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第19章 鵜の羽の産屋、覗かない約束


第三部「霧の降り口、稲のはじまり」

第19章 鵜の羽の産屋、覗かない約束

「見るな」は、罰の言葉ではない。境界の手前で、人の手をいったん止めるための、いちばん優しい杭だ。——それでも人は、杭を見つけると跨ぎたくなる。

硯を洗っても、まだ指に潮の匂いが残っていた。潮の匂いは、落ちない。落ちないから、物語に向く。国の話はだいたい、落ちない匂いでできている。

ナガタが、紙束を抱えたまま、嫌そうに言った。

「……また“見るな”かよ」「まただ」私は淡々と頷いた。「黄泉で“見るな”。産屋で“見るな”。……この国、覗き禁止が多すぎる」「禁止が多い国は、覗きたい奴が多い国なんだよ」「逆だ」私は硯の水面を見た。「覗きたい欲はどこにでもある。だからこそ、禁止が“作法”として残ったんだ」

ナガタは、机に頬杖をついて鼻を鳴らす。

「でもさ、覗いちゃうんだろ。絶対」「覗く」「またかよ」「“覗く”って書くのは簡単だ」私は筆を取る前に、息を整えた。「難しいのは、覗いた瞬間に“世界が変わる匂い”を書くことだ」

ナガタが異伝の束をめくって、例の札をひらひらさせる。

——一書曰く、海神の女、龍となりて産む。——一書曰く、鰐(わに)となる。——一書曰く、八尋和邇(やひろわに)となる。

「龍、鰐、和邇……どれだよ。上はどれが好きなんだ」「上は“整ってるやつ”が好きだろう」「じゃあ龍?」「いや、和邇だ」「なんで」「怖さが、生活に近いからだ」私は言った。「龍は遠い。和邇は、海辺の人の目の高さにいる」

ナガタは眉を寄せた。

「海辺の人、ワニ見たことあるのか」「見たことがなくても、“いる”って知ってる」私は笑わずに言う。「知らないけど知ってる怖さが、海の怖さだ」

ナガタは、次の紙を取り出した。

「で、鵜の羽だよ。産屋を鵜の羽で葺けって、無理だろ」「無理だから、名になる」私は答えた。「“葺き合わぬ”という未完成が、そのまま子の名になる。——この国は、完成しないものに名前を与えて残す」

ナガタは、少しだけ黙った。黙ってから、ぽつりと言った。

「……未完成のまま残すの、なんか、わかる」「だろ」私は墨を摺り、黒を少しだけ薄くした。「海と陸の境界は、いつも未完成だ。潮が来て、引いて、また来る。完成させないことで、守ってる」

