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白銀の祈り




凍てつく風が木々の枝を揺らし、遠くの山頂を白く染める。静岡県の冬の朝、太陽が昇る前の空はまだ群青色を帯びていた。その下で、瑛太(えいた)は小さく息を吐きながら雪を踏みしめる。背中には古いリュックを背負い、手には母にもらった水筒を握っていた。中には温かい番茶が入っている。

 目的地は、町はずれの丘の上にある展望スポット。そこから富士山がよく見えると聞いて、瑛太は前夜から心を躍らせていた。「冬の富士は格別だよ」と教えてくれたのは、亡き祖父の口癖だった。 

 まだ薄暗い遊歩道を歩いていくと、枯れ草や木の根に積もった雪が「さくっ、さくっ」と心地よい音を響かせる。息が白く染まるたび、冷たい空気が肺にしみわたる。まるで山の精霊が、ここまで来てくれたことを歓迎しているかのようだ。

 しばらく歩き続けると、道が開けた。そこには小さな東屋(あずまや)が建っており、風よけの板の間から眼下を見下ろすと、まだ眠っている町並みがうっすらと光を帯びはじめていた。遠くからは、富士山のシルエットが夜の衣を脱ぎ捨てようとしているところが見える。

 瑛太は東屋の縁に腰掛け、水筒の番茶をすすった。冬の冷えた身体に温かい液体が染みこみ、ほっとした気持ちになる。息が落ち着いたころ、ふいに風向きが変わり、かすかに雪の匂いと、どこか甘いような空気が頬をかすめた。

 「祖父ちゃんが見せてくれたかった景色って、こんな感じなのかな…?」

 祖父は瑛太がまだ小さかったころ、よく「冬こそ富士山の真の姿が見られる」と話していた。しかし、連れてきてもらう前に祖父は病気で他界し、その言葉は瑛太にとって“見ることのできない宝物”のように思えていた。

 やがて、東の空が薄い橙色(だいだいいろ)に変わりはじめる。冬の淡い朝陽が、白銀の峰を少しずつ照らし出した。最初は周囲と同化していた山肌が、朝陽の光を浴びて純白に輝き、まるで空から降り注ぐ祝福を受け取っているかのように見える。

 瑛太は息をのみ、見とれた。遠くにそびえる冬の富士山は、夏や秋に見る姿とはまるで違う。何か神聖さを纏(まと)っているというか、畏敬(いけい)すら感じるほど静かで、しかも力強い。朝陽と雪が織りなす光景に、言葉も出ず、胸がいっぱいになった。

 少し目を細めながら、瑛太は心の中で祖父に呼びかける。

 ――おじいちゃん、見てる? こんなにきれいだよ。

 その瞬間、またひとつ風が吹き抜け、頬を撫でていった。冷たいはずの風が、なぜか温かく感じる。不思議に思いながら、瑛太は自分の胸の奥にある感情に耳を傾けた。すると、何かが“ふわり”と湧き上がってきて、目尻がかすかに熱くなる。

 遠くからひとすじの雲が山頂を横切っていき、青空の広がりとともに富士山の稜線(りょうせん)がいっそう鮮明になる。光を浴びた雪はまぶしく反射し、頂から裾野へ白い衣が連なっている。

 まるで山全体が“生きている”――そう感じさせるほどの神秘的な景色だ。静かな冬の朝、余計な音は何も聞こえない。聞こえるのは、瑛太の鼓動と、吹き抜ける風の音、そして雪が時折落ちる微かな音だけ。

 しばらくして、瑛太は立ち上がり、富士山に向かって深く一礼をした。それは祖父の遺(のこ)してくれた言葉への感謝でもあり、山の神々への挨拶でもあった。

 「ありがとう……」

 そう小さくつぶやき、瑛太はスッと背筋を伸ばす。雪を踏む足どりは来たときよりも軽く、心は不思議と明るい。まだ冷たい風は吹いているが、もう寒さはあまり感じなかった。

 帰り道、陽が高くなるにつれ、町にはいつもの活気が戻ってきた。雪かきに精を出す人や、通学路を行く子どもたちの声が、あちこちから聞こえてくる。瑛太はそんな日常の光景を新鮮に感じた。冬の富士を見たことで、世界がほんの少しだけ輝いて映るのだ。

 丘の入り口で立ち止まり、もう一度だけ富士山を振り返る。そこには白銀の冠(かんむり)を戴(いただ)く偉大な山が、どっしりと鎮座していた。厳しい冬の冷気をまとっているはずなのに、まるで暖かな灯(とも)りを宿しているようにも見える。

 いつかあの山に登って、祖父の言っていた「冬こそ富士山の真の姿」を、もっと近くで感じたい。そんな想いを心に秘めながら、瑛太は家へと続く道を歩き出す。雪解けが進むにつれ、日常は慌ただしく変化していくだろう。でも、今日見た冬の富士山は、きっと一生の宝物となって瑛太の胸に残り、これから先の人生をそっと照らし続けるのだろう――。

(了)

 
 
 

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