爆殺時刻表――のぞみ666号、太陽を殺す
- 山崎行政書士事務所
- 5月16日
- 読了時間: 12分

※人物・事件・列車番号・時刻表はすべて架空です。
東海道新幹線の朝は、いつも人間より正確だった。
六時ちょうど。東京駅十九番線に白い車体が滑り込み、スーツケースの車輪が床を鳴らし、コーヒーの匂いが改札の冷たい空気に混じる。
その日、最初の死体は、のぞみ666号の十一号車で見つかった。
座席番号は、11号車13番E席。
富士山が見える側の窓際だった。
死んでいた男は、旅行会社社長の黒田修一。五十八歳。胸元には、古びた紙の時刻表が一枚、丁寧に折り畳まれて差し込まれていた。
赤いペンで丸がつけられていた時刻は、八時十九分。
三河安城通過予定時刻。
その紙の端には、子どものような丸い字で、こう書かれていた。
「太陽が一度死んだ時刻を、君たちは覚えているか?」
「ふざけやがって……」
日高は低く唸った。
熱血漢、という言葉は彼のためにあるような男だった。考える前に走る。怒る前に人を助ける。事件現場では誰よりも声が大きく、誰よりも靴底を減らす。
だが、その目は荒っぽさとは反対に、妙に優しかった。
死者の顔を見るとき、日高は必ず一度、唇を結ぶ。
「怖かったな」
そう言うように。
隣に立つ若い女性刑事、七瀬澪が、時刻表を覗き込んだ。
「八時十九分。死亡推定時刻とぴったり合います」
「偶然なわけがない」
「ええ。ですが、おかしいです。黒田は東京から乗っています。防犯映像も、改札記録も、乗車券もあります。犯人と思われる人物は、同時刻に品川駅のカメラに映っていました」
「誰だ」
澪はタブレットを操作した。
画面に映ったのは、痩せた男だった。黒いコート。白い手袋。硝子玉のような目。
久遠怜司。
民間の交通解析システムを開発した天才。幼いころから知能検査の上限を振り切り、大学を飛び級し、鉄道ダイヤを「人間の欲望を秒に変換した詩」と呼んだ男。
そして三日前、警察に匿名で送られてきた動画の中で、こう笑っていた男だった。
「刑事さん。あなたたちは足で捜査する。僕は時刻表で殺す」
日高は画面を睨みつけた。
「こいつが犯人なら、どうやって名古屋まで来た」
「来ていません」
澪の声は冷静だった。
「久遠怜司は、八時十九分に品川駅のホームにいました。駅員二名、カメラ三台、電子決済記録。完璧なアリバイです」
日高は拳を握った。
「じゃあ黒田は、時刻表に殺されたってのか」
澪は答えなかった。
その沈黙が、いちばん嫌な答えだった。
第二の殺人は、翌朝に起きた。
被害者は弁護士の榎本丈二。新横浜発のひかり82号、八号車デッキで倒れていた。
胸ポケットには、また時刻表。
赤丸は七時五十二分。
静岡通過予定時刻。
紙の裏には、こうあった。
「一分遅れた正義は、正義ではない」
榎本の死亡推定時刻は七時五十分から五十五分。
久遠怜司はその時間、京都市内の講演会場にいた。数百人の前で、交通網と人工知能について講演していた。映像もある。拍手もある。質問にも答えている。
第三の殺人は、さらに翌日。
元国土交通省官僚の芹沢雅臣が、こだま217号の多目的室で死んでいた。
赤丸は九時十三分。
浜松到着予定時刻。
紙には、こう書かれていた。
「君たちが隠した少女は、まだホームに立っている」
三人の被害者に共通点はなかった。
表向きは。
旅行会社社長。弁護士。官僚。
だが、七瀬澪は深夜の捜査本部で、古い新聞記事を一枚、日高の机に置いた。
「十九年前の名古屋駅です」
記事の見出しは小さかった。
『少女行方不明 新幹線ホームで混乱 関係者の証言食い違う』
少女の名前は、朝比奈朝陽。
当時七歳。
母親とともに東京から名古屋へ向かう途中、名古屋駅で突然姿を消した。ホームでは不審物騒ぎがあり、乗客が一時混乱。少女はそのまま見つからなかった。
