硝子の川のほとりで
- 山崎行政書士事務所
- 5月16日
- 読了時間: 7分

昭和四十八年の秋、大阪の朝は、いつも薄い水の匂いを含んでいた。
道修町の石畳は、まだ夜の湿り気を抱きしめていて、薬種問屋の古い軒先には、昨日の雨が小さな珠になって残っていた。淀屋橋から吹いてくる風は、ビルの谷間を抜けるたびに、少しずつ冷たくなり、白衣を鞄に詰めて歩く幹夫の頬を、遠慮がちに撫でていった。
幹夫は三十歳になったばかりだった。
大阪でも指折りの製薬会社、東陽薬品工業の研究所に勤めて七年になる。会社は古く、道修町の薬の町で知らぬ者はいなかった。重厚な本社の玄関には磨かれた真鍮の社章があり、そこをくぐるたび、幹夫は自分の胸の奥に、誇らしさと、息苦しさの両方が灯るのを感じた。
人の病を軽くする薬をつくる。
その言葉は、彼にとって祈りに近かった。けれど祈りは、毎日かならず美しい姿で現れるわけではない。試験管の底に残る沈殿、期待した反応を示さない数値、上司の短い沈黙、予定表に赤く引かれる遅延の線。そうしたものが幹夫の胸に積もり、やがて自分の心まで濁らせてゆく。
その年、幹夫は新しい抗炎症剤の開発班にいた。動物試験の結果は一進一退で、効き目はあるのに、どうしても副作用の兆しが消えなかった。朝から晩まで、彼はフラスコの透明な液を見つめ、薄い紙の上に並んだ数字を読み返した。
数字は正直だった。
だが、ときに正直さは、人を慰めない。
その日も結果は芳しくなかった。午後六時を過ぎるころ、研究室の窓の外では夕暮れが青紫に沈みはじめていた。蛍光灯の白い光が、ガラス器具の縁に冷たく反射していた。遠心分離機の唸りが止まると、急に部屋は深い井戸のような静けさに包まれた。
「また、駄目か」
誰に言うでもなく、幹夫は呟いた。
白衣の袖口には、試薬の微かな匂いが染みついている。彼はその匂いを嫌いではなかった。むしろ、それは自分が今日も何かに近づこうとした証のように思えた。けれどその夜ばかりは、胸の内側に小さな鉛の玉が沈んでいるようだった。
研究所を出ると、道修町の空には月が細く浮かんでいた。
幹夫はまっすぐ帰る気になれず、中之島のほうへ歩いた。川沿いの銀杏並木は、黄に変わりかけていた。葉はまだ完全な黄金ではなく、緑と黄色のあいだで迷っているような色をしていた。その曖昧さが、今の自分に似ている気がして、幹夫は立ち止まった。
堂島川は、夜の街灯をゆらゆらと抱いて流れていた。水面に映った光は、まるで硝子の破片を敷き詰めたように震えている。向こう岸のビルの窓には、まだ働く人々の明かりが点々と残っていた。
幹夫は川べりの古いベンチに腰を下ろした。
そのとき、頭上の銀杏が一枚、はらりと葉を落とした。葉は幹夫の膝に乗った。小さな扇のような形をしたそれは、街灯の光を受けて、ほんのり透けて見えた。
――そんなに急いで、どこへ行くの。
声がした。
幹夫は顔を上げた。あたりに人影はない。川の音、車の遠い響き、葉擦れの音だけがある。
――どこへ行くの、幹夫さん。
今度ははっきり聞こえた。驚きよりも先に、不思議な懐かしさが胸に広がった。幼いころ、河内の祖母の家で、庭の柿の木に話しかけていた記憶がふいに戻ってきた。あのころの幹夫は、木も石も、雨樋を伝う水までも、自分の言葉を聞いていると信じていた。
「薬を、完成させなければならないんだ」
幹夫は膝の上の銀杏の葉に向かって、小さく答えた。
「待っている人がいる。痛みの中で、今日も眠れない人がいる。僕が立ち止まるわけにはいかない」
銀杏の葉は、かすかに震えた。風のせいかもしれなかった。
――立ち止まることと、諦めることは違うよ。
その声は、少女のようでもあり、年老いた女のようでもあった。川面から聞こえるのか、木の梢から聞こえるのか、幹夫には分からなかった。ただ、その言葉は夜気よりも柔らかく、彼の胸に入ってきた。
「でも、遅れている。僕の判断が間違っていたのかもしれない。もっと早く、別の合成経路を試すべきだった。もっと注意深く、毒性の兆しを読めていれば……」
言葉にしてしまうと、悔しさがこみ上げてきた。幹夫は唇を噛んだ。
研究室では、感情を出すことは幼さに見えた。冷静であれ。記録を取れ。再現性を確認せよ。彼はそれを学び、守ってきた。けれど本当は、失敗のたびに胸の中で何かが泣いていた。誰かを救いたいという思いが強いほど、救えなかった未来が幾つも目の前に浮かんだ。
銀杏の枝が、夜空にゆっくり揺れた。
――私たちの葉もね、みんな同じ速さで黄色くなるわけじゃないの。
幹夫は見上げた。
