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白きシャツ、血の想像

 静岡駅のコンコースは、午後というより、白昼の延長でできていた。蛍光灯の光は皮膚に刺さらず、ただ均一に貼りついて、人々の輪郭をわずかに鈍くする。壁も床も、案内板の文字さえ、磨かれた無関心の色をしている。幹夫は改札の手前に立ち、流れを見ていた。

 白いシャツが多かった。

 それは季節のせいでも、勤め人の習いでもあったろうが、幹夫の眼には一種の過剰として映った。胸に何も書かれていない白紙が、群れをなして移動している。汚れを拒む布が、汚れを知らぬ身体の上で、ことさら潔癖に皺ひとつなく伸びている。白は清潔の色であると同時に、無罪の色である。無罪の色ほど、人間を傲慢にするものはない。

 幹夫は、あの白が憎らしかった。憎らしいというより、吐き気に似た嫌悪が、じわりと喉の奥に膜を作った。汚されていない身体――言い換えれば、まだ何ものにも触れていない身体。あるいは、触れた痕跡を徹底して消し去ってきた身体。どちらにせよ、それは「危険」を知らぬ身体だ。

 危険を知らぬ身体は、軽い。軽い身体は、どこまでも倫理的で、どこまでも無臭で、そして驚くほど醜い。美は、危うさの上にしか宿らない。危うさの欠けた白は、ただの漂白である。

 幹夫は、白いシャツの群れを眺めながら、ふと、赤を想像した。

 赤は血の色だと、人は言う。だが赤は血だけのものではない。夕焼けの赤、標識の赤、広告の赤。ありふれた赤は、いくらでもある。しかし、幹夫の想像の中でだけ生き返る赤は、いつも白の上に現れた。白い布の上に、ほんの一滴。針でついたような一点。それが次第に滲み、花弁のように広がっていくさまを、幹夫は思い描いた。

 それは恐ろしい想像であるはずなのに、どこか甘美だった。

 白が、白であることをやめる瞬間。潔癖が敗北し、肉体が肉体として名乗り出る瞬間。血は、身体が世界に署名する唯一のインクではないか、と幹夫は思った。紙の上の文字よりも、肌の上の赤の方が、はるかに確かな「現実」だ。現実は、たいてい赤い。

 群衆の中に、若い男がいた。新しいシャツ、硬い襟、袖口の鋭い折り目。肌に触れたことのない白が、その男の肩の動きに合わせて、わずかに光を跳ね返している。幹夫は、なぜかその襟元に目が吸い寄せられた。首筋の皮膚は薄く、そこには切れ目などない。切れ目のない肌が、あまりに完成している。完成し過ぎている。

 幹夫は、完成が好きではなかった。

 完成は、破壊を呼ぶ。

 ――汚してみたい。

 そう思った瞬間、彼は自分の心の底に潜む獣を見てしまったような気がした。汚すとは何だ。泥をつけることか、インクをこぼすことか。そんな些細なものではない。彼の胸に芽生えた憧れは、もっと直接的で、もっと残酷で、しかも不気味に美の仮面をかぶっていた。

 彼は手のひらを見た。何の道具も持っていない。切るものも、裂くものも、赤を呼び出すための刃もない。現代人の無力は、道具の不在にあるのではない。欲望が道具を必要とする形を失っていることにある。欲望が裸になったとき、それはただの卑しさとして露出する。幹夫は、その露出の痛みに耐えられず、視線を逸らした。

 駅の売店の前で、人が小さな渋滞を作っていた。誰かが飲み物を買い、誰かが菓子パンを選び、誰かが弁当を抱えている。生活のための行為は、どれも無害で、無害であるがゆえに退屈だ。

 その瞬間だった。

 若い会社員らしい男が、紙袋から小さなソースの小袋を取り出し、雑に指で押し潰した。袋は不意に破れたのだろう。赤茶色の液体が、弧を描いて飛び、男の白いシャツの胸元に散った。点、点、点。まるで見えない指が、白を叩いて印をつけたようだった。

「うわ、最悪……」

 男は声を上げ、慌ててハンカチで拭いた。周囲の人々は笑い、誰かが「ティッシュある?」と言い、誰かが「駅で洗えないよね」と同情した。そこで起きたのは、事件ではなく、ただの不運である。赤は血ではなく、ケチャップの赤だった。滑稽で、安っぽく、匂いのある赤。

 幹夫の胸に、説明のつかぬ震えが走った。

 それは歓喜ではない。落胆でもない。むしろ両者が同時に込み上げ、互いを汚し合って、得体の知れぬ感情になった。彼の想像が欲した赤は、清冽で、冷たく、不可逆の赤だった。ところが現実が差し出したのは、昼食の赤、日常の赤、拭えば薄くなる赤だった。

 ――これでいいのだ。

 彼は心のどこかで、そう言い聞かせた。これでいい。白が汚れるのは、結局この程度でいい。血の想像は、想像の中に留まっていればいい。現実が、血の代わりにケチャップを持ってきたのは、世界が彼を見張っているからではない。世界が、彼の内部の醜さを、ただ滑稽に中和したのだ。

 そう考えると、幹夫は急に恥ずかしくなった。

 彼は、自分が望んだものの正体を悟ってしまったからだ。望んだのは、誰かの破壊ではない。白を破ることによって、世界に一本の線を引きたかったのだ。白いシャツの群衆の中で、どれも同じに見える身体に、不可逆の差異を刻みたかった。差異は美であり、美は死の匂いを帯びる。彼はその匂いに憧れた。――憧れたのは、他者の死ではなく、自分の空虚が、たった一度でも重量を得る瞬間だった。

 幹夫は改札へ向かって歩き出した。白いシャツは相変わらず流れていく。ケチャップの男は、胸元の斑点を気にしながら、仲間に笑われている。笑いは現実の防腐剤だ。どんな赤も、笑いの中では腐らない。

 改札機のガラスに、自分の姿が映った。幹夫のシャツは白ではなかった。灰色に近い白――最初から純潔の資格を持たない白だった。彼はそのことに、ほっとし、同時に憎悪を覚えた。

 白が憎いのではない。白を憎む自分が、いちばん憎い。

 幹夫は、ポケットの中で拳を握った。握った拳は、何も掴んでいない。だが、掴めないものを掴もうとする力だけが、骨の奥に残った。血は流れない。赤も現れない。白は白のまま流れていく。――それでも、あの一滴の想像だけが、彼の内部に、頑固な染みとして残りつづけた。

 
 
 

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