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犯人は、そこにいなかった

――東海道新幹線連続殺人サスペンス

序章 定刻

雨が、東京駅の屋根を叩いていた。

五月の夜の雨は、どこか鉄の匂いがする。濡れたレール、油のにじんだ枕木、ホームの黄色い点字ブロック。白い光に洗われた東海道新幹線は、獣のように静かだった。鼻先に水滴をまとい、長い車体を闇の奥へ伸ばしている。

発車標の赤い文字が、何度も同じ時刻を瞬かせた。

二十一時〇二分。名古屋。二十一時三十五分。京都。二十一時四十七分。新大阪。

男は、その数字を美しいと思った。

世界には曖昧なものが多すぎる。人の記憶。人の涙。人の謝罪。人の罪。

だが時刻は違う。十一時四十一分は、十一時四十一分でしかない。十二時四十七分は、十二時四十七分でしかない。

定刻というものだけが、この世界に残された最後の誠実さだった。

男はホームの端に立ち、自分の手の中のスマートフォンを見下ろした。それは、彼のものではなかった。

画面には、送信済みの短い文章が残っている。

有沢と会う。逃げない。

男は唇の端だけをわずかに上げた。

愚かな文章だ、と彼は思った。だが、愚かでなければならない。警察が気づくほどには不自然で、しかし警察が最初に飛びつくほどには分かりやすくなければならない。

有沢。

自分の名前がそこにある。自分を疑え、と死者が告げている。

それでいい。警察は疑う。調べる。そして、確認する。

その時刻、有沢昂介は東海道新幹線の車内にいた。東京発、博多行き、のぞみ二四一号。十一号車。指定席。乗務員の証言あり。防犯カメラあり。車内販売の決済記録あり。

完璧だ。

疑われるために置いた名前が、疑いを終わらせる。有沢はその構造を愛していた。

雨に濡れたホームの床に、人の形をした光の抜け殻が揺れていた。誰かがそこに立っていたような、誰も立っていなかったような、薄い反射。

有沢はそれを見て、妹のことを思い出した。

誰にも理解されなかった女。誰にも最後の一日をたどってもらえなかった女。

時刻表の隙間で死んだ妹。

そして彼は、静かに列車へ乗った。

発車ベルが鳴る。

ドアが閉まる。

新幹線は、定刻どおりに動き出した。

第一章 瀬名隆一の妻

遺族証言 一

瀬名香織・五十二歳

主人は、几帳面な人でした。 でも、文章だけは変な癖があったんです。私に送るメッセージには、句点をつけませんでした。 「帰る」「遅れる」「薬飲んだ」 それだけ。 冷たいでしょう。私も昔はそう思いました。でも二十年以上一緒にいると、それがあの人の優しさだって分かるんです。短いけれど、嘘はありませんでした。 事件の日、主人から届いた最後のメッセージには、句点がありました。 「有沢さんと会います。もし何かあったら、彼を調べてください。」 主人は、私に「ください」なんて書きません。それに、主人は有沢さんのことを、絶対に「さん」づけでは呼びませんでした。 あの文章は、主人の文章ではありません。

瀬名隆一が見つかったのは、品川駅港南口から歩いて六分の貸会議室だった。

ビルの五階。会議室名は「さざなみ」。窓は一枚だけで、そこからは雨に滲んだ高層ビル群と、遠く白く流れる新幹線の屋根が見えた。

瀬名は会議机に突っ伏していた。スーツの上着は椅子の背にかけられ、ワイシャツの袖は丁寧にまくられていた。机上には紙コップのコーヒーが一つ。湯気はもう消えていた。

死因は薬物による急性心不全。死亡推定時刻は、午前十一時半から正午前後。

捜査本部はすぐに、一人の男の名前に注目した。

有沢昂介。四十三歳。鉄道系物流システム会社の元エンジニア。瀬名とは六年前、東海道新幹線の保守関連システムの監査案件で接点があった。

そして何より、瀬名の最後のメッセージにその名前が残っていた。

「有沢さんと会います。もし何かあったら、彼を調べてください。」

疑わない理由がなかった。

だが、有沢にはあまりにも明確なアリバイがあった。

瀬名が殺されたとされる時刻、有沢は東京発のぞみ二三七号の十一号車に乗っていた。品川から乗車し、新横浜を過ぎるころには車掌に乗車券を確認されている。車内販売でコーヒーも買っていた。決済記録は午前十一時四十二分。瀬名の最後のメッセージが送られた、まさにその一分後だった。