日高は記事を読んで、喉の奥が詰まった。
「朝陽……太陽……」
「はい」
澪が頷いた。
「被害者三人は、その日、同じ列車に乗っていました。大学時代の鉄道研究会の仲間です。彼らは当時、警察にこう証言しています。『自分たちは少女が消えた時間、別の場所にいた。時刻表上、不可能だ』と」
「時刻表アリバイか」
「ええ。彼らの証言は、当時の捜査を止めました」
日高は記事の隅に記された担当刑事の名前を見た。
指先が止まった。
日高誠司。
日高の父だった。
父は十年前に死んでいた。頑固で、不器用で、正義の人だった。少なくとも日高はそう信じていた。
「親父が……担当?」
澪は、少しだけ目を伏せた。
「当時の資料には、不自然な欠落があります。証言記録が一部消えている。ホームの監視映像も、保存ミスとして処理されている」
「言いたいことがあるなら言え」
澪は静かに言った。
「日高さんのお父様は、何かを隠した可能性があります」
日高は机を叩いた。
捜査員たちが振り向いた。
「親父はそんなことをする男じゃない!」
声を荒げた直後、日高は後悔した。
澪は怯えなかった。ただ、悲しそうに彼を見ていた。
「すみません」
日高は歯を食いしばった。
「……続けろ」
澪は頷き、三枚の時刻表を並べた。
「久遠怜司のトリックは、犯行現場にいないことではありません。もっと嫌なことをしています」
「何だ」
「彼は、人を移動させていません」
澪は赤丸の時刻を指差した。
「時間を移動させています」
日高は黙った。
澪は続けた。
「三人の死亡推定時刻は、どれも“時刻表に合わせて”判断されています。車内で送信されたメッセージ、腕時計の停止、目撃証言。けれど、それらはすべて、被害者がその時刻まで生きていた証拠にはなりません」
「つまり?」
「三人は、自分で列車に乗らされたんです。久遠は彼らの過去を知っていた。脅迫し、指定した列車に乗せ、指定した席に座らせた。そして死の時刻だけを、時刻表に寄せた」
「だが、どうやって」
「詳細は鑑識待ちですが、身体に強い薬物反応があります。久遠は直接その場で殺したのではなく、列車に乗る前から死を仕込んでいた。車内から送られたメッセージは予約送信。腕時計は細工。乗客が見た“被害者らしき人物”は、帽子とマスクで顔が見えなかった」
日高は奥歯を噛んだ。
「殺人を、ダイヤに乗せたのか」
「はい」
澪の声がわずかに震えた。
「だから久遠にはアリバイがある。彼は殺害時刻に現場へ行く必要がない。列車そのものが、彼の共犯になっている」
その瞬間、捜査本部の大型モニターが勝手に点灯した。
画面に久遠怜司の顔が映った。
青白い顔。薄い唇。美しいほど無機質な笑み。
「正解に近づいたね、日高刑事」
捜査員たちが一斉に立ち上がった。
久遠は楽しそうに目を細めた。
「でも遅い。いつも遅い。君たち警察は、時刻表に載れない」
日高はモニターに歩み寄った。
「久遠怜司。お前を必ず捕まえる」
「捕まえる?」
久遠は笑った。
「走るのかい? また汗をかいて? 無駄だよ。僕の次の列車は、もう発車している」
画面が切り替わった。
映し出されたのは、名古屋駅の新幹線ホームだった。
人波。
白い車体。
黄色い点字ブロック。
そして、ベンチの下に置かれた黒いケース。
久遠の声だけが響いた。
「本日十四時二十二分。名古屋駅で太陽を殺す」
通信は途切れた。
捜査本部が凍りついた。
日高は叫んだ。
「名古屋駅へ急げ!」
名古屋駅は、人間の鼓動でできた迷宮だった。
改札を抜ける人。弁当を買う人。泣きそうな子ども。電話で怒鳴る会社員。白杖を持つ老人。ホームに立つ駅員。
そのすべてが、久遠の秒針の上に乗せられている。
警察は駅員と連携し、混乱を抑えながらホームを封鎖した。だが、久遠の予告は曖昧すぎた。
十四時二十二分。
黒いケース。
太陽を殺す。
日高は十四番線ホームを走った。
