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爆殺時刻表――のぞみ666号、太陽を殺す

※人物・事件・列車番号・時刻表はすべて架空です。

東海道新幹線の朝は、いつも人間より正確だった。

六時ちょうど。東京駅十九番線に白い車体が滑り込み、スーツケースの車輪が床を鳴らし、コーヒーの匂いが改札の冷たい空気に混じる。

その日、最初の死体は、のぞみ666号の十一号車で見つかった。

座席番号は、11号車13番E席。

富士山が見える側の窓際だった。

死んでいた男は、旅行会社社長の黒田修一。五十八歳。胸元には、古びた紙の時刻表が一枚、丁寧に折り畳まれて差し込まれていた。

赤いペンで丸がつけられていた時刻は、八時十九分。

三河安城通過予定時刻。

その紙の端には、子どものような丸い字で、こう書かれていた。

「太陽が一度死んだ時刻を、君たちは覚えているか?」

愛知県警捜査一課の刑事、日高昇は、名古屋駅のホームでその紙を見た瞬間、背筋に氷を流し込まれたような感覚を覚えた。

「ふざけやがって……」

日高は低く唸った。

熱血漢、という言葉は彼のためにあるような男だった。考える前に走る。怒る前に人を助ける。事件現場では誰よりも声が大きく、誰よりも靴底を減らす。

だが、その目は荒っぽさとは反対に、妙に優しかった。

死者の顔を見るとき、日高は必ず一度、唇を結ぶ。

「怖かったな」

そう言うように。

隣に立つ若い女性刑事、七瀬澪が、時刻表を覗き込んだ。

「八時十九分。死亡推定時刻とぴったり合います」

「偶然なわけがない」

「ええ。ですが、おかしいです。黒田は東京から乗っています。防犯映像も、改札記録も、乗車券もあります。犯人と思われる人物は、同時刻に品川駅のカメラに映っていました」

「誰だ」

澪はタブレットを操作した。

画面に映ったのは、痩せた男だった。黒いコート。白い手袋。硝子玉のような目。

久遠怜司。

民間の交通解析システムを開発した天才。幼いころから知能検査の上限を振り切り、大学を飛び級し、鉄道ダイヤを「人間の欲望を秒に変換した詩」と呼んだ男。

そして三日前、警察に匿名で送られてきた動画の中で、こう笑っていた男だった。

「刑事さん。あなたたちは足で捜査する。僕は時刻表で殺す」

日高は画面を睨みつけた。

「こいつが犯人なら、どうやって名古屋まで来た」

「来ていません」

澪の声は冷静だった。

「久遠怜司は、八時十九分に品川駅のホームにいました。駅員二名、カメラ三台、電子決済記録。完璧なアリバイです」

日高は拳を握った。

「じゃあ黒田は、時刻表に殺されたってのか」

澪は答えなかった。

その沈黙が、いちばん嫌な答えだった。

第二の殺人は、翌朝に起きた。

被害者は弁護士の榎本丈二。新横浜発のひかり82号、八号車デッキで倒れていた。

胸ポケットには、また時刻表。

赤丸は七時五十二分。

静岡通過予定時刻。

紙の裏には、こうあった。

「一分遅れた正義は、正義ではない」

榎本の死亡推定時刻は七時五十分から五十五分。

久遠怜司はその時間、京都市内の講演会場にいた。数百人の前で、交通網と人工知能について講演していた。映像もある。拍手もある。質問にも答えている。

第三の殺人は、さらに翌日。

元国土交通省官僚の芹沢雅臣が、こだま217号の多目的室で死んでいた。

赤丸は九時十三分。

浜松到着予定時刻。

紙には、こう書かれていた。

「君たちが隠した少女は、まだホームに立っている」

三人の被害者に共通点はなかった。

表向きは。

旅行会社社長。弁護士。官僚。

だが、七瀬澪は深夜の捜査本部で、古い新聞記事を一枚、日高の机に置いた。

「十九年前の名古屋駅です」

記事の見出しは小さかった。

『少女行方不明 新幹線ホームで混乱 関係者の証言食い違う』

少女の名前は、朝比奈朝陽。

当時七歳。

母親とともに東京から名古屋へ向かう途中、名古屋駅で突然姿を消した。ホームでは不審物騒ぎがあり、乗客が一時混乱。少女はそのまま見つからなかった。

日高は記事を読んで、喉の奥が詰まった。

「朝陽……太陽……」

「はい」

澪が頷いた。

「被害者三人は、その日、同じ列車に乗っていました。大学時代の鉄道研究会の仲間です。彼らは当時、警察にこう証言しています。『自分たちは少女が消えた時間、別の場所にいた。時刻表上、不可能だ』と」