捜査本部の空気は早かった。

「有沢は外していいだろう」

管理官の遠野がそう言ったとき、会議室にいた多くの刑事が頷いた。

ただ一人、宮瀬怜二だけは頷かなかった。

宮瀬は捜査一課にいても、どこか温度の低い男に見えた。怒鳴らない。走り回らない。記者の前で険しい顔を作らない。遺体の前でさえ、彼は手袋をはめた指を静かに合わせ、目を閉じることがあった。

若い刑事の白石真帆が、隣で小声で言った。

「宮瀬さん、有沢は無理ですよ。時刻が合いません」

「時刻は合いすぎる」

宮瀬は、捜査資料から目を離さずに言った。

「合いすぎる?」

「犯人の名前が最後のメッセージにあって、犯人候補はその時刻に新幹線の中にいて、しかも車掌にも車内販売にも覚えられている」

「完璧ですね」

「完璧なものは、人間が作った可能性がある」

白石は少し黙った。

「つまり、有沢が自分を疑わせた、と?」

宮瀬は答えなかった。代わりに、瀬名香織の聴取録をもう一度めくった。

句点。さんづけ。ください。

捜査本部の誰もが見落としそうな、小さな言葉の傷。

宮瀬はよく知っていた。人は死ぬ直前、必ずしも真実を語れない。だが、人は生きてきた癖を簡単には失わない。

その日の夕方、宮瀬は瀬名家を訪ねた。

香織は、古い湯呑みを二つ出した。瀬名隆一の湯呑みは、まだ食器棚の一番取りやすい場所にあった。縁が少し欠けている。宮瀬は、それを見た。

「ご主人は、この湯呑みをよく使われていたんですね」

香織は驚いたように目を上げ、それから微笑とも涙ともつかない表情になった。

「ええ。欠けているのに、捨てるなって」

「なぜですか」

「娘が小学生のとき、父の日に買ったものだからです。百円ショップの湯呑みでした。でも主人は、あれでないと朝のお茶を飲まなかった」

宮瀬は頷いた。

「事件の日の朝、ご主人はお茶を飲まれましたか」

「いいえ」

香織の声が、わずかに震えた。

「それも変なんです。あの人、どんなに急いでいても、お茶を飲んでから出るんです。血圧の薬も、そのときに飲む。けれど薬のケースが、開いていませんでした」

「薬を飲んでいなかった」

「はい。だから私は、主人は急いでいたのだと思っていました。でも……」

香織は手を握りしめた。

「今思うと、急いでいたんじゃない。いつもの朝を、送れなかったんです」

宮瀬は、その言葉を手帳に書かなかった。

書くには、あまりにも人の暮らしに近い言葉だった。

第二の違和感は、駅の記録にあった。

瀬名の交通系ICは、午前十一時十二分に品川駅の新幹線改札を出ている。捜査本部はこれを、瀬名が品川に到着した記録と見た。

その後、貸会議室へ向かった。十一時四十一分に妻へメッセージを送った。十一時半から正午の間に殺された。

一見、つながっている。

だが宮瀬は、香織の証言を聞いたあと、その流れに別の色を見た。

瀬名隆一は、いつもの朝を送っていない。薬を飲んでいない。湯呑みを使っていない。そして彼らしくない文章を残している。

宮瀬は白石に言った。

「瀬名さんの携帯端末が品川駅に着いたことは分かった。だが、瀬名さん本人が着いたとは限らない」

白石は息を止めた。

「端末だけが、駅に着いた?」

「そういう見方もできる」

「でも、それなら瀬名さんはいつ殺されたんですか」

宮瀬は窓の外を見た。

雨が、品川の街を灰色にしていた。その向こうを、白い新幹線が音もなく滑っていく。

「時刻より前だ」

宮瀬は言った。

「死亡推定時刻より、もっと前に」

第二章 真崎絵里子の娘

遺族証言 二

真崎千尋・二十歳

母は、新幹線が好きでした。いえ、本当は私が好きだったんです。小さいころ、私は駅名標の写真を集めていました。母は出張のたびに、必ず駅名標の写真を送ってくれました。 「品川」「新横浜」「名古屋」「京都」 どの写真にも、母の指が少し写っていました。左手の人差し指です。ネイルが下手で、いつも少しはみ出していました。 事件の日、母から届いたのは文章だけでした。 「新横浜に着いた。有沢さんと話す。逃げない。」 写真はありませんでした。 母なら、送ります。どんなに急いでいても、どんなに怒っていても。 母は私との約束を、そういうふうに守る人でした。

