水面の処方箋
- 山崎行政書士事務所
- 5月16日
- 読了時間: 7分

昭和五十八年の大阪は、春の終わりから梅雨へ向かうころ、街全体が薄い硝子の膜をまとったように光っていた。
道修町の古い薬問屋の軒先には、朝の湿り気がまだ残り、石畳の隙間からは名もない草が小さな緑をのぞかせていた。幹夫はその緑を見るたび、不思議と胸の奥がやわらかくなるのを感じた。
四十歳になった自分を、彼はまだ「大人」と呼びきれずにいた。
日本でも指折りの製薬会社に勤め、研究所では新薬開発の中心に立つ一人だった。白衣を着れば、部下たちは彼を「幹夫さん」ではなく「先生」と呼ぶ。会議では数値と資料が並び、薬効、安全性、承認、競合、期限――そうした言葉が、乾いた金属音のように机の上を跳ねた。
けれど幹夫の心の中には、いつも別の声があった。
それは顕微鏡の下で見る細胞の震えにも似ていたし、淀川の葦が風に鳴る音にも似ていた。薬とは何だろう。人を治すとは何だろう。命の痛みに触れる仕事をしながら、自分は本当に命に耳を澄ましているのだろうか。
そんな問いが、彼の胸の深いところで、眠らない水のように揺れていた。
その朝も、幹夫は家を出る前に庭の椿に水をやった。
大阪市内の小さな家だったが、妻の千鶴は狭い庭に季節の花をよく植えた。長女の由紀は小学五年生で、朝からランドセルの中身を確認しながら歌っている。次女の真理は七歳で、まだ眠そうな目をこすり、食卓の味噌汁を小さな両手で包みこんでいた。末っ子の健一は五歳になったばかりで、父の足元にまとわりつきながら、昨夜拾った石を宝物のように見せた。
「お父さん、これ、星のかけらやで」
幹夫はしゃがみこんだ。健一の掌には、灰色の小石が一つ乗っていた。どこにでもある、丸みを帯びた石だった。だがその朝の光の中で見ると、たしかにどこか遠いもののようにも見えた。
「ほんまやな。落ちてきたんかもしれんな」
健一は満足そうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、幹夫の胸に小さな痛みが走った。会社で待っている未完の試験結果。昨夜も眠りを浅くした副作用の兆候。開発中の薬は、多くの患者を救う可能性を秘めていた。だがその一方で、動物試験のある数値が幹夫の心に影を落としていた。
上層部は急いでいた。
市場が待っている。患者が待っている。競合他社が迫っている。
その言葉は、いずれも正しかった。正しいからこそ、幹夫は苦しかった。
正しさがいくつも並ぶとき、人はどの正しさに頭を下げればよいのだろう。
「お父さん、今日も遅いん?」
由紀がふいに言った。
幹夫はネクタイを結びながら、少しだけ手を止めた。
「なるべく早く帰る」
そう答える声が、自分でも頼りなく聞こえた。由紀は何も言わず、ただ少し大人びた目で父を見た。子どもは、親の嘘を責めない。ただ静かに覚えている。その沈黙に、幹夫はいつも試されている気がした。
会社へ向かう途中、幹夫はいつものように中之島の橋を渡った。
川面には曇り空が映り、灰色の水の上を一羽の白鷺がゆっくり飛んでいた。ビルの窓、電車の響き、排気ガス、新聞を小脇に抱えた男たちの足音。大阪の朝は忙しく、温かく、どこかせっかちだった。
だが白鷺だけは、時間の外側を飛んでいるようだった。
幹夫は橋の上で足を止めた。
――急ぐな。
どこからか声がした気がした。
もちろん誰もいない。通勤の人波が彼の肩を追い越していく。けれど幹夫には、その声が川から聞こえたように思えた。
――水は急いでも、海を間違えない。
それは言葉ではなく、川面のゆらぎだった。曇天を映しながらも流れ続ける水の姿が、彼の中で言葉になったのだった。
研究所では、朝から会議が続いた。
蛍光灯の白い光の下、幹夫の前には分厚い資料が置かれていた。若い研究員の一人が、緊張した声で報告を始めた。
「肝機能値に軽度の上昇が見られます。ただ、統計的には――」
その後の説明は、幹夫もよく知っているものだった。統計的には問題がない。範囲内である。投与量を考えれば許容できる。追加試験を行えば開発計画に遅れが出る。
幹夫は窓の外を見た。
研究所の中庭に一本の楠が立っていた。古くからその場所にあり、社屋が建て替わる前から根を張っていたと聞く。昭和の新しいビルの直線の中で、その楠だけが時代を気にしていなかった。葉は濡れたように濃く、幹には深い皺が刻まれていた。
――おまえは、何を急いでいる。
