死者専用のぞみ0号――夜明けに父を殺す時刻表
- 山崎行政書士事務所
- 5月16日
- 読了時間: 15分

※作中の列車番号・時刻・運用は物語上の架空設定です。
午前六時ちょうど。東京駅の東海道新幹線ホームに、まだ夜の名残がへばりついていた。
白い車体が、眠りから醒めた獣のようにホームへ滑り込む。発車標には、無機質な光でこう表示されていた。
のぞみ301号 新大阪行 6:00発
警視庁捜査一課の刑事、真壁蓮司は、その表示を見た瞬間、胸の奥に理由のない寒気を覚えた。
ポケットのスマートフォンが震えた。
非通知。
「真壁です」
電話の向こうで、若い男が笑った。
「おはよう、刑事さん。陽はまた昇る。けれど、死者はもう起きない」
「誰だ」
「最初の停車駅は名古屋。八時十二分。時刻表を読めない刑事に、人は救えない」
「ふざけるな。場所を言え!」
男は楽しそうに、息を吐いた。
「僕は今、東海道新幹線に乗っている。だから殺せない。なのに、殺す」
通話は切れた。
その二時間十二分後。
名古屋駅の新幹線改札内、関係者用の小さな応接室で、総合交通システム会社の役員、久坂剛が死んでいるのが見つかった。
机の上には、古い紙の時刻表が一枚。
赤鉛筆で、一本の列車だけが囲まれていた。
こだま731号 東京6:03発 新大阪行
そして余白に、幼い字のような筆跡で一文。
――こだまは遅いんじゃない。誰かを待っているんだ。
1
「また東海道かよ」
名古屋駅に入った真壁は、捜査員の群れを押し分けた。大柄な体に紺のコート。目つきは鋭く、声は怒鳴っていなくても怒鳴っているように聞こえる。
現場は密室だった。
応接室の内鍵はかかっていた。窓はない。廊下の監視カメラには、被害者が八時五分に一人で入る姿が映っていた。そして八時十二分、室内の非常通報ボタンが鳴った。駅員が駆けつけた時には、久坂はすでに息絶えていた。
だが、その時刻に犯人と思われる男は、東海道新幹線の車内にいた。
名乗りはない。ただ、通話の発信源は、こだま731号の車内Wi-Fi付近からだった。
同時刻、その列車は静岡から浜松へ向かう途中。名古屋にはまだ着いていない。
「幽霊が殺したって言いたいのか」
真壁が低く言うと、若い捜査員が首を振った。
「ですが、犯人は電話で『僕は乗っている』と。発信ログも列車内です。乗車記録もあります。東京駅で、白いコートの男がこだま731号に乗る映像も確認されました」
「顔は」
「マスクと帽子で不明。ただ、背格好は二十代から三十代。細身です」
真壁は、机の上の時刻表を見た。
紙が古い。今どき、こんなものを持ち歩く人間は少ない。角には、何度も折られた跡がある。
彼はその折り目に、妙な胸騒ぎを覚えた。
「久坂の身辺を洗え。あと、この時刻表を鑑識へ」
その時、応接室の外で泣き声がした。
小学生くらいの少女が、母親らしき女性に抱きしめられている。久坂の娘だった。父親が駅まで見送りに来るはずだったという。
少女は、小さな手で駅弁の袋を握りしめていた。
「パパ、約束したのに……帰りに、富士山の写真送るって……」
真壁は一瞬、言葉を失った。
殺人現場では、怒りが仕事になる。だが遺族の涙の前では、怒りはただの熱になる。熱すぎるものは、何も救えない。
彼は膝をつき、少女と目の高さを合わせた。
「お父さんの約束、俺が預かる。必ず、犯人を連れてくる」
少女は泣きながら、かすかに頷いた。
その時だった。
真壁のスマートフォンに、また非通知が入った。
「一つ目、定刻到着」
あの男の声だった。
「貴様……」
「刑事さん。怒っている? いいね。熱い人間は読みやすい。時刻表より単純だ」
「お前は誰だ」
「MAX」
「マックス?」
「僕の知能検査の数字は、測定上限で止まった。だから、そう呼ばれていた。君たちの捜査も、僕には遅延情報みたいなものだ」