第二の遺体は、新横浜のビジネスホテルで見つかった。

真崎絵里子。四十八歳。瀬名と同じ監査案件に関わっていた元プロジェクト責任者だった。

部屋のカーテンは閉じられ、空調は二十八度に設定されていた。ベッドサイドには、コンビニのホットコーヒーが二本。一本は開いていない。もう一本は、飲み口だけが湿っていた。

死亡推定時刻は、午前十一時半から午後零時半。

そしてまた、有沢の名前があった。

真崎の娘へ送られた最後のメッセージ。

新横浜に着いた。有沢さんと話す。逃げない。

有沢はその時刻、東京発のぞみ二四一号の十一号車にいた。新横浜から乗車し、名古屋へ向かっていた。

しかも今回は、彼を記憶している乗客が多かった。

有沢は乗車直後、通路でコーヒーをこぼした。隣席の老人にハンカチを貸した。乗務員に紙ナプキンを頼んだ。

「妙に印象に残る客だった」と、乗務員は証言した。

管理官の遠野は、資料を机に置いてため息をついた。

「また有沢の名前がある。だがまた有沢は新幹線の中だ。これは犯人が有沢に罪を着せようとしているんじゃないのか」

白石は、宮瀬の横顔を見た。

宮瀬は黙っていた。

「宮瀬さん」

白石が声を落とした。

「逆、ですか」

宮瀬は資料を閉じた。

「まだ分からない」

「でも、有沢はまた目立ちすぎています」

「目立つことを恐れていない」

「犯人なら普通は隠れます」

「普通の犯人なら」

宮瀬はそう言い、真崎千尋の証言を読み返した。

駅名標の写真。左手の人差し指。約束。

捜査会議でその話を出すと、遠野は苦い顔をした。

「写真を送らなかったから偽装だというのは、少し弱い」

「弱い証言です」

宮瀬は素直に言った。

「だが、弱い証言を重ねると、人間の輪郭が見えます」

「我々が追うべきは犯人だ」

「そのために、被害者を追っています」

会議室が少し静かになった。

遠野は何か言いかけ、やめた。

宮瀬は真崎家を訪ねた。

千尋は、母から送られた駅名標の写真をすべて見せてくれた。スマートフォンのアルバムには、五年以上分の駅名が並んでいた。

熱海。三島。静岡。浜松。名古屋。京都。新大阪。

写真の隅には、いつも同じ左手が写っていた。ほんの少しネイルのはみ出した、働く女の手だった。

「母は、昔から約束を忘れませんでした」

千尋は写真を見ながら言った。

「高校生のころ、私がもういらないって言っても、送り続けてきました。うるさいなって思ってました。でも、送られてこないと……」

千尋は言葉を切った。

「送られてこないと、母がその駅に着いていない気がした」

宮瀬は、静かに頷いた。

「事件の日、お母さんは新横浜に着いたと書いています」

「はい」

「でも、写真はない」

「ありません」

「お母さんのスマートフォンのカメラロールにも、ありませんでした」

千尋は唇を噛んだ。

「刑事さん」

「はい」

「母は、新横浜にいたんでしょうか」

宮瀬は答えなかった。

答えられるだけの証拠が、まだなかった。

だが、胸の奥で何かがゆっくり形を取り始めていた。

被害者たちは、最後の時刻に本当にそこにいたのか。それとも、そこにいたのは彼らの端末だけだったのか。

真崎絵里子の部屋を再検証したとき、宮瀬はベッド脇の床に小さな水滴の跡を見つけた。

清掃前の写真では、そこに細い半円状の跡が残っていた。まるで濡れた傘の先が床を叩いたような跡だった。

事件当日の新横浜は雨ではなかった。しかし、東京は朝から雨だった。

有沢が乗ったのは、東京発の新幹線。新横浜で乗車した彼の傘は、濡れていた。

白石が写真を拡大した。

「有沢が部屋に来ていた?」

「来ていた可能性はある」

「でも殺害時刻には、もう列車の中です」

宮瀬は、ベッド脇のホットコーヒーを見た。

「死亡推定時刻が正しければ」

空調。保温された飲み物。閉じられたカーテン。遺体の温度。

誰かが、死者の時間を温めていた。

第三章 時刻表の孤独

有沢昂介は、幼いころから時刻表が好きだった。

父は家にいなかった。母はよく泣いた。妹の円香は、夜になると有沢の布団に入ってきて、「明日はちゃんと来るかな」と聞いた。

「何が」

「明日」

有沢は小学生のくせに、得意げに答えた。

「来るよ。始発が来るんだから」

