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石の観客がうなずいた日――ペトラの円形劇場で

ビジターセンターを出てシークの狭い峡谷に入ると、岩は朝の光でほのかに桃色を帯び、岩肌の水路の跡に砂が細くたまっていた。馬車の鈴が遠くでちりんと鳴り、先を急ぐ観光客の「ヤッラ(行こう)」が風に混ざる。私は宝物殿のきらめきに立ち止まりたい気持ちをぐっと抑え、さらに奥へ。岩の色が赤から焦げ茶へと重なっていくころ、突然、視界がひらけた。山をくり抜いた座席が、半月形に広がっている。ペトラの円形劇場だ。舞台も壁も、石を積んだのではなく、丸ごと山を削って作られたと聞く。よく見ると、断層の縞が座席の段になっていて、地質がそのまま観客席になったみたいだ。

最初の“やらかし”は入ってすぐだった。ボトルのキャップを落とし、ころころと転がって下段へ。慌てて降りかけると、黒いケフィーヤを巻いた少年が先に拾って、親指と人差し指でつまんで掲げてくれた。「シュクラン!」と受け取ると、彼は胸を張って「アフワン(どういたしまして)」と笑う。帽子代わりに頭に巻いている布を指差して「サイーダ(ラッキー)」と言うので、私もそれに乗ってキャップをぎゅっと締めた。砂漠では、締め具合が運の半分だ。

上段の縁で、レンジャーのアブドゥッラーが手招きした。「真ん中に立って、声を出してみて」。彼の指示で舞台の中央へ行き、恐る恐る「マルハバ(こんにちは)」と一言。かすかな声が石の段に跳ね返り、上段へ薄く登っていく。アブドゥッラーが掌で音を受け止める仕草をして、「ね、石はまだ働いているでしょ」と目尻で笑う。彼は続けた。「最初はナバテア人が岩を削り、後の時代に手が加わった。けれど、一番の職人は時間さ」。説明はさらりとしているのに、舞台の真ん中で聞くと骨に入る。

日が高くなると、岩はあっという間に熱をためる。私は手ぬぐいで首を覆い、観客席の影を探した。通路のアーチの下に、ミントの香りが漂っている。覗くと、黒いやかんを炭にかけたお茶屋のファーティマがいた。彼女は紙コップにセージの甘いお茶を注ぎ、「小さい砂糖?大きい砂糖?」と目で訊く。大きい方を選ぶと、彼女は笑って角砂糖を二つ落とした。甘さが喉に届くと体の中の砂が少し片づく。

そこへ、次のトラブル。サンダルの鼻緒がほどけ、足の甲がつんのめる。ファーティマは慌てず、屋台の紐の束から細いナイロン糸を一本抜き、器用に鼻緒を「八の字」に結び直してくれた。最後は火でちょんと炙り、結び目を固める。「インシャッラー、これで大丈夫」。お代を差し出すと、彼女は首を振り、かわりにナツメヤシをひとつ手のひらに乗せてくれた。「砂糖のあとには、自然の甘さ」。その順番がこの土地の生活みたいで、うれしくなる。

劇場の脇のトンネルで、ヨルダンの中学生たちが踊りのダブケを練習していた。足を踏み鳴らすリズムが石に響き、通路がちいさなドラムになる。先生が私を見つけて「どこから?」と微笑み、私は「ジャパン」と答える。すると生徒の一人が「カウントして!」と身を乗り出す。私は指で「いち、に、さん」と示し、彼らはそのタイミングで足を揃えた。拍手のあと、女の子が「写真、OK?」と目で訊く。もちろん。彼女たちは肩を寄せ、私はトンネルの光を背に受ける角度でシャッターを切った。石の壁がレフ板みたいに働いて、顔がやわらかく写る。

舞台裏を歩いていると、スマホが過熱した。画面が「高温注意」で真っ暗。困っていると、アブドゥッラーがやってきて、私の手ぬぐいに少しの水を含ませ、スマホを包むように巻いてくれた。「直接じゃなく、影で冷やすのがコツ」。数分で復活し、私は思わず親指を立てる。彼は「ハビービ(友よ)、ここではみんな同じクルーだ」と笑う。劇場は、観客でさえ舞台スタッフに巻き込んでしまう。

昼過ぎ、座席の端で弁当の時間。ガイドの青年が「よかったら」とザアタルとオリーブオイルを混ぜたものを薄いパンに塗って渡してくれた。香りが鼻に抜け、岩の赤色が一段濃く見える。お返しに私が持っていた梅干しをひとつ差し出すと、彼は目を丸くし、顔をしかめて笑って食べた。「強いね!」と親指を立て、次の瞬間ミントティーをがぶり。世界の酸っぱいと甘いが、劇場の真ん中で交換される。

午後、雲が出て光が柔らかくなった。私はいちばん上の席まで上がり、腰を下ろして下を眺めた。舞台を掃くファーティマの子ども、レンジャーに質問する旅行者、トンネルでまだ足を鳴らす中学生たち。みんなが何かを少しずつ直し、少しずつ練習している。ふいに、さっきのキャップの少年が隣に来て、手を差し出した。見ると、小石に貝の化石がひとつ。彼は「ギフト」とだけ言って、走り去った。石の渦巻きは小指の先ほどで、でも何百万年分のカーテンコールみたいに見えた。

夕方、帰り道のシークで、砂埃が少しだけ強くなった。私は首の布を上に上げ、鼻と口を覆う。前を歩いていたカップルの女性がコンタクトレンズに砂を入れてしまい、目を細めて立ち止まる。私はファーティマから教わったとおりに、水を直接目に流さず、布を濡らして絞り、目尻をそっと拭う。彼女の彼氏が大げさに「ライフセーバー!」と拍手をし、三人で笑った。ペトラの帰り道は、見知らぬ者同士のちょっとした手当てでできている。

外に出ると、日が山の背に沈みかけていた。砂の上に落ちる影は長く、劇場の座席は遠くから見ると年輪のように見える。私はポケットの中の化石の小石を指でさわり、キャップの締め具合をもう一度だけ確かめた。今日ここで起きた小さな出来事――転がったキャップ、石の反響、甘いセージティー、八の字の結び目、ダブケのリズム、影で冷やしたスマホ、パンに塗ったザアタル、濡らして絞った布――それぞれが、岩のステージの上でやわらかいアンコールになって胸に残る。

旅の記憶は、遺跡の壮大さよりも直し方で残るのかもしれない。帽子を締め直し、鼻緒を結び直し、喉を甘さで潤し、機械を影で冷やし、言葉を身ぶりで補う。ペトラの劇場は、何千年も“直され続けて”いまここにある。だから私たちの小さな修理も、この景色の一部になっていいのだろう。

バスの座席に腰を下ろすと、遠くで風が岩の壁を撫でる音がした。たぶんそれは、今日の舞台を終えた石が、うん、よくやったと小さくうなずく音だ。私は化石の小石をポケットの奥へ入れ、次にまたこの舞台に立つ日を思い描いた。今度も中央で一言だけ言うつもりだ。「マルハバ」。石の観客は、きっとまた優しく返事をしてくれる。

 
 
 

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