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稲架の琴(はさのこと)

 十月の蒲原は、朝だけ空気の輪郭がはっきりしていて、息を吸うと肺の奥がきゅっと鳴るように感じます。畦道の草の先には露が並び、露は一つずつ小さな硝子玉になって、みかんの葉の裏の白い粉まで、こっそり冷やしていました。駿河湾は遠くで薄い鋼の板みたいに光り、薩埵峠の影は、まだ夜の名残りを少しだけ背負って、町の端を静かに撫でていました。

 その朝、幹夫は縁側にしゃがんで、靴紐のない運動靴のかかとを、指で何度も押していました。押して、押して、ちゃんと足に入るのを確かめるみたいに。胸の中も、同じことをしていました。ちゃんと今日に入れるかどうか、確かめたいのです。

 台所から祖母の声がしました。

「幹、今日は稲刈りだよ。台風で倒れたのを、起こして刈って、干す。手がいる」

 稲刈り――その言葉は、幹夫の胸に、ぴん、と糸を張りました。太鼓の糸とは違う、もっと細い糸。細い糸は嬉しいのに、切れそうで怖い。怖いから握りたくなる。握ると痛い。幹夫は、そのことをもう少しだけ知っています。

「こういち、呼んでいい?」と幹夫は言いました。 言った瞬間、胸の奥がちょっとだけ軽くなりました。“ひとりじゃない”という言葉は、口に出すだけで息が通るのです。

「呼んでおいで」と祖母が言いました。「稲は、見てくれる人が多いほど、よく乾く」

 よく乾く――という言葉が、幹夫の胸の奥に、暗室の白い紙みたいにすっと座りました。乾く、は、待つことと似ています。急いで触ると曇る。じっと置くと、ちゃんと仕上がる。

 こういちはすぐ来ました。袖をまくった手首が朝の冷たさで少し白く見え、でも目はちゃんと蒲原の色をしていました。

「稲刈り、ぼくもする?」「うん。ばあちゃんが“手がいる”って」

 二人は鎌を一本ずつ持って、畦道を下りました。鎌の刃は朝の光を薄く吸って、鈍く光ります。刃の光は、海硝子の薄い虹色とは違って、もっと真面目な光でした。真面目な光を見ると、幹夫は少しだけ背筋が伸びます。

 田んぼに着くと、稲はまだ濡れた夜を抱えたまま、倒れたり、斜めになったりしていました。穂は重く、粒はしっかりしているのに、首だけが折れそうに見える。首の折れそうな姿は、見ているだけで胸がきゅっとなりました。

 ――がんばったのに、倒れたんだ。

 倒れたものを見ると、幹夫はいつも自分の中の“倒れた感じ”を思い出します。倒れた感じは、父がいない日、駅で待った日、返事が鳴らなかった凪の日――いろいろな形で胸の底に残っています。

 祖母が田の端で言いました。

「稲はね、倒れても粒は落とさない。よく出来た子だよ。さあ、起こして、刈って、束ねる」

 “よく出来た子”と言われると、稲が急に人間みたいに見えました。稲の穂が風もないのに、こくり、と頭を下げた気がして、幹夫は胸の奥が少しだけ温かくなりました。

 幹夫は稲を両手で起こしました。稲の茎は冷たく、ざらりとして、手のひらに細い筋を残します。筋が残ると、今日の仕事が身体に入ってくる感じがします。入ってくる感じは、少し誇らしい。誇らしいのに、すぐ隣に“父さんに見せたい”が立ち上がって、胸がちくりとしました。

 幹夫は鎌を入れました。

 しゃり。

 刈る音は、紙を切る音にも似ています。薄いものが、ちゃんと切れる音。切れる音は、いつも少し怖い。切れると戻らない気がするからです。

 でも、切った稲は終わりではありませんでした。束になり、稲架(はさ)に掛けられ、乾いて、米になって、誰かの身体に入る。切るのは、手放すためじゃなく、次の形へ渡すため。

 そう思おうとして、幹夫は息をひとつ吸いました。

「……切るの、変な気持ち」と幹夫が言いました。 言った声が、朝の田んぼに吸われていきます。吸われると、胸の奥が少し空きます。

 こういちは稲を束ねながら、ぽつりと言いました。

「ぼく、前の川のとこで、草刈りしたときも、変だった。切るのに、切られるほうが“ありがとう”って言ってる気がした」

 ありがとう。 その言葉が、先生の言った“すすきを折るとき”とつながって、幹夫の胸の中で小さな輪になりました。輪ができると、心は少し丸くなります。

 刈った稲を束ねるのに、藁(わら)で作った紐を使いました。祖母が、稲の根元の藁を少し裂いて、さっとねじって、縄みたいにしてしまいます。その手つきが、蜘蛛の交換台の手つきに似ていました。必要な糸だけ、必要なところへ。引っぱらず、通す。