円香は笑った。

「じゃあ、始発が来たら、明日だね」

彼らの家では、大人の約束はよく破られた。父は帰ると言って帰らなかった。母はもう泣かないと言って泣いた。学校の先生は相談に乗ると言って、面倒そうな顔をした。

けれど電車だけは、たいてい来た。

六時十四分。六時二十二分。六時三十一分。

時刻表は、少年にとって救いだった。世界は壊れている。だが一部だけは、正確に動いている。

大人になった有沢は、鉄道関連のシステム会社へ入った。そこでは、人の移動が数字になる。車両の位置が点になる。遅延が秒になる。世界の混沌が、巨大な表の中に収まる。

有沢は優秀だった。

優秀すぎて、孤独だった。

周囲の人間が何に怒り、何に傷つき、何に許されたいのか、彼にはよく分からなかった。彼に分かるのは、矛盾だった。ログの矛盾。発注の矛盾。報告書の矛盾。安全確認時刻の矛盾。

妹の円香も、同じ業界で働いていた。

六年前、ある保守関連プロジェクトで不正が起きた。点検データの改竄。納期を守るための報告時刻の書き換え。責任は下請け担当だった円香に押しつけられた。

円香は死んだ。

死亡推定時刻は、午後十一時から午前一時。

それだけが、警察の紙に残った。

有沢は思った。

違う。円香は、その時刻だけで死んだのではない。

その日の朝、彼女が何を食べたか。誰に電話したか。誰の言葉に傷ついたか。どの報告書を見て、どのメールを読み、どの瞬間に諦めたのか。

誰もたどらなかった。

世界は妹を、死亡推定時刻に変えた。

だから有沢は、時刻で世界を裁くことにした。

瀬名隆一。真崎絵里子。桐谷沙織。

三人はあの不正に関わっていた。少なくとも、有沢の目にはそう見えた。

彼らは円香の時間を奪った。ならば、自分は彼らの時間を奪う。

有沢は計画を立てた。

ただ殺すだけでは足りない。彼らの死は、時刻の罠でなければならない。

死亡推定時刻。駅到着時刻。車内での目撃情報。最後のメッセージ。

四つの時刻を、警察に見せる。そして、その中心に自分の名前を置く。

警察は疑う。自分を調べる。そして自分を外す。

有沢はその瞬間を想像するたび、胸の奥が甘く痺れた。

理解されたいのではない、と彼は自分に言い聞かせた。証明したいだけだ。自分が彼らより上にいることを。

けれど夜になると、ときどき円香の声がした。

「お兄ちゃん、明日はちゃんと来るかな」

有沢はその声に答えられなかった。

もう始発が来ても、妹の明日は来ない。

第四章 桐谷沙織の弟

遺族証言 三

桐谷圭吾・三十六歳

姉は、怖いときほど場所を書く人でした。 「私は事務所にいる」「私は駅前にいる」「私は家に帰った」 そうやって自分に言い聞かせるみたいに、居場所を書くんです。 最後のメッセージには、こうありました。 「有沢と会う。逃げない。」 姉は「逃げない」なんて書きません。姉なら、こう書いたはずです。 「私はここにいる」 それから、スマートフォンについていた青い新幹線のストラップ。あれは甥が作ったものです。紙粘土で、車輪が少し歪んでいて。 姉は絶対に外しませんでした。法廷にも、葬式にも、どこへでもつけていました。 あれが姉のスマートフォンについていないなんて、ありえません。

三人目の被害者、桐谷沙織は京都の弁護士だった。

彼女は六年前の不正について、再調査の準備を進めていた。有沢の妹、円香に責任を押しつけた報告書に、重大な矛盾があることを掴んでいた。

宮瀬は、その事実を桐谷の事務所で知った。

事務所の机には、古いファイルが積まれていた。付箋だらけの報告書。色褪せたメールの印刷。円香の名前が記された社内チャットの履歴。

白石が言った。

「桐谷さんは、有沢さんの味方だった可能性がありますね」

「味方、というより」

宮瀬はファイルを閉じた。

「妹さんの死を、もう一度見ようとしていた」

白石は顔を曇らせた。

「有沢は、それを知らなかった」

「知らなかったか、知ろうとしなかった」

桐谷沙織は、京都市内のマンションで死亡していた。

死亡推定時刻は、午後零時半前後。京都駅には、午前十一時五十二分に桐谷のスマートフォンを使った新幹線改札の出場記録があった。彼女の最後のメッセージは、午後零時四十七分に弟へ送られていた。