確かに、同じ一本の木に、緑の葉、黄ばんだ葉、すでに茶色く縮れた葉が混じっていた。ひとつの枝の中にも、季節の進み方はばらばらだった。
――でも、木は焦らない。焦らないから、春にまた芽を出せる。
「自然は、失敗しないからだ」
幹夫は少し苦く笑った。
――いいえ。自然は毎日失敗しているよ。落ちる種、芽吹かない芽、実らない花。けれど、失敗を恥じて黙り込んだりしない。ただ、次の風に耳を澄ます。
川から冷たい風が上がった。
幹夫の胸の奥に沈んでいた鉛の玉が、少しだけ動いた。彼は膝の葉を指先で撫でた。葉脈は細かく、扇の中心から幾筋にも分かれていた。人が引いた線ではない。けれどその線には、どこか規則があり、同時に自由があった。
そのとき、幹夫はふと、今日のデータの表を思い出した。
副作用の兆しが出た試料と、出なかった試料。これまで彼は、有効成分の濃度と反応時間ばかりを追っていた。だが、わずかに安定剤の種類を変えた群だけが、反応の立ち上がり方に違いを示していたのではなかったか。数字の端に小さく現れていた、見逃してしまいそうな揺らぎ。
葉脈のように、中心から外へ広がる細い道。
幹夫は鞄から手帳を取り出した。街灯の下で、急いで頁を開く。鉛筆の先が少し折れていたが、構わず書きつけた。
「急がせすぎていたのかもしれない」
彼は呟いた。
反応を強く進めることばかり考えていた。効き目を高めること、濃度を上げること、速度を上げること。だが、薬は体の中に入るものだ。体は工場ではない。生き物の内側には、川の流れや葉の色づきのような、微妙な時間がある。
――そう。からだにも、季節がある。
銀杏が囁いた。
幹夫は胸の内側が温かくなるのを感じた。何かの答えを得たというより、答えを探す姿勢を少し取り戻したのだと思った。実験の成功を自然が約束してくれたわけではない。明日も失敗するかもしれない。上司に厳しい顔をされるかもしれない。それでも、もう数字は敵ではなかった。数字の奥に、まだ聞いていない声がある。
川面に映る月が、ひとつ揺れて、ふたつに割れ、またひとつになった。
幹夫はしばらく黙って座っていた。街は昭和四十八年の騒がしさの中にあった。高度成長の熱はまだ舗道に残り、ネオンは夜ごとに濃くなり、誰もが前へ、もっと前へと急いでいるように見えた。だがこの川だけは、昔も今も、急がず大阪の真ん中を流れていた。
幹夫は思った。
自分もまた、この川のようにありたい。速さだけではなく、深さを持って進みたい。人を救う薬をつくるために、人の弱さや揺らぎを見失わない研究者でありたい。
ベンチから立ち上がると、膝の上の銀杏の葉が風に乗って落ちた。葉は地面に着く前に一度ふわりと舞い、まるで小さな手を振るように、幹夫の足元へ降りた。
「ありがとう」
幹夫は照れくさそうに言った。
銀杏は何も答えなかった。ただ、枝いっぱいの葉を揺らして、夜空に金色のさざ波を立てた。
翌朝、幹夫はいつもより早く研究所へ向かった。
道修町の朝は、やはり水の匂いを含んでいた。けれどその日は、空気の中にほんの少し、乾いた陽だまりの香りも混じっていた。研究室に入ると、彼は昨日の記録をもう一度広げた。眠りの浅い目には疲れが残っていたが、手つきは穏やかだった。
同僚がまだ来ない静かな部屋で、幹夫は新しい実験計画を書きはじめた。反応を強めるのではなく、緩やかにする条件。体内での放出を急がせず、時間を持たせる設計。試すべきことは山ほどあった。成功の保証はどこにもない。
それでも、鉛筆の線は迷わなかった。
窓の外では、研究所の裏庭に植えられた小さな楠が、朝日に葉を光らせていた。その葉の一枚一枚が、幹夫には静かに息をしているように見えた。
――聞いているよ。
そんな声がした気がした。
幹夫は微笑んだ。白衣に袖を通し、試験管を並べた。硝子の器具は朝の光を受けて、川の水面のようにきらめいた。
彼はもう、自分の苦悩を消そうとは思わなかった。
苦しむことは、間違っている証ではない。誰かを救いたいと願う心が、まだ鈍っていない証なのだ。失敗の沈殿も、迷いの線も、いつか薬の中に溶けていくかもしれない。少なくとも、その可能性を信じて、今日の一滴を落とすことはできる。
ピペットの先から、透明な液が一滴、静かに落ちた。
それはフラスコの中で淡く広がり、目には見えない変化を始めた。
幹夫は息を詰めず、ただ見守った。
秋の大阪の真ん中で、銀杏の葉が色づく速さに耳を澄ませながら、若い研究者の心にもまた、ゆっくりと新しい季節が訪れようとしていた。





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