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毒を許可したのは、死者だった

※以下は完全なフィクションです。実在の人物・事務所・団体とは関係ありません。

――山崎行政書士事務所・毒劇許可事件――

静岡市葵区、駿府城公園の堀に桜の影がまだ少し残る五月の午後、山崎行政書士事務所の扉が三度、正確すぎる間隔で叩かれた。

一度目と二度目の間が一秒。

二度目と三度目の間も、一秒。

その律儀さに、山崎澪は胸の奥で小さな警報を聞いた。

事務所は古いビルの二階にある。窓からは青葉通りの欅が見え、雨の日には濡れた葉が街灯を映して、書類の白さまで緑に染めた。父の周平が開いた小さな行政書士事務所を、澪が継いで七年になる。

父はよく言った。

「申請書は嘘をつかない。嘘をつくのは、申請書を使う人間だ」

澪はその言葉が嫌いだった。

書類は人を救う。営業許可も、相続も、在留資格も、補助金申請も、人生の崖っぷちで踏みとどまるための橋になる。

でも、橋は刃物にもなる。

扉を開けると、黒い傘を持った男が立っていた。

三十代前半に見えた。痩せているが、弱々しくはない。むしろ、余分な肉も感情も削ぎ落としたような体だった。瞳は静かで、こちらを見るというより、こちらの反応速度を測っている。