有沢と会う。逃げない。

そして有沢昂介は、その午後零時四十七分、東京発博多行きのぞみ二四一号の十一号車にいた。

京都から乗車し、すでに新大阪を過ぎていた。車掌に声をかけ、指定席の変更を相談している。斜め前の乗客は、はっきりと有沢の顔を覚えていた。

またしても、完璧だった。

捜査本部は揺れた。

三件の被害者はいずれも、六年前の案件につながる。三件とも最後のメッセージに有沢の名前がある。しかし三件とも、殺害時刻に有沢は東京発の新幹線に乗っている。

遠野管理官は、苛立ちを隠さなかった。

「有沢を犯人にしたい誰かがいる」

宮瀬は言った。

「有沢自身かもしれません」

遠野は宮瀬を睨んだ。

「君はまだそれを言うのか」

「はい」

「三件ともアリバイがある」

「三件とも、アリバイを確認させるための情報が先に置かれています」

会議室が静まった。

宮瀬は資料を一枚ずつ並べた。

瀬名隆一。真崎絵里子。桐谷沙織。

死亡推定時刻。駅到着時刻。車内目撃情報。最後のメッセージ。

「犯人は、警察に四つの時刻を見せています」

宮瀬は言った。

「一つ目。遺体が示す死亡推定時刻。二つ目。被害者の端末が示す駅到着時刻。三つ目。有沢が新幹線車内にいた時刻。四つ目。被害者の最後のメッセージが送られた時刻」

白石が続けた。

「それぞれ違う証拠に見える」

「だが、向いている方向は同じです」

宮瀬は、最後のメッセージを指で押さえた。

「有沢はその時刻、現場にいなかった」

遠野は腕を組んだ。

「それがアリバイだ」

「いいえ」

宮瀬は静かに言った。

「それが罠です」

第五章 死者の時間

宮瀬は、三人の遺族を訪ね直した。

捜査本部からは、無駄足だと言われた。だが宮瀬にとって、遺族の話を聞くことは捜査の中心だった。

死者は、死亡推定時刻だけでは語れない。そこに至るまでの朝があり、癖があり、約束があり、誰かに残したかった言葉がある。

瀬名香織は、夫の机から一通の封筒を見つけていた。

宛名は、有沢昂介。中には謝罪文の下書きが入っていた。

私は、円香さんの件で沈黙した。あのとき真実を言うべきだった。遅すぎることは分かっている。それでも、記録を訂正したい。

真崎千尋は、母のクラウドに残っていた未送信メールを見せた。

宛先は桐谷沙織。件名は「再調査資料について」。

私も証言します。もう逃げるのはやめます。円香さんの名前を、これ以上汚したくありません。

桐谷圭吾は、姉のカレンダーを出した。

事件当日の予定欄には、赤い字でこう書かれていた。

有沢氏に連絡。謝罪ではなく、事実を渡す。

有沢は知らなかった。

三人は、彼の妹を貶めようとしていたのではない。遅すぎたとはいえ、彼女の名誉を回復しようとしていた。

有沢は彼らを、六年前の時刻で止まったまま見ていた。

宮瀬は、そこに犯人の孤独を見た。

怒りだけではない。復讐だけでもない。

有沢は、誰かに自分の論理を理解してほしかった。妹の死を、時刻ではなく物語として見てほしかった。しかし彼自身は、被害者たちの物語を見なかった。

だから間違えた。

瀬名が妻に句点を使わないことを知らなかった。真崎が娘に駅名標の写真を送り続けていたことを知らなかった。桐谷が怖いときほど「私はここにいる」と書くことを知らなかった。

犯人は時刻を偽れた。だが人生は偽れなかった。

最初に死亡推定時刻が崩れたのは、桐谷沙織の事件だった。

解剖所見を再検討した監察医が、宮瀬の求めに応じて現場環境を細かく再現した。床暖房、浴室乾燥、閉じられた窓、温められた室内。さらに遺体の近くに置かれていた保温ボトルの熱が、周囲の温度を不自然に保っていた。

「死亡時刻は、もっと早い可能性がある」

監察医は言った。

「どれくらいですか」

「午前十時前後まで戻せる」

白石は息を呑んだ。

午前十時。

その時刻なら、有沢は京都市内にいた。彼は午前九時半に、京都駅近くのコインロッカーを使っていた記録がある。午前十時二十分には、桐谷のマンション近くのコンビニ防犯カメラに、彼によく似た男が映っていた。