真壁は拳を握った。
「次はどこだ」
男は囁いた。
「京都。十四時五十四分。今度も僕は、殺せない場所にいる」
通話の向こうで、発車ベルの音がした。
「なのに、殺す」
2
二件目は、京都駅で起きた。
被害者は大門律子。元弁護士。久坂と同じ会社の顧問をしていた過去がある。
京都駅新幹線構内の休憩ラウンジ。防犯カメラは、彼女が十四時四十八分に一人で入ったことを示していた。十四時五十四分、清掃員が異変に気づいた。
現場にはまた、古い時刻表。
赤鉛筆で囲まれていたのは、
こだま748号 新大阪13:10発 東京行
そして余白には、
――追い抜かれる者だけが、追い抜く者の影を知っている。
またしても犯人は、その時刻に別の場所にいた。
今度の発信源は、上りのこだま748号。京都には到着済みのはずだが、犯人のスマートフォンはその後も列車内で東へ移動していた。つまり、犯人は京都で降りていない。
なのに、大門は京都で死んだ。
「時刻表アリバイだな」
京都府警との合同捜査本部で、ベテラン刑事が唸った。
「列車に乗っている限り、駅で殺人はできない」
「逆だ」
真壁は時刻表を机に叩きつけた。
「こいつは、俺たちにそう思わせたいんだ。列車を檻に見せている。だが本当は違う」
「違うとは?」
「列車は檻じゃない。逃げ道だ」
真壁は壁に貼られた東海道新幹線の路線図を睨んだ。
東京、品川、新横浜、小田原、熱海、三島、新富士、静岡、掛川、浜松、豊橋、三河安城、名古屋、岐阜羽島、米原、京都、新大阪。
白い線の上を、無数の時刻が流れている。
点ではない。時間そのものが線路になっている。
その夜、三件目の予告が届いた。
新横浜 二十一時六分。のぞみは速い。だが、死はもっと速い。
三件目の被害者は、市村俊介。元週刊誌記者。十四年前、名古屋駅で起きたある転落事故の記事を書き、すぐに取り下げた男だった。
真壁は、その名前を見た瞬間、手の中の紙を握り潰した。
十四年前。
名古屋駅。
転落事故。
その事故で死んだのは、真壁の妻、沙羅だった。
そして、その日を境に、十二歳だった息子の海斗は、真壁の前から消えた。
3
沙羅は、ただの事故で死んだことになっていた。
だが当時、彼女は久坂、大門、市村の三人と接触していた。交通システム会社の不正を告発しようとしていたらしい。真壁はその事実を知らなかった。いや、知ろうとしなかった。
あの日、真壁は別の事件の張り込みにいた。
息子の海斗から何度も電話が入っていた。
母さんが駅にいる。変な人たちに追われている。お父さん、来て。
真壁は出なかった。
刑事としての判断だった。父親としては、取り返しのつかない判断だった。
沙羅は死に、海斗は親戚に引き取られた。数年後、その親戚とも連絡が途絶えた。真壁は探した。探したつもりだった。
だが、どこかで恐れていた。
息子に会ったら、言われるとわかっていたからだ。
どうして来なかったの。
「真壁さん」
京都駅のホームで、女性駅員が声をかけてきた。名札には宇佐美千尋とある。二件目の第一発見者だった。
「こだま748号の七号車、見ました。白いコートのお客様、確かに席にはいました。でも……」
「でも?」
宇佐美は眉を寄せた。
「人が座っている感じがしなかったんです」
「どういう意味だ」
「清掃の時、座席って生活感が残るんです。体温とか、匂いとか、ゴミの置き方とか。でも、その席は変でした。コートが膨らんでいて、帽子が窓側に傾いていて、まるで寝ている人みたいに見えたのに……足がなかった」
「足?」
「靴が、座席の下に揃えて置いてあったんです。きれいすぎるくらい」
真壁の背筋を冷たいものが走った。
人間ではない。荷物だ。
犯人は、座席に人間の形を作った。スマートフォンをそこに残し、列車内Wi-Fiに接続させ続けた。
だから、犯人の“影”は列車に乗り続けた。