「時刻表アリバイか」

「ええ。彼らの証言は、当時の捜査を止めました」

日高は記事の隅に記された担当刑事の名前を見た。

指先が止まった。

日高誠司。

日高の父だった。

父は十年前に死んでいた。頑固で、不器用で、正義の人だった。少なくとも日高はそう信じていた。

「親父が……担当?」

澪は、少しだけ目を伏せた。

「当時の資料には、不自然な欠落があります。証言記録が一部消えている。ホームの監視映像も、保存ミスとして処理されている」

「言いたいことがあるなら言え」

澪は静かに言った。

「日高さんのお父様は、何かを隠した可能性があります」

日高は机を叩いた。

捜査員たちが振り向いた。

「親父はそんなことをする男じゃない!」

声を荒げた直後、日高は後悔した。

澪は怯えなかった。ただ、悲しそうに彼を見ていた。

「すみません」

日高は歯を食いしばった。

「……続けろ」

澪は頷き、三枚の時刻表を並べた。

「久遠怜司のトリックは、犯行現場にいないことではありません。もっと嫌なことをしています」

「何だ」

「彼は、人を移動させていません」

澪は赤丸の時刻を指差した。

「時間を移動させています」

日高は黙った。

澪は続けた。

「三人の死亡推定時刻は、どれも“時刻表に合わせて”判断されています。車内で送信されたメッセージ、腕時計の停止、目撃証言。けれど、それらはすべて、被害者がその時刻まで生きていた証拠にはなりません」

「つまり?」

「三人は、自分で列車に乗らされたんです。久遠は彼らの過去を知っていた。脅迫し、指定した列車に乗せ、指定した席に座らせた。そして死の時刻だけを、時刻表に寄せた」

「だが、どうやって」

「詳細は鑑識待ちですが、身体に強い薬物反応があります。久遠は直接その場で殺したのではなく、列車に乗る前から死を仕込んでいた。車内から送られたメッセージは予約送信。腕時計は細工。乗客が見た“被害者らしき人物”は、帽子とマスクで顔が見えなかった」