幹夫はまた声を聞いた。
今度は楠だった。
――薬は木の葉に似ている。陽を受け、雨を受け、虫に食われ、それでも枝に残るものだけが、誰かの陰になる。
幹夫は机の下で拳を握った。
会議室では、部長が彼に視線を向けていた。
「幹夫君、君の判断を聞きたい」
その場の空気が固まった。
幹夫はゆっくり資料を閉じた。紙の音が、妙にはっきり響いた。
「追加試験を行うべきです」
一瞬、誰も声を出さなかった。
部長の眉がわずかに動いた。
「理由は?」
「この数値は、見逃せる範囲かもしれません。けれど、見逃してよいものとは限りません」
自分の声は震えていなかった。幹夫はそれに驚いた。
「患者さんの体に入るものです。急ぐ理由はあります。しかし、急ぐために確かめることを省くなら、それは開発ではなく、祈りです」
祈り。
その言葉を口にした瞬間、幹夫は自分が長いあいだ、科学と祈りを別々のものだと思い込んでいたことに気づいた。数値を積み重ねることも、失敗を恐れず確かめることも、誰かの明日を信じることも、すべて同じ方向を向いているのではないか。
部長はしばらく黙っていた。
会議室の外で、雨が降り始めた。窓ガラスに小さな滴がつき、ゆっくり下へ流れていく。幹夫にはそれが、誰かの涙ではなく、何かが洗われていく合図のように見えた。
その日の帰り、幹夫は傘を持たずに会社を出た。
雨は細く、やわらかかった。御堂筋の銀杏並木は若い葉を濡らし、街灯の光を受けて淡く揺れていた。車のライトが路面に伸び、アスファルトの上で赤や黄色の川を作っていた。
幹夫は急がず歩いた。
肩も髪も濡れていったが、不思議と寒くはなかった。胸の中にあった重い石が、少しずつ水に溶けていくようだった。
家に帰ると、玄関で健一が駆け寄ってきた。
「お父さん、星の石、庭に置いといたで」
「どうして?」
「芽が出るかもしれへんから」
幹夫は笑った。
由紀と真理も居間から顔を出した。千鶴は台所で鍋の蓋を取っている。湯気がふわりと立ちのぼり、味噌と出汁の匂いが家じゅうに広がった。その匂いを吸い込んだとき、幹夫はようやく、自分が一日中息を詰めていたことに気づいた。
夕食のあと、雨は止んだ。
幹夫は子どもたちと庭に出た。小さな椿の根元に、健一の石が置かれていた。濡れた石は朝よりも黒く光り、たしかに夜空の一部のようだった。
「芽、出るかな」
真理が小声で言った。
「すぐには出えへんかもしれんな」
幹夫は答えた。
「でも、土の中では、いろんなことが起きてる」
由紀が父を見た。
「見えへんのに?」
「見えへんから、大事にせなあかんこともある」
その言葉は、子どもに向けたものだった。けれど同時に、自分自身への言葉でもあった。
研究も、家族も、人の心も、自然も、見えている部分はほんの少しにすぎない。葉の裏に走る細い葉脈。雨を待つ土の匂い。子どもが黙って飲み込む寂しさ。患者が口に出せない不安。すべては目に見えないところで、静かにつながっている。
幹夫は椿の葉に触れた。
葉先に残った雨粒が、指に落ちた。
――聞こえるか。
今度の声は、川でも楠でもなく、雨粒そのものから聞こえたようだった。
――命は、答えを急がない。ただ、耳を澄ます者には、いつも少しだけ道を見せる。
幹夫は目を閉じた。
遠くで電車の音がした。昭和五十八年の大阪の夜が、湿った空気の中でゆっくり呼吸していた。高いビルの向こうにも、薬の町の古い軒の下にも、研究所の冷たい試験管の中にも、この小さな庭の土の中にも、同じ見えない流れがある。
彼は四十歳だった。
だがその夜、幹夫は初めて、自分がまだ成長の途中にいることを恥ずかしいと思わなかった。むしろ、人はそうして生きていくのだと思った。迷い、立ち止まり、耳を澄まし、誰かのためにもう一度歩き出す。
健一が父の手を握った。
「お父さん、明日も石、見よな」
「ああ。明日も見よう」
幹夫はそう答えた。
庭の椿は、雨上がりの闇の中で静かに光っていた。その根元に置かれた小さな石は、まだ芽を出してはいなかった。けれど幹夫には、土の下で何かがゆっくり目を覚ましはじめているように思えた。
それは薬の種かもしれなかった。
父としての覚悟かもしれなかった。
あるいは、四十歳の幹夫の中にまだ残っていた、傷つきやすく、感受性の鋭い青年の心が、ようやく自分の場所に根を張ろうとしているのかもしれなかった。





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