本体は、降りていた。
「宇佐美さん。東海道の時刻表、すぐ出せますか」
「何年分でも」
彼女は迷わず言った。
「私は、時刻を守る仕事をしています。でも、人の命まで時刻に合わせる必要はありません」
真壁は初めて、わずかに笑った。
「いい言葉だ」
4
答えは、時刻表の余白にあった。
こだまは各駅に停まる。そして、速達列車に追い抜かれるため、途中駅で長く待つことがある。
犯人はそこを使った。
一件目。
こだま731号は、静岡で数分間停車し、後続の速達列車を先に行かせた。犯人はそこで降りた。スマートフォンと白いコートを座席に残し、まるで眠っている乗客に見せかけた。
そして、すぐ後から来た速達列車に乗り換え、名古屋に先着した。
名古屋で久坂を殺害。その後、まだ到着していなかったこだま731号が名古屋へ入線する。犯人は何食わぬ顔で再び同じ席に戻った。
つまり犯人は、列車より速かったのではない。
遅い列車に、自分のアリバイを運ばせていた。
二件目も同じだった。
上りのこだまを利用し、途中駅で降り、速達列車で京都へ先回りし、殺害後、また“自分の影”が乗る列車に戻った。
真壁は、時刻表に赤線を引いた。
「こいつは列車に乗っていたんじゃない。列車を乗り捨てて、また拾っている」
捜査員の一人が青ざめた。
「そんなこと、本当に可能なんですか」
「可能かどうかじゃない。起きている」
真壁は三件目の予告を見た。
新横浜。二十一時六分。
彼は時刻表をめくり、目を細めた。
「次は、もっと派手にやるつもりだ」
「犯人は誰なんです」
真壁は答えなかった。
だが胸の奥で、古い声が蘇っていた。
まだ幼かった海斗が、寝室の床いっぱいに時刻表を広げて言った声。
――お父さん、見て。こだまは遅いんじゃないよ。誰かを待っているんだよ。
真壁の手が震えた。
まさか。
いや、そんなはずはない。
三件目の現場、新横浜駅。
真壁は、二十一時六分の四分前に犯人を見つけた。
白いコート。黒い帽子。細い体。
男はホームの端に立ち、真壁を見ると、笑った。
「遅いよ、刑事さん」
真壁は走った。
男も走った。
ホームの階段を駆け下り、連絡通路を抜け、非常階段へ。真壁は手すりを飛び越えるように追った。男は軽い。だが真壁の怒りは速かった。
地下通路で追いついた。
真壁が男の肩を掴む。男は振り向きざま、鋭く肘を入れた。真壁の頬に痛みが走る。だが彼は離さない。
「終わりだ!」
「まだ一本残っている」
男の声が低くなった。
その瞬間、構内放送が鳴った。
二十一時六分。
別の捜査員から無線が入った。
「市村、発見! 新横浜駅構内、意識なし!」
真壁の腕の中で、男が笑った。
だが次の瞬間、真壁は違和感に気づいた。
軽すぎる。
帽子が落ちた。
そこにあったのは、白いマネキンの頭だった。コートの中身は、骨組みと録音機。
男ではなかった。
ホームの監視カメラに映った白いコート。追っていた影。それすら、人間ではなかった。
無線の向こうで、また非通知の着信音が鳴った。
真壁は出た。
「三つ目、定刻到着」
男の声は、今度こそ近くなかった。どこか遠くの車内から聞こえた。
「真壁蓮司。君だけは、少し読めると思ったのに」
「お前……海斗か」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、男は笑った。
さっきまでの軽薄な笑いではなかった。壊れた子どもの笑いだった。
「その名前で呼ぶなよ、父さん」
真壁の視界が揺れた。
「海斗……」
「今は雪村魁。母さんの姓だ。真壁なんて名字は、十四年前に捨てた」
「やめろ。もうやめろ」
「遅いよ。いつもそうだ。父さんは、遅い」
「俺を殺したいなら、俺を狙え。関係ない人間を巻き込むな!」
電話の向こうで、海斗――魁は静かに言った。
