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第15章 火の中の出産、灰の匂い


第三部「霧の降り口、稲のはじまり」

第15章 火の中の出産、灰の匂い

火は、壊すためだけにあるのではない。触れたものを一度ばらばらにして、それでも残ったものだけを、“本当”として立たせてしまう。——灰の匂いは、その証文だ。

墨を濃くすると、部屋の空気まで少し重くなる。黒は紙の上に落ちる前に、いったん胸へ落ちる。胸へ落ちた黒は、言葉の温度を決めてしまう。

ナガタが、こちらの手元を覗き込みながら言った。

「……火をつけて産むって、どういうことだよ」「そういうことだ」私は淡々と答えた。「花の国は、花だけじゃ終わらない。火も持つ」

ナガタは眉をひそめる。

「“貞操の証明”ってやつだろ。上が好きそうで、嫌だな」「上が好きそうなのは、道徳の形だけだ」私は硯の水を少し足し、黒をほんのわずか柔らかくした。「ここは“疑い”の話として書く。疑いは道徳じゃない。寒さだ。霜だ。季節の癖だ」

ナガタは鼻で笑った。

「疑いが霜ね。詩みたいだな」「霜は見えないところから来て、先に葉を殺す」私は言った。「疑いも同じだ」

ナガタが、異伝の束をめくって、あの札を見せる。

——一書曰く、皇孫、一夜にして娠りしを疑ふ。——一書曰く、産屋を作りて火を放ちて生む。

「ほら。もう書いてある」「書いてある」私は頷いた。「でも“火”の匂いが書いてない。灰の重さが書いてない」

ナガタは机に頬杖をつき、ぼそりと呟いた。

「……女が燃える話、ちゃんと書けるのか」「燃えるのは、疑いだ」私は筆を取った。「燃えたあとに残るのが、灰だ。灰は土になる。土は稲を育てる。——この国の“続き方”として書く」

ナガタはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……じゃあ、いけ」

私は最初の一行を置く。

——木花之佐久夜毘売、一夜にして身ごもりたまふ。

花の季節は、速い。

咲くのも速い。散るのも速い。速いものは、美しい顔で人を追い立てる。追い立てられた人は、追いつこうとして息が上がる。息が上がると、心が疑いに弱くなる。

木花之佐久夜毘売は、身ごもった。

夫となった邇邇芸が、まだ地の湿り気に慣れきらないうちに。高天原の乾いた呼吸が、まだ胸に残っているうちに。花の匂いがまだ新しいうちに。

——一夜にして。

その速さが、まず匂いを変えた。祝いの匂いに、焦りの匂いが混じる。焦りの匂いは、霧より薄いのに、刃より鋭い。焦りは、言葉を早くする。

邇邇芸は言った。

「……我が子ならず」

言った言葉は短い。短い言葉は、取り返しがつきにくい。言葉が短いほど、人はその中に自分の恐れを詰め込む。詰め込まれた恐れは、相手の胸に落ちる。

木花は、返す言葉をすぐには持たなかった。

返したら、火が広がる。火が広がると、今度は“夫婦の火”が国土に燃え移る。国土に燃え移った火は、山を乾かし、川を痩せさせる。だから木花は、一度だけ息を整えた。

整えた息は、花の息ではない。山の娘の息だ。雪の重さも、火山の灰も、台風の気配も、黙って受ける息だ。

木花は言った。

「疑うなら、証を立てましょう」

証。

証という言葉は、都合がいい。都合がいい言葉は、制度の匂いを持つ。だが木花が言った証は、制度の証ではない。肌の証だ。息の証だ。生きることそのものを賭ける証だ。

「もしこの子が、天つ神の子ならば——」

木花はそこで言葉を切った。切った言葉の隙間に、風が入る。風が入ると、火が欲しくなる。火は、隙間を埋めるために燃えるからだ。

木花は続ける。

「火にも焼けずに生まれましょう。もし違うなら——焼けましょう」

焼けましょう、という言い方が恐ろしい。恐ろしいのに、どこか淡々としている。淡々としているのは、花の速度を知っているからだ。短い季節を生きる者は、命の言い方が静かになる。

邇邇芸は、言葉を失った。

失った言葉の代わりに、疑いの匂いだけが残る。匂いだけ残る疑いは、いちばん醜い。醜いが、いま引っ込めることもできない。

木花は、産屋を作らせた。

産屋は、豪奢ではない。この国の最初の家は、たいてい仮だ。仮だからこそ、湿り気を知っている。湿り気を知っている家は、火の怖さも知っている。

葦を束ねる。竹を組む。木を渡す。土を練る。土は水を含むと重くなる。重くなった土は、壁になる。

壁は、外と内を分ける。分けるという行為は、剣に似ている。剣は線を引く。壁も線を引く。線を引くと、守れる。守れるものがあると、人は中へ入る勇気を持てる。

木花は、産屋の中に入った。

入り口を塞ぐ。

——一書曰く、戸を土で塗り塞ぐ。

塞がれると、外の音が遠くなる。遠くなる音の代わりに、体の音が近くなる。心臓の音。息の音。血が巡る音。命が、命自身の音を聞き始める。

そのとき、木花は言った。

「火を放て」

外で、火がつく音がした。

乾いた葦が、ぱち、と鳴る。ぱち、ぱち、と鳴る音は小さいのに、胸の奥へ届く。小さい音ほど、怖い。大きい音は身構えられるが、小さい音は忍び込む。

火は、匂いで先に来る。

焦げた匂い。煙の匂い。熱い空気の匂い。火の匂いは、幼い頃の台所の匂いにも似ている。似ているから、余計に怖い。家の匂いが、家を壊す匂いになる瞬間を、人は本能で知っている。

