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水面の処方箋

昭和五十八年の大阪は、春の終わりから梅雨へ向かうころ、街全体が薄い硝子の膜をまとったように光っていた。

道修町の古い薬問屋の軒先には、朝の湿り気がまだ残り、石畳の隙間からは名もない草が小さな緑をのぞかせていた。幹夫はその緑を見るたび、不思議と胸の奥がやわらかくなるのを感じた。

四十歳になった自分を、彼はまだ「大人」と呼びきれずにいた。

日本でも指折りの製薬会社に勤め、研究所では新薬開発の中心に立つ一人だった。白衣を着れば、部下たちは彼を「幹夫さん」ではなく「先生」と呼ぶ。会議では数値と資料が並び、薬効、安全性、承認、競合、期限――そうした言葉が、乾いた金属音のように机の上を跳ねた。

けれど幹夫の心の中には、いつも別の声があった。

それは顕微鏡の下で見る細胞の震えにも似ていたし、淀川の葦が風に鳴る音にも似ていた。薬とは何だろう。人を治すとは何だろう。命の痛みに触れる仕事をしながら、自分は本当に命に耳を澄ましているのだろうか。

そんな問いが、彼の胸の深いところで、眠らない水のように揺れていた。

その朝も、幹夫は家を出る前に庭の椿に水をやった。

大阪市内の小さな家だったが、妻の千鶴は狭い庭に季節の花をよく植えた。長女の由紀は小学五年生で、朝からランドセルの中身を確認しながら歌っている。次女の真理は七歳で、まだ眠そうな目をこすり、食卓の味噌汁を小さな両手で包みこんでいた。末っ子の健一は五歳になったばかりで、父の足元にまとわりつきながら、昨夜拾った石を宝物のように見せた。

「お父さん、これ、星のかけらやで」

幹夫はしゃがみこんだ。健一の掌には、灰色の小石が一つ乗っていた。どこにでもある、丸みを帯びた石だった。だがその朝の光の中で見ると、たしかにどこか遠いもののようにも見えた。

「ほんまやな。落ちてきたんかもしれんな」

健一は満足そうに笑った。

その笑顔を見た瞬間、幹夫の胸に小さな痛みが走った。会社で待っている未完の試験結果。昨夜も眠りを浅くした副作用の兆候。開発中の薬は、多くの患者を救う可能性を秘めていた。だがその一方で、動物試験のある数値が幹夫の心に影を落としていた。

上層部は急いでいた。

市場が待っている。患者が待っている。競合他社が迫っている。

その言葉は、いずれも正しかった。正しいからこそ、幹夫は苦しかった。

正しさがいくつも並ぶとき、人はどの正しさに頭を下げればよいのだろう。

「お父さん、今日も遅いん?」

由紀がふいに言った。

幹夫はネクタイを結びながら、少しだけ手を止めた。

「なるべく早く帰る」

そう答える声が、自分でも頼りなく聞こえた。由紀は何も言わず、ただ少し大人びた目で父を見た。子どもは、親の嘘を責めない。ただ静かに覚えている。その沈黙に、幹夫はいつも試されている気がした。

会社へ向かう途中、幹夫はいつものように中之島の橋を渡った。

川面には曇り空が映り、灰色の水の上を一羽の白鷺がゆっくり飛んでいた。ビルの窓、電車の響き、排気ガス、新聞を小脇に抱えた男たちの足音。大阪の朝は忙しく、温かく、どこかせっかちだった。

だが白鷺だけは、時間の外側を飛んでいるようだった。

幹夫は橋の上で足を止めた。

――急ぐな。

どこからか声がした気がした。

もちろん誰もいない。通勤の人波が彼の肩を追い越していく。けれど幹夫には、その声が川から聞こえたように思えた。

――水は急いでも、海を間違えない。

それは言葉ではなく、川面のゆらぎだった。曇天を映しながらも流れ続ける水の姿が、彼の中で言葉になったのだった。

研究所では、朝から会議が続いた。

蛍光灯の白い光の下、幹夫の前には分厚い資料が置かれていた。若い研究員の一人が、緊張した声で報告を始めた。

「肝機能値に軽度の上昇が見られます。ただ、統計的には――」

その後の説明は、幹夫もよく知っているものだった。統計的には問題がない。範囲内である。投与量を考えれば許容できる。追加試験を行えば開発計画に遅れが出る。

幹夫は窓の外を見た。

研究所の中庭に一本の楠が立っていた。古くからその場所にあり、社屋が建て替わる前から根を張っていたと聞く。昭和の新しいビルの直線の中で、その楠だけが時代を気にしていなかった。葉は濡れたように濃く、幹には深い皺が刻まれていた。