「関係ない? 久坂は母さんの告発を潰した。大門は事故として処理した。市村は記事を握り潰した。みんな、自分の時刻表を守るために、母さんを置き去りにした」
「だから殺していいわけじゃない!」
「わかってるよ」
魁の声が、急に楽しげになった。
「でもね、父さん。殺すって、すごく静かなんだ。列車の発車時刻と同じで、来るべきものが来るだけだ。僕はその静けさが好きになった」
真壁は息を呑んだ。
息子の中で、何かが完全に凍っていた。
「最後の列車を教えてやる」
魁は囁いた。
「のぞみ0号。夜明け前、誰も乗らない死者専用列車。六時ちょうど、東京」
「何をする気だ」
「父さんを殺す」
通話は切れた。
5
のぞみ0号。
旅客用の時刻表には存在しない。
だが宇佐美が調べ上げた。それは駅員たちの間で使われる俗称だった。
夜明け前、車両基地から東京駅へ送り込まれる回送列車。客を乗せない。発車標にも出ない。
「犯人は、これを“死者専用”と呼んでいるんですね」
宇佐美は顔を強張らせた。
「東京駅に六時前後に入線します。もしそこで何か起きれば、始発前の混乱に紛れて……」
「いや」
真壁は首を振った。
「魁は混乱なんか狙っていない。あいつは俺に見せたいんだ」
「何をですか」
「俺がまた遅れるところを」
夜明け前の大井車両基地。
空はまだ藍色で、レールだけが鈍く光っていた。眠っている東京の腹の中に、白い新幹線が並んでいる。その一つが、ゆっくりと息を吹き返そうとしていた。
真壁は宇佐美の協力で、回送列車の最後尾側から乗り込んだ。
車内は無人。座席は整然と並び、白いカバーが幽霊の列のように見えた。
その十三号車で、真壁は縛られた老人を見つけた。
元駅長、折原修三。十四年前、沙羅の事故処理を担当した男だった。
「真壁刑事……すまない……」
老人は震える声で言った。
「私は見て見ぬふりをした。奥さんは事故ではなかった。久坂たちが……証拠を奪おうとして……私は、駅の信用を守ると言われて……」
真壁は奥歯を噛んだ。
「話はあとだ。生きて証言しろ」
「君の息子さんは……」
「わかってる」
その時、車内放送用のスピーカーが鳴った。
魁の声。
「父さん。十四年前、母さんはこの駅へ向かっていた。あなたに会うために。けれどあなたは来なかった」
車内灯が一瞬落ち、すぐに戻った。
「今日は来たね。偉いよ」
真壁は老人を宇佐美に託した。
「連れて出ろ」
「真壁さんは?」
「父親の仕事をする」
彼は前方車両へ走った。
十二号車。十一号車。十号車。
無人の座席が流れていく。窓の外で、夜明け前の信号灯が赤く瞬く。
八号車に入った瞬間、横から影が飛び出した。
真壁は胸を蹴られ、座席に叩きつけられた。息が詰まる。
白いコートの男が立っていた。
細い体。鋭い目。けれど、その目の奥に、真壁は幼い海斗の面影を見た。
「海斗……」
「魁だ」
男は拳を振るった。真壁は受けた。重くはない。だが速い。考え抜かれた角度で、急所だけを狙ってくる。
「父さんは熱血刑事だもんね。拳で解決する?」
「お前を殴りに来たんじゃない!」
「じゃあ抱きしめに来た?」
魁は笑い、通路を蹴って距離を取った。
「気持ち悪いよ。母さんが死んだ夜、僕はずっと電話してた。ずっと。父さんの番号を押してた。覚えてる? 十五回だよ」
真壁は動けなかった。
十五回。
その数字を、彼は知っていた。忘れようとして、忘れられなかった。
「すまなかった」
真壁は言った。
魁の顔から笑みが消えた。
「それだけ?」
「何度言っても足りない。俺は夫としても、父親としても、お前を置き去りにした」
「そうだよ」
「だが、俺の罪で、お前が人を殺していいことにはならない」
魁の瞳が、凍った湖のようになった。
「正義の話をするな」
「これは正義じゃない。お前を止めたいだけだ」
「遅い」
「遅くても行く。それが、こだまだろ」
その言葉に、魁の呼吸が乱れた。
