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白い時刻表

※以下は架空の人物・団体・事件によるフィクションです。

東京駅十八番線に入ってきた「のぞみ112号」は、一分の遅れもなかった。

その正確さが、まるで死者への弔辞のようだった。

午前十時四十二分。白い車体がホームに滑り込み、ドアが開くと、乗客たちはいつものように立ち上がった。出張帰りの会社員、キャリーケースを押す観光客、スマートフォンで会議に参加したまま降りる男。人々はそれぞれの予定に向かって流れていく。

ただ、グリーン車七号車の十一番A席だけが、時間の流れから取り残されていた。

男は窓側の席に深く沈み込んでいた。高価な濃紺のスーツ。磨かれた革靴。左手の薬指には、金の指輪。膝の上には新聞が広げられていたが、紙面は一面ではなく、経済欄の株価一覧だった。

車掌が声をかけた。

「お客様、東京です」

返事はなかった。

肩に触れた瞬間、車掌は顔色を変えた。

男の名は、黒瀬宗一郎。

大手都市開発会社「鳳栄開発」の副社長であり、政財界に顔の利く人物だった。翌週には国土都市省の審議会で、東海道沿線の大規模再開発事業「東海道リンクス構想」の民間代表として発言する予定だった。

その男が、東海道新幹線のグリーン車で死んでいた。

警視庁捜査一課の風間怜子が東京駅に着いたとき、ホームはすでに黄色い規制線で区切られていた。怜子は四十二歳。派手さはないが、目立たないものを見る眼を持っていた。十七年の刑事生活で彼女が学んだのは、事件は派手な場所ではなく、端のほうに落ちているということだった。

検視官が短く言った。

「外傷はありません。急性の循環不全に見えますが、断定はできません」

「病死の可能性は?」

「可能性だけなら、何でもあります」

怜子は座席を見た。

黒瀬の足元には黒いビジネスバッグがあった。中にはノートパソコン、国会議員との会食予定表、分厚い契約書の写し。そして、一枚の紙が入っていた。

怜子は白い手袋でそれを摘まみ上げた。

紙は、時刻表の切り抜きだった。

ただし、市販の時刻表ではなかった。白いコピー用紙に、東京、品川、新横浜、名古屋、京都、新大阪の駅名と、何本かの発着時刻だけが手書きで記されている。

一番下に、小さな字でこう書かれていた。

――九時四十七分。誰も来なかった。

怜子は眉を寄せた。

そのとき、若い刑事の岩永律がスマートフォンを差し出した。

「風間さん、これを見てください。今、拡散しています」

匿名アカウントだった。

名前は「白い時刻表」。

投稿は、午前十時四十二分ちょうど。

一人目は定刻に到着した。東海道は、まだ隠している。

その投稿には、黒瀬宗一郎の過去の疑惑を示す資料が添付されていた。十年前の入札資料、政治献金リスト、国土都市省幹部との面談記録。真偽は不明だったが、世論を動かすには十分だった。

報道各社は数時間後、黒瀬の死よりも先に、疑惑の資料を大きく扱った。

「東海道リンクス構想に不透明な資金流入か」

「都市再開発の巨大利権、政官財癒着の温床」

「新幹線車内死は告発の始まりか」

黒瀬宗一郎の死は、殺人事件である前に、社会の怒りに火をつける装置となった。

怜子は夜の捜査本部で、壁に貼られた時系列表を見つめていた。

京都発、名古屋通過、新横浜通過、東京着。

黒瀬は京都から乗車していた。改札記録も、防犯カメラもある。京都駅のホームでは秘書と別れ、新幹線に乗る姿が確認されていた。車内販売はすでに廃止されていたが、乗務員が検札時に黒瀬を見ている。異変はなかった。

問題は、殺す機会がどこにあったかだった。

「京都から東京まで約二時間十五分」岩永が言った。「途中で犯人が乗り降りしたとすれば、名古屋か新横浜です」

怜子は首を振った。

「それは、犯人が列車に乗っていた場合よ」

「乗っていなかったと?」

「今のところ、そう考えたほうが不自然なものが見える」

「不自然なもの?」

怜子は、白い手書きの時刻表を指さした。

「犯人は、列車の時刻を見せたがっている。でも、見せたがっているものほど、だいたい本質じゃない」

二人目の死者は、三日後に出た。

国土都市省審議官、大河内正毅。

大河内は午後一時六分東京発の「ひかり」で名古屋へ向かっていた。名古屋駅到着直前、多目的室の近くで倒れているのを乗客が発見した。救命措置が行われたが、死亡が確認された。