私は筆を取り、章の最初の行を置く。

——豊玉毘売、身ごもりて、地に上がり来たりぬ。

海の底の三年は、青でできていた。

青は、毎日同じ顔で来る。同じ顔で来るのに、胸の中では少しずつ色を変える。変えるのは、季節ではない。人の心だ。心が変わると、青は甘くなったり、苦くなったりする。

火遠理(ほをり)は、青の中で暮らしを覚えた。

言葉を削られ、沈黙を覚え、潮の作法を手のひらで学んだ。そして、豊玉姫(とよたまひめ)の名の通り、満ちて溜まる日々の中で、ひとつの現実が生まれる。

——身ごもり。

豊玉姫は、ある日、静かに言った。

「……子がいる」

言い方が、潮の満ち方に似ていた。いきなり押し寄せない。でも確実に水位が上がる。上がった水位は、もう戻らない。戻らないから、覚悟が要る。

火遠理は喜び、そしてすぐに不安になった。

不安になるのは、地上の匂いを思い出したからだ。地上には、目が多い。目が多い場所では、言葉が増える。言葉が増えると、噂が増える。噂が増えると、境界が痩せる。

豊玉姫は言う。

「地で産む」

火遠理は息をのんだ。

「……上がるのか」「上がる」豊玉姫は頷いた。「海の子を、海のまま産むと、海へ引かれる。地の子として立たせるなら、地の息を吸わせねばならぬ」

地の息。

地の息は、霧の匂いだ。土の匂いだ。火の匂いだ。稲の予告の匂いだ。

豊玉姫の言葉は優しいのに、決定だった。海の決定はそういう顔をする。争わない顔で、戻れない方向へ進む。

二人は海を上がる。

上がるというのに、足取りは重くなる。重くなるのは、海が悪いのではない。海を離れるほど、青が胸の中で濃くなる。濃い青は、名残になる。名残は、別れを痛くする。

海辺に着くと、潮の匂いが急に濃くなる。

海はそこにあるのに、もう別れの匂いがする。別れの匂いは、早く来る。早く来る匂いは、止められない。

豊玉姫は言った。

「産屋を作れ」

火遠理は頷く。

「どんな家を」「鵜の羽で」

鵜の羽。

鵜は海の鳥だ。海の鳥の羽で、地の家を葺く。それは、海と陸の縫い合わせだ。縫い合わせは、いつも少し歪む。歪むから、息ができる。

火遠理は人を集め、産屋を作らせた。

木を組む。柱を立てる。壁を立てる。そして屋根に、鵜の羽を——

だが鵜の羽は軽すぎる。軽すぎる羽は、風に持っていかれる。海辺の風は容赦がない。容赦がない風は、未完成を増やす。

屋根は、まだ葺き合わない。

葺き合わない隙間から、潮の匂いが入り、霧が入り、夜の冷えが入る。入る匂いが増えるほど、産屋は“境界の家”になる。境界の家は、祈りがよく響く。祈りが響く家は、覗きたくなる。