日高は奥歯を噛んだ。

「殺人を、ダイヤに乗せたのか」

「はい」

澪の声がわずかに震えた。

「だから久遠にはアリバイがある。彼は殺害時刻に現場へ行く必要がない。列車そのものが、彼の共犯になっている」

その瞬間、捜査本部の大型モニターが勝手に点灯した。

画面に久遠怜司の顔が映った。

青白い顔。薄い唇。美しいほど無機質な笑み。

「正解に近づいたね、日高刑事」

捜査員たちが一斉に立ち上がった。

久遠は楽しそうに目を細めた。

「でも遅い。いつも遅い。君たち警察は、時刻表に載れない」

日高はモニターに歩み寄った。

「久遠怜司。お前を必ず捕まえる」

「捕まえる?」

久遠は笑った。

「走るのかい? また汗をかいて? 無駄だよ。僕の次の列車は、もう発車している」

画面が切り替わった。

映し出されたのは、名古屋駅の新幹線ホームだった。

人波。

白い車体。

黄色い点字ブロック。

そして、ベンチの下に置かれた黒いケース。

久遠の声だけが響いた。

「本日十四時二十二分。名古屋駅で太陽を殺す」

通信は途切れた。

捜査本部が凍りついた。

日高は叫んだ。

「名古屋駅へ急げ!」

名古屋駅は、人間の鼓動でできた迷宮だった。

改札を抜ける人。弁当を買う人。泣きそうな子ども。電話で怒鳴る会社員。白杖を持つ老人。ホームに立つ駅員。

そのすべてが、久遠の秒針の上に乗せられている。

警察は駅員と連携し、混乱を抑えながらホームを封鎖した。だが、久遠の予告は曖昧すぎた。

十四時二十二分。

黒いケース。

太陽を殺す。

日高は十四番線ホームを走った。

澪が後ろから叫ぶ。

「日高さん、待ってください! 罠です!」

「罠でも行く!」

「だからこそです!」

日高は振り返らなかった。

ベンチの下に黒いケースがあった。

近くに小さな男の子がしゃがみ込んでいる。母親が切符を落としたのか、慌てて鞄を探っていた。

日高は全力で走った。

「離れろ!」

男の子が顔を上げた。

その目が、日高の胸を刺した。

何も知らない目だった。

日高は男の子を抱き上げ、母親を突き飛ばすようにして下がらせた。

次の瞬間、ホームの端で爆音が弾けた。

黒煙。

悲鳴。

照明が瞬き、案内表示が乱れ、空気が焦げた匂いに変わった。

爆発は限定的だった。だが恐怖には十分すぎた。

人波が崩れた。

日高は床に倒れながら、男の子を胸に抱え込んだ。耳が鳴っている。頬に熱いものが流れた。血だった。

母親が泣きながら子どもを抱いた。

「ありがとうございます、ありがとうございます……!」

日高は立ち上がった。

「礼はあとだ。逃げろ」

その時、澪の声が無線から飛んだ。

「日高さん! 久遠はホームにいません!」

「どこだ!」

「十五番線に停車中の回送列車です。いま、ひとりの女性を連れ込んだ可能性があります」

「女性?」

澪の声が、初めて崩れた。

「私です」

日高は息を止めた。

無線の向こうで、澪が続けた。

「いえ……正確には、私だった人です」

「何を言ってる」

「思い出しました。十九年前、名古屋駅で消えた少女」

沈黙。

そして、澪の震える声。

「朝比奈朝陽は、私です」

日高の世界から音が消えた。

久遠怜司が殺していたのは、復讐の相手だった。

だが、その復讐の中心にいる少女は、生きていた。

七瀬澪として。

警察官として。

人を救う側として。

「日高さん」

澪は泣いていなかった。

泣かないようにしていた。

「久遠は私の兄です」

回送列車の中は、異様に静かだった。

客のいない新幹線は、巨大な棺のようだった。

日高は非常階段を駆け上がり、十五番線に飛び出した。足が痛む。耳鳴りが消えない。だが止まれなかった。

車内に入ると、通路の奥に久遠怜司が立っていた。

その前に、澪がいた。

久遠は銃のようなものを持っていたが、日高はそれを見ても足を止めなかった。

「久遠!」

久遠は嬉しそうに笑った。

「来たね。熱血刑事。君は本当に時刻表に向いていない。感情で遅延する」

「澪を放せ」

「澪?」

久遠の顔がわずかに歪んだ。

「違う。朝陽だ。僕の妹だ。あの日、名古屋駅で殺された太陽だ」

澪が静かに言った。

「私は生きてる」

久遠の手が震えた。

「違う」

「生きてる、兄さん」

「違う!」

久遠が初めて叫んだ。

「お前は死んだんだ! あいつらが殺した! 時刻表を使って嘘をついた! 警察が隠した! だから僕が正した! 僕が秒針を戻した!」

日高は一歩近づいた。

「戻ってない」

久遠が日高を睨んだ。

「黙れ」

「お前が殺した三人は、朝陽さんを返したか」

久遠の唇が震えた。

「黙れ」

「お前が爆破したホームで、誰か救われたか」

「黙れ!」

「復讐じゃない。お前は殺しを楽しんだ。警察を笑い、人が怖がる顔を見て、自分が神になった気でいた」

久遠の目が濁った。

日高は叫んだ。

「お前は妹のために殺したんじゃない! 自分の空っぽを埋めるために殺したんだ!」

久遠が飛びかかった。

日高も踏み込んだ。

狭い通路で二人は激しくぶつかった。座席に肩を打ちつけ、窓に拳が当たり、床に転がった。久遠は細身だったが、異様な力で日高の喉を掴んだ。

「君の父親も同じだ」

久遠が囁いた。

「日高誠司は、証言を消した。被害者たちから金を受け取ったわけじゃない。ただ、面倒だったんだ。混乱した事件。証拠のない少女。将来ある若者たち。彼は“なかったこと”にした」