またしても外傷はなかった。

大河内の内ポケットには、白いコピー用紙が入っていた。

――十二時十三分。彼は笑った。

匿名アカウント「白い時刻表」は、大河内の死亡発表前に投稿していた。

二人目は西へ向かった。許認可は、死者の声を消すために使われた。

添付されていたのは、東海道リンクス構想に関する内部メモだった。そこには、ある告発文書を「根拠不十分」として処理する方針が記されていた。

世論はさらに揺れた。

大河内は官僚としては異例の出世を遂げた人物だった。清廉な改革派としてテレビにも出演していた。その男が、十年前に告発を握りつぶしていた可能性が出た。

死亡時刻と投稿時刻、そして新幹線の運行時刻は、あまりに整いすぎていた。

犯人は東海道新幹線のダイヤを熟知している。

メディアはそう騒ぎ始めた。

ワイドショーは連日、時刻表をボードに貼り出した。

「黒瀬氏は京都から東京へ。大河内氏は東京から名古屋へ。犯人はどこで接触したのか」

「新幹線ならではの密室性」

「高度な時刻表トリックか」

だが怜子は、報道を見るたびに違和感を深めていた。

犯人は確かに時刻表を使っている。

しかし、殺人のためではない。

見出しを作るために使っている。

三人目は、さらに露骨だった。

民放報道番組の看板キャスター、白石真紀。

白石は新大阪での講演を終え、夜の「のぞみ」で東京へ戻る予定だった。午後九時前、名古屋駅を出た直後の車内で意識を失い、そのまま死亡した。

白石は十年前、ある若い女性の告発を「被害妄想」と断じる特集を組んでいた。

その女性の名が、初めて世に出た。

雨宮灯子。

東海道リンクス構想の準備段階で、資料整理の派遣社員として国土都市省の外郭団体に勤めていた女性だった。彼女は入札資料の改竄、沿線再開発地の不当な買い上げ、政治家への迂回献金を示すデータを見つけ、社内窓口、行政、報道機関、鉄道関係者に告発した。

だが、誰も彼女を守らなかった。

会社は守秘義務違反で彼女を追い詰めた。

官僚は資料を受理しなかった。

メディアは彼女を奇妙な女として消費した。

鉄道関係者は「当社とは無関係」と切り捨てた。

雨宮灯子は十年前の十二月、品川駅近くの歩道橋から身を投げた。

享年二十七。

彼女の部屋には、手書きの時刻表が残されていた。

告発先との面会予定、待ち合わせ時刻、乗るはずだった列車。

九時四十七分、黒瀬宗一郎。

十二時十三分、大河内正毅。

十八時六分、白石真紀。

そして、二十一時十八分。

最後の欄には、名前がひとつあった。

片倉哲也。

当時、鉄道会社系の技術調査部門にいた男で、現在は東海道リンクス構想の安全監査委員だった。

怜子は、その名前を見た瞬間、次の事件がまだ終わっていないことを理解した。

「雨宮灯子の身内は?」

怜子の問いに、岩永が資料をめくった。

「両親はすでに亡くなっています。弟が一人。雨宮篤、三十八歳。現在は世論分析会社『クワイエットライン』代表です」

「世論分析?」

「企業や官公庁向けに、炎上対策、報道分析、SNS動向の予測を請け負っています。選挙関連の広報にも関わっています」

怜子は黙った。

犯人像に近すぎる。

近すぎるものは、罠であることも多い。

「アリバイは?」

「あります。黒瀬死亡時、雨宮篤は東京のホテルで講演中。動画配信されています。大河内死亡時は大阪で企業向けセミナー。白石死亡時は都内テレビ局の控室で、別番組のコメンテーターとして出演待ちでした。いずれも複数人が確認しています」