木花は、息を吸う。

吸い込むと、煙が喉に刺さる。刺さる煙に、体は咳をしたくなる。だが咳は体力を奪う。奪われた体力は、命の出口で足りなくなる。だから木花は、咳を押し戻した。押し戻すというのは、祈りに似ている。

火が、壁を舐める。

土壁が熱を受け、湿り気を吐く。吐かれた湿り気が、産屋の中に湯気のように溜まる。湯気は白い。白い湯気は、禊の川の白さにも似ている。似ているから、ここが“浄め”の場であることが分かる。浄めは水だけではない。火でも浄めは起こる。火は、余分を燃やして落とす。

木花の額に汗が浮かぶ。

汗は塩の匂いを持つ。塩の匂いは海の匂いだ。海の匂いが、火の中で立ち上がるのは奇妙だ。だがこの国では、海と火は遠くない。島の底には火があり、島の縁には海がある。両方に挟まれて、人は稲を育てる。

やがて、声が生まれる。

最初の声は、火より強い。

泣き声が、煙を押し返す。泣き声が、熱い空気に穴を開ける。穴を開けた瞬間、火が一度だけ怯む。

——火照命(ほでりのみこと)。

火が照る、と書く子。名は、火の中から出てきた証文だ。

続いて、もう一つの声。

泣き声は似ているのに、匂いが違う。同じ家から出たのに、別の風を持っている。

——火須勢理命(ほすせりのみこと)。

火を鎮める、とも聞こえる名。火は荒ぶるだけではなく、鎮まることも覚える。鎮まりがあるから、人は火を飼える。

そして、最後の声。

最後の声は、少し遅れて来る。遅れて来る声は、深い。深い声は、川の音に似ている。川の音に似ている火——それは矛盾だが、矛盾がこの国の胎内だ。

——火遠理命(ほをりのみこと)。

火が遠ざかる名。火が遠ざかるとは、生き延びるということだ。燃え尽きず、焦げ尽きず、次の季節へ渡すということだ。

——一書曰く、名、これと異なることあり。

異伝は、ここでも雲のように流れる。だがどの異伝でも、火の中で生まれた、という一点だけは揺れない。揺れないものがあるから、国は伝わる。

外の火は、やがて弱まる。

弱まる火は、音を変える。ぱち、ぱち、が、ぽそ、ぽそ、になる。ぽそ、ぽそ、という音は、終わりの音だ。終わりの音は、始まりの匂いを連れてくる。

産屋が、崩れる。

崩れる葦が、灰になる。灰は軽い。軽いのに、肺に入ると重い。灰は空に舞い、舞いながら落ちる。落ちる灰は、雪のように静かだ。

灰が、地面を薄く覆う。

覆われた地面は、少し黒くなる。黒くなった土は、春に強い。火山灰の土が肥えるように、燃えたものの跡には、芽が出る。

灰の匂いがする。

焦げた匂い。乾いた匂い。でもその奥に、なぜか甘さがある。甘さは、米の予告だ。発酵の予告だ。“次”の匂いだ。

木花が、外へ出る。

顔に煤がついている。煤は汚れではない。煤は、疑いを燃やした証だ。燃やしたものの跡が顔に残るのは、痛々しい。だが痛々しいほど、真実は人の胸に入る。

邇邇芸は、木花を見る。

見る目が、さっきと違う。疑う目ではない。疑いが焼けて、灰になったあとの目だ。灰になった目は、軽い。軽い目は、泣ける。

邇邇芸の頬に、涙が落ちる。

涙が落ちると、灰が小さく固まる。固まった灰は、指で触れると土になる。土は、握ると温かい。温かい土は、祈りを受け止める。

木花は、何も責めない。

責めないというのは赦しではない。責めないというのは、“季節が次へ進む”ということだ。花は散っても、枝を責めない。枝を責めないから、次が咲く。

木花は、ただ子らを抱く。

抱いた腕の中で、泣き声がまた上がる。泣き声は、火より強い。火は消えるが、泣き声は続く。続くものがあるから、国は続く。

「……灰、落としたな」

ナガタが、紙面を覗き込みながら言った。声が少しだけ低い。火の章は、読む側の息も奪う。

「落とした」私は頷いた。「灰を“終わり”じゃなく“土”にしたかった」

ナガタは、子の名のあたりを指で叩く。

「火の名ばっかだな」「火の国だからな」私は言った。「海と山に挟まれて、火と水で生きる国だ。名にもそれが出る」

ナガタが、ぽつりと言う。

「……疑った側は、軽く書いていいのか」「軽く書かない」私は答えた。「でも責めすぎない。疑いは人の癖だ。癖は直せない。直せないなら、燃やす方法を覚えるしかない」

ナガタは半分呆れた顔で笑った。

「燃やす方法、って言い方が怖い」「怖い国なんだよ」私は静かに言った。「怖いから、祭がいる。稲がいる。家がいる。湯気がいる。——そして、笑いがいる」

窓の外で、風が一度だけ吹いた。風に、どこか粉っぽい匂いが混じっている気がした。灰の匂いだ。灰はもう見えないのに、匂いだけ残る。残る匂いが、次の章へ道をつける。

私は紙の余白に、次の題を置いた。

——第16章 山の子、海で言葉を失う。

 
 
 

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