「山崎澪先生ですね」

「はい」

「毒物劇物販売業に関する許認可申請をお願いしたい」

男は、名刺を差し出した。

黒須律。

株式会社クロス・サイエンスロジ代表取締役。

名刺の紙は厚く、指先に吸いつくようだった。活版印刷の凹みが、奇妙に深い。

「急ぎです。可能な限り早く」

「内容を確認してからでないと、お約束はできません」

「もちろんです」

黒須は微笑んだ。

その微笑みには温度がなかった。

彼は黒い鞄から、分厚いファイルを取り出した。申請書、会社登記、役員一覧、営業所平面図、保管設備の写真、誓約書、資格者に関する資料、取引予定先の一覧。

完璧だった。

完璧すぎた。

澪は一枚目を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。

「先生?」

黒須が言う。

「何か」

澪は返事をしなかった。

申請者欄の端、鉛筆で薄く書かれた管理番号のような数字。

0917

それは父の命日だった。

黒須は澪の顔色の変化を、まばたき一つせず見ていた。

「その数字に、意味がありますか」

「いいえ」

澪は嘘をついた。

黒須はまた微笑んだ。

「では、午後五時までに一度、内容確認のご連絡を。そうしないと、一人死にます」

雨音が、急に遠くなった。

事務所の奥で、補助者の佐知子が湯呑みを落とした。陶器の割れる音が、やけに鮮やかに響いた。

澪は黒須を見つめた。

「冗談ですか」

「先生のご職業に冗談は似合いません」

黒須は傘を開いた。

「許可とは、社会が毒に与える名前です。午後五時、城北の旧倉庫。先生が本物なら、止められる」

そう言って、彼は雨の中へ消えた。

午後五時、城北の旧倉庫で、元静岡市職員の片桐雄三が発見された。

死んではいなかった。

だが、生きているようにも見えなかった。

古びた倉庫の床に倒れ、両手を真っ赤に染めていた。血ではない。正体不明の赤い染料だった。胸には一枚の紙が安全ピンで留められていた。

許可を出すな。出せば、街が毒を吸う。

片桐は病院に運ばれ、意識不明の重体と報じられた。

テレビは「毒劇物テロ予告か」と騒ぎ、ネットは「静岡で何が起きている」と沸騰した。事務所の電話は鳴り続けた。警察も来た。

刑事は望月晴馬と名乗った。澪の中学の同級生だった。昔はよく笑う少年だったのに、今は笑い方を忘れたような顔をしていた。

「黒須律は午後五時、東京の会議室にいた」

望月は事務所の応接席で言った。

「映像も、入館記録も、複数の証言もある。完璧なアリバイだ」

「完璧な書類と同じね」

澪は黒須のファイルを開いた。

「完璧なものは、まず疑う」

佐知子が温かい緑茶を置いた。手は震えていたが、湯呑みの位置はいつもと同じ、澪の右手から十二センチのところだった。

「澪ちゃん、お父さんならこう言うよ」

佐知子は、昔から事務所を手伝っている。父の時代からの補助者で、澪にとっては母のような人だった。

「怖い時ほど、紙を見る。紙は逃げない」

澪は頷いた。

一枚一枚、見る。

申請書。会社登記。営業所平面図。写真。誓約書。

異常はなかった。

だから異常だった。

黒須律という男は、必要な資料を過不足なく揃え、余白も印字位置も寸分の乱れがない。素人ではない。専門家が作った書類でも、ここまで冷たい整い方はしない。

澪は保管設備の写真を手に取った。

棚、鍵付き扉、床、壁、照明。

その一枚の右端、金属製の棚板に、ほんのわずか反射があった。

拡大鏡を当てる。

反射の中に、壁掛け時計が映っていた。

時刻は、午後五時十七分。

澪は息を止めた。

「この写真、今日の午後五時十七分に撮られてる」

望月が身を乗り出した。

「だが黒須は東京にいた」

「違う。問題はそこじゃない」

澪は写真の裏を見た。

印刷の匂いがまだ新しい。雨で湿った街の匂いに混じって、かすかな柑橘の匂いがした。

澪の父、周平は、みかん農家の出だった。父は書類に赤を入れる時、安物の朱肉ではなく、なぜか柑橘の香りがする古い朱肉を使っていた。

澪は写真を机に置き、指を離した。

「これを作った人は、父を知ってる」

望月の目が細くなる。

「山崎先生は七年前に亡くなってるんだろ」

「ええ」

澪は自分の声が震えているのを聞いた。

「だから、おかしいの」

その夜、澪は父の古い保管箱を開けた。

事務所の奥、耐火金庫の下段。そこには父が関わった古い案件の控えが残っている。紙は黄ばみ、インデックスは剥がれかけていた。

黒須。

その名前を探す。

一時間後、澪の指先は一冊の薄いファイルで止まった。

黒須化学工業 毒劇物関連相談 不受任記録

不受任。

父は、その案件を受けなかった。

中には、古いメモが挟まっていた。

父の字だった。

双子。律=男児。凪=女児。事故後、記録に矛盾。片桐、何かを隠している。凪は生きている可能性。

澪の喉が鳴った。

黒須律には、双子の妹がいた。

黒須凪。

だが添付された古い死亡届の写しには、凪は十五年前の倉庫事故で死亡したと記されていた。

同じファイルの最後に、小さな紙切れがあった。

子どもの絵だった。

青いクレヨンで、海と倉庫と、笑う女の子が描かれている。

下に、たどたどしい字。

なぎ、ここにいる。

澪は椅子に座ったまま、長い間動けなかった。

父は何を見つけたのか。

なぜ死んだのか。

七年前、父は安倍川沿いの道路で事故に遭った。深夜、雨、単独事故。警察はそう処理した。澪も受け入れるしかなかった。

でも父は、最後の一週間、眠っていなかった。誰かに追われているように、古いファイルを読み返していた。

黒須化学。

片桐雄三。

黒須律。

黒須凪。

そして今、毒劇物の許認可申請。

点と点が、毒のように結びついていく。

翌朝、黒須律から電話があった。

「先生、進捗はいかがですか」

「あなたは何者ですか」

「申請者です」

「あなたは黒須律じゃない」

電話の向こうが、初めて沈黙した。

澪は続けた。

「少なくとも、私が見ている書類上の黒須律とは違う」

「根拠は?」

「あなたが出した会社登記の添付資料。古い履歴事項の写しに、十五年前の住所がある。そこには『葵区』と書かれている。でも、その当時の内部資料にその表記を自然に使う人はいない。後から作ったか、後から直した。しかも直した人は、行政区分そのものより、物語の整合性を優先した」

