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白い息をそっと足もとへ――タージ・マハルで破れたシューカバー

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月15日
  • 読了時間: 5分
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アーグラの午前は、空気がすでに光っている。赤砂岩の大門(ダルワザ)をくぐると、額縁の向こうに白い建物がふっと現れて、言葉が一度だけ止まった。遠くから見ると絵葉書みたいに平らなのに、近づくほど彫りの影が立ち上がり、白のなかに薄いグレーや蜂蜜色が混じっていく。水路の並木では、家族連れが順番にベンチに座って「はい、ハートを作って」と手を合わせている。ここでは誰もが少しだけ照れ屋で、少しだけ役者だ。

最初のつまずきは、靴袋の列で起きた。入口で配られたシューカバーのゴムが、はめた瞬間にぷつりと切れたのだ。周りの人が一瞬「おや」という顔をする。慌てて結び直そうとしていると、列の後ろから年配の女性が白い医療用テープを取り出して、私の靴の甲に十字にぺたり。「ジュガード(工夫)っていうの」とウインクする。彼女の手つきは慣れていて、たった数秒で応急処置は完了した。私は胸の前で手を合わせて礼を言い、彼女は「ゆっくり、静かに」と口の形で教えてくれた。

白い基壇に上がると、外の熱がすっと遠のいた。大理石は日なたでは熱いのに、影では肌にやさしい冷たさを返してくる。カリグラフィの縁取りは上へ行くほど文字が大きくなっていて、下から見上げると同じ太さに見える――横でガイドが小声で教える。私は頷きながら、花の象嵌に顔を近づけた。赤はカーネリアン、青はラピスだと彼は言う。すると、清掃スタッフの青年がそっと近づき、「指先で触らないで。代わりに、光を当てると透けるよ」とスマホのライトを手で遮りながら、白い石の縁に光を滑らせた。ほんのわずかに内部が発光するように見えて、石が呼吸する音まで聞こえる気がした。

内部の霊廟は「Silence」の札とともに、外の世界より二度くらい涼しい。自分の足音がやたら大きく聞こえる。中央の柵の周りで、人々は自然に歩調を合わせて円を描く。そこで、私の靴袋テープがはらりと剥がれそうになった。あわててしゃがみかけたとき、前にいた少年が目で「どうぞ」と合図して、列の間に小さなスペースを作ってくれた。私は素早くテープを押さえ直し、彼に親指を立てる。少年は笑わず、代わりに胸の前で小さく合掌してくれた。声を出せない場所では、仕草が言葉の代わりになる。

外に出ると、光が一段と強い。ミナレットがわずかに外へ傾いて建っている(崩れても本体に倒れ込まないための工夫だと、さっきのガイドが耳打ちした)ことを思い出しながら、川側のテラスへ回る。ヤムナーが白い壁の向こうでぼんやり光り、鳶が高く輪を描く。手すりの影で汗を拭いていると、インド人の家族が英語で「写真をお願い」とスマホを差し出した。お父さんが娘のスカーフの端を整え、私は「じゃあ、三、二、一――」と言いかけて、ここでは声を下げるんだったと思い直す。代わりに指でカウントし、最後に手のひらを軽く上げる。シャッターが切れると、みんなが小さく拍手した。お母さんがバッグをごそごそし、アーグラのペータ(冬瓜の砂糖菓子)を小袋ごと私に押し込む。「甘いのと、しょっぱいの。どちらも少し」と笑う。白い建物の前では、甘さも控えめに感じられる。

大門へ戻る途中、噴水の縁で子どもがサンダルを落とした。父親が腕をまくり、浅い水に手を伸ばそうとするが、なかなか届かない。通りがかった庭師が木の棒をすっと差し出し、父親がそれでサンダルのバンドを引っかけて救い上げた。周りの数人が思わず拍手。庭師は肩をすくめて、「毎日、三足は拾うよ」と照れた顔。子どもは救い上げられたサンダルを胸に抱き、私の方を見てなぜか敬礼した。今日のタージ・マハルは、みんな少しずつ誰かのになっている。

出口近くの影で、象嵌職人の青年が小さなデモンストレーションをしていた。白い大理石片に、花びらの形に切り抜いた石をはめ込む。驚くほど小さなやすりの音が、汗の匂いの上をスライドするように響いた。私が見惚れていると、彼は失敗した欠片をひとつ手のひらに落とし、「ラッキーチップ」と笑って渡してくれた。「完璧ではない方が、人が長く覚えてくれる」と言う。たしかに、今日の私の靴袋も完璧ではないままだ。

帰り道、赤い門の陰でさっきの年配の女性を見つけた。私は買ったばかりの冷たい水を一本手渡し、彼女は代わりにテープの残りをちぎって私のノートに貼ってくれた。四角い小片の真ん中に「Taj」とボールペンで書いて、指でぎゅっと押す。「今日の白い息、ここに貼っておきなさい」。彼女の言い方が好きで、私はノートを胸ポケットにしまった。

外へ出ると、日差しはもう午後の角度だ。土のカップのラッシーを一杯だけ飲み、器を地面の端で軽く割る。土は土へ戻る音がして、胸の中の熱が少しだけ下がる。振り返ると、白いドームは相変わらず真面目な顔で空を支え、手前の並木は来たときより濃く見えた。

旅の記憶は、建物の完璧さよりも人の手つきで残るのかもしれない。テープを十字に貼る指、光をそっと当てる掌、指で数える合図、棒でつついてサンダルを救う手、花びらをはめ込むやすりの角度。大理石の白さは無口だけれど、そういう小さな手つきが並ぶと、白の中にやわらかな音が増える。

ホテルに戻って靴袋のテープを外すと、粘着の跡が少しだけ残った。ノートの端には、あの四角いJugaadの証拠。私は指でなぞり、そっとページを閉じた。次にまたここを訪れるときも、たぶん私は、声を落として、指で数え、ゆっくり歩く。白い息を足もとに貼り付けるみたいに。

 
 
 

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