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死体は終電より先に着く――静鉄零分アリバイ連続殺人

※本作はフィクションです。作中の事件・人物・時刻表・描写はすべて創作であり、実在の鉄道会社・警察組織・地域とは関係ありません。

最初の死体は、静岡鉄道・新清水駅のホーム端で発見された。

午後八時十七分。

清水の夜は湿っていた。巴川のほうから流れてくる潮の匂いに、雨上がりのアスファルトの匂いが混じっている。二両編成の電車がホームを離れた直後、駅員が悲鳴を上げた。

ベンチの下に、男がいた。

背広姿。五十代。胸元には折り畳まれた小さな時刻表が差し込まれていた。

赤いペンで、ひとつの時刻が囲まれている。

新静岡発 二十時十七分。新清水着 二十時十七分。

あり得ない時刻だった。

どんな電車も、静岡から清水まで零分では走れない。

清水署刑事課強行犯係の清見岳人は、その紙片を見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「……ふざけやがって」

清見は三十六歳。短く刈った髪、日焼けした顔、すぐ拳を握る癖。上司からは「熱血が服を着て歩いている」と言われる。だが彼の怒りは、ただの激情ではなかった。

時刻表。

静鉄。

この二つの言葉は、彼にとって父の記憶そのものだった。

父はかつて静鉄の運転士だった。十二年前、長沼近くの踏切事故で少年が死に、父は責任を問われた。父は潔白を訴え続けたが、世間は聞かなかった。やがて父は、朝焼けの清水港を見下ろす埠頭で、自ら命を絶った。