黒須は笑った。

「素晴らしい」

その笑いには、今度は温度があった。

熱すぎるほどの憎しみが。

「やはり山崎周平の娘だ」

「父を知っているのね」

「知っています。僕を殺した人ですから」

澪は言葉を失った。

「今夜九時、安倍川の旧冷凍倉庫へ。警察を連れてきてもいい。ただし、先生が来なければ、片桐は二度と目を覚まさない」

電話は切れた。

夜の安倍川は黒かった。

雨は止んでいたが、空気は濡れていた。街の灯りが川面で砕け、遠くに新幹線の音が走る。その音が途切れるたび、静岡の夜は恐ろしく広くなった。

望月は倉庫周辺に警官を配置した。だが澪は、警察車両から降りる前に言った。

「正面から入らないで」

「なぜ」

「黒須は天才よ。こちらが考えることは全部考えている。でも、彼は一つだけ誤解してる」

「何を」

「行政書士は、書類だけ見る仕事だと思ってる」

澪は父の古いファイルから抜き出した図面を広げた。

黒須が出した平面図と、十五年前の倉庫図面。

違う建物のはずなのに、柱の位置が同じだった。

ただし、黒須の図面は百八十度回転している。

「入口はこっちじゃない。裏手の搬入口が、本当の正面」

望月は短く息を吐いた。

「お前、刑事より刑事だな」

「違う」

澪は小さく笑った。

「父の娘なだけ」

裏手の搬入口は錆びていた。

中は、凍ったように冷たい。

懐中電灯の光が、床に残る赤い染料の跡を照らした。血のように見えるが、乾いても黒くならない。人を怯えさせるためだけの赤。

倉庫の奥に、ガラス張りの小部屋があった。

その中に、片桐雄三がいた。

椅子に縛られている。意識は朦朧としていたが、生きていた。

そして、その前に黒須律が立っていた。

いや。

澪はその姿を見た瞬間、わかった。

黒須律ではない。

彼、ではない。

黒いスーツ、短く整えた髪、低い声。すべてが周到な仮面だった。だが、左手で右袖口を握る癖がある。父のファイルに挟まれた子どもの絵。その隅に、同じ仕草の女の子が描かれていた。

澪はゆっくりと言った。

「黒須凪さん」

黒須の顔から、すべての表情が消えた。

倉庫の天井で、水滴が落ちる音がした。

一滴。

二滴。

三滴。

「その名前で呼ぶな」

声が震えていた。

「その名前は死んだ。十五年前に書類の上で死んだ」

片桐が椅子の上で呻いた。

凪は振り返り、片桐を見た。

「この人が死なせたの。私を」

「片桐さんが記録を改ざんした?」

「事故の後、兄の律は死んだ。私は生きていた。でも父は、跡取りを失いたくなかった。女の子の私では駄目だった。片桐はそれを知っていて、死亡届も、事故報告も、全部整えた。黒須律は生きている。黒須凪は死んだ。そういう書類ができた」

凪は笑った。

美しい笑いだった。

だからこそ、恐ろしかった。

「人間は、書類一枚で殺せるんです。先生ならわかるでしょう」

澪は答えられなかった。

凪は続けた。

「私は十五年間、兄の名前で生きた。学校も、会社も、銀行も、全部。私はどこにもいない。死者が生者のふりをして、生きている。ねえ、山崎先生。これより強い毒がありますか」