「幹、結び目はきつすぎると折れる。ゆるすぎると落ちる。ちょうどいい張りだよ」 祖母は言いました。幹夫は、その言い方が、糸電話の夜の“張りすぎると切れる”と同じだと気づいて、胸の奥がこつん、と鳴りました。

 幹夫も結んでみました。けれど藁の紐は、思ったより言うことを聞きません。指にからみ、ねじれ、藁の毛羽が手のひらに刺さって、痒い。痒さは小さいのに、集中していると大きくなる。大きくなると、いらいらして、いらいらすると、結び目が乱暴になります。

 幹夫は、藁を引っぱってしまいました。

 ぷつっ。

 藁の紐が切れました。切れた音は、糸電話の“ぷつん”より小さいのに、胸への刺さり方は同じでした。切れたとたん、両端がぱらりと逃げて、幹夫の顔が熱くなりました。

「……だめだ」と幹夫は言ってしまいました。 “だめだ”は、自分に向けた言葉です。言うと、胸の中に“だめな自分”が立ち上がってしまうのに、止められませんでした。

 こういちが、すぐに言いました。

「幹夫、息して」

 その二文字は、何度も幹夫を助けてきた梯子でした。幹夫は息を吸いました。稲の匂い、泥の匂い、秋の露の匂いが混ざって肺に入り、胸の中の熱い石が少し丸くなりました。

 祖母は笑いませんでした。叱りもしませんでした。ただ、切れた藁を指で撫でて言いました。

「切れたら、また裂けばいい。藁はね、切れることも含めて藁なんだ。切れても、束ねる道は残る」

 切れることも含めて――その言い方が、割れた貝の星座の欠片を思い出させました。割れたものは、割れたまま星座になる。切れたものも、切れたまま使い道を持つ。

 幹夫は、もう一度藁を受け取りました。今度は、引っぱらない。ねじるだけ。通すだけ。藁は、するり、と道を見つけて、結び目になりました。結び目は少し歪んでいました。歪んでいるのに、ちゃんと束は落ちません。

 その瞬間、幹夫の胸の奥が、ふっと温かくなりました。温かいのは、上手く結べたからだけではありません。“歪んでもいい”と身体が覚えたからでした。

 昼前、稲架ができました。木の杭を立て、横木を渡し、そこへ束ねた稲を掛けます。稲が掛かると、稲架は急に“骨”を持った生き物みたいになりました。骨の上に金色の毛皮を着せた、大きな獣。

 風はまだ弱く、でも稲架の間を通ると、稲の葉先が触れ合って、

 さら……さら……。

 と鳴りました。

 その音は、万国旗の“しゃらり”より柔らかく、短冊の“さらり”より深く、燕の羽音よりゆっくりでした。幹夫は、思わず耳を澄ませました。稲架の音は、何かの楽器みたいでした。

 ――琴(こと)だ。

 幹夫は胸の中でそう言いました。稲の一本一本が弦で、風が指で弾く。弾かれるたび、音は小さく、でもちゃんと空気を揺らします。揺れは、胸の奥まで届きます。

「稲架、歌ってる」と幹夫が言うと、「うん」とこういちは言いました。「風が弾いてるんだね」

 そのとき、幹夫のポケットの中で、何かがころり、と動きました。

 父からの銀の輪――幹夫は、今日は畑に持ってきていました。台風のあと、稲の倒れた姿が怖くて、胸の中の“きん”を近くに置いておきたかったのです。紐で首にかける勇気はなくて、布に包んでポケットに入れていました。

 ころり、は小さな音なのに、幹夫の胸はすぐ反応しました。

 ――落ちる。

 落ちる、という想像は、いつも父のことと繋がってしまいます。父が落ちるわけじゃないのに、遠いものが遠いまま落ちていく気がして、胸の奥がひゅっと冷たくなりました。

 幹夫は慌ててポケットに手を入れました。

 ありません。

 手のひらが、からん、と空を掴みました。空を掴むと、胸の空洞がすとん、と底へ落ちます。底は冷たい。冷たいと、息が止まりそうになります。

「……ない」と幹夫は言いました。 声が細くなりました。細い声は、胸が細くなっている証拠です。

 こういちがすぐ言いました。

「幹夫、どこで? ……息して。探そう」

 息して。探そう。 その二つの言葉が、幹夫の胸に道を作りました。道ができると、怖さは迷子になりにくい。

 幹夫は稲束の間を見ました。稲の影は細かくて、どこも似ています。似ている世界で探し物をすると、目が疲れて、心が焦って、焦るほど見えなくなります。

 幹夫は、一度だけ目を閉じました。 風の匂い。稲の匂い。泥の匂い。 音――さら、さら。 遠くの踏切――カン、カン。 汽車――ことこと。 その音の地図を胸に広げました。