その父が、幼い清見に言ったことがある。

「時刻表は、人を縛るためのものじゃない。帰る場所へ連れていくためのものだ」

清見は死体の胸に刺さった紙を睨んだ。

誰かが、その言葉を踏みにじっている。

その夜、清水署に電話が入った。

若い男の声だった。

「清見刑事ですね。はじめまして」

「誰だ」

「犯人、という言葉は乱暴ですね。僕は観察者です。人間がどれほど正確に壊れるかを観察している」

「名乗れ」

受話器の向こうで、男は笑った。

「九条玲央。昔、検査でIQの上限値を叩いたので、みんな僕をこう呼びました」

一拍置いて、男は囁いた。

MAX

清見の手に力が入った。

「殺したのはお前か」

「それを当てるのが警察でしょう。次の停車駅をお楽しみに」

電話は切れた。

第二の死体は、草薙駅近くの細い路地で見つかった。

午後八時三十一分。

死んでいたのは、第一の被害者と古くから関係のあった弁護士だった。胸元にはまた、時刻表。

新清水発 二十時三十一分。草薙着 二十時三十一分。

清見の相棒、由比千尋は、冷静な声で言った。

「零分移動。二件目も同じです」

「同じ犯人なら、新清水から草薙まで十四分で移動して、殺して、証拠を残したことになる」

「不可能です。防犯カメラも見ました。第一の現場にいた不審者は、第二の被害者本人でした」

清見は顔を上げた。

「本人?」

「第一の被害者が死ぬ直前、ホーム端に近づいた男が映っています。帽子とマスクで顔は不鮮明ですが、歩き方、身長、左足を引く癖が一致します」

「つまり、第二の被害者が第一の被害者を殺した?」

「可能性は高いです。でも、その十四分後に第二の被害者が死んでいる」

清見は黙った。

由比は続けた。

「さらに妙です。第二の被害者のIC乗車履歴には、新清水から草薙まで移動した記録があります。つまり彼は第一の現場から電車に乗り、草薙で降り、自分が殺された」

「誰かが待っていた」

「はい。そしてその人物は、次の被害者かもしれません」

清見は時刻表を握りつぶしそうになった。

犯人は電車に乗っていない。

人間を乗せている。

殺意を、駅から駅へ運ばせている。

第三の死体は、長沼駅の車庫近くで発見された。

午後八時四十六分。

被害者は元医師。十二年前の踏切事故で、少年の死亡診断書を書いた男だった。

胸元の時刻表には、こうあった。

草薙発 二十時四十六分。長沼着 二十時四十六分。

そして被害者のスマートフォンには、震える手で録音された音声が残っていた。

「やらなければ、娘に全部送ると言われた。私は……私は殺したくなかった。だが、あいつは知っていた。十二年前のことを、全部……」

録音はそこで途切れていた。

清見は鑑識車の陰で壁を殴った。

拳から血が滲んだ。

「くそっ!」

由比が止めに入る。

「清見さん」

「全員、十二年前の事故に関わってる。父を殺した連中だ」

「だからこそ冷静に」

「冷静でいられるか!」

清見の叫びが、夜の車庫に反響した。

そのとき、長沼の構内で回送電車の警笛が短く鳴った。

一瞬、清見の記憶が引き裂かれた。

父の背中。運転席。白い手袋。朝の光。

「岳人、電車はな、止まるためにも走ってるんだ」

清見は息を吸った。

怒りの熱が、ほんの少しだけ形を変えた。

「……由比。三人の乗車履歴を全部つなげろ。死亡推定時刻じゃない。乗った時刻だ」

由比が目を細める。

「乗った時刻?」

「九条は殺害時刻を示してるんじゃない。命令時刻を示してる。時刻表は犯人の逃走経路じゃない」

清見は血のついた拳を開いた。

殺人の引き継ぎ表だ

九条玲央は、警察に挑戦状を送り続けた。

署のFAX。

駅前のコインロッカー。

交番のポスト。

すべてに時刻表のコピーが入っていた。

余白には、整いすぎた文字でこう書かれていた。

人間は電車より正確に遅れる。恐怖を乗せれば、誰でも定刻通りに殺す。

清見たちは過去を洗った。

十二年前、長沼の踏切で死んだ少年の名は、朝倉陽斗。小学四年生。事故原因は「少年の不注意」とされた。

だが実際には、踏切周辺の仮設工事が視界を塞ぎ、警報機の点検記録にも不自然な空白があった。

第一の被害者は、その工事を承認した市議。

第二の被害者は、遺族との示談を進めた弁護士。

第三の被害者は、事故直後の診断書を曖昧に処理した医師。