岩永は苦い顔をした。

「完璧です」

怜子は資料を受け取った。

雨宮篤の写真があった。

細身の男だった。眼鏡の奥の目は静かで、笑っているようにも、何も見ていないようにも見えた。

「完璧なアリバイは、犯行時刻が正しい場合にだけ完璧なのよ」

「死亡推定時刻は大きく外せません」

「死亡時刻じゃない。殺人が始まった時刻」

岩永は口を閉じた。

怜子は三件の被害者の行動を並べた。

黒瀬、大河内、白石。

三人は事件前、いずれも雨宮篤と接触していた。表向きは危機管理の相談だった。匿名アカウントによる告発予告が届き、三人はそれぞれ雨宮の会社に助言を求めていた。

雨宮は彼らに言ったらしい。

「指定された列車に乗ってください。相手は情報戦を仕掛けています。逃げれば認めたことになる。定刻通りに移動し、堂々と姿を見せることが最善です」

彼らは従った。

社会の表側に立つ人間ほど、表に出ることを恐れる。

そして、表に出ることで自分を守れると信じる。

犯人はそこを突いた。

怜子は、黒瀬の秘書から回収した録音を聞き直した。

黒瀬は事件前夜、怒鳴っていた。

「雨宮に任せろ。あいつは世論を読む。こっちは何もやましいことはないという筋で押し切る」

大河内も、白石も同じだった。

彼らは誰かに脅されていたのではない。

守ってもらえると思って、死への列車に乗った。

その夜、怜子は雨宮灯子の古いアパートを訪ねた。

すでに別の住人が住んでいたが、大家は十年前のことを覚えていた。

「静かな子でしたよ。いつも白いノートを持っていてね。駅の時刻とか、人の名前とか、びっしり書いていた」

「弟さんは?」

「お姉さんが亡くなったあと、何度も来ていました。部屋は空っぽなのに、床に座ってね。ずっと、何か読んでいた」

大家は少し迷ってから言った。

「あの子、最後に言ってましたよ。『列車は時間通りに来るのに、人は来ないんですね』って」

怜子は返事ができなかった。

人は来なかった。

企業も、役所も、メディアも、鉄道会社も、警察も。

時間通りに来たのは、列車だけだった。

四件目を防ぐため、片倉哲也には警護がついた。

しかし片倉は警察を信用しなかった。

彼は自宅に閉じこもり、弁護士を通じて「体調不良」を理由に東海道リンクス構想の委員を辞任すると発表した。だが、その発表がまた世論を刺激した。

「逃げた」

「片倉も何か知っている」

「四人目はいつだ」

SNS上では、もはや殺人が予告番組のように消費されていた。

怒りは正義の顔をしているが、怒り続けるには燃料がいる。

犯人はその燃料を、定刻に供給していた。

怜子は「白い時刻表」の投稿時刻を分析した。

黒瀬の死、大河内の死、白石の死。

投稿はいずれも、死亡確認より前だった。だが、実際の死亡時刻とぴたり一致しているわけではない。むしろ、新幹線の発着時刻、テレビの速報枠、株式市場の取引時間、昼のニュース、夜の報道番組に合わせていた。