 そして、耳を澄ませました。

 どこかで――

 きん。

 小さく、乾いた音がしました。稲架の琴の音とは違う、金属の音。音は一度だけで、すぐ消えました。でも幹夫の胸は、確かにそれを掴みました。

「あっち」と幹夫は言って、稲架の下の影へ回りました。影の中で、稲の葉の間に、薄い銀がちらりと見えました。露の粒がそこだけ光ったのかと思うほど小さい光。でも、幹夫の目はもう騙されませんでした。

 銀の輪が、藁の結び目に引っかかっていました。

 幹夫は、そっと指を入れて輪を取ろうとしました。藁の毛羽が指に触れ、輪の冷たさが掌に戻ってきます。戻ってきた冷たさは、怖さではなく、安心の冷たさでした。

 輪が藁から外れた瞬間、鎌の柄に軽く当たって、

 きん。

 と鳴りました。

 幹夫は、そのきんを聞いたとき、胸の奥がふっと緩むのを感じました。緩むと、涙が出そうになりました。出そうなのに、出ませんでした。今日は涙より先に、息が深くなりました。

「……返事だ」と幹夫は小さく言いました。

 祖母は少し離れたところで稲束を運びながら、こちらを見て、うなずきました。うなずき方が、青い星の“からり”に似ていました。音は出さない。でも、返事の形。

 こういちが、ほっとした顔で言いました。

「見つかったね」「うん……藁が、持ってた」

 藁が持ってた、という言い方をすると、世界が少しだけ優しくなりました。物が手伝ってくれる世界。そういう世界は、幹夫の胸の中にも、少しずつ増えてきています。

 夕方、稲架は金色の毛皮を夕陽で赤く染め、田んぼの端に、長い影を落としました。影は、長いほうがやさしい。長い影は、痛い輪郭を丸くします。

 仕事が終わるころ、風がほんの少し強くなって、稲架の琴がまた鳴りました。

 さら……しゃら……さらり……。

 幹夫は、その音がまるで封筒の紙の擦れる音みたいだと思いました。風が封筒を開け、稲が手紙を出している。手紙の中身は言葉ではなく、匂いと音と、黄金の粒の重み。

 家へ戻ると、祖母が新米を少しだけ炊いてくれました。まだ全部は乾いていないけれど、倒れた稲の中から早めに刈った分の米です。湯気が立ち、米の匂いが広がると、家の中の空気が急に丸くなりました。匂いは、言葉より早く胸を撫でます。

 こういちも呼んで、三人で茶碗を持ちました。米は白く、白いのに、どこか光を含んでいました。幹夫は一口食べて、喉の奥がじん、と熱くなりました。熱いのは、うまいからだけではありません。今日の手のざらつき、藁の痒さ、稲架の音――それらが全部、この白い粒に繋がっている気がしたからです。

「父さんにも食べさせたいねえ」と祖母がぽつりと言いました。 その言葉は痛い針ではなく、縫い目の針でした。痛いけれど、強くする針。

 幹夫はうなずきました。うなずくと、胸の奥の空洞が、穴ではなく“筒”になって、息が通りました。

 夜、こういちが帰ったあと、窓辺にはまた“いつもの並び”が戻っていました。

 青いガラスの星。 割れた貝の星座。 空の蛍瓶。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。

 幹夫は銀の輪を、今日はきちんと吊るしました。畑で落とした怖さがまだ残っているのに、残っているからこそ、吊るして“通る風”に任せたかったのです。握りしめると、また糸が切れる気がする。任せると、返事は返事の形で来る。

 薩埵峠のほうから、秋の風がひとすじ降りてきました。

 青い星が、からり。 銀の輪が、きん。

 からり、きん――短い会話が、今夜もちゃんとありました。幹夫はその音を胸に入れて、机に向かい、父へ手紙を書きました。

 「とうさん」 「きょう いねかりを しました」 「いねが たおれていました」 「でも つぶは おちませんでした」 「いなはさ(いなはさ)が こと みたいに さらり と なりました」 「ぎんのわを いちど おとしました」 「こわかったけど みつかりました」 「きん と なりました」

 “帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。でも今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。稲も、刈ったあとすぐ米にはならない。稲架に掛けて、風に乾かして、ゆっくり白くなる。父の帰り道も、きっとどこかで乾いている。

 布団に入ると、稲架の琴の音がまだ耳の奥に残っていました。さら、さら。 遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、またざあ、と返しました。

 幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。

 ――倒れても、粒は落ちない。 ――切れても、結べる。 ――鳴らない日があっても、風は通る。

 窓辺で青い星が、もう一度だけ、からり、と鳴りました。 銀の輪が、きん、と返しました。

 その返事は、小さくても確かで、幹夫の胸の空洞を、冷たい穴ではなく、音の通るあたたかい筒にしてくれる返事でした。

 
 
 

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