澪が後ろから叫ぶ。
「日高さん、待ってください! 罠です!」
「罠でも行く!」
「だからこそです!」
日高は振り返らなかった。
ベンチの下に黒いケースがあった。
近くに小さな男の子がしゃがみ込んでいる。母親が切符を落としたのか、慌てて鞄を探っていた。
日高は全力で走った。
「離れろ!」
男の子が顔を上げた。
その目が、日高の胸を刺した。
何も知らない目だった。
日高は男の子を抱き上げ、母親を突き飛ばすようにして下がらせた。
次の瞬間、ホームの端で爆音が弾けた。
黒煙。
悲鳴。
照明が瞬き、案内表示が乱れ、空気が焦げた匂いに変わった。
爆発は限定的だった。だが恐怖には十分すぎた。
人波が崩れた。
日高は床に倒れながら、男の子を胸に抱え込んだ。耳が鳴っている。頬に熱いものが流れた。血だった。
母親が泣きながら子どもを抱いた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
日高は立ち上がった。
「礼はあとだ。逃げろ」
その時、澪の声が無線から飛んだ。
「日高さん! 久遠はホームにいません!」
「どこだ!」
「十五番線に停車中の回送列車です。いま、ひとりの女性を連れ込んだ可能性があります」
「女性?」
澪の声が、初めて崩れた。
「私です」
日高は息を止めた。
無線の向こうで、澪が続けた。
「いえ……正確には、私だった人です」
「何を言ってる」
「思い出しました。十九年前、名古屋駅で消えた少女」
沈黙。
そして、澪の震える声。
「朝比奈朝陽は、私です」
日高の世界から音が消えた。
久遠怜司が殺していたのは、復讐の相手だった。
だが、その復讐の中心にいる少女は、生きていた。
七瀬澪として。
警察官として。
人を救う側として。
「日高さん」
澪は泣いていなかった。
泣かないようにしていた。
「久遠は私の兄です」
回送列車の中は、異様に静かだった。
客のいない新幹線は、巨大な棺のようだった。
日高は非常階段を駆け上がり、十五番線に飛び出した。足が痛む。耳鳴りが消えない。だが止まれなかった。
車内に入ると、通路の奥に久遠怜司が立っていた。
その前に、澪がいた。
久遠は銃のようなものを持っていたが、日高はそれを見ても足を止めなかった。
「久遠!」
久遠は嬉しそうに笑った。
「来たね。熱血刑事。君は本当に時刻表に向いていない。感情で遅延する」
「澪を放せ」
「澪?」
久遠の顔がわずかに歪んだ。
「違う。朝陽だ。僕の妹だ。あの日、名古屋駅で殺された太陽だ」
澪が静かに言った。
「私は生きてる」
久遠の手が震えた。
「違う」
「生きてる、兄さん」
「違う!」
久遠が初めて叫んだ。
「お前は死んだんだ! あいつらが殺した! 時刻表を使って嘘をついた! 警察が隠した! だから僕が正した! 僕が秒針を戻した!」
日高は一歩近づいた。
「戻ってない」
久遠が日高を睨んだ。
「黙れ」
「お前が殺した三人は、朝陽さんを返したか」
久遠の唇が震えた。
「黙れ」
「お前が爆破したホームで、誰か救われたか」
「黙れ!」
「復讐じゃない。お前は殺しを楽しんだ。警察を笑い、人が怖がる顔を見て、自分が神になった気でいた」
久遠の目が濁った。
日高は叫んだ。
「お前は妹のために殺したんじゃない! 自分の空っぽを埋めるために殺したんだ!」
久遠が飛びかかった。
日高も踏み込んだ。
狭い通路で二人は激しくぶつかった。座席に肩を打ちつけ、窓に拳が当たり、床に転がった。久遠は細身だったが、異様な力で日高の喉を掴んだ。
「君の父親も同じだ」
久遠が囁いた。
「日高誠司は、証言を消した。被害者たちから金を受け取ったわけじゃない。ただ、面倒だったんだ。混乱した事件。証拠のない少女。将来ある若者たち。彼は“なかったこと”にした」
日高の胸に、何かが崩れ落ちた。
父は正義の人だった。