――おまえは、何を急いでいる。

幹夫はまた声を聞いた。

今度は楠だった。

――薬は木の葉に似ている。陽を受け、雨を受け、虫に食われ、それでも枝に残るものだけが、誰かの陰になる。

幹夫は机の下で拳を握った。

会議室では、部長が彼に視線を向けていた。

「幹夫君、君の判断を聞きたい」

その場の空気が固まった。

幹夫はゆっくり資料を閉じた。紙の音が、妙にはっきり響いた。

「追加試験を行うべきです」

一瞬、誰も声を出さなかった。

部長の眉がわずかに動いた。

「理由は?」

「この数値は、見逃せる範囲かもしれません。けれど、見逃してよいものとは限りません」

自分の声は震えていなかった。幹夫はそれに驚いた。

「患者さんの体に入るものです。急ぐ理由はあります。しかし、急ぐために確かめることを省くなら、それは開発ではなく、祈りです」

祈り。

その言葉を口にした瞬間、幹夫は自分が長いあいだ、科学と祈りを別々のものだと思い込んでいたことに気づいた。数値を積み重ねることも、失敗を恐れず確かめることも、誰かの明日を信じることも、すべて同じ方向を向いているのではないか。

部長はしばらく黙っていた。

会議室の外で、雨が降り始めた。窓ガラスに小さな滴がつき、ゆっくり下へ流れていく。幹夫にはそれが、誰かの涙ではなく、何かが洗われていく合図のように見えた。

その日の帰り、幹夫は傘を持たずに会社を出た。

雨は細く、やわらかかった。御堂筋の銀杏並木は若い葉を濡らし、街灯の光を受けて淡く揺れていた。車のライトが路面に伸び、アスファルトの上で赤や黄色の川を作っていた。

幹夫は急がず歩いた。

肩も髪も濡れていったが、不思議と寒くはなかった。胸の中にあった重い石が、少しずつ水に溶けていくようだった。

家に帰ると、玄関で健一が駆け寄ってきた。

「お父さん、星の石、庭に置いといたで」

「どうして?」

「芽が出るかもしれへんから」

幹夫は笑った。

由紀と真理も居間から顔を出した。千鶴は台所で鍋の蓋を取っている。湯気がふわりと立ちのぼり、味噌と出汁の匂いが家じゅうに広がった。その匂いを吸い込んだとき、幹夫はようやく、自分が一日中息を詰めていたことに気づいた。

夕食のあと、雨は止んだ。

幹夫は子どもたちと庭に出た。小さな椿の根元に、健一の石が置かれていた。濡れた石は朝よりも黒く光り、たしかに夜空の一部のようだった。

「芽、出るかな」

真理が小声で言った。

「すぐには出えへんかもしれんな」

幹夫は答えた。

「でも、土の中では、いろんなことが起きてる」

由紀が父を見た。

「見えへんのに?」

「見えへんから、大事にせなあかんこともある」

その言葉は、子どもに向けたものだった。けれど同時に、自分自身への言葉でもあった。

研究も、家族も、人の心も、自然も、見えている部分はほんの少しにすぎない。葉の裏に走る細い葉脈。雨を待つ土の匂い。子どもが黙って飲み込む寂しさ。患者が口に出せない不安。すべては目に見えないところで、静かにつながっている。

幹夫は椿の葉に触れた。

葉先に残った雨粒が、指に落ちた。

――聞こえるか。

今度の声は、川でも楠でもなく、雨粒そのものから聞こえたようだった。

――命は、答えを急がない。ただ、耳を澄ます者には、いつも少しだけ道を見せる。

幹夫は目を閉じた。

遠くで電車の音がした。昭和五十八年の大阪の夜が、湿った空気の中でゆっくり呼吸していた。高いビルの向こうにも、薬の町の古い軒の下にも、研究所の冷たい試験管の中にも、この小さな庭の土の中にも、同じ見えない流れがある。

彼は四十歳だった。

だがその夜、幹夫は初めて、自分がまだ成長の途中にいることを恥ずかしいと思わなかった。むしろ、人はそうして生きていくのだと思った。迷い、立ち止まり、耳を澄まし、誰かのためにもう一度歩き出す。

健一が父の手を握った。

「お父さん、明日も石、見よな」

「ああ。明日も見よう」

幹夫はそう答えた。

庭の椿は、雨上がりの闇の中で静かに光っていた。その根元に置かれた小さな石は、まだ芽を出してはいなかった。けれど幹夫には、土の下で何かがゆっくり目を覚ましはじめているように思えた。

それは薬の種かもしれなかった。

父としての覚悟かもしれなかった。

あるいは、四十歳の幹夫の中にまだ残っていた、傷つきやすく、感受性の鋭い青年の心が、ようやく自分の場所に根を張ろうとしているのかもしれなかった。

 
 
 

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