次に、真崎絵里子の死亡推定時刻も崩れた。

ホテルの部屋の空調は、事件前後に遠隔操作で温度が上げられていた。操作は部屋のタブレットからではなく、清掃管理用の端末を悪用して行われていた。有沢はかつて、そのホテルチェーンの設備管理システムに関わっていた。

真崎の実際の死亡時刻は、午前十時半前後。有沢が新横浜から新幹線に乗る前だった。

瀬名隆一も同じだった。

貸会議室の空調ログ。紙コップの温度。ビルの入退室記録。瀬名の血圧薬が未開封だったこと。

死は、警察が思っていたより早く訪れていた。

では、駅到着時刻は何だったのか。

答えは残酷なほど単純だった。

駅に到着していたのは、被害者ではない。

被害者のスマートフォンだった。

有沢は殺害後、被害者の端末を持ち出した。交通系IC、EX予約、位置情報、メッセージアプリ。それらを使い、被害者がまだ移動しているように見せた。

瀬名の端末は、品川駅の改札を通った。真崎の端末は、新横浜駅に現れた。桐谷の端末は、京都駅で出場記録を残した。

そしてその後、有沢は東京発の新幹線に乗った。途中駅から乗り込み、あえて人目につく行動を取った。

車掌に話しかける。コーヒーをこぼす。隣客に礼を言う。指定席の変更を相談する。

車内で目撃されることが、彼の目的だった。

最後のメッセージは、被害者のものではない。有沢が車内から送っていた。

死亡推定時刻。駅到着時刻。車内目撃情報。最後のメッセージ。

四つの時刻は、互いに独立した証拠に見えた。だが実際には、すべて一人の男が作った一本の線だった。

その線の終点には、いつも同じ言葉があった。

有沢は、そこにいなかった。

第六章 青い新幹線

決定的な証拠は、小さな車輪だった。

桐谷沙織のマンション玄関で採取された青い破片。最初は何かの玩具片だと思われていた。鑑識資料の端に、ほとんど意味のない物証として記録されていた。

だが桐谷圭吾の証言が、それを変えた。

「甥が作った青い新幹線のストラップです」

圭吾は写真を見せた。

紙粘土で作られた、少し不格好な新幹線。白ではなく青。車体も歪んでいて、車輪の大きさも揃っていない。それでも桐谷沙織は、そのストラップをスマートフォンにつけ続けていた。

「姉は言っていました。これを見ると、甥が小さかったころを思い出すって」

写真の中のストラップには、四つの車輪があった。

現場で見つかった青い破片は、その車輪の一つと一致した。

白石は声を低くした。

「桐谷さんのスマホは、現場で犯人に奪われた。そのときストラップの車輪が欠けた」

宮瀬は頷いた。

「そして、その欠けたストラップのついたスマートフォンを、有沢が持っていた」

「持っていた証拠が必要です」

「ある」

宮瀬は、京都駅を出たのぞみ二四一号の車内映像を見せた。

十一号車のデッキ。午後零時四十七分。有沢昂介が立っている。

右手には自分のスマートフォン。左手には、別のスマートフォン。

映像は粗い。だがフレームを一つずつ拡大すると、その端に小さな揺れが見えた。

青いもの。

白石は身を乗り出した。

「ストラップ……」

「車輪が一つ、欠けている」

同じ時刻、桐谷沙織の最後のメッセージが送信されていた。通信記録は、のぞみ二四一号十一号車の車内Wi-Fiを示している。有沢自身の端末も、同じアクセスポイントに接続していた。