そして父、清見大吾は運転士として世間の怒りを一身に浴びた。

「じゃあ九条玲央は、陽斗くんの親族ですか」

由比が言った。

清見は首を振った。

「戸籍上は違う。だが、養護施設の記録がある。九条は朝倉家に一時預けられていた。陽斗の兄同然だった」

「復讐……」

「違う」

清見は低く言った。

「復讐だけなら、こんなゲームにはしない」

九条は殺人を楽しんでいる。

相手の恐怖を計算し、罪悪感を利用し、時刻表という日常を凶器に変えた。

その知能は本物だ。

だが清見には、ひとつだけ腑に落ちないことがあった。

零分。

なぜ、零分なのか。

新静岡発、新清水着、同時刻。

草薙発、長沼着、同時刻。

殺人の引き継ぎなら、実際の移動時間を書けばいい。なのに九条は、すべてを零分にしている。

清見は署を飛び出し、新清水駅へ向かった。

改札横に、古い売店がある。そこで働く青葉澄江という老女は、父の時代から駅にいた。

澄江は清見の顔を見るなり、缶コーヒーを差し出した。

「また怖い顔してるね、岳ちゃん」

「澄江さん、聞きたいことがある」

「お父さんのことかい」

清見は黙った。

澄江は改札の向こうを見た。

「大吾さんはね、時刻表を毎朝なぞってたよ。秒まで覚えてた。でも一度だけ、私に言ったことがある」

「何を」

「時刻表に書いてない時間が、一番大事だって」

清見の眉が動いた。

「書いてない時間?」

「お客さんが階段を降りる時間。子どもが靴ひもを結ぶ時間。お年寄りが席を立つ時間。そういうものを見落とす運転士は、どんなに定刻でも駄目だって」

清見は缶コーヒーを握った。

時刻表に書いてない時間。

零分。

「そうか……」

清見は走り出した。

由比に電話をかける。

「次の被害者を特定する。十二年前の事故で、唯一名前が出ていない人間がいる」

「誰ですか」

「生き残った妹だ。朝倉日向」

朝倉日向は、清水区内の小さな花屋で働いていた。

弟の陽斗を失ったあと、母は病み、父は家を出た。彼女は誰も責めなかった。ただ毎年、命日になると長沼の踏切近くにひまわりを供えた。

清見が花屋に駆け込んだとき、店内は荒らされていた。

床に散った黄色い花びら。

レジ横に置かれた小さな時刻表。

新清水発 二十三時五十九分。新静岡着 二十三時五十九分。

由比が青ざめる。

「終電です」

清見は紙を裏返した。

そこには、九条の字ではない、幼い文字があった。

お兄ちゃんを止めてください。陽斗は、誰かを殺してほしくなかった。

清見は一瞬、呼吸を忘れた。

日向は知っていたのだ。

九条が何をしようとしているかを。

それでも彼女は、警察に助けを求めるために、この紙を残した。

「場所は?」

由比が言う。

「新静岡か、新清水か、それとも長沼か……」

清見は時刻表を見つめた。

新清水発、二十三時五十九分。

新静岡着、二十三時五十九分。

零分移動。

だが、澄江の言葉が耳に残っている。

時刻表に書いてない時間。

清見は顔を上げた。

「電車じゃない」

「え?」

「九条は終電を使う気がない。終電が出たあと、駅に残る人間がいる。乗客じゃない。駅員、清掃員、回送、車庫……」

由比が息を呑む。

「長沼車庫」

清見は走った。

長沼車庫は、夜の巨大な檻のようだった。

並んだ車両の窓が、黒い鏡のように月を映している。レールは濡れ、構内灯が白く滲んでいた。

清見はフェンスを越えた。

「警察だ!」

その声に応えるように、車庫の奥で電車の室内灯が一斉に点いた。

無人の二両編成。

その先頭車両の中に、朝倉日向がいた。

手首を縛られ、座席に座らされている。

そして運転席には、九条玲央が立っていた。

細い体。白いシャツ。穏やかな笑み。

まるで殺人現場ではなく、講義室にいるような顔だった。

「遅いですよ、清見刑事」

清見は車両に飛び乗った。

「日向さんを放せ」

「彼女は最後の乗客です。いや、最後の時刻と言うべきかな」

「お前の遊びは終わりだ」

九条は笑った。

「終わり? 違う。ここから完成するんです」

清見は一歩進む。

九条は日向の首元に小型の刃物を当てた。

清見の足が止まる。

「あなたは気づいた。素晴らしい。被害者たちは殺される前に、誰かを殺していた。罪人たちは互いに罪をなすりつけられ、恐怖で動いた。人間は時刻表より扱いやすい」

「黙れ」