一瞬だった。
真壁は踏み込んだ。魁は逃げる。連結部へ。車体が低く唸り、回送列車がゆっくり動き始めた。
東京駅へ向かっている。
魁は非常用の連絡扉の前で立ち止まった。
「最後のトリックを教えてあげる」
彼は自分の胸を指した。
「父さんを殺すって言ったけど、本当に死ぬのは僕だ。六時ちょうど、あなたの目の前で。映像は全部残る。世間は見る。熱血刑事が、連続殺人犯の息子を追い詰めて死なせた瞬間を」
「やめろ!」
「父さんは、また間に合わない」
魁は扉へ手をかけた。
真壁は走った。
魁が身を乗り出す。車両が揺れる。夜明けの風が、刃物のように車内へ吹き込む。
真壁は魁の腕を掴んだ。
「離せ!」
「離さない!」
「母さんの時は離したくせに!」
その叫びは、刃より深く真壁を切った。
それでも、彼は離さなかった。
魁は暴れた。真壁の頬を殴り、肩を蹴り、指を引き剥がそうとした。真壁は血の味を感じながら、両腕で息子を抱え込んだ。
「生きろ!」
「命令するな!」
「命令じゃない!」
真壁は叫んだ。
「頼みだ、海斗!」
魁の体から、一瞬だけ力が抜けた。
その隙に、真壁は彼を通路へ引き倒した。二人は座席の間に転がり、荒い息だけが車内に響いた。
魁は天井を見上げたまま、涙を流していた。
「……やっと来た」
その声は、MAXでも、連続殺人犯でもなかった。
十四年前、父を待ち続けた少年の声だった。
真壁は手錠を取り出した。
手が震えた。
「雪村魁。殺人および監禁の容疑で逮捕する」
金属音が、夜明け前の車内に小さく鳴った。
魁は笑った。
「父さん、ひどい顔」
「お前もな」
「陽はまた昇るかな」
真壁は、窓の外を見た。
東の空が、ゆっくり白み始めていた。
「昇る」
彼は言った。
「許してくれるからじゃない。今日も、生きて償わせるために昇るんだ」
6
午前六時。
東京駅のホームに、回送列車が静かに入った。
発車標には、何も表示されていない。乗客もいない。ただ、朝だけがそこにあった。
折原修三は保護され、十四年前の隠蔽を証言した。久坂、大門、市村が沙羅の告発を潰し、死を事故として処理させた事実も明るみに出た。
だが、だからといって、死んだ三人が戻るわけではない。
久坂の娘は、もう父親から富士山の写真を受け取れない。大門の老いた母は、娘がなぜ殺されなければならなかったのかを理解できないまま泣いた。市村の妻は、「あの人は罪を背負っていた。でも、殺されていい人ではなかった」と言った。
真壁はすべての遺族に頭を下げた。
許しは求めなかった。許されるためではなく、忘れないためだった。
魁は取調室で、多くを語らなかった。
ただ一度だけ、真壁に古い紙片を渡した。
それは、十四年前の時刻表の切れ端だった。子どもの字で、こう書かれていた。
お父さんへ。こだまは遅くない。待っている人がいるから、止まるんだよ。
真壁はその紙を見つめ、しばらく動けなかった。
警察署を出ると、朝日がビルの隙間から差していた。
東京駅へ向かう人々が、いつものように歩いている。眠そうな会社員。修学旅行の生徒。小さな子どもの手を引く母親。駅員の「行ってらっしゃいませ」という声。
世界は、何もなかったように動いている。
その残酷さに、真壁は胸が空っぽになった。
それでも。
東海道新幹線は、今日も定刻で走る。誰かを運び、誰かを待ち、誰かを帰すために。
真壁は古い時刻表を胸ポケットにしまった。
背中には、消えない罪がある。手には、息子にかけた手錠の重みが残っている。心には、救えなかった者たちの声がある。
むなしさと絶望の中で、それでも陽はまた昇る。
真壁蓮司は、朝日に向かって歩き出した。
次に誰かが「助けて」と呼んだ時、今度こそ遅れないために。





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