日高の胸に、何かが崩れ落ちた。

父は正義の人だった。

そう信じていた。

信じたかった。

久遠は笑った。

「君の太陽も、偽物だったんだよ」

日高の力が抜けかけた。

その時、澪が言った。

「日高さん」

静かな声だった。

「陽は、偽物でも昇ります」

日高は目を見開いた。

澪は涙を流していた。

「人は間違える。隠す。逃げる。壊れる。それでも、次に誰かを救うことはできる」

日高の中で、父の顔が砕けた。

だが、その瓦礫の向こうに、母の声が聞こえた気がした。

昇。

名前の通り、生きなさい。

日高は久遠の腕を掴み、全身の力で捻った。

久遠が呻いた。

日高は彼を座席に叩きつけ、床に押さえ込んだ。

「久遠怜司」

手錠の金属音が、空っぽの車内に響いた。

「連続殺人および爆破事件の容疑で逮捕する」

久遠は床に頬を押しつけられたまま、笑った。

「まだ終わってない」

日高は息を止めた。

久遠は、澪を見た。

「朝陽。最後の時刻表を見てごらん」

澪の足元に、一枚の紙が落ちていた。

古い紙の時刻表。

赤丸は、十四時二十二分ではなかった。

十五時〇一分。

東京行きの列車が名古屋を発つ時刻。

紙の裏には、短い文字。

「本当の爆弾は、真実だ」

その瞬間、駅構内の大型ビジョンが一斉に切り替わった。

十九年前の証言記録。

消された映像。

日高誠司の署名。

被害者三人の嘘。

そして幼い朝陽が、ホームの柱の陰で泣きながら助けを求めている映像。

久遠は、警察が自分を追うその瞬間に合わせて、すべてを公開するよう仕組んでいた。

爆弾は駅を壊すためではなかった。

街の信頼を壊すためだった。

日高は、何も言えなかった。

久遠は低く笑った。

「どうだい、刑事さん。君たちは勝った。でも世界は、もう元には戻らない」

日高は久遠の後頭部を睨んだ。

「戻らなくていい」

久遠の笑いが止まった。

日高は言った。

「嘘で元に戻るくらいなら、壊れたまま本当の朝を迎えたほうがいい」

澪が目を閉じた。

涙が頬を伝った。

翌朝。

名古屋駅には、まだ焦げた匂いが残っていた。

ニュースは一晩中、事件を報じ続けた。

東海道新幹線連続殺人。

名古屋駅爆破テロ。

十九年前の少女行方不明事件。

警察の隠蔽疑惑。

久遠怜司という天才殺人犯。

日高誠司という刑事の罪。

日高昇は、駅のホームに立っていた。

眠っていなかった。

父の遺影を思い出すたび、胸が潰れそうになった。自分の正義が、誰かの嘘の上に建っていたのだと思うと、足元が消えるようだった。

澪が隣に来た。

彼女も眠っていない顔だった。

「日高さん」

「七瀬」

「私は、朝比奈朝陽として生きるべきでしょうか」

日高はしばらく黙っていた。

始発列車の案内が流れた。

人々がホームに並び始める。

昨日ここで爆発があったことを知っていても、それでも人は列車に乗る。仕事へ行く。家族に会いに行く。誰かを許しに行く。誰かに謝りに行く。

日高は言った。

「どっちでもいい」

澪が彼を見た。

「お前が人を救うなら、名前はどっちでもいい」

澪は少しだけ笑った。

泣きそうな笑顔だった。

「熱血ですね」

「うるさい」

東の空が、ホームの硝子越しに白み始めていた。

太陽が昇る。

それは何も解決しない。

死んだ者は帰らない。

父の罪は消えない。

久遠の殺意が壊したものも、すぐには直らない。

それでも光は、線路の先を照らした。

日高は、朝日に目を細めた。

そして、ポケットの中の古い時刻表を握り潰した。

もう二度と、時刻表に人の命を決めさせない。

隣で澪が、静かに言った。

「日高さん。次の列車、来ます」

白い車体が、朝の光を浴びてホームに入ってくる。

人々が顔を上げる。

傷ついた街の上に、今日もまた、陽は昇った。

 
 
 

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