犯人は死体を動かしていたのではない。

空気を動かしていた。

事件のたびに、世論は特定の方向へ押し出された。

黒瀬の死で企業不信が燃えた。

大河内の死で官僚批判が広がった。

白石の死でメディアへの怒りが爆発した。

次に片倉が死ねば、鉄道会社と公共インフラへの不信が頂点に達する。

東海道リンクス構想は潰れる。

だが、それだけではない。

雨宮篤は、姉の告発を世に出したかったのだ。

人が一人で訴えても届かなかった声を、死者の列車に乗せて、国中に届けようとしている。

怜子はそれを理解した。

理解したからこそ、許すことはできなかった。

片倉の警護開始から二日目の夕方、捜査本部に知らせが入った。

片倉が消えた。

自宅マンションの裏口から出て、タクシーで品川方面へ向かったという。

同じころ、「白い時刻表」が新しい投稿をした。

最後の一人は、二十一時十八分。白い時刻表は終点へ向かう。

怜子は壁の時刻表を見た。

二十一時十八分。

雨宮灯子のノートにあった最後の時刻。

品川発、新大阪行きの最終近い「のぞみ」。

「品川駅に向かう」

怜子はコートを掴んだ。

岩永が走りながら言った。

「片倉を殺す気でしょうか」

「違うかもしれない」

「違う?」

「犯人にとって、片倉は最後の証人でもある。殺すだけなら、ここまで世論を作る必要はない」

「では、何を?」

怜子は改札へ向かう人波を見ながら言った。

「告発を完成させるつもりよ。片倉の口で」

品川駅の新幹線ホームは、夜の湿った熱気に包まれていた。

乗客たちは疲れた顔で列を作っていた。発車案内板には、二十一時十八分発、新大阪行きの列車が表示されている。

その下に、片倉哲也がいた。

帽子を目深にかぶり、マスクをしている。だが怜子にはすぐにわかった。片倉は逃げている人間の歩き方をしていた。前だけを見ているが、背中全体が怯えている。

そして、その少し離れたところに、雨宮篤が立っていた。

写真よりも痩せて見えた。

手には白い紙袋。

怜子はホームの柱の陰で足を止めた。

雨宮は片倉に近づいた。

「片倉さん」

片倉は震えた。

「やめてくれ。私は、私は何も知らなかった」

「十年前も、そう言いましたね」

雨宮の声は穏やかだった。

「姉はあなたに資料を渡した。あなたは言った。『鉄道の安全に関わる話なら調べる』と。姉は信じた。でもあなたは、資料を黒瀬に渡した」

「私は組織の人間だった。勝手なことはできなかった」

「組織の人間は、人間ではないんですか」

片倉は黙った。

雨宮は紙袋から白いノートを取り出した。

「姉の時刻表です。黒瀬は来なかった。大河内は笑った。白石はカメラの前で姉を壊した。あなたは、姉の資料を返さなかった」

片倉は泣きそうな顔になった。

「私は……怖かった」

「姉も怖かった」

雨宮の声が、初めて揺れた。

「でも、姉は行った。九時四十七分にも、十二時十三分にも、十八時六分にも。誰か一人くらい、来てくれると思っていた」

列車到着のアナウンスが響いた。

白い車体がホームに入ってくる。

怜子は前に出た。

「雨宮篤さん」

雨宮は振り返った。

驚きはなかった。

「風間刑事」

「その紙袋を置いてください」

「中身は資料です。姉が残したものと、彼らが隠したもの」

「それだけではないでしょう」

雨宮は微笑した。

「刑事さんは、時刻表トリックを解きましたか」

「トリックは時刻表じゃない。アリバイでもない。あなたは列車に乗らずに殺した。殺人の準備は、彼らがあなたを信用した時点で終わっていた。死亡時刻は、あなたが作った世論の時刻にすぎない」

雨宮は黙った。

「でも、本当のトリックはそこでもない。あなたは、世間に犯人を探させながら、同時に裁判官にした。怒りを誘導し、資料を小出しにし、人が死ぬたびに正義の燃料を投げ込んだ」

「姉の告発は、誰にも読まれなかった」

「だから人を殺した?」

「人が死ななければ、誰も読まなかった」

その言葉は、ホームの騒音の中でもはっきり聞こえた。

怜子は一歩近づいた。

「それは、たぶん事実です」

岩永が隣で息を呑んだ。

怜子は続けた。

「でも、事実だからといって、あなたが彼らを殺していい理由にはならない。あなたの姉が求めたのは、人が死ぬことではなかったはずです」

雨宮の表情が硬くなった。

「あなたに姉のことがわかるんですか」

「わかりません」

怜子は即答した。

「わからないから、調べます。わからないから、聞きます。わからないから、生きている人間に証言させます。あなたが殺せば、真実はまた死者のものになる」

雨宮は片倉を見た。

片倉は膝から崩れ落ちていた。

「片倉さん」怜子は言った。「あなたは証言する。十年前、何を受け取り、誰に渡し、誰が潰したのか」

片倉は顔を覆った。

「私が話せば、全部終わる」

「終わらせるために話すんです」

発車ベルが鳴った。

二十一時十八分が近づいていた。

雨宮は白いノートを抱きしめた。

「風間さん。列車は、時間通りに来るんです」

「ええ」

「姉は、ずっと待っていた」

「だから今度は、私たちが遅れない」

雨宮の目から、感情が抜け落ちた。

次の瞬間、彼は紙袋に手を入れた。

岩永が動いた。

怜子も同時に踏み込んだ。

ホームに短い悲鳴が上がった。

紙袋が床に落ち、白い紙が散らばった。

中にあったのは、資料の束、古いUSBメモリ、雨宮灯子の手書きノート、そして片倉に自白を迫るための録音機材だった。

危険物はなかった。

雨宮は抵抗しなかった。

ただ、膝をつき、散らばった白い紙を見つめていた。

「殺すつもりは、もうなかったんですか」

怜子が尋ねた。

雨宮は小さく笑った。

「わかりません。自分でも」

その答えが、もっとも正直に聞こえた。

二十一時十八分。

列車は定刻通りに発車した。

だが、片倉哲也は乗らなかった。

雨宮篤も乗らなかった。

白い時刻表は、その夜、初めて予定通りに進まなかった。

雨宮篤の逮捕後、事件の全容は少しずつ明らかになった。

彼は姉の死後、告発資料を集め続けていた。雨宮灯子が残したデータは断片的だったが、十年の間に関係者の異動、退職、企業の合併、内部不和が進み、隠されていた文書はあちこちから漏れ出していた。