さらに、桐谷のスマートフォンはその後、新大阪駅のゴミ箱から見つかった。ストラップは外されていた。だが本体の接続履歴は消しきれていなかった。

白石が言った。

「有沢は、殺害時刻とされた時間には現場にいなかった」

「そうだ」

「でもその時刻、被害者のスマホと一緒に新幹線にいた」

「そこが証拠になる」

宮瀬は静かに言った。

「被害者は、もうそこにいなかった。だが、被害者の時間だけが列車に乗せられていた。それを運べたのは、犯人だけだ」

白石はしばらく黙っていた。

そして小さく呟いた。

「犯人は、そこにいなかった」

宮瀬は頷いた。

「だからこそ、犯人だった」

第七章 有沢昂介

有沢昂介は、東京駅のホームで任意同行を求められた。

雨はもう上がっていた。だがホームの床には、まだ水の膜が残っていた。白い照明がそこに映り、足元で揺れている。

有沢は驚かなかった。

黒いコートの襟を直し、宮瀬を見た。

「ようやくですか」

その言葉に、白石が眉を動かした。

宮瀬は表情を変えなかった。

「待っていたような言い方ですね」

「優秀な刑事なら、いつか来ると思っていました」

「来てほしかった?」

有沢は笑った。

「まさか」

しかし、その笑みはわずかに歪んだ。

取調室で、有沢は最初、何も否認しなかった。ただ、すべてを見下ろすように座っていた。

「あなた方は最初、私を疑った。そして調べた。私は新幹線にいた。記録にも、記憶にも、映像にも残っていた」

有沢は指を組んだ。

「完璧なアリバイです」

宮瀬は言った。

「完璧すぎました」

「負け惜しみですか」

「いいえ」

宮瀬は一枚の写真を置いた。

青い新幹線のストラップ。欠けた車輪。

有沢の目が、ほんの一瞬だけ止まった。

宮瀬はその一瞬を見逃さなかった。

「桐谷沙織さんのスマートフォンについていたものです。甥御さんが作った。彼女は絶対に外さなかった」

有沢は黙った。

「現場で車輪が一つ見つかりました。車内映像では、あなたが欠けたストラップのついたスマートフォンを持っている」

「偶然拾った可能性は?」

「そのスマートフォンから、午後零時四十七分にメッセージが送られています。あなたの端末と同じ車内Wi-Fiを使って」

「それだけで?」

宮瀬は次の資料を置いた。

「瀬名さんの端末も、真崎さんの端末も、同じように駅に現れ、新幹線車内からメッセージを送っています。三件とも死亡推定時刻は、環境操作によって後ろへずらされていた」

有沢は薄く笑った。

「よくできた推理です」

「推理ではありません」

宮瀬は、三つの遺族証言を並べた。

句点。駅名標の写真。私はここにいる。青い新幹線。

「あなたは時刻を作った。だが、言葉を作れなかった」

有沢の表情が、初めて変わった。

「言葉?」

「瀬名さんは妻に句点をつけない。真崎さんは娘に駅名標の写真を送る。桐谷さんは怖いとき、自分のいる場所を書く。あなたはそれを知らなかった」

「そんなものは証拠ではない」

「証拠の入口です」

宮瀬の声は、怒っていなかった。それが有沢を苛立たせた。

怒りなら受け止められる。憎しみなら理解できる。だが宮瀬の声には、静かな哀しみがあった。

「あなたは三人を、六年前の記録としてしか見なかった。瀬名隆一、真崎絵里子、桐谷沙織。報告書の中の名前として見た」

「彼らは円香を殺した」

有沢の声が低くなった。

「彼らは妹を見殺しにした。時刻を書き換え、責任を書き換え、円香の人生を一枚の報告書にした」

「だから、あなたも同じことをした」

有沢の目が宮瀬を刺した。

「同じ?」

「三人の人生を、死亡推定時刻に変えた」

取調室に沈黙が落ちた。

空調の音だけが、白く響いていた。

有沢はゆっくりと言った。

「あなたに、円香の何が分かる」

「分かりません」

宮瀬は即答した。

「分からないから、たどるんです。彼女の一日を。彼女の言葉を。彼女が誰に何を残したのかを」

「誰もたどらなかった」

「だからあなたが、殺していい理由にはならない」

有沢は笑おうとした。しかし、笑えなかった。

「彼らは謝ろうとしていました」

宮瀬は言った。

「瀬名さんはあなたに謝罪文を書いていた。真崎さんは証言するつもりだった。桐谷さんは円香さんの名誉回復のため、再調査を進めていた」

有沢は、動かなかった。

「嘘だ」

「資料があります」

「嘘だ」

今度は、声がかすれていた。

「そんなはずがない。彼らは、あの時点で止まっている。円香を殺した時点で止まっている。そうでなければ……」

言葉が途切れた。

そうでなければ、何なのか。

そうでなければ、自分の殺人は何になるのか。そうでなければ、自分が作り上げた時刻表は何を証明するのか。

有沢は両手で顔を覆った。

しばらくして、指の間から声が漏れた。

「誰かに、見てほしかった」

宮瀬は黙っていた。

「円香が死んだ日、誰も見なかった。何時に死んだかだけを見た。どうして死んだかを見なかった。あいつが何を読んだか、誰に追い詰められたか、最後に誰の名前を呼んだか、誰も……」

