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第14章 咲く花、散る花、守る約束


第三部「霧の降り口、稲のはじまり」

第14章 咲く花、散る花、守る約束

花は、祝うだけのものではない。咲く速さで人を喜ばせ、散る速さで人を急がせる。この国の約束は、いつも花の速度で結ばれる。

霧の章を書き終えた紙は、しっとりと重かった。重い紙は、読む者の指を遅くする。指が遅くなると、息も遅くなる。息が遅くなると、景色が胸に入る。霧は、そういうふうに文章を変える。

ナガタが紙面を覗き込み、ため息をついた。

「……次、花だな」「花だ」私は頷く。「霧で降りたら、次は季節の刃が来る。花は刃じゃない顔をして、時間で刺してくる」

ナガタは眉を寄せた。

「花って、そんな怖いもんか」「この国では怖い」私は硯に水を足し、墨を少しだけ薄めた。「咲くのが早い。散るのが早い。早いものに心は引っ張られる。引っ張られると、人は誓いを急ぐ」

ナガタは異伝の束をめくり、すぐに嫌な顔をした。

「……出た。“一夜で産む”ってやつの前段だろ。コノハナサクヤヒメ」「そうだ」「名前、長いな」「花は長い名を持つ。短い季節に長い名がいる」

ナガタは鼻で笑った。

「理屈が詩だな」「詩じゃなくて、湿り気だ」

私は筆を取った。花の章は、匂いを濃くしすぎると甘ったるくなる。甘ったるくなると叙情が溺れる。だから、匂いは“風に乗る程度”で止める。花は、近づきすぎると散る。

——皇孫、木花之佐久夜毘売に逢ひたまふ。

高千穂の霧が薄れたあと、世界は突然、色を増やした。

霧は色を奪うのではない。色をいったん隠して、次に見せる準備をする。隠された色は、戻るときに鮮やかになる。鮮やかさは、心を急がせる。

皇孫・邇邇芸は、山道を下った。

下るほど、空気が温かくなる。温かくなるほど、匂いが増える。苔の匂いから、草の匂いへ。草の匂いから、土の匂いへ。土の匂いから、花の匂いへ。

花の匂いがする場所では、人は立ち止まる。立ち止まるのは好奇心ではない。花の匂いは、胸の奥の“決める”を勝手に起こす。決めるというのは、怖い。怖いから、花は美しい顔をして近づく。

道の脇に、ひとりの女が立っていた。

ただ立っているだけで、周りの空気が少し軽い。軽い空気は、春の合図だ。春は、まだ来ていないのに、先に匂いだけ来る。その匂いを持つ女だった。

木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)。

名の中に、すでに花が咲いている。咲く、という動詞が名にある者は、止まれない。止まれない者は、散る速度も持っている。

邇邇芸は言う。

「汝は誰ぞ」

問いの声は、天の命令の声ではない。地の速度に慣れ始めた声だ。慣れ始めた声は、まだ少し不器用で、だから誠実に聞こえる。

木花は答える。

「大山津見神(おおやまつみ)の娘。名を、木花之佐久夜毘売と申す」

山の神の娘。山は、季節を知っている。雪が溶ける速度を知っている。花が咲く速度を知っている。台風が来る匂いを知っている。山の娘は、その全部を肌に持っている。

邇邇芸は、その肌の匂いを嗅いだわけではない。だが匂いは、こちらの許可を取らずに胸へ入る。胸へ入った匂いが、言葉を先に作る。

「……妻としたい」

花の前で出る言葉は、だいたい早い。早い言葉は、後から追いかけるものが多い。追いかけるものが多い言葉は、試される。

木花は、すぐに頷かない。

頷かないのは拒絶ではない。花は散る速度を持つからこそ、止まる練習もする。止まる練習をする者は、約束を軽く扱わない。

「父に問うべし」

木花はそう言って、山の方へ目をやった。山は黙っている。黙っているが、黙って許してはいない。山は、季節の契約を知っている。誰かが誰かを迎えるとき、迎える側の風土も一緒に迎えられる。迎えられた風土は、逃げない。逃げないから、約束が要る。

邇邇芸は、木花の父・大山津見のもとへ行く。

大山津見は、山の匂いを持っていた。土と岩と木の匂い。甘くない匂い。甘くない匂いは、嘘を嫌う。

山の神は言った。

「よし。娘を与えん。加えて——姉も与えん」

姉。

磐長姫(いわながひめ)。

名が石だ。石の名を持つ者は、長い。長いというのは、変わらないということだ。変わらないということは、季節を超えるということだ。季節を超えるものは、強い。

磐長姫が現れた瞬間、空気が少し冷えた。

冷えるのは嫌な冷えではない。日陰に入ったときの冷えだ。日陰は、花の影だ。花の影は、花より長く残る。

邇邇芸は、磐長姫を見て、目を逸らした。

逸らしたのは、侮りではない。逸らす、というのは怖さでもある。石のように変わらないものは、心を試す。試されると、人は軽いものへ逃げる。軽いもの——咲くものへ。

邇邇芸は、木花だけを選ぶ。

木花は、咲く。磐長は、長い。

「長い」ほうを捨てて、「咲く」ほうを取る。それは美しい選択に見える。だが美しい選択は、ときどき残酷だ。

大山津見は、静かに怒った。

怒りは叫びではない。山の怒りは、空気の圧になる。圧になった怒りは、後から効いてくる。後から効いてくるものは、避けられない。

山の神は言った。

「磐長を捨て、木花を取るとは……ゆえに汝らの命は、花のごとく短からん。磐のごとく長からず」

その言葉は呪いに聞こえる。

だが本当は、呪いではない。契約の読み上げだ。“季節の国”を選んだ以上、季節の速度で生きるしかない、という宣言だ。

花は咲いて散る。散るから、次が咲く。短いから、惜しむ。惜しむから、祈る。祈るから、国が続く。

木花は、邇邇芸の横に立った。

立ち方が、霧の中の枝先みたいに柔らかい。柔らかいが、折れない。折れないのは、しなる癖があるからだ。しなる癖は、この国の生存戦略だ。

磐長姫は、黙って戻った。

戻り方が、石の沈み方に似ていた。沈んでも、消えない。消えないものは、忘れられにくい。忘れられにくいものは、後から国を支える。人が木花の短さに疲れたとき、石の長さが救いになる。

邇邇芸は、その救いをまだ知らない。

今は、ただ花の匂いに酔っている。花の匂いに酔うと、人は急ぐ。急いだ約束は、あとで試される。

木花は、微笑んだ。

微笑みは、咲く。咲いた微笑みの裏に、散る速度がある。

その速度を、邇邇芸はまだ知らない。

「……“呪い”を、呪いっぽくしないで書いたな」

ナガタが言った。声が、少し感心の声になっているのが癪だった。

「呪いは、だいたい風土だ」私は言った。「花を選べば、花の速度が付いてくる。山はそれを言っただけだ」

ナガタは「花のごとく短からん」のところを指で叩いた。

「短いの、嫌だな」「嫌だよ」私は正直に頷く。「でも短いから、春が嬉しい。短いから、米が尊い。短いから、祭が必要になる」

ナガタは黙り、やがて小さく言った。

「……で、次は“一夜で産む”だな」「そうだ」私は墨を少しだけ濃くした。「花は咲くだけじゃない。燃える。火山の国の花は、火を持つ」

窓の外で、風が一度だけ吹いた。その風に、どこか遠い花の匂いが混じっている気がした。花粉の匂いに似た、くすぐったい匂い。

私は紙の余白に、次の題を置いた。

——第15章 火の中の出産、灰の匂い。

 
 
 

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