豊玉姫は、産屋に入る前に火遠理を見て言った。

「決して、見てはならぬ」

その言葉を聞いた瞬間、火遠理の胸に黄泉の坂が一度よぎる。櫛の火。覗いた闇。恥と怒り。

火遠理は、すぐに頷く。

「見ない」

頷きは誠実だった。誠実だったからこそ、危うい。誠実な者ほど、“確かめ”に弱い。

豊玉姫は続ける。

「我が産むとき、我は海の姿に戻る。それは、汝の目に耐えぬ。耐えぬから、見れば我は恥を負い、戻れなくなる」

恥。

恥は、怒りよりも深い。怒りは叫ぶが、恥は黙って人を引き離す。引き離された側は、理由が分からないまま寒くなる。寒くなると、また覗きたくなる。

火遠理は、誓った。

「見ない」

豊玉姫は、産屋に入った。

戸が閉まる。鵜の羽の隙間から、風が少し鳴る。風の鳴り方が、海の底の静けさと違う。違うから、火遠理の胸がざわつく。

ざわつきは、手を動かす。

手は、隙間を埋めたくなる。隙間を埋めるには、覗くのが早い。覗けば、どこを塞げばいいか分かる。分かる、という誘惑は強い。

火遠理は、戸に近づいた。

「……大丈夫か」

声をかけるだけのつもりだった。声をかけるだけなら、誓いは破られない。だが声をかけると、返事が欲しくなる。返事が欲しくなると、耳が働く。耳が働くと、目が暇になる。

目は、暇になると覗く。

火遠理は、隙間から中を見た。

そこにいたのは、豊玉姫ではなかった。

——一書曰く、龍となりて、身をうねらす。——一書曰く、鰐となりて、産む。

和邇。

鱗の光。濡れた皮膚。重い息。海そのものの匂い。

美しいというより、圧倒的だった。圧倒は、美と怖さを同じ顔で持つ。火遠理の胸の中の青が、一気に濃くなる。

その瞬間、産声が上がった。

産声は、海の息の中に、地の息を混ぜる声だった。混ざる声は、苦しい。苦しいのに、生きている。

火遠理は、声に救われるはずだった。

だが救われる前に、視線が罪になる。

和邇の姿が、一度、火遠理の目を捉えた。その目は怒っていない。怒っていないのに、戻れない目だった。

産声がもう一度上がり、そして——静かになる。

静かになったあと、戸が開く。

豊玉姫が、出てきた。

出てきた顔は、濡れていないのに、潮の匂いがする。潮の匂いは、泣いた匂いと似ている。泣いた匂いは、責めない。

豊玉姫は言った。

「……見たな」

その一言が、石になる。

千引の石のように動かない言葉。しめ縄のように戻れない境界。覗いた瞬間、世界が地形になる。

火遠理は膝をつく。

「すまない」

謝罪は早い。早い謝罪は、だいたい遅い。遅すぎるから、早く言うしかない。早く言っても、境界は動かない。

豊玉姫は、目を伏せる。

伏せた目の影が、潮の影に溶ける。

「恥を負うた。この恥は、地では飼えぬ。……我は海へ帰る」

帰る、という言葉が、あまりにも自然だった。海の者にとって帰るとは、戻るではない。ただ、潮の方へ歩くことだ。

豊玉姫は振り返らず、海へ向かう。

歩くたび、砂が湿る。湿る砂は、涙を吸う砂だ。吸われた涙は声にならず、匂いだけ残る。

火遠理は追いかけようとするが、足が動かない。

動かないのは、罪の重さではない。境界の重さだ。境界は、恋より強い。

豊玉姫は海辺で立ち止まり、一度だけ言った。

「子は……置いてゆく。しかし育てる手は、海が残す」

そう言って、海へ入る。

入った瞬間、潮が少しだけ高くなる。高くなる潮は、別れの合図だ。合図の潮は冷たい。

そして、産屋の方へ、もう一人の女が来る。

玉依姫(たまよりひめ)。

豊玉姫の妹。名に“依る”がある。依る者は、寄り添う者だ。寄り添う者の匂いは、弱いのに強い。

玉依姫は、黙って赤子を抱いた。

抱いた腕が、ほんの少し震える。震えるのは怖いからだ。怖いのに抱くから、国が続く。

赤子は、泣いた。

泣き声は小さい。小さいのに、海と陸の境界を越える。越える声は、未来の声だ。

——鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)。

鵜の羽で葺こうとして、葺き合わず。草で葺こうとしても、まだ葺けず。未完成のまま、名になる。

未完成は恥ではない。未完成は、この国の正直だ。潮が来て引くたび、岸は少しずつ作り直される。作り直される岸の上で、人は家を建て、壊れたら直し、また葺く。

だからこの名は、呪いではなく手触りだ。

火遠理は、赤子を見て、唇を噛む。

噛んだ唇から血の味がする。血の味は、潮の味と似ている。似ている味が、また境界を思い出させる。

玉依姫が、静かに言った。

「……海は、返事をしません。だからこそ、海の者は、恥を抱えたら戻るしかない」

火遠理は言葉を失う。

海で削られた言葉が、いま陸でも戻らない。戻らない言葉の代わりに、腕の中の重さが増える。

赤子の重さ。

重さは、責任の始まりだ。

「……また覗いたな」

ナガタが言った。言い方が、呆れと諦めの混じった言い方だった。

「覗いた」私は頷いた。「覗くのは人の癖だ。癖は直らない。だから物語が“覗くな”を繰り返す」

ナガタは紙面の「鵜葺草葺不合尊」の字面を見て、顔をしかめる。

「長い……」「長い」私は笑った。「でも長いのは、未完成の分だけ、説明が要るからだ」

ナガタが、ふっと真面目な顔になった。

「豊玉姫、帰っちまうの、きついな」「きつい」私は正直に言った。「でも“別れが地形になる”って、ここでも同じだ。海と陸の境界は、恋でも越えにくい」

ナガタは黙り、やがて小さく言った。

「……じゃあ次は、玉依姫が育てるのか」「育てる」私は硯の水を替えた。「乳の匂いの章だ。潮の匂いから、もう少し土に近い匂いへ」

外で、波が一度だけ強く砕けた気がした。砕けた音は、返事ではない。けれど返事でない音が、ずっと残る。

私は余白に、次の題を置く。

——第20章 玉依姫、乳は潮より温かい。

 
 
 

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