倉庫の外で、サイレンが遠く鳴った。

凪は小型端末を掲げた。

画面にはライブ配信の準備画面が映っていた。

「毒劇物テロなんて嘘です。ここに街を壊す毒はない。あるのは十五年前の資料と、片桐の証言と、黒須家が隠した記録。私は今夜、それを全部流す」

望月が銃を構える。

「なら、片桐を解放しろ」

「それでは誰も見ない。人は正義だけでは画面を開かない。恐怖なら開く。毒なら見る。死者なら見る」

凪の目が澪に戻った。

「私は世界一頭のいい化け物になった。そうならなければ、生き残れなかった。申請書も、アリバイも、映像も、全部計算した。先生がここへ来ることも」

「じゃあ、私があなたの正体に気づくことも?」

「もちろん」

「違う」

澪は一歩、前へ出た。

凪の眉が動いた。

澪は父のファイルから、もう一枚の紙を取り出した。

父の筆跡。

黒須凪 生存に関する聞き取り控え。本人確認未了。ただし、本人の意思確認を最優先とする。この子を、もう一度書類で殺してはならない。

凪の顔が凍りついた。

澪は声を抑えた。

「父はあなたを殺していない。探していた。あなたを生きている人として扱うために、証拠を集めていた」

「嘘」

「この控えは、父の死亡前日に作られている」

凪の唇が震えた。

「嘘……だって、山崎周平は、私を見捨てた」

「見捨てたんじゃない」

澪の目にも涙が滲んだ。

「間に合わなかったの」

沈黙が倉庫を満たした。

人間の一生を壊すには、一枚の書類で足りる。

でも、人間を救うにも、時に一枚の書類が必要だった。

澪は凪に近づいた。

望月が止めようとしたが、澪は首を振った。

「凪さん。あなたがしたことは犯罪です。片桐さんを縛り、街を脅し、恐怖を使った。それは消えない」

凪は泣いていなかった。

だが、顔は泣いていた。

「じゃあ私は、どうすればよかったの」

その声は、天才の声ではなかった。

十五年間、名前を奪われた子どもの声だった。

佐知子の言葉が、澪の中で蘇った。

怖い時ほど、紙を見る。

紙は逃げない。

澪は言った。

「生きていることを、もう一度、積み上げる。証言で。記録で。戸籍で。申立てで。あなたを殺した書類に、あなたが生きていると認めさせる」

「そんなこと、できるの」

「簡単じゃない」

澪は微笑んだ。

「でも、それが私の仕事です」

凪の手から端末が落ちた。

硬い床に当たり、画面が割れた。ライブ配信は始まらなかった。

片桐は救出された。

凪は逮捕された。

毒劇物テロは、起きなかった。

だが、街は確かに毒を吸っていた。

十五年前からずっと。

権力の毒。家の毒。記録の毒。見て見ぬふりの毒。

事件後、報道は一週間ほど騒いだ。

「天才経営者、実は死亡扱いの妹か」

「毒劇物許認可申請を利用した前代未聞の脅迫事件」

「静岡市旧倉庫事故、再捜査へ」

言葉は派手だったが、凪の人生の孤独を正確に表す見出しは一つもなかった。

片桐は回復し、十五年前の改ざんを認めた。

黒須家の古い関係者も次々に事情を聞かれた。

凪は罪に問われることになった。

当然だった。

それでも、澪は面会に通った。

「先生は、私を許すんですか」

拘置施設の面会室で、凪は尋ねた。

澪は首を振った。

「許すのは、私の役目じゃない」

「じゃあ、なぜ来るんですか」

「依頼を受けたから」

凪は苦笑した。

「私は正式に依頼していません」

「したよ」

澪は鞄から、あの最初の申請ファイルを出した。

表紙の管理番号。

0917。

その裏に、凪の小さな字があった。

私は、存在を申請する。

澪はそれを見せた。

「これ以上、切実な依頼書を私は知らない」

凪は長い間、何も言わなかった。

やがて、透明な仕切りの向こうで、ゆっくりと頭を下げた。

「山崎先生」

「はい」

「私は、凪でいいんですか」

澪は答えた。

「はい。あなたは、黒須凪さんです」

その瞬間、凪は初めて泣いた。

声を殺し、肩を震わせ、十五年分の涙をこぼした。

数か月後。

山崎行政書士事務所には、新しい看板が掛かった。

古い木製の看板を磨き直しただけだ。父の字で書かれた「山崎行政書士事務所」の下に、澪は小さな真鍮板を足した。

書類は、人を消すためではなく、見つけるためにある。

佐知子はそれを見て、「お父さん、照れてるね」と笑った。

望月は差し入れのたい焼きを持ってきて、「刑事課より忙しそうだな」と言った。

澪は笑い返した。

午後、郵便が届いた。

封筒の差出人欄は空白。

澪は一瞬だけ身構えた。

だが中に入っていたのは、古びた一枚の写真だった。

父、山崎周平。

若い日の片桐。

そして、小さな女の子。

海を背景に、三人が写っている。

女の子は泣きそうな顔で、父の手を握っていた。

写真の裏には、父の字があった。

凪ちゃんは生きている。澪、いつかこの子を頼む。毒より怖いものは、人が人を忘れることだ。

澪は写真を胸に当てた。

窓の外では、静岡の街がいつものように動いていた。

青葉通りを自転車が走り、駿府城公園の木々が風に揺れ、遠くで子どもが笑っている。

恐怖は消えない。

事件も、罪も、傷も、なかったことにはならない。

それでも人は、紙の上に名前を書き直すことができる。

死者の名で始まった毒の申請は、一人の生者の名前を取り戻して終わった。

澪は父の写真に向かって、小さく言った。

「受任します」

そして、山崎行政書士事務所の扉は、また静かに開いた。

 
 
 

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