「でも、あなたはまだ最後の答えを知らない」

九条は胸ポケットから一枚の紙を出した。

時刻表。

そこに赤丸で囲まれた文字を見て、清見の心臓が止まりかけた。

清見岳人発 零時零分。九条玲央着 零時零分。

九条は恍惚とした目で言った。

「最後の犯人は、あなたです」

清見の視界が赤く染まった。

「十二年前、あなたの父は殺された。社会に。嘘に。ここにいる彼女の弟も殺された。なのに法は誰も裁かなかった」

九条は刃物を床に落とした。

金属音が響く。

「さあ、殴りなさい。撃ちなさい。僕を殺せば、あなたは復讐を完成させる。殺さなければ、僕はまた誰かを壊す」

清見は拳を握った。

父の顔が浮かんだ。

世間に罵られ、目の奥から光を失っていった父。

ひまわりを供え続けた少女。

恐怖に操られ、他人を殺して死んだ者たち。

すべてが胸の中で燃えた。

清見は九条に飛びかかった。

二人は車内の床に倒れ込んだ。吊革が激しく揺れる。九条は笑いながら清見の腹を蹴り、清見は座席に叩きつけられた。

「清見刑事! あなたも壊れろ!」

九条が非常用ハンマーを掴む。

清見は身をひねり、拳を九条の顔面に叩き込んだ。

九条がよろめく。

もう一発。

さらに一発。

九条の笑みが崩れた。

清見は馬乗りになり、拳を振り上げた。

そのとき、日向の声がした。

「やめてください!」

か細い声だった。

だが、車庫全体に響くほど強かった。

「弟は……陽斗は……そんなこと望んでません」

清見の拳が止まった。

日向は泣いていた。

「誰かが誰かを殺して、それで朝が来なくなるのを、もう見たくないんです」

清見の拳が震えた。

九条が血の混じった笑みを浮かべる。

「ほら、刑事さん。人間味ってやつですか。美しいけど、無力だ」

清見は九条の胸倉を掴んだ。

そして、殴らなかった。

手錠をかけた。

「無力じゃない」

清見は低く言った。

「人間味が残ってるから、お前みたいな化け物を人間として裁ける」

その瞬間、九条の表情から笑みが消えた。

初めて、彼の目に恐怖が宿った。

殺されることではない。

自分の作った物語が、完成しなかったことへの恐怖だった。

夜明け前、清水署の取調室で九条玲央は沈黙していた。

連続殺人の全貌は、残酷なものだった。

九条は十二年前の事故資料を掘り起こし、関係者の罪と弱みを握った。そして一人ずつ脅迫し、時刻表通りに別の関係者を襲わせた。

殺した者が、次に殺される。

犯人が被害者になり、被害者が犯人になる。

静鉄の短い路線を、殺意が各駅停車で渡っていった。

零分アリバイの正体は、超人的な移動ではなかった。

犯人そのものが、駅ごとに乗り換わっていたのだ。

清見は取調室の外で報告書を閉じた。

由比が隣に立つ。

「勝ったんですよね、私たち」

清見は答えなかった。

勝った。

そう言えるのか。

死んだ者は戻らない。父の名誉が回復されても、父は帰ってこない。操られた人間たちの罪も消えない。日向の弟も、朝焼けを見ることはない。

窓の外が、少しずつ白んでいく。

始発の電車が走り出す時刻だった。

清見は新清水駅へ向かった。

ホームには、青葉澄江がいた。彼女は何も言わず、清見に温かい缶コーヒーを渡した。

やがて、静かな音を立てて電車が入ってきた。

二両編成。

空っぽに近い車内。

それでも、誰かを職場へ運び、誰かを学校へ運び、誰かを帰る場所へ運ぶために、電車は定刻通り扉を開いた。

朝倉日向がホームの端に立っていた。

手には、ひまわりが一輪。

清見は彼女の隣に立った。

「陽斗くんに、伝えましょう」

日向は涙を拭いた。

「何をですか」

清見は昇り始めた陽を見た。

清水の空が、ゆっくり金色に染まっていく。

「もう、誰も時刻表で殺させないって」

電車のドアが閉まった。

発車ベルが鳴った。

九条玲央の狂った時刻表は終わった。

それでも、失われたものの大きさは、朝の光でさえ消せなかった。

むなしさは残る。

絶望も残る。

だが、レールの先に陽はまた昇る。

清見岳人は、始発の光を浴びながら、父の声を思い出していた。

時刻表は、人を帰る場所へ連れていくためのものだ。

その言葉だけが、凍りついた夜の終点で、まだ温かかった。

 
 
 

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