形は嫌いだな。警察は昔からそうだ。間に合わなかったくせに、命令だけはする」
「俺はここにいる」
「でも、陽の時はいなかった」
三枝の笑顔が消えた。
「清水署の真壁。君の父親は記録を閉じた。あの日、陽が寒い倉庫で泣いていた時、警察は時刻表を見ていた。“関係者は東京行きのひかりに乗っていた。だから犯行は不可能”。そうやって終わった」
真壁の胸に、重いものが落ちた。
「父が……」
「そう。君も同じ血だ」
ドアが閉まりかけた。
真壁は飛び込んだ。
美澄も続こうとしたが、三枝が結衣の首元に小さな刃物を当てた。美澄は動けなかった。
ドアが閉まった。
こだま771号が動き出す。
真壁と三枝と結衣。三人を乗せて、列車は夜へ滑り出した。
「これで密室だ」
三枝が囁く。
「次の駅まで、君は何もできない。人質を取られた熱血刑事。時刻表に閉じ込められた正義。最高だ」
真壁は一歩、前に出た。
「お前は陽ちゃんのために殺してるんじゃない」
三枝の目が細くなった。
「何?」
「お前は自分が気持ちよくなるために殺してる。死んだ妹の名前まで使ってな」
三枝の表情が歪んだ。
「黙れ」
「陽ちゃんは、そんなこと望んでねえ」
「黙れ!」
三枝が結衣を突き飛ばした。
真壁は飛び込んだ。結衣を抱きかかえ、床に転がる。
刃物が頬をかすめた。熱い痛みが走る。
三枝が襲いかかる。真壁は片腕で結衣を庇いながら、もう片方の腕で三枝の手首を掴んだ。
列車が揺れた。
二人はデッキの壁に叩きつけられた。車内から悲鳴が上がる。
三枝は細身だったが、力が異様に強かった。真壁の顎に肘が入る。視界が白く弾ける。
「人間はね、真壁さん」
三枝は息を切らしながら笑った。
「時刻通りに恐怖するんだ。発車ベルで焦り、到着時刻で安心する。命も同じだよ。終わりの時刻を見せてやれば、誰でも壊れる」
真壁は血の混じった唾を吐いた。
「違うな」
「何が」
「人間は、時刻表じゃねえ」
真壁は三枝の腕を引き込み、肩で押し返した。三枝の背中がデッキの扉に当たる。
「遅れてもいい。間違えてもいい。誰かが手を伸ばせば、まだ間に合う」
三枝の目が一瞬だけ揺れた。
その隙に、結衣が泣きながら叫んだ。
「おじさん、もうやめて!」
車内の乗客たちが動いた。
若い会社員が非常通報ボタンを押した。老婦人が結衣を抱き寄せた。高校生が落ちた刃物を座席の下へ蹴った。誰も英雄ではなかった。誰も時刻表には載らない人間だった。
けれど、その小さな手が、三枝の計算を狂わせた。
真壁は三枝を床に組み伏せた。
「三枝暁人。殺人および殺人未遂で逮捕する」
三枝は床に頬を押しつけられたまま、低く笑った。
「逮捕? 違うよ。これで終わりじゃない」
「何?」
「最後の死体が残っている」
列車は掛川駅で緊急停車した。
三枝は連行された。御子柴も保護された。結衣は祖父に抱きしめられ、声を上げて泣いた。
事件は終わったように見えた。
だが、三枝の言った「最後の死体」は、その夜のうちに見つかった。
清水の古い倉庫。十五年前、三枝陽が死んだ場所。
そこに残されていたのは、遺体ではなかった。
小さな木箱。中には、色褪せた日記帳が入っていた。
三枝陽の日記だった。
震える手で、真壁は最後のページを開いた。
お兄ちゃんが怒って、ドアを閉めた。でも、お兄ちゃんは悪くない。すぐ戻ってくるって言ったから。私は待つ。朝になったら、また陽はのぼる。
真壁は息を失った。
陽を倉庫に閉じ込めたのは、三枝暁人自身だった。子どもの喧嘩。一瞬の怒り。戻るつもりだった。けれど大人たちが異変に気づくのが遅れ、保身のために記録を歪めた。
柴田も、鳴海も、御子柴も罪を隠した。だが、最初の扉を閉めたのは、暁人だった。
彼は知っていたのか。それとも忘れたふりをしていたのか。
たぶん、両方だった。
三枝は復讐していたのではない。自分の罪を知っている者を殺し、自分を最後の被害者に仕立てようとしていた。警察を笑い、遺族を笑い、時刻表を操りながら、本当は十五年前の自分自身から逃げていた。
美澄が静かに言った。
「これが、最後の死体ですね」
真壁は日記を閉じた。
「三枝暁人の心だ」
翌朝。
清水港の空は、夜の藍色からゆっくり薄くなっていった。
真壁は防波堤に立っていた。頬の傷には白いガーゼが貼られている。
隣には結衣がいた。祖父の御子柴は病院にいる。結衣は真壁の大きな手を、両手で握っていた。
「刑事さん」
「ん?」
「昨日の電車、怖かった」
「ああ」
「でも、助けてくれる人、いっぱいいた」
真壁は海を見た。
「そうだな」
水平線の向こうから、太陽が昇り始めた。
赤い光が、倉庫の屋根を照らし、港の水面を照らし、遠くを走る東海道新幹線の白い車体を一瞬だけ金色に染めた。
時刻表には、今日も無数の数字が並ぶ。列車は定刻に走る。人は遅れ、迷い、間違え、取り返しのつかない罪を犯す。
それでも誰かが泣けば、誰かが手を伸ばす。誰かが倒れれば、誰かが名前を呼ぶ。
世界は冷たい数字だけではできていない。
真壁はポケットの中の父の写真を握った。
父が何を隠し、何を悔やみ、何を守ろうとしたのか。すべてはまだ分からない。
だが、分からないからこそ、追う。時刻表の空白に置き去りにされた声を、もう二度と見捨てないために。
結衣が小さく言った。
「陽、のぼったね」
真壁は頷いた。
「……ああ」
むなしさは消えない。絶望も、たぶん消えない。
それでも陽はまた昇る。
そして清水署の熱血刑事は、昇る陽に背を向け、まだ冷たい朝の町へ歩き出した。





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