雨宮はそれを拾い集め、世論分析の仕事を通じて、誰が何を恐れ、どの瞬間に情報を出せば社会が最も反応するかを学んだ。

そして、自分を危機管理の専門家として、かつての加害者たちに近づいた。

黒瀬、大河内、白石。

彼らは皆、雨宮を利用しようとした。

雨宮は、その利用される立場を利用した。

殺害方法については、捜査資料の中でも慎重に扱われた。共通していたのは、被害者たちが事件前に雨宮から「外部に漏らしてはならない資料」を受け取っていたこと、そしてその接触が犯行の始点だったことだ。

雨宮のアリバイは完璧だった。

ただし、それは死亡の瞬間に限られていた。

彼が本当に操作していたのは、列車ではなく、人間の思い込みだった。

新幹線の定時性。

著名人の移動予定。

速報を求めるメディア。

怒る理由を探す世論。

そして、死者が出なければ真実に振り向かない社会。

怜子は取り調べで雨宮と向き合った。

雨宮は多くを語らなかったが、一度だけ、姉のことを話した。

「姉は、正義の人ではありませんでした。普通の人でした。怖がりで、要領が悪くて、すぐ謝る人でした。でも、あの資料を見たとき、『これを見なかったことにしたら、私は私じゃなくなる』と言った」

怜子は黙って聞いた。

「僕は止めました。相手が大きすぎると。姉は笑って、『大きいものほど、誰かが小さい声で言わないといけない』と言いました」

雨宮は机の上に置かれた白いノートを見た。

「でも、小さい声は消えた。だから僕は、大きな声にした」

「人を殺して」

「はい」

雨宮は目を伏せた。

「姉がそれを望まないことは、知っていました」

その言葉に、怜子は何も返せなかった。

理解と赦しは違う。

だが、理解しなければ裁くこともできない。

片倉哲也の証言により、十年前の告発は再調査されることになった。

東海道リンクス構想をめぐる不正は、想像以上に広かった。

沿線再開発地の地価操作。

実体のない調査会社への委託費。

政治資金団体を経由した献金。

不都合な資料を「安全保障上の機微」として封じる官僚文書。

雨宮灯子の告発は、ほぼすべて事実だった。

ただし、彼女が生きていたときには、誰もそれを事実にしようとしなかった。

世論はまた動いた。

今度は雨宮篤を英雄視する声も出た。

「彼がいなければ闇は暴かれなかった」

「これは復讐ではなく告発だ」

「殺された側にも責任がある」

怜子はその言葉を見るたびに、スマートフォンを伏せた。

死者に責任を負わせる社会は、また別の死者を作る。

雨宮灯子を追い詰めたときも、世間はきっと同じように言ったのだ。

「彼女にも問題があった」

「もっと賢くやればよかった」

「証拠が足りない」

「騒ぎすぎだ」

言葉は刃物ではないと言う人間がいる。

だが怜子は知っていた。

言葉は刃物より遅く刺さる。

遅く刺さるから、刺した人間は血を見ずに済む。

事件から三か月後、怜子は東京駅の新幹線ホームに立っていた。

片倉の供述に基づく捜査は続き、鳳栄開発の役員、国土都市省の元幹部、複数の政治家秘書が事情聴取を受けていた。白石真紀の番組は検証特集を放送したが、そこに本当の悔恨があったのか、視聴率の計算があったのかはわからなかった。

雨宮篤は起訴された。

彼は公判で、殺人について争わない方針を示した。ただし、姉の告発資料については、すべて法廷で明らかにすると語った。

怜子は売店で一冊の時刻表を買った。

いまどき紙の時刻表を買う人間は少ない。だが、ページをめくると、無数の列車が細かな数字となって並んでいた。

人間が作った秩序。

人間を運ぶための時間。

その中に、雨宮灯子の小さな字が重なって見えた。

九時四十七分。

十二時十三分。

十八時六分。

二十一時十八分。

誰も来なかった時刻。

怜子は時刻表を閉じた。

ホームの向こうから、白い車体が近づいてくる。

列車は今日も定刻通りに来る。

それは美しいことだった。

だが、定刻通りに来るものだけで、人は救われない。

救うのは、遅れてでも来る人間だ。

怜子のスマートフォンが震えた。

岩永からだった。

「風間さん、片倉の証言で新しい名前が出ました。十年前、雨宮灯子さんの資料を受け取った警察関係者です」

怜子は目を閉じた。

警察もまた、表側に立つ組織だった。

そして表側に立つ者ほど、影を深く落とす。

「すぐ戻る」

そう返信して、怜子は歩き出した。

発車ベルが鳴る。

ドアが閉まる。

白い列車が、光の帯となって夜へ走り出す。

その正確な時刻の外側で、ようやく一人の女の声が、遅れて届き始めていた。

 
 
 

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