そう信じていた。
信じたかった。
久遠は笑った。
「君の太陽も、偽物だったんだよ」
日高の力が抜けかけた。
その時、澪が言った。
「日高さん」
静かな声だった。
「陽は、偽物でも昇ります」
日高は目を見開いた。
澪は涙を流していた。
「人は間違える。隠す。逃げる。壊れる。それでも、次に誰かを救うことはできる」
日高の中で、父の顔が砕けた。
だが、その瓦礫の向こうに、母の声が聞こえた気がした。
昇。
名前の通り、生きなさい。
日高は久遠の腕を掴み、全身の力で捻った。
久遠が呻いた。
日高は彼を座席に叩きつけ、床に押さえ込んだ。
「久遠怜司」
手錠の金属音が、空っぽの車内に響いた。
「連続殺人および爆破事件の容疑で逮捕する」
久遠は床に頬を押しつけられたまま、笑った。
「まだ終わってない」
日高は息を止めた。
久遠は、澪を見た。
「朝陽。最後の時刻表を見てごらん」
澪の足元に、一枚の紙が落ちていた。
古い紙の時刻表。
赤丸は、十四時二十二分ではなかった。
十五時〇一分。
東京行きの列車が名古屋を発つ時刻。
紙の裏には、短い文字。
「本当の爆弾は、真実だ」
その瞬間、駅構内の大型ビジョンが一斉に切り替わった。
十九年前の証言記録。
消された映像。
日高誠司の署名。
被害者三人の嘘。
そして幼い朝陽が、ホームの柱の陰で泣きながら助けを求めている映像。
久遠は、警察が自分を追うその瞬間に合わせて、すべてを公開するよう仕組んでいた。
爆弾は駅を壊すためではなかった。
街の信頼を壊すためだった。
日高は、何も言えなかった。
久遠は低く笑った。
「どうだい、刑事さん。君たちは勝った。でも世界は、もう元には戻らない」
日高は久遠の後頭部を睨んだ。
「戻らなくていい」
久遠の笑いが止まった。
日高は言った。
「嘘で元に戻るくらいなら、壊れたまま本当の朝を迎えたほうがいい」
澪が目を閉じた。
涙が頬を伝った。
翌朝。
名古屋駅には、まだ焦げた匂いが残っていた。
ニュースは一晩中、事件を報じ続けた。
東海道新幹線連続殺人。
名古屋駅爆破テロ。
十九年前の少女行方不明事件。
警察の隠蔽疑惑。
久遠怜司という天才殺人犯。
日高誠司という刑事の罪。
日高昇は、駅のホームに立っていた。
眠っていなかった。
父の遺影を思い出すたび、胸が潰れそうになった。自分の正義が、誰かの嘘の上に建っていたのだと思うと、足元が消えるようだった。
澪が隣に来た。
彼女も眠っていない顔だった。
「日高さん」
「七瀬」
「私は、朝比奈朝陽として生きるべきでしょうか」
日高はしばらく黙っていた。
始発列車の案内が流れた。
人々がホームに並び始める。
昨日ここで爆発があったことを知っていても、それでも人は列車に乗る。仕事へ行く。家族に会いに行く。誰かを許しに行く。誰かに謝りに行く。
日高は言った。
「どっちでもいい」
澪が彼を見た。
「お前が人を救うなら、名前はどっちでもいい」
澪は少しだけ笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「熱血ですね」
「うるさい」
東の空が、ホームの硝子越しに白み始めていた。
太陽が昇る。
それは何も解決しない。
死んだ者は帰らない。
父の罪は消えない。
久遠の殺意が壊したものも、すぐには直らない。
それでも光は、線路の先を照らした。
日高は、朝日に目を細めた。
そして、ポケットの中の古い時刻表を握り潰した。
もう二度と、時刻表に人の命を決めさせない。
隣で澪が、静かに言った。
「日高さん。次の列車、来ます」
白い車体が、朝の光を浴びてホームに入ってくる。
人々が顔を上げる。
傷ついた街の上に、今日もまた、陽は昇った。





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