有沢の肩が震えた。

「だから、見せてやろうと思った。時刻を。矛盾を。あいつらがやったことを。俺が作った時刻を、誰かが解けるなら……」

「あなたを理解してくれると思った」

有沢は顔を上げた。

その目には、知性の光ではなく、長い孤独だけがあった。

「理解してはいけないんですか」

宮瀬は少し間を置いた。

「理解することと、許すことは違います」

有沢は笑った。今度の笑いは、壊れた時計の針のように空虚だった。

「私は、そこにいなかった」

「はい」

宮瀬は言った。

「あなたは、殺害時刻とされた時間には、現場にいなかった」

有沢の口元に、最後の誇りが戻りかけた。

しかし宮瀬は続けた。

「でも、被害者のスマートフォンと一緒にいました。死者の声を持ち歩き、死者の時間を新幹線に乗せた。あなたがそこにいなかったことは、無実の証明ではない」

宮瀬は、青い車輪の写真を指で押さえた。

「あなたが時刻を作った証明です」

有沢は、もう何も言わなかった。

終章 そこにいなかった

桐谷沙織のスマートフォンにつけられていた青い新幹線のストラップは、事件後、修復された。

欠けた車輪は、証拠品としての手続きを終えたあと、遺族に返された。完全には元どおりにならなかった。接着面に細い線が残った。だが圭吾は、それでいいと言った。

「姉らしいです」

彼は小さく笑った。

「少し欠けていても、持ち歩く人でしたから」

宮瀬は、ストラップを両手で渡した。

圭吾は受け取り、しばらく見つめた。

「姉は、本当はあの時間まで生きていなかったんですね」

宮瀬は頷いた。

「はい」

「最後のメッセージも、姉じゃなかった」

「はい」

圭吾は唇を震わせた。

「じゃあ、姉の最後の言葉は、何だったんでしょう」

宮瀬はすぐには答えなかった。

桐谷沙織の机に残っていたメモを思い出していた。

謝罪ではなく、事実を渡す。

彼女は逃げようとしていなかった。有沢を追い詰めようとしていたわけでもない。ただ、遅すぎた真実を渡そうとしていた。

宮瀬は言った。

「お姉さんは、最後まで誰かの時間を取り戻そうとしていました」

圭吾は目を伏せた。

「それが、姉の言葉ですか」

「少なくとも、私はそう思います」

圭吾は泣いた。声を出さずに、肩だけを震わせた。

宮瀬はその涙を見ていた。

遺族の涙は、いつも事件の終わりではない。そこから始まる時間がある。犯人の作った時刻表には載らない、長く、不規則で、誰にも定刻を約束されない時間。

数日後、宮瀬は東京駅のホームに立っていた。

東海道新幹線が入線してくる。白い車体が、朝の光をまとって滑り込む。ホームの人々は、それぞれの荷物を持ち、それぞれの時間へ向かっていた。

発車標には、いくつもの時刻が並んでいる。

九時十二分。九時二十一分。九時三十三分。

正確で、美しい数字。

けれど宮瀬は、もうその美しさだけを信じなかった。

時刻は必要だ。記録も必要だ。防犯カメラも、改札ログも、通信履歴も、人間の曖昧さを補うためには欠かせない。

だが、人は時刻だけで生きていない。そして、人は時刻だけで死ぬのでもない。

瀬名隆一は、欠けた湯呑みを捨てなかった。真崎絵里子は、娘に駅名標の写真を送り続けた。桐谷沙織は、甥の作った青い新幹線を持ち歩いた。

犯人は、それを知らなかった。

だから、死者の言葉を偽った。だから、死者の時間を運んだ。だから、自分の完璧な不在証明の中に、決定的な空白を残した。

新幹線のドアが閉まる。

発車ベルが鳴る。

列車が動き出す。

宮瀬は、雨の残らないホームで、あの日の有沢の言葉を思い出していた。

私は、そこにいなかった。

たしかに、犯人はそこにいなかった。

だが、そこにいなかったという事実こそが、犯人を指し示していた。

死者の携帯は現場にいなかった。死者の声は現場にいなかった。死者の最後の時刻は、犯人と同じ列車に乗っていた。

人は、記録の上では消されることがある。死亡推定時刻に閉じ込められ、最後のメッセージに偽られ、駅の改札ログに置き換えられることがある。

それでも、誰かが覚えている。

句点を打たない癖を。駅名標の写真を。怖いときに書く言葉を。欠けた車輪の青い新幹線を。

宮瀬はホームの端で、静かに目を閉じた。

列車の音が遠ざかる。

その響きの中で、彼は思った。

犯人は、そこにいなかった。だからこそ、そこに犯人がいた。

時刻の隙間に消された真実は、死者を愛した者たちの証言によって、もう一度、光の中へ戻ってきた。

 
 
 

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