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白い花のことを、幹夫はまだ知らない


幹夫がその花に出会ったのは、午後の光がやわらかく傾きはじめた春の夕方だった。

小学校の下校路。国道沿いの歩道から外れた、小さな公園の隅っこに、その白い花はぽつんと咲いていた。ほかの雑草にまぎれながらも、不思議と目を引いた。花は太陽に向かってそっと開いていて、その周囲だけがふわりと静かに時間を止めているようだった。

幹夫はランドセルを背負ったまま、しゃがみ込んだ。

「なんだろう、この花……」

花びらはふんわりとしていて、まるで氷の羽のようだった。中心に向かって密に折り重なり、茎は分厚い緑の葉に抱かれていた。

それは、町でよく見る花ではなかった。名前もわからなかった。でも、幹夫の胸のどこか深いところに、ひんやりとした優しさが広がった。

花の奥にある、まだ知らない世界。誰にも話したことのない、見えない声。

風が吹いて、幹夫の髪を揺らす。どこか遠くから、春を引きずった風がやってきた。

幹夫は小学五年生。一人っ子で、家ではあまり話さない。話しかけると、母はスマホ。父は仕事でいつもいない。

唯一の話し相手は、かつて祖母が教えてくれた「草花図鑑」だった。だけど、その祖母も、去年の夏に亡くなってしまった。

花の名前を尋ねても、もう答えてくれる人はいない。それがどんなにさみしいことか、幹夫はまだ言葉にできないでいた。

白い花のことを、幹夫は誰にも話さなかった。次の日も、その次の日も、学校帰りに寄り道してその場所に通った。花は変わらず、緑の海のなかでぽつんと咲いていた。

「きみ、ひとりでえらいな」幹夫は、ある日そう話しかけてみた。

花は何も言わない。でも、その沈黙のなかに、彼は確かな何かを感じた。

もしかしたら、花も祖母の生まれ変わりかもしれない――そんなことを考えたこともあった。

ある雨上がりの日。幹夫は花の前に座って、濡れた地面に手をつきながら空を見上げた。

「おばあちゃん、ぼく……」

言いかけた言葉は、途中でつかえた。

「……なんで大人って、怒ってばかりなんだろうね」

風もなく、音もない。ただ、白い花だけが、雨粒を弾きながらもなお咲いていた。

幹夫の目の奥が熱くなる。

「ほんとはさ、わかってるんだ。父さんも母さんも、がんばってるって。でも……さびしいんだよ」

その言葉に答えるように、白い花がわずかに揺れた。

春が過ぎ、初夏が訪れる。花はいつの間にか散り、葉だけが残っていた。

幹夫は、最初は悲しかった。けれど、あるとき思った。

「きっと、きみはまたどこかで咲くよね」

幹夫は花のいた場所をスマホで撮影し、「白い花の丘」と名前をつけて、画面に保存した。その画像は、祖母の写真の隣に静かに並べられた。

秋がきたとき、幹夫はクラスで作文を書いた。タイトルは「白い花のことを、ぼくはまだ知らない」。

──その花の名前も、種類も、だれにも聞いていない。──でも、ぼくはあの花のまえで、はじめて心の声を話せた。──あの花は、ぼくのなかに何かを残してくれた。──それはたぶん、悲しみじゃなくて、光なんだと思う。

その文章を読んだ先生が、静かにこう言った。

「幹夫くん、大人でもね、答えのない気持ちって、たくさんあるのよ」

春がまたやってきた。

幹夫は、中学生になった。

だけど、白い花の咲く丘は、今も通学路の途中にある。今年もまた、同じように花が咲いた。

幹夫は、少し背の伸びた体を折りたたんで、しゃがみ込んだ。白い花が、あのときと同じように、太陽に向かって静かに咲いている。

彼は、何も言わず、ただ目を閉じた。

白い花は、風の音とともに、幹夫の胸の奥に、そっと触れた。

そして彼は、もう一度そっと呟いた。

「ありがとう。また来